うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

殖産と倫理

2021年06月22日 | ことばを巡る色色
多分、10余年のことだけど「渋沢家三代」という本を読んだ。そのころは宮本常一が再評価されていて、同じ著者佐野眞一氏による「旅する巨人」が話題になっていたころだったと思う。渋沢栄一と、放蕩の息子と、後継となった孫の三代の話。栄一は女にはだらしないが、経済と倫理を兼ね備えた人だ。特筆すべきは彼が財閥なんぞという小っちぇことを目指してはいなかったことだ。栄一の子はどんなにか苦しかったであろう。栄一はやはり、子には越えられぬ偉大な父であった。栄一が正座をして後継を頼んだ孫は学者肌の人だった。それ故、のちに宮本常一などの民俗学のパトロンとなる。廃嫡の父(栄一の子)と、偉大な祖父(栄一)との間で彼の学究の思いは、そんな形で実現された。
今年の大河は、渋沢家の話ゆえ、楽しみにしていた。が、今までは正直つまらなかった。ここにきて、やっと栄一が殖産に進出し始め、ちょっとうれしい。
富国殖産は、何はともあれ、大切だ。しかし、そこに人倫を解する気持ちがなければ、上昇のゲームに過ぎない。経済は経済のためでなく、経済を享受する人のためのものである。経済は生活だ。美と理想のない生活は人の生活とは言えない。財閥を作らなかった渋沢栄一はそれを知る人だったのだろうと思うし、後継の孫もそうであったろうと思う。曾孫は樹を植える人になったというのもあの本で知った。殖産を楽しんだ渋沢栄一はチャーミングだ。

これはまた別の話だが、あの本を読んだのと同じ頃に読んだ網野善彦の本のイメージとが私の中で絡まってしまっている。それに、五木寛之の親鸞も。渋沢三代と、網野善彦と民俗学と中世と、中沢新一と相生山のジビエと、宮本常一と折口信夫と柳田国男と、樹を植える人と四天王寺の弱法師とつぶて。美童物語と岡本太郎と伊雑宮の御田植祭と。様々なイメージを頭の中に散らばらせ浮かべる。繋がっているが統一せぬものを、統一せぬまま頭の中に置いておく。それは若くはない代わりに許される、知の形だ。
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甘い覚え書き

2021年06月17日 | ことばを巡る色色
以前ここに書き込んでいた時から10年が経った。あの大震災、それから新型コロナウィルス。今まで想像もしなかった光景をその間に見た。想像力なんて、経験の範囲をなかなか出られないものだ。
10年前の自分と今の自分と何が変わったから再び書き始めたのかわからないが、あの時書かなくなってしまったのは、自分の言葉に飽きてしまったからだな。なんだかちょっと反響を期待して書くなんて事が、いやらしく思えてしまったのだ。だから、新しく書くにあたって、個人的な覚え書きにしようと思った。ウケを狙った、オチのある文を書くことから逃れたかったのだ。
でも、あの頃がちょっと懐かしくもある。誰にも何も言われない独り言も、寂しいものだな、なんて勝手な言い草だけどね。それは無い物ねだりというものだな。でも、無いものはねだりたくなる、ってのが人情というのも、また、本音だけどね。

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理解と一打

2021年06月16日 | ことばを巡る色色
20日がもうすぐやってくる。井上尚弥の試合だ。
ずいぶん前、彼の試合を始めて見た時の衝撃は忘れられない。それまで、ボクシングというのは、打って打って相手にダメージを与え、攻め続けて決着をつけるものだと思っていた。その時の彼は相手を追い詰めて、一瞬時が止まったように、少し笑みを浮かべてパンチを出した。「ああ、笑っている」と思った。それは相手を(見切った)ということなんだなと、初めて分かった。間合いと距離を測りながら、ちょっと相手にたたかせたりしながら、最適の瞬間、最適の位置を見切った時、相手を仕留める。見切ることは相手を深く理解することだ。
その時から、彼以外のボクシングの試合がつまらないものに見えてしまっている。
戦いは、血みどろの力任せのものではないのだ。最もダメージの少ない静かな一瞬を見切ることが大切だ。相手と対峙し、相手を知り、受け入れ、後にも先にもない一瞬を見極める。その戦いは美しい。相手の時間と距離を自分の中に取り入れながら、自分を失わず相手を打つ。
そうだね、戦いは、自分の強さを誇示することではない。軽いフットワークで相手を見つめ、ちょっとぶつかったりしながらも決定打を食らうのを避け、相手を的確に知った者だけが勝者となるのだね。それは、日々の戦いとも共通している。
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六道の三

2021年06月13日 | ことばを巡る色色
今日もなんだか、戦っている。
ちょっとでも良い所、ちょっとでも安い、得な、ハイグレードの、誇らしい、だまされない、馬鹿な選択じゃないことをと。
試験であろうと開店であろうと先着順であろうと、とにもかくにも頭の中で「ばおおー」ほら貝が鳴る。「さて出陣じゃ」と心が騒ぐ。勝利すると頭の中で「えいえいおー」勝どきが上がる。先日もまた、募集要項を見て「ぱおおー」が鳴り、2通履歴書を送ってしまった。「合格をお知らせします」のメールに「えいえいおー」と頭の中のちっちゃい足軽たちが槍を突き上げ声をあげる。
ちっちゃい頃からそうだ。学校のテストでも、祭囃子でも、消防車でも、セールでも。とにかく戦ってしまう。勝たねば、見なければと思ってしまう。一体何と私は戦っているのよ、と思うけれど、戦いのあるところ、戦わずにいられない。
子供の時、戦いの相手はクラスメートだったりしたのだけれど、実在の人間相手の戦いは早々に終わった。人と戦うのはそう楽しいことじゃないからだろう。では、いったい何と戦っているというのかと思うけれど、性分としか言いようがないのかもしれない。自分の想定したゴールと戦う方がずっと楽しい。
仏教輪廻の世界には六道がある。上から順に、天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄だ
私は今生において、人に生まれたけれど、まだまだ、修羅であるのかもしれぬと思う。修羅は、戦いの業を持ち、それ故に人より下のものである。戦いは執着であるからだ。仏教の言う「執着」が何に対するものであるか、深くは知らないけれど、私の執着は、勝って得られるものではなく、「勝つ」ということである。どちらの執着が許されぬことなのだろう。勝ってしまえば、戦いの魅力が色褪せてしまうのは、いわば、子どもの戦いであろう。そんな私は、修羅の中でも下層のものかもしれない。
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