ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

いつ、誰に、そして代わりには?

2022-08-05 08:40:22 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「基本的なこと」7月29日
 論点欄は『三角関数を学ぶ意義』がテーマでした。三人の識者が語ることを拝見して、学校教育について語る際の基本的なこととは何か、について改めて考えさせられました。
 一番「基本」を踏まえていらっしゃると感じたのは、インターンプログラム運営会社経営の森山たつを氏でした。森山氏は、『三角関数は全員が学ぶべきだとは考えていない』と述べています。ポイントは、「全員が~」という部分です。私は典型的な文系人間で、高校時代、三角関数は苦手でした。だからといって、三角関数など無意味だとは考えていません。もっと言えば、学ぶ価値がないものなど、この世の中にほとんど存在しないと考えています。
 議論すべきなのは、学校教育でであり、義務教育とその他の教育で切り分けて考えることであり、全員が必修として学ぶか選択制かであるべきなのです。森山氏は、『生きていくために必要なことを優先的に学ぶべきで、数学の中でも確率や統計学は全員に教えたほうがよい。理解していないと世の中のデータを読み解けず、物事の判断を誤ってしまうリスクが高まる』とおっしゃっています。
 三角関数、確率、統計学についての優先順位の判断は私には分からないので触れません。大切なのは、優先順位をつけ、ここまでは義務教育で全ての人に、これについては義務教育の中で選択制で、そのことについては義務教育では学ばず高校以降に、という発想で教育課程を考えることなのです。
 そして、どの段階で何が必要かということは、社会の変化、学問の進展、科学の発達などによって常に変わっていきます。ですから、常にこうした事柄について注視し、定期的に見直して学習指導要領を改訂していくのです。
 学校教育の歴史は、次々に新しい教育課題が持ち込まれ、限られた授業時間数の中に無理やり押し込むということの繰り返しでした。一つ一つの教育課題は、それだけを見れば、どれも有意義なものでした。環境教育、平和教育、人権教育、福祉教育、国際理解教育、金融教育、道徳教育、我が国の伝統文化に関する教育、英語教育、プログラミング教育、こんなものは必要ないと言う人はいないでしょう。
 ○○教育という形ではなくても、各教科の学習内容として何を扱うか、私が専門としてきた小学校の社会科でみても、産業の中で農業を扱う、では農業として扱われるべきなのは、米作なのか野菜づくりなのか、数は少ないが地域の特色を残した農業、例えば自然薯やジュンサイ採りは文化的な面からも取り扱うべきではないか、水産業はどう扱うか、捕鯨はわが国固有の食文化に関わるし、陸地での栽培漁業こそ将来のあるべき姿を具現化しているものだ、林業は~と業界団体の代弁者を交え、議論が続けられてきたのです。
 学習指導要領に書き込むのは簡単ですが、学校現場は、常に過剰なノルマを負わされて疲弊していくのです。今回の論点の議論では、森山氏以外の方は、三角関数について語るだけで、いつ、誰にという切り口から語られることがありませんでした。おそらく、多くの人が同じだと思います。学校教育について語るとき、その有用性や意義を説くだけではなく、いつ、誰にという視点と、それを新たに学習対象とするのであれば、代わりに何を除くのかというスクラップアンドビルドの発想が欠かせないのです。

 

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