うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

近江ふたたび

2007年09月17日 | ことばを巡る色色
秋になると近江に呼ばれる。ギャラリー松田様に頂いた滋賀県立近代美術館の「慈覚大師 円仁と
その名宝」のチケットを手に、瀬田へと車を走らせた。秋とはいえ、まだまだ湿気を含んだ空気も、強い日差しも、夏の名残だ。山の中腹にある文化ゾーンの駐車場に車を止め、美術館まで登っていく。暑さに負け、不謹慎にも曼荼羅の前で立ったままうとうとしてしまったが、あれもこれも「国宝」と書かれている写経の前で、目覚める。紺地に金泥、次行は銀泥の経文。潔斎し、礼拝し、一字写し、読経する。そのように書かれた数々の一品経。どれだけの、どのような願いか。殿上人の、栄華を誇る藤原の当主の、姫の、末世の恐れと願いとが、端正な経文の中に詰まっている。

帰途には近江八幡に寄る。八幡掘は宵散策の催しの日で、たくさんの人で溢れている。町屋には必ず、中庭がある。どこからか吹いた風で石灯籠の横の葉が揺れる。さぞやのお大尽が住んだであろう。雪見の障子は朱塗りが施されている。宵の町を歩く。通り雨の後、町はそっとそこにいる。諸国の文物が往来した通りも格子に囲まれ潜んでいる。そうしてヴォーリズの残した洋館もまた時代に洗われている。
「家」に惹かれる理由を、時々考える。多分、その自己主張のあり具合が好きなのだ。家は「さあ、わたしの美しさを見なさい」と声高に言うことはしない。人を囲むという役割に自らを委ねている。かつての、そうして今はもう鬼籍の住人の匂いを纏いながら、家は静かにどこかを朽ちさせている。少しずつ死にながら立つ。哀しく孤独で寛容な、「家」よ。残すのか、取り壊すのかにいつも晒されている「家」たちよ。

おみやげは「たねや」さんの洋菓子部にて、ロールケーキ。うーん、次はやっぱバー無クーヘンを買うべきか。
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砂上のことば

2007年09月12日 | ことばを巡る色色
結構反省している。そうだ、世の中には、わたしが夏に溶けている間にも、ちゃあんとブログを毎日更新しているお方がおられるのだ。
秋風が吹き、茄子がおいしい今日この頃。ちったあ、真面目に、更新しようかなっと、思ってるよ、あたしは。

「HUCK」という文字を地元名古屋の名大生が鳥取砂丘に掘り込んでしまったというニュースを読んだ。この「HUCK」はどうも、ハックルベリーの始まりらしく、冒険系のサークルらしい名前の初めをとったものと推測される。
砂に書いた文字であるからいつかは風に吹かれてなくなるのだろう。しかし、見た人は「景観を損ねた」と思ったらしい。彼らは確かに、保護対象である砂丘を害したわけではあるが、彼らがもし、「HUCK」という、(スラングのスペルを間違えたお馬鹿さんが書いたのか?) って感じの名称でなければ、例えば、「はっく」とか、「ハック」とか、それこそ「八苦」とか書いていたら、と思う。そこが彼らの不幸ではなかったか?砂丘の「HUCK」を見た瞬間、きっと誰もが、(H)でないほうを思ってしまったろう(わたしもそうじゃ)その途端、お利口でない若者、嬌声、違法行為、なんてのがバアッて頭に浮かんでしまったろう。
砂上の言葉は、消えていくものなのに、与えたイメージは人の中で消えない。「HUCK」の意味を後から聞いても、あげた拳は下げられない。それゆえ、言葉は恐ろしい。

辞意表明の人の言葉の中の「テロ」「民意」も同じように聞こえた。(追い詰められる病)の人を冠に頂いたこの国の、今はまだ「首」である、その人の言葉も、砂の上のものだったのだ。
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白状

2007年09月11日 | ことばを巡る色色
少し前のことになるけれど、懐かしくも本物の人が二人この世を去ってしまった。訃報を聞いて、あの時代を思い出し、幾つかのニュースに乗る、二人の古いフイルムを見て、あの人たちの価値を再認識した。
その一人、山口小夜子さん。
私は、2年前にオリベアワードのレセプションで彼女とお話をした。遠い昔に女神のように思っていた人は、時代を超えてそこにいた。フォークロアでシノワな洋服を着、ぽっくりのような靴を履いていた。今はもう、そういうものを身につける人は少ないのに、彼女はそうでしかありえないという風にそれらを身に纏っていた。閉じているわけではなく、高慢でなく、見下すわけでなく、だのに無駄な言葉を寄せ付けない、「孤高」ということなのだろう。私よりはずいぶん年上であるはずなのに、どこか、幼女のようである。彼女は変わらず、「山口小夜子」であり続ける不思議。
あなたは何を忘れてしまってそこにいるの、さあ白状しなさい、といわれているような横顔。その人がいなくなってしまったのは、辛いことだ。
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くみしくくがつ

2007年09月03日 | ことばを巡る色色
とうとう8月の更新をせずに9月を迎えてしまいました。
毎度、「再開ご挨拶」をしている不甲斐なさに、我ながら情けなや。さて、さて、9月。体脂肪率がどんどん年齢に近づいてきた重い腰を上げねば。
8月は毎年慌しいのだけれど、今年はそれを言い訳に、何にもしなかった。とりたてて悩むことも辛いこともないのに、でも、何にもしないでいると仮性鬱になってしまうようだ。書いて、語って何になるのさと、やさぐれていた。
さあ、9月がやってきた。さあ、あたしよ、美しいものを見に行こう。

「美」を見るということは、邪心の無さを見極めるということである。邪心の作り手のものは、その厭らしさうるささが自ずと物に現れてしまう。恐ろしいことに、邪心のある人の持ち物は、その邪心が物にも現れてしまう。
「邪心」は「われが」と思う気持ちである。勝ち負けであり、○×であり、数字でかかれた物である。いい物を作りたい、いい物を持ちたい、という心は邪心である。しかし、それは無邪気になったとき、邪心を越える。無邪気にそう思えたとき、美に通じる。かわいげが生まれる。
作るとは、作れないことを知ることであり、持つとは、持てないことを知ることだろう。それを知ったとき、世界と一体となる際に行くことができる。それは、高い技術を持ちながら自らに奢らず、委ねることであろう。目利きはそれとの対峙である。
自然のものの何もかもが美しいのは、邪心がないからである。この形になろう、この形で魅了しようという厭らしさがないゆえに、美しい。
だから、美は、恐ろしいものである。作り手の、受け手の心を透かしてしまう。
知らぬ人は安穏である。知らぬ人は、知らぬことを知らない。知らぬことを見透かしている人がいることを知らない。

本日、日下部邸前を通りました。ブルーシートに覆われ、おいたわしや。遠いところに行ってしまうんだね。
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