ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

社会と学校のベクトル

2017-03-15 07:58:24 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「社会と学校のベクトル」3月8日
 東日本大震災からの復興について、哲学者内山節氏がインタビューに応えていらっしゃいました。その中で内山氏は、『復興には幸福感の感じ方が鍵を握る』と指摘し、『土木的なグランドデザインよりも「人々の笑い声が聞こえる街」。そうした文学的な表現が似つかわしい地域づくりに若者は幸福を見いだすのではないか』と述べていらっしゃいました。
 震災からの復興について、内山氏のおっしゃっていることが正しいのかどうか、私には判断が付きません。ただ、内山氏が挙げるいくつかの事例を知って、社会の動きと学校の動きが逆方向にあるような気がしました。
 このブログでも再三指摘してきましたが、学校は「文学的な表現」が好まれる場であり、教員もそうした「美しい言葉」を駆使して教育を語っていました。「子供たちの瞳が輝く学校」「笑顔と歓声に満ちた学校」「友情と助け合いの花が咲く学校」というような表現が好まれたのです。しかし、ゆとり教育が非難されて学力向上が追求されるようになり、情緒的な反戦教育を志向していた教組の力が弱まるにつれて、数値化の波が訪れるようになりました。学力テストの平均点、いじめ発生件数、体罰等の発生件数、不登校の児童生徒数といった客観的な数値こそが重要であるという意識が浸透してきたのです。つまり、内山氏の指摘が正しければ、文学的、情緒的に向かう社会と脱文学的、情緒的に向かう学校という対比となるわけです。
 学校は、公教育は、学習者としての子供の自己実現を図ると同時に社会の形成者として必要とされる能力資質を培う役割を担っています。もし、社会が、そして人々が求める人間像が、笑い声や笑顔といった数値化できないものを重視するものであるのであれば、この方向性の違いは、実は大きな問題であるということになります。
 私たちは、どんな社会を、どんな未来を望んでいるのか、一度胸に手を当てて考えてみる必要があります。そして、その未来と学校教育の方向性との整合性についても、です。

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