うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

絶滅危惧種(その1?)

2005年08月31日 | ことばを巡る色色
このごろの巷に絶えて見られぬもの。その名はインテリゲンツァ。
「知識人」という人々。Wikipediaで、「インテリ」を引いてみると、「インテリ」はもはや、死語になり、その代わりに出てきたのが、「ハイソ」で、それも死語になったんで、とりあえず、「セレブ」が関連語としてあるらしい(私としては、インテリゲンチャとハイソ・セレブは別物と思うんだけど)
ついでに言えば、インテリの対義語は「大衆」と言うことであるらしい。

ちょっと前まで、インテリゲンツァは、目指されるべき人であった。単にベンキョーができるというカテゴリーではなかった。大衆がその日々の生業に追われてすることができない学問教養を大衆のかわりに身につけ、大衆に還元する人々であった。それは、奉仕でもあり、名誉でもあった。それぞれの社会にはそれぞれのインテリゲンツァが居り、そのコミュニティの知識源となり、知識バランスをとる役割を担ってきた。「ハイソ」などと違っているのは、インテリが「知識の良心」を体現する役割を自負していたところではなかったか。ただ、正しい知識、新しい知識を教えてくれるだけではないのがインテリゲンツァだ。
「長屋」には、「長屋のインテリ」、「浮世床」には「浮世床のインテリ」が存在したわけだ。

インテリゲンツァが居なくなってしまったのは、教えられるべき大衆がいなくなってしまったからではないか、と思う。「職人」「農民」という自負を持つ対象がいなくなり、「知識の良心」を説くべきインテリゲンツァはその役割を宙吊りにされてしまった。人々は自分がどのカテゴリーの自負を持つのかなど、気にも留めず、この世を泳いでいく。
それはそれでいいことなんだろう。誰もが何にでもなれるし。
ただ、憂うべきは、「知識の良心」が誰にも、どこでも、語られなくなったことである。
「知識」は「知識」としてしか語られないという時代。
「知識」がtoolでしかない時代。
それは、「知識」ある人にとっても、「大衆」にとっても、そうしてインテリゲンツァなど知らない世代にとっても、渡りにくい場所ではないのか。
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2005年08月28日 | ことばを巡る色色
最近、いろいろなブログを散歩していると、ブログ論のようなものをよく見かける。
いわく、ブログはきっと新しいメディアだよね。ブログはこー書くのが正しいって。こーいうブログは間違ってるってば。日々の記録としてのブログの可能性はこーに決まってるさね。こーゆーダメブログを駆逐するためにはこーしよー。ブログと政変の関係はこうさ。ブログと地殻変動の関係はこうさ。ブログが今日の夕ご飯に及ぼす影響はこうさ。などなどなどなどなど。
それって、物語の書き方を説く小説。演劇論を役者が語りあう芝居。ルールをずっと解説してるサッカーの実況中継。牛の養育歴をシェフが言い立てる中で食べるディナー。譜面を歌うオペラ。


わたしは、とにかく、面白いブログが読みたいんです。
ただそれだけなんです。
ブログの神様、お願いを聞いてください。
知らない人の知らないPC (もちろん知ってる人でもいいけど)が送ってくれる面白いブログが読みたいだけなんだけど。
日記でも、logでもソーシャルでもプライベートでも、何でもいいから、とにかくわたしに面白い話を読ませてくれ。
わたしも、がんばって(もちろん、そう思わない人もいるだろうけど)面白い話書くからさー、一生懸命書くからさー、
何とか論なんかぢゃなくって、早く、面白いお話、面白いお写真見せてよ。

って、わたしも結局ブログ論?
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日本の失われた8年

2005年08月27日 | 語る!
今年度は中学教科書選定の年である。来年度4月から、中学では新しい教科書が採用される。今の教科書を使った6年、1度でも使ったことがある生徒を含めれば、8学年の子どもたちがこの教科書を使ったことになる。これはあくまでも私見であり、ご反論をお持ちの方も少なからずおられるだろうと思うが、わたしがこの8学年の子達が使ってきた教科書に思うことを言わせていただきたい。
この教科書が嫌っているもの、それは「単純作業」である。繰り返し、暗記、暗唱、複雑な数値計算。それらがこの教科書では推奨されない。そのような「作業」は、IT 等(パソコン、電卓、電子手帳などなど)を使って行いましょうという意図がありはしないかと、わたしには思われる。単純な作業は、知的ではなく、それらは、機械に任せればよいのだという考えだ。だから、年号も、計算練習も、スペルの暗記も小数点以下2位の円周率も、教科書からは、「無駄な作業」として削除されてしまった。お利口な子はしなくっていいのだよとお墨付きがついているようなものだ。子どもたちの漢字力、計算力、単語力は低下していった。個性重視、「オンリーワンだぜ俺たちは」的風潮の世の中の流れもそれを助長した。辛気臭い、暗記、暗唱などをする子はいなくなった。一桁ならいざ知らず、二桁以上の計算が暗算されることはなくなった。ちょっとした挨拶はできるが、全て英単語を思いつくまま並べ立てる、「しゃべる」だけの英語。グラマーって何ってやつだ。歴史年表も覚えないので、江戸時代が200年以上続いたことがわからない。スミレがいつの季語かわからない。10分の1と0.12のどちらが大きいのかわからない。というのが、この教育の作り出したものだ。確かにできる子はできる。だって、できる子はどうやったってできるから。義務教育とは、なんだったのか。「単純作業」はそんなにも経済発展、技術発展を遂げたニホンにとって、忌み嫌われなければならないものだったのか。
わたしは、思う、単純な繰り返しの作業の向こうに、論理が見えると。
確かに論理は今の義務教育の中で教えられはする。しかし、それで理解できるのは、どんな風にやってもわかる子達だし、論理として教えられた論理に実感は伴いにくい。
学問の悦楽は、単純作業のという名の山を、険しい山道だけを見つめて登っっていった先に、
突然眺望できる下界の景色だ。
あるとき、「わかる」ということが突然やってくる。
それを知らされないことは子どもにとって不幸だ。
文科省は一体、何を目指していたんだろう。
こうやって、ニホンは大きな8年を失ってしまった。
経済界において失われた10年というのはよく言われることであるが、
この教科書の8年の損失は、もう今この時も日本を直撃しており、この先何年も何十年も、日本に影響を与え続けることだろう。この子たちの損失、この子達が作る社会の損失にどのような責任を誰が取るのだろう。
そうして新しい教科書は一体何を目指して、送られてくるのだろう。
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斬り込みパラシュート

2005年08月25日 | お出かけ
言い訳をすれば、2週間あまり、PCが調子悪く、ブログを書こうとか、コメントを書こうとかすると、プッツリ。。と切れてしまっていて、スキャンとか、エラーチェックとかそれはもう大変でした。オタクの記事を書いた呪いだと思います。ゼッタイ。
おかげで、、アクセスアカウント数は、日を追うごとにドンドコ減っていき、その様はむしろ小気味いいほどで、諸行無常盛者必衰を痛感いたしました。久しぶりにこうやってキイボードをたたいていても、うまく打てない。ちょっとの間だったのに、うまく文章も綴れない。ここ数日、字を書く内職が山となっているので、チャンネルが、書写モードになっているのかもしれません。
そいで、今日は肩慣らしに、最近、思ったことを。

日本国は、もうすぐ、選挙らしい。本当に申し訳なく、恥ずかしいことなんだけど、自民・社会・共産党というくくりが崩れてから、政治がわからなくなってしまっていて、今回もよくわからない。多分、一番の原因は「名前が覚えられない」というわたしの短所のせいだと思う。とにかく、党派の名前と党員の顔と政策(あるとすれば)が結びつかないという、わたしの実生活(わたしは名前が覚えられない人です。実は。誰だか思い出せずに1時間近く話したこともある。困ったもんだ)と同じで、今も特に「民主党」「社民党」というのがよくわからない。だから、選挙も、雰囲気で決めたりするという、国民の権利を十分に活用しないものになったりしてる。どっかにチャート図でも書いてないかなって思うくらいです。
今回の選挙。胡散臭い人がたくさん出ている。総理自体がその代表のようなものだから、仕方ないんだろうけど、総理がパラシュート部隊として送り込んでいる人たちが、胡散臭い。女の人が多くって、経歴も、東大だの慶応だの、キャリアだの、カリスマだのなのだが、なぜその優秀な女性たちが、あの胡散臭い総理の指名にあのように狂喜しているのかがわからない。あれだけの優秀な人ならば、総理の浅薄さはわかるはずでしょって思うんだけど、なぜあんなにワンワン喜んでいるのかわからない。メディアは、それらのご婦人たちをこぞって取り上げているんだけど、テレビで見ても、週刊誌で見ても、彼女たちの化粧が濃い(本当はこれが一番気になってたりする)いまどきの化粧ではない。ほとんどが、40-50代という微妙なお年頃なので、一生懸命なのはわかるが、とにかく濃い。ファンデーションも、口紅も。いまどきああいう色の口紅って売ってるの?ってのをつけている。選挙アドバイザーのような人が口紅の色指定でもしているんだろうかと思う。もしそうなら、「受ける」ご婦人というのは、ああいう化粧をする人だということになっているのかもしれないけど、あの化粧は、やはり、「おじさん」向けの化粧じゃないんだろうか。日本のおじさんはまだ、ああいうご婦人の有り方を支持するような、美的感覚と民度の低いものなのか?彼女たちって、こんな程度で騙されるんじゃないのって、選挙民をナメテいるのかと嘆かわしく思う。馬鹿なおじさんを馬鹿にしている。日本を馬鹿にしている。
そんな中で、野田さんは比較的好感が持てる。政策は別にしても、政治への「姿勢」と有権者に対する「姿勢」は、筋が通ってるし、化粧もナチュラル。ホリエモンの出馬も嫌じゃない。選挙を舐めてるってとこで堂々としている。まずいのはニコニコしながら、舐めている人だ。彼女たちの部隊はどの地に落下していこうとしているのか、わたしにはわからない。

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屏風に住みたる

2005年08月19日 | お出かけ
まずは、近況報告からっ

①TB企画、皆様のおかげで無事、期日となりました。ありがとうございました。御礼申し上げまする。
②PCが、8月10日のXPのupdateから、すっごいご機嫌斜めで、ほとんど使い物になってませんでした。仕事関係を優先したので、半休業状態でした。多分、これで何とかなると思います。PCの点いてない部屋はさびしかった。自ブログを漫喫で読むのもさみしかった。
③内緒ですが、来週までにあげなければならない、家内仕事を抱えています。ブログ書いてる暇はありません。よそんちに遊びに行ってる暇もありません。本とはね、内緒だけどね。
あおちゃんの清見の古民家別荘に行きました。とてもとてもおしゃれで素敵でした。近いうちに、おせっかいさんのおはぎを清見の道行く人に売ることになりました。限定販売です。売切れ次第店じまいです。乞うご期待!

さて、本題。
お盆に岐阜県美術館のバークコレクション展に行ってきました。アメリカのバークさんというコレクターが何はともあれ、集めに集めたnipponコレクションです。ほら、面白そうでしょ。コレクションの中でも特に数多く、内容も素敵だったのが、屏風絵です。今まで、これだけの屏風絵を一度に見たことがなかったんですが、屏風絵の面白さを再確認させてくれるものでした。
いろいろな時代のいろいろな屏風。
その中の貴族たち、武士たち、市井の人たち、
みんなが、あっちやら、こっちやらいろんな方向を向いて、話したり、怒ったり、笑ったりしている。
西洋の絵画の中にも、多くの人たちが描かれているものはあるけど、日本の屏風絵のようなものがあるでしょうか。西洋の人たちは、みんなそろって、無表情に前を見ていたり、ひとつの本を覗き込んでいたりなのに、屏風絵の日本人たちは、好き勝手な方向を見て、好き勝手に楽しんでいる。画家も、好き勝手な人を描くことを楽しんでいる。なんて、日本人は楽しそうなんだろうって、思いましたよ、わたしは。
屏風絵って、こういう戦がありましたよ、とか、あの城下町の市はこうですよ、とか、あの物語を絵にするとこういう情景ですよね、って描かれたものです。だから、本当は、一人一人をここまで、好き勝手な方角に、好き勝手な表情に描く必要はないはずです。だのに、描いてしまう。そして、見る者もそれを楽しんでしまう。なぜ、わたしたちはこういう絵を描く民族なんでしょう?見れば見るほど、多様な人たちが発見できます。こういう屏風絵を文化としている日本人は素敵だね、って、思いましたよ。だから、頭の中の引き出しに、「日本人の屏風絵における傾向」というのを、追加しました。どこかで、何かを見たときに、この傾向と関係するものが出てきたら面白いなって。なぜ、こういう絵を描きたがるのか、いつか、自分の中で答えが見つけられるといいなってね。
あ、これってひょっとして、オタク的ですね。ってことは、日本人は、屏風絵からヲタだったってことかな。ふふ、面白くなってきたぞ。
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TB企画 あなたの気がかり

2005年08月17日 | ことばを巡る色色
たくさんの皆さんのご参加ありがとうございます。感謝にたえません。記載日時は、8/17ですが、なんかの拍子にTBしてやろうかとお思いの節はどうぞ、お送りください。

こんにちは。暑い日が続きますね。

自ブログで、夏の気がかり 
---「夏の気がかり」抜粋
気がかり、その1
「のうてんき」のことを「能天気」と書くが、「脳」のお天気がいいんだから、「脳天気」と書くほうがいいのではないか。
気がかり、その2
今年は退治をしそこなってしまい、軒と雨戸袋に3つ蜂の巣がある。しかも増殖中だ。
気がかり、その3
終わってしまった花フェスタで、「牧歌の里」特製のローズソープを買った。泡立ちも… (以下略) 続きはこちらで


---という記事を書いたところ、いくらかの反響をいただきました。他人にとってはどうでもいいことでも、すごく気になってること、だから暑さ倍増だぞって思ってることってありますよね。そこで、若輩ながら、TB企画「あなたの気がかり」を開催したいと思います。
今、個人的に気にかかってるってことを記事にし、下記の要項でこちらまでTB を送ってください。

①「気がかり」をご自分のブログで記事にして、当記事にトラックバックを送ってください。
この記事のTrackback Ping-URL
http://blog.goo.ne.jp/tbinterface.php/7cdcfbe2677ee9554ceb9423fc737f5e/02

②ひとつについて詳しく書くもよし、とにかく羅列するもよし、自由にお書きください。

③「気がかり」を記事にしてください。「心配」や「悩み」ではありませんよ。

④それぞれの方の「気がかり」への対処法・お答えなどがありましたら、コメント欄にお書きください。

⑤お盆まで、先頭においておきます。どんどんTBお送りください。

※書いてみよっかなってお思いの方には当記事のTBを送らせていただきますので、お気軽にコメント欄にてご連絡ください。

「気がかり」を世に叫び、夏を乗り切りましょう。
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フルムーンより

2005年08月17日 | 語る!
atsurinの新幹線通勤日記~ただ今○○駅停車中~のatsurinより、イメージバトンが回ってきました。
ちょっと、日がたってしまってごめんね、atsurin。お盆なので(あまりこれに必然性はないです、ごめんなさい)、答えさせていただきます。

①atsurinから受け取ったキーワード
        
         フルムーン

満月ってことですね。あえて、~旅行はおいといて、満月といえば、「叫ぶ」ですよね。何ででしょうか。月があんまり大きいと怖くなったり、叫んじゃったりするのは。変身する人もいますよね。そういえば、ペーパームーンって言う映画もありましたね。あの親子はどうしてるんでしょう。
昔の人たちは夜の娯楽って「月見」くらいだったんだろうなって思います。今日の月はどうとかこうとか、こういうのって本とはテレビ見たりしてる夜より、豊かなのかもしれませんよね。


②うさとがイメージしたもの(次の人へのイメージ)
         
       叫び      です。

③バトンをまわしてくれたatsurinへのメッセージ
atsurin、何のご縁かこうやってお話をしている。高校の後輩のあなたと。私が座った机にあなたも座ったんだろうか。お掃除サボった校舎裏の大きな木の下で、あなたもいろんなおしゃべりしたんだろうか。ちゃんとした「意思」を持って生きている理系女子のあなたに、世間の風が吹き寄せることがあるかもしれないけど私は応援している。正しく、強く、優しく、美しいものは、負けないってね。そうして幸せな未来をお祈りいたします。

④次に回させていただく人
ミュージックバトンで人脈を使い尽くしてしまいました。もし、「叫び」で記事を書いてくださる有志がいらっしゃたら、お申し出ください。もれなくTB送らせていただきますよ。
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オマケ新しい国の人々

2005年08月15日 | お出かけ
前話「新しい国の人々雑感」の余談だが、お盆ということで。
私は、自律神経の悪い人、呼吸器の悪い人、循環器の悪い人、消化器の悪い人が立ち姿、物言いで大体わかる(突然倒れた人に、倒れる前日「病院行ったほうがいいよ」といったこともあったんで、本人が退院後、驚いて報告してくれた)。こういうのは、霊感とか言うものでなく、単にいくつかの様子を総合して感じているだけのことだ。ただ、自分でもその人のどこを見てそう思うのかは、よくわからない。でも、きっと、こういう感覚って持ってる人は多いと思う。それが敏感な人が超能力なんていわれてる場合もあるのかもしれない。
たまに、「人に見えないものが見えるでしょう?」と聞かれることがある。どうも、私は、「見える人」に見えるらしい。「見える人」って、私の何を指してそうおしゃるのかよくわからないが、どうも、私はその手の押しが強いらしい。だが、残念ながら、その手のものは何にも見えないし、感じない。どっかに行って「なんかいる!頭が重い、気持ち悪い」なんていう人がいて、ちょっとかっこいいかなって思うけど、私は全然だ。
ただ、知人が亡くなる前日から、電話の子機が故障して毎夜、真夜中に鳴り続けるということがあった。彼は高校の先輩で30そこそこで突然亡くなった。高校時代、浪人中の彼とよくお茶を飲んだ。社会に出てからも同業だったので、時々会っては話をした。いろいろなことを教えてもらったし、かわいがってもらっていたのだろうと思う。読みようによってはラブレターのような年賀状をもらったこともある。彼が亡くなって精神的にまいっていて、1ヶ月目あたりの時に自宅の階段を落ちかけている自分を、「こうやってたら落ちちゃうジャン」って思いながら階段の上の自分が見ているということがあった。家人が私を呼ぶ声で気がつくと、私は布団で寝ていた。変な感じだった。夢とは言い切れぬ感覚だった。
あなたも、何か、感じてる?
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新しい国の人々雑感

2005年08月14日 | ことばを巡る色色
皆様、暑いお盆休み(今は夏期休暇という会社が増えたとか、ドウトカ)いかがお過ごしでしょうか。
私も、ビッグな5日間休暇2日目でございます(その中でやらなきゃならない本業、内職仕事を積み残してはいるんですが)
知人の中には、世の夏期休暇に先駆け、ドバイ(ドバイ!!ですよ)に行ってきた人やら、ひるがのの別荘の人やら、万博やら、帰省の人やらですが、私はかわいらしくおうちで「プルートウ」2巻読んだりして、お休みを満喫です。
家人の知人は今、ビッグサイトに行っています。
何でも、このイベントはすごい集客力で、携帯の基地局がやってきたり、それでもあまりの情報量で携帯かけにくかったり、幕張からビッグサイトにイベント会場が変わるときは幕張関係から、県に陳情書が出たりと、大変なものだということです。
この夏休み大オタク祭り。家人との間で、オタとはなんぞ、って話題が飛び交っています。
オタクは双葉より芳し
これが私の持論です。オタクな方はもう、10歳を過ぎるとわかる。
立ち姿、物言い、身のこなし、全てがローティーンのころにオタク的に形成されている。得意が通用するコミュニティでは雄弁、それ以外では慇懃丁寧。時間当たりの発語数が、1.5倍程度あるのでわかりやい。また、コミケの近くを通りかかったりすると、大抵は1㎞位先からわかる。複数集まると強烈なオタクビームを放ってくるからかもしれない。
その後、オタク的オタクになるか、別の分野のオタクになるかという進路の別はあるんだけど、オタク的ローティーンでない子がオタクになることはない。
オタク的人種が日本に生まれたのは、大阪万博以降のことだと思う。それ以前の生まれで、始祖オタク系統は、たいてい、線路で写真撮ってるか、赤い表紙の戦闘機本読んでるか、小屋で演劇論ぶってるか、空の飛行機エンジン音聞いてるか、野原で捕虫網振ってるかだったように思う。たまに、オールドノリタケ集めてたりするかもしれない(ちなみに私は小屋で演劇論ぶってた昔もあった)
平和日本の象徴であるかもしれないし、この人種の文化への浸透力は、目立たぬところでジワジワ来ているだけに底力がある。
比較的優しくって物腰も柔らかいが怒らせると怖いし、他人への物腰とは真逆に自虐的な人が多いので、見ていてイタイこともしばしば。また、自虐が自己愛ゆえのものであるのでわかりやすい。過剰に刺激せぬことが肝心なとこだ。
ナドナド、オタクを語り始めると時間がたつのも忘れるほど、会話が弾む。
こうやって「見ただけでわかる」ということはもはや、新しい国の人たちだということなのだろう。違う国の人と対するには、その国の言葉、文化、風土を知った上で交流することが大切だ。そうでないと国際紛争が勃発してしまう。旧世代(トウキョーオリンピック、万博以前の20世紀少年)は比較的そのことがわかっていそうだが、前世代の人たち(戦前戦中団塊)はちょっと、軋轢があるのかもしれない。やはりそれは、新しい国の人とわかるかどうかにかかっているのだろう。違う国の人と認識した上、その国の作法でお付き合いすることが、正しい外交だ。
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おとぎ話の原っぱで

2005年08月10日 | ことばを巡る色色
今日はひとつ悲しいことがありました。やっと友達になれそうだった人と会えなくなるということです。
ブログは、まったく見ず知らずの人とのお付き合いで、思いやりも、黒い思いも増幅していくものなのかもしれません。
現実の社会の中だったら、どこかで歯止めをかけているところがころりころりと坂を下っていくように、遠くまで行ってしまうものかもしれません。
人は誰も心の中に黒い塊を持っている。それは否定できないことだと私は思います。その塊をきれいさっぱり消してしまおうと努力する人やら、そんなもの持ってないわと否定する人や、だからどうなのさと突っ張る人やら、さまざまだと思いますが、私は、その塊を持ったことをわかった上で、どう生きるかが大切だと思います。否定したって、開き直ったって、たいしたことができそうにない私だからです。あるものは認めてしまって、その上でどうやっていこうかと考える方が、私にはぴったりきます。
だから、私が一番怖いのは、「自分が自分に絶望する」ということです。自分を嫌いになるということです。黒い塊を持っていたって、それに向かっていこうとする私は嫌いではありません。でも、それを他人にぶつけようと自分がしたら、そんな自分の醜い横顔を想像したら、とても自分であることに耐えられません。だから、自分を嫌いにならないように心に問いかけます。私は今、どんな顔で世の中を見ているんだろうって。このバーチャルな世界の中で、名無しで黒い思いを打ち込んでいる人たちは、どんな横顔の自分を、自分の中に描いているんでしょう。他人を攻撃すれば、自分が他人を羨んでる気持ちを露呈するばかりなのに。自分は負けてて、だからこうやって攻撃してるんですよって、言ってるみたいなのに。
このバーチャルな世界の話に戻りましょう。ここでは、書かれていることが全てです。うそを書いても、大げさを書いても、JAROが裁きに来てくれるわけではありません。逆に言えば、なりたい自分を装うこともできます。疑い出せば、一言一句信じられるものはありません。大金持ちの振りでも、天才の振りでも、この波の世界で本当ならば、信じて疑わないことしかできないのでしょう。でも、書かれたものが全てだから、書かれたものを信じていけばいいと思います。ここは、おとぎ話の世界ですから、この中で正しければ、何を疑うことがあるんでしょうか。このおとぎ話の中の友達にどんな真実を求める必要があるでしょうか。私が、うさととして書いたことに、心を込めて返事を下さる、それ以上の何が必要なんでしょうか。それだけで、十分です。もちろん、その人はうそを書いたわけではないと思います。しかし、悪意はやってきた。おとぎ話の友達だけど、その友達が遠くに行ってしまったことを、リアルな私が悲しく思っています。
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うさと飲んだくれるの巻

2005年08月07日 | お出かけ
この土日、のぞみに乗って、MDBちゃんと、EMちゃんのとこに行った。
3人は、大学の同級生で同じサークルだった。大学のとき、一番たくさん話をした友達だ。一緒にいて一番楽な人たちだ。けんかとか、疑ったりってこと、一度もなかった。「本とはこう考えてんじゃないの」なんて、裏読みすること1度もなく付き合ってこれた。思ってることの何言っても大丈夫だし、何言われても大丈夫。何を言ってもちゃんと言葉が通じる。そこに理由なんてない。MDBちゃんとは時々会ってるけど、EMちゃんとは、本当に久しぶり、何年か前にEMちゃんがこっちに帰ってきたとき以来だ。EMちゃんとは同じ下宿にすんでいた。彼女の性格は「車は運転するものでなくって乗せてもらうものだから、免許は取らない」という発言に象徴される。私とは随分違うやつだ。2人でよくjazzのライブハウスにも行った。声をかけてきたのがおんなじ大学のえらそーな医学部の男子グループ(うちの大学の理系男子は同じ大学の女子なんかと決して合コンをしないゴーマンな人たちでした)で、「どこの大学?」って聞くんで、よそのKG女子大の子の振りして、だまくらかして遊んだりした。EMちゃんは今ちょっと遠いとこに住んでいる。結婚相手はサークルの3こ上の人なんで、もちろん私たち2人にとっても先輩だ。先輩は今、海外で、お子もばあちゃんと旅行中なんで、「おいでよ」ということになったのだ。先日、EMちゃんにお泊りの連絡をしようとしたらEMちゃんは留守で、先輩が出た。「おお、うさとか、久しぶりやぁ。その日泊まりに来るんかぁ。残念やな、そん時は中国行っておらんし、子どもも旅行中で、EMしかおらんぞ」って、「だから泊まりに行くんですけど」とは言えないんで、「うん、先輩に会えんので、すっごく残念よ」と言っておいた。
3人で、会って、歩いて、飲んで、食べて、飲んで、EMちゃんち行って、飲んで、飲んで、寝て、起きて、食べて、飲んだ。飲んだくれ、愚痴を言い、ちょっと泣いたりして、いろいろあるけどさって言って、飲んだくれた。
こういう友達がいるって、私の人生もまんざら、間違ってなかったね。
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消したい記憶

2005年08月05日 | ことばを巡る色色
世の中の人は、人生経験のために何でも見ましょうとか言う。
そんなのは、大うそだ。
世の中、見なくていいもの、見てはいけないものはある。
それを見てしまったがために、目の奥でそれを飼い続けなければいけなくなる。
あんましひどい奴のときは、
心の中のストッパーが、奥の奥の部屋に閉じ込めて思い出させなくしてくれるけど、
心の中にそいつが住んでいることには変わりはない。
何か、本当に何でもないことがきっかけでそいつはむっくり起き上がる。
こすってもこすっても消せない。
泣いても泣いても、それを記憶してしまったことは、元に戻らない。
それが、人間を成長させてくれるよ、なんて言葉を、誰が言うんだろう。

人は、「ソンゲン」を持って生きていっていい。
美しいものを見て生きていけばいい。
それを踏みにじり、記憶に醜い風景を残していくものはすべて、
憎むべきものだ。

でも、
だから、
私の中に記された記憶は、消せない。
浅い眠りの中でうなされる。
だから、
私は、そいつと向かい合い、目をそらさずに見る。まなじりを上げて。

守りたい。
誰かが、知らない人が、戦いの中の国の人が、物に溢れた国の人が、どこかの子どもが、
そんな記憶を持たなくてすむように。
だれでも、みんな、自分で決めた道をまっすぐに歩いていい。
何にも邪魔されず、何にも蹂躙されず、何の記憶にも囚われず。

自分の中の消したい記憶を思うとき、戦いの中の人を思う。
1年のうちの、8月の初めくらいは、
この国で戦いがあったことを、考えようと思う。
忘れてしまわないために、
私は、その頃いなかったけれど、
                     ノース2号に捧ぐ
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8月に寄せて

2005年08月04日 | ことばを巡る色色
数字で書かれる人達がいる。

200,000人   広島への原爆のために亡くなった人のこれまでの推定総計
  
73,884人     長崎への原爆死亡者(投下時) A-Bomb WWW Museum

34,427人     平成15年自殺者総計 統計データ・ポータルサイト

126,212人    平成15年度 不登校児童生徒数 (国公私立の小・中学校)

81,799人     高等学校中途退学者数 (公・私立の高等学校)

19,678人    平成16年度 日本語指導が必要な外国人児童生徒数    文部科学省

200,000の色とりどりの晴れ着 73,884の満腹の食卓 34,427への恨みの言葉は 届かない。

聞こえない126,212の「行ってまいります」 捨てられた81,799の教科書 言われるはずだった19,678の「ねえ、友達になろ」


その一人一人が、顔を覆われ、名前を剥がれ、束ねられ、輪ゴムで括られ、数字で記される。
いつしか、数字さえも忘れ去られる。

輪ゴムをはずし、一人一人に、顔を戻し、名を戻し、一人を一人としてもう一度刻む。
この60回目の8月に
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