ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

乾いた集団

2017-03-11 07:54:43 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「いじめの元を絶つ」3月5日
 心療内科医海原純子氏が、『「みんな」という魔力』という表題でコラムを書かれていました。その中で海原氏は、『「みんな」という言葉には、不思議な力がある』とし、具体例として、『仕事が終わっていても帰れない、という方もいる。理由は「みんなが帰らないから」』、『心理の実験で、まわりの人がまちがっていると思っても数が多いとついつられて多数派の意見が正しいと感じてしまう』『学歴や婚姻状況、子どもの有無、年収などなど自分のまわりにいる人と同じならまず安心、そうでないと、不安でストレスに陥ってしまう』などを挙げていらっしゃいました。
 こうした傾向は、国籍や性別を問わず、すべての人の共通するものですが、特に私たち日本人は、「みんな」意識が強いとされています。私は、この「みんな」意識が、学校におけるいじめ問題の根底にあると考えています。みんなと同じでなければ、という思いが、いじめを目にしても自分だけが止めにはいることを躊躇わす原因になっていますし、無視といういじめが自殺に至る大きな傷となるのも、「みんな」の中にはいることができないということが大きなストレスになるからです。
 そしてこうした「みんな」意識については、集落の全員が共同で農作業に当たり、一人の独創的な行動よりも集団で協調することの方に価値がおかれる、農耕民族であるという我が国の歴史に原因が求められることが多かったものです。それは事実かも知れません。しかし私はそれ以上に、学校、特に義務教育である小中学校における「みんな仲間」「みんな友達」という偽善、もしくは建前の存在が大きいように思います。このブログで何回も書いてきたことですが、学級は、学校が指導の便宜のために一方的にかつ機械的に作り上げた集団に過ぎません。子供たち自身が選択したのでも、気の合う人同士自然発生的に生じたものでもありません。気の合わない人、価値観が異なる人、理解できない感性の持ち主などがいて当たり前なのです。
 つまり、無理に仲良くする必要もなければ、友達だ、仲間だと思い込む必要もないのです。ただ、ある空間と時間を共有するもの同士としてのルールやマナーを守り、他人の権利を侵害しないで行動するというということだけが強制されればそれでよいはずなのです。
 教委に勤務しているとき、教員向けの様々な研修会を企画し運営してきました。都内各地の学校から集まった一面識もない教員たちは、お互いの研修を邪魔しないように、具体的には私語をしないとか、一人で複数の座席を占有しないと言ったごく当たり前のことを守りながら、話を聞き、ノートをとり、講師の指示で小グループでの話し合いをし、疑似体験をし、感想を発表しというように、同じ研修室で3時間を過ごし、研修会が終わればそれぞれ帰宅したり、所属校に帰ったりします。その中には、研修中に意気投合して、「一杯やっていきませんか」という関係に発展するケースもありますが、だからといって、次の研修会のときに、「一杯」に誘われなかった教員が疎外感を抱くということはありません。当たり前です。複数の企業の授業員が集まる研修などでもそうでしょう。それで何の支障もないのです。
 学校の学級も、そうした乾いた集団であることを基本とすべきです。言うなれば、集団内の人間関係を優先する疑似家族的な集団から、目的を達成するための集団、機能集団に変わるべきだということです。そうすれば、いじめ自殺という悲劇が激減することは確実です。

 

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