朝礼の話題

見たり読んだりして、感じたことを朝礼で話しています。この頃は仕事の話は少なくなりました。

日本化薬

2015-06-25 20:05:34 | 21世紀
日本化薬
2015/06/26
 毎日曜日、ロルフィング治療を受けるべく、若松高須の麻生先生の家に行きます。高須には、日本化薬の昔の工場跡地があります。北九州市に寄付されているのですが、まだ、活用されていません。
 小倉南区にあった日本化薬小倉工場跡地は、同じく、北九州市に寄付され、小倉東高校と記念公園が作られています。
 私の高校時代は、受験雑誌「蛍雪時代」の天下でした。受験記事以外にも記憶に残る記事も沢山ありましたが、当時の日本化薬社長・原安三郎さんの対談や投稿記事がたくさんありました。
 当時の受験雑誌にまでモテていたのは、ダイナマイト製造工場でありながら、軍事用の火薬を一切作らなかった、戦時下の企業として、稀にみるような抵抗を皆が讃えて居たからです。松下幸之助さんでも、陸軍の飛行機を作ることを拒否できず、戦後は公職追放になりました。
 原安三郎さんのことを、ウィキペディアではこう書いています。
3歳の時に関節炎を発症し、右腕と左脚に障害が残った。
そのため中学校で体操が履修できないことを理由に退学処分を受けるが、たまたま視察に訪れた文部大臣に直訴し再入学が許可された。また早稲田大学卒業後は、前述の山本条太郎の紹介で三井物産に入社の話が進むも障害を理由に断られている。
自らが社長まで勤めた日本化薬は、太平洋戦争中も軍用火薬を製造せず産業用に徹していたため、戦後の公職追放を免れた。そのため、実業界の中心的存在として多くの財政要職を歴任し、幾多の経営不振の会社再建に手腕を発揮することとなり「会社更生の名医」と賞賛された。
 戦後70年にあたり、新聞は戦争の悲惨なエピソードを掘り出しています。
 原安三郎さんや、日本化薬の当時担当者たちの抵抗の様子など、マスコミは記事にすべきです。流れに流された日本人ばかりではないと知らしめましょう。私たち76歳は、受験雑誌から学び、彼等のことを尊敬し、真似したい、そうありたいと思ったことです。彼等の選択は、「損得」によるものではありません。
 北九州市は、寄付された工場跡地を開発し、そこに、原さんと日本化薬顕彰碑など作り、お祭りなどすべきと感じます。大体、市長などは、原さんがどんな人だったのか理解しているのかな? 身障者としての努力も大きく讃えるべきです。
 沢山の 歴史があって 今がある  選択に 未来のかかる 人生だ


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