ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

全体の戦略と私

2019-08-05 08:12:01 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「全体の戦略と私」7月30日
 精神科医香山リカ氏が、『「日本で十分」と言わず』という表題でコラムを書かれていました。その中で香山氏は、中学生に『みんなはいつか住んでみたい海外の国、ありますか』と訊ねたときのことを書かれています。『女子生徒たちが元気よく「私、ニュージーランド」「韓国です」「アメリカかな」「オランダに興味があります」(略)「すごいね。男子は?」ときくと、なんと3人とも「うーん、日本でいいです」「とくにありません」』という実態(?)だったそうです。
 そして香山氏は、こうした実態(?)を受け、『世界にはいろいろな国があり、いろいろな生き方もある』ことを学んでほしいという思いを吐露し、『男子生徒たちも「よし、ボクだって」と海外に目を向けるようになることを、心から願っている』とコラムを結んでいらっしゃるのです。
 私は異文化適応力の乏しい人間です。冒険心もありません。外国に住みたいと思ってことは一度もありませんし、仕事で海外に行ったときも、行きの飛行機の中で「早く帰りたい」とそればかり考えていたものです。ですから、考え方がこの男子中学生を擁護する方向に向かいがちです。そのことを差し引いても、やはり言っておきたいことがあります。
 異文化に触れることが、その人の人生を豊かにする蓋然性が高いことは確かだと思います。また、多様性を受け入れる価値観をもつ人が多いことは、これからの我が国にとって重要ですし、そうした人が増えた方が住みやすい社会が実現することも間違いないと思います。ですから、教育政策が、そうした方向で動くことは当然ですし、全国の教室一つ一つで行われる授業や教育活動が、そうした大方針の下で構想・実施されることもよいことだと思います。
 しかし、人は様々です。全体の方向性と異なる子供、外国に憧れなど抱かず、ふるさとの小さな街で生きていきたいと考える子供、真面目に生き周囲の人々との温かいひとときに幸せを感じる生き方を選択する子供、そんな子供の存在も認められる学校現場であってほしいと思うのです。
 私は、民主主義国家における公教育は、主権者である国民の意思によりある方向性をもつのは当然だと考えています。しかし、公教育は、その一方で、大勢に違和感を感じる子供にも居場所を与えるものでなければならないと考えています。逆説的になりますが、全員に多様性を求めるということは、あまりにその面が強く打ち出されすぎると、かえって子供の多様性を否定するということになりかねないのです。
 これからも、私のような子供も許される学校であってほしいものです。

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