後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「パリの寸描、その哀歓(5)皮膚科?精神科?」

2016年12月05日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
この欄ではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
今回はフランスやドイツに長く住んで子育てを経験したEsu Keiさんに寄稿を頼みました。ご主人の仕事のため1974年から1984年の間滞在しました。
日常の生活で感じたことを飾らず素直な、そして読みやすい文章で綴ったものです。

連載の第5回目は、「皮膚科?精神科?」です。子供を育てる女性の美しい繊細さが胸を打ちます。
お楽しみ頂けたら嬉しく思います。
==== 「パリの寸描、その哀歓(5)皮膚科?精神科?」、Esu Kei著=========
長男が8歳の時だった。なんだか頭のてっぺんのつむじが大きくなったというか、禿げてきたように見えて気になっていた。最初は気のせいだと思っていたが、どうもだんだん大きくなるようなのだ。友人に「禿げてるように見える?」と聞くと、迷わず即座に「ホントだ!」という応え。ヨーロッパでは若くて頭頂の禿げている人はとても多いが、8歳から禿げるのはいかにも可哀想だ。私はすぐに小児科のファンケル医師のところに飛んで行って皮膚科の医師を紹介してもらった。
 紹介されたのは歩いて行ける距離にある皮膚科医だった。次男を友人に預けて、早速出かける。インターフォン越しに通された待合室は高級な応接間のようにきれいで、広い。淡く渋い色でまとめたカラーコーディネイトは完璧だ。完全予約制だから私達だけしかいない。高級できれいな部屋作りをしている人はどちらかと言うと神経質な人が多いから、躾がいいとは言えない子どもを連れた私はちょっと緊張する。
すぐに診察室に呼ばれた。40歳前後に見える女性ドクターである。髪を無造作に後ろに束ねた飾り気のない様子にちょっと安心した。出された用紙に名前や住所を書き、健康手帳(母子手帳のようなもの)を見せ、初対面の挨拶と診療の手続きをしてから、私は息子の頭頂が禿げてきたことを手短に説明する。医師は息子の頭をちょっと見てから「まずお母さんの話を聞きたいので、あなたはそこで遊んでいてちょうだい」と診察室のおもちゃや、本のあるコーナーに息子を誘導する。そして私と向き合う形で座り、いろいろ質問する。私たちが夫の仕事の都合でフランスにきて3年余りたち、息子たちはフランスの小学校や幼稚園に通っていること。日本語学校にも週に一回行っているとか、家での様子や、休日の過ごし方、学校の勉強のことまで聞かれるままに答えた。随分と長い面接で、髪の毛とは関係なさそうなのに何故こんなに詳しい話を?と不思議に思った。話し終えると医師は「今あなたの位置からは息子さんは見えませんが、私の方からは彼の様子を観察していたのです。予想通りでした。彼は自分で髪の毛を抜いているのです。『チック』ってご存知ですか?」「あっ、はい、知っていますが、髪を抜くチックがあるとは驚きました。」「チックは実にいろいろな形で出ます。彼はたまたま髪を抜くというだけなのです。」「なるほど… 治りますか?」「大丈夫です。今度はサトルと話しますので、あなたは席を外してください。」
 私は息子から少し離れて、彼が見えないところに身を置き、医師の顔も見ないようにしていた。話は全部聞こえる。「サトル、大事な話だからきちんと聞いてね。あなたは自分でも気づかずに、自分で髪の毛を抜いているの。それで頭が剥げてきているの。そんなこと続けていると、いまに大きな禿になってしまうの。学校で友達に見つかったらからかわれるかもしれない。そんなのいやでしょ? 止めなくちゃね。でも癖になっているし、気付かずにやってるから、止めるの難しいかもしれないわね。それで今から私がいい方法を教えるから、それを毎日やるという約束を守ってちょうだい。わかりましたか?」そういうと医師は白い紙に定規を使って14の大きなマスを書き、一つ一つのマスの端に日付を入れた。その紙を息子に見せて「髪の毛を抜かないように自分で注意しましょう。そして毎晩寝る前に今日は髪の毛を抜いたかどうかしっかり思い出してみて、抜かなかった日は、このマスの日付のところにあなたの好きな絵を描くの。自動車でも、動物でもいいのよ。今日は抜いちゃったという日は大きなバツをかくの。毎日必ずよ。2週間たったら、この封筒に入れて、お母さんに切手をもらって貼って、自分でポストに入れに行くのよ。」そう言いながら、医師は自分の住所を書いた封筒に、マスを書いた紙を入れると息子に渡した。
そして息子に待合室で少し待つようにと言って室外に出し、私の方に向き直り、「難しいことではないのですが、彼の自覚と、ご両親の協力が必要です。お父さんやお母さんはこれ以後髪の毛のことは一切口にしないでください。マスに絵を描くか、バツを書くかも、彼の責任で決めるのが大事なのです。実際には抜いているのに絵を描いてしまうことがあっても、黙っていてください。さっきお母さんから長くお話を聞いたのは、彼の能力や家庭や学校での様子を知りたかったからなのです。お母さんは毎晩『ドクターとのお約束はすませた?』と聞いてあげてください。それだけです。」私はすっかり感心してしまった。このドクターは皮膚科医であり、小児精神科医であると思った。
 彼女は私から話を聞きながら、息子のことも、私のことも観察していたと思う。そして息子の自主性を引き出してなおすことができると判断したのだと思う。その晩、夫には「心配ないそうよ。気にしなくていいらしいわ。」とだけ言った。夫は病気のこととなると大変な心配性で、しかもそれを口に出さずにはいられない質なので、髪の毛のことは家では口にしないということが守れそうになかったから… 彼は「良かったね。」と安心した様子だった。これで大丈夫と私は確信した。
 2週間たち、色鉛筆で果物やら花やらを描き、バツも5,6カ所くらいはあったが、息子は宿題の紙をポストに投函した。ドクターから早速、息子宛てにお返事をいただいた。もちろん封を切らずに息子に渡す。息子は読んでから私に見せてくれた。「あなたは、ちゃんと約束を守っていますね。でもまだ時々髪の毛を抜くことがあるようですから、また2週間続けてみましょう。髪の毛を抜かないように自分で気を付けましょう。」とあり、新しい2週間分のカレンダーとドクターの住所を記した封筒が入っていた。
 さらに2週間経って、まだバツは2つ、3つくらいはあったようだったが宿題を送り、「よく頑張りましたね。もう心配ないでしょう。そろそろ髪の毛もまた生えてきているかもしれません。これからも気を付けてね」というお返事をいただいた。それ以後このような問題は全く起きなかった。
 子ども自身の自主性と責任感にまかせる、しかも医師と子ども自身の信頼関係をもってというやり方は、私の胸に深く残った。万一、家庭内の何らかの原因で(親か、子どもに何か問題があって)この解決方法がうまくいかなくても、このドクターならきっと次の策を持っていたことだろう。賢いやり方に感服する。
 チックという症状は、子どもに何かストレスがあると出てくると聞いている。息子はフランスの学校と日本語学校にいくという二重生活だったし、もともと集団生活が苦手で振舞いに問題があって、私が叱らなければならない場面も多かったから、ストレスフルな生活だったと思う。こういう時、医師が親を責めないでいてくれるのは有難い。責められると親が緊張するから、それが子どもに自然と伝わって問題はなおややこしくなると思う。こんな名医のおかげで、薬も一切使わずに息子の問題は一カ月余りで解決した。
 息子の髪がすっかり元通りになおってから私は夫にこの尊敬すべきドクターの話をし、経緯を話した。「もし貴方に話したら、あなたが黙っていてくれないと思って言えなかったの」と言うと、「そうだったのか、俺なら、毎日何回も髪の毛抜くなとか、禿げちゃうぞとか絶対言ったな」と笑っていた。やっぱり… (続く)

今日の挿し絵の写真は記事の内容とは関係がありません。フランスの文化や雰囲気が伝わって来るようなシスレーの絵画3点です。

シスレー 「サン=マルタン運河の眺め」1870  50 x 65 cm   オルセー美術館、パリ

シスレー 「ポール・マルリの洪水」1876  Oil on canvas  50 x 61 cm  ルーアン美術館

シスレー 「 モレのウジェーヌ通り、冬 」 1891 | 46.7 x 56.5 cm | メトロポリタン美術館

アルフレッド・シスレー(Alfred Sisley, 1839年 - 1899)は、フランス生まれのイギリス人の画家。
シスレーは1839年、裕福なイギリス人の両親のもとパリに生まれた。父親ウィリアム・シスレーは絹を扱う貿易商で4人兄弟の末っ子だった。
1857年、18歳のときにロンドンに移り叔父のもとでビジネスを学ぶが、商業よりも美術に関心を持ちターナーやコンスタンブル等の作品に触れた。4年後中断してパリに戻り、フレデリック・バジールのすすめでマルク=シャルル=ガブリエル・グレールのアトリエで学び、クロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワールらと出会う。彼らは共に、スタジオで絵を描くことより戸外で風景画を制作することを選んだ。このため、彼らの作品は当時の人々が見慣れていたものより色彩豊かで大胆であったため、展示されたり売れることはあまりなかった。彼らの作品は当時のサロンの審査員からは受け入れられなかった。1860年代、シスレーは父親の援助により他の画家たちよりは経済的に恵まれた立場あった。当時はとくにルノワールと親しく、ルノワールはシスレーの父親やシスレーと恋人の肖像画等を描き、前者を1866年のサロンに出品している。
1866年、シスレーはパリに住むブレトン人ウジェニー・レクーゼク (1834年-1898年、マリー・レクーゼクとしても知られる)と交際を始める。二人の間には息子ピエール (1867年生) と娘ジャンヌ (1869年)が生まれた。当時シスレーはアヴニュー・ド・クリシー近くに住んでおり、パリ在住の画家の多くが集まるカフェ・ゲルボワの常連ともなっていた。
1868年、シスレーの作品はサロンに出展され入選を果たすが、あまり評価されなかった。
1870年、 普仏戦争勃発し、ブージヴァルに住んでいたシスレーは敵兵により家・財産を失い、翌年には父が破産、経済的必要を満たすために作品を売るしかなくなる。しかしシスレーの作品はなかなか売れず、以後彼は死ぬまで困窮した中で生活することになる。 1871年、パリ・コミューンを避けルーヴシエンヌにほど近いヴォワザンへ移住。その後、アルジャントゥイユ、ブージヴァル、ポール=マルリにも移住。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%83%BC より抜粋しました。

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