うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

器としての匣または筺としての我

2024年05月15日 | ことばを巡る色色
これまで私は私という器を作って育ててきたのだな。いろいろな言葉、いろいろな実、いろいろな絵を入れて。いろいろな喜び、いろいろな悲しみ、いろいろな驚き、いろいろな憤りを入れて。
そうして匣としての私は今は容れ物となっている、と、なろうとしている、の間くらいの感じ。知らぬ事柄を世の中の学問の力借りて、少しだけ整理しながら箱に入れてきたこれまでの私。これとこれは関係ありとシナプスを繋ぎながら。
大人になって色々を見聞きする間に、学問を超えた関係にも繋がりがあるのだとわかってきて、それは楽しい驚きだ。理科と社会、数学と文学、経済と人脈、羨望と諦念、などなどをね。
今は器を開放している。なんでもはいっておいで、という状態になってきている。これまでの中で、これが一番面白い。私はただ、いくつかの要素やら繋がりの入っている器になり、入ってくるものと器の中のものがどんなふうに新しくつながっていくのか、胸をときめかせて見ているのだ。それは、器の主人である私の思考の範疇を超えていく。でもこれは、今までたくさんのものを自分の器の中に入れてきたからこそ可能なわざであるのだから、わたしの誇れる道程の結実であり、この上ない喜びでを私に与えてくれるものとなる。作為のない化合の喜び、驚き、これがgiftなのだ。
私という器よ。もっと容れよ、もっと結びつけよ、もっと生み出せ。
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