ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

建前を建前と意識し建前のもつ意味を理解して行動する

2017-03-22 07:50:49 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「思っていても」3月13日
 立教大教授長有紀枝氏が、『二つのアメリカ』という表題でコラムを書かれていました。その中で長氏は、トランプ大統領の登場により鮮明になった米国内の分裂を取り上げ、『この二極化された価値観は人の心に潜むものとしても、一国の大統領が口に出した重みははかりしれません』と述べていらっしゃいます。
 その通りだと思います。私はリベラルといわれる米国人の心の中にも、男女差別や人種差別、宗教差別が潜んでいると思います。私自身もそうです。私は男女差別については比較的差別感情が薄い方だと自己評価していますが、人種差別や宗教差別、障害者差別、LGBT差別については、正直なところ意図的に押さえ込んでいるというのが本当のところです。
 娘が結婚したいと連れてくる相手は、日本語でコミュニケーションが取れる人であってほしいと思っていますし、できれば敬虔なイスラム教徒ではない方が好ましいと思っています。目が見え耳が聞こえ杖がなくても歩ける人であってほしいし、女性と結婚すると言われ血のつながった孫を諦めるのも苦しい選択となるでしょう。
 もちろん、ある種の「やせ我慢」をし、相手の人物が誠実でありさえすれば結婚に反対はしないでしょう。結婚後に顔を合わせたときにも無理にでも笑顔を見せるはずです。自分の感情をある程度抑えて。
 私的な領域ではこうした差別感情を包み隠して生きる私ですが、公的な場面では、そもそも差別意識はほぼ払拭する癖がついています。教委時代に人権教育を担当して学んできたからです。実際、教員採用や臨時職員の採用、教員の業績評価などに置いて、差罰的な対応はしたことがないと断言できます。もちろん、無意識のうちに押さえ込んでいるだけで差別感情が皆無だというわけでないことは自覚しています。でも、それでよいと思います。大切なのは、差別感情を完全になくすことではなく、理性と知性の力で、押さえ込むことの重要性を理解し、実践することだと考えるからです。
 私は教員時代にも、子供に対しては、心の奥底まで改造しようとは考えませんでした。嫌だ、嫌いだ、という感情はどうしようもないものです。しかしそうした心の中の猛獣を放し飼いにするのではなく、きちんとてなずけ、他人を傷つけたり、不快感を与えたりしないという自己コントロール力こそが、教育の目的の一つなのだと考えていたからです。
 つまり、建前を建前だと認識したままで、建前のもつ社会的な意味を理解し、建前に基づいて行動するということです。長氏が言うように、トップに立つ人間が本心をむき出しにしたことの影響ははかりしれません。私たちはトランプ氏を変えることはできません。だからこそ、せめて我が国では本心を声高に主張するような慎みのない人間を育てないことに注力しなければなりません。教員が、校長が、建前を軽視して「本音の教育」を志向してはいけないのです。

 

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