うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

かく語りき

2022年03月24日 | ことばを巡る色色
ウクライナ大統領のスピーチはよく考えられたものだったなあ。映像としてイメージしやすいキーワードが随所に配置され、私たちの記憶に残っている過去の情景、におい、音を喚起するものだった。東日本の、原発事故の、津波の、あの寒い朝の地下鉄の記憶、テレビの画面、絶望の思い出。思考のみでなく、五感にも訴える。このような話の何分の一かでもできる人が私たちの周りにもいたらなあと思わせるものだった。彼の述べた内容の是非は簡単には言えるものではないけれど、スピーチとして素晴らしいものであった。

この他国の非常時について、多くの識者が意見を述べている。それを聞くと、ああこの人はそういうスタンスの人だったのねということがはっきりする。ウクライナのことを語っているのに、右の人は結局右の主張、左の人は結局左の主張をしているからだ。同じ出来事を語っているのに、語りたいのはその人がずっと持っていた考えだったりする。同じ卵を材料としているのに、和食を食べたい人は茶碗蒸しにし、スイーツ好きはプリンを作る。卵を料理するのが主眼でなく、和食だったり、スイーツだったりが大切なのだ。
それはそれで仕方がないことではあるが、茶碗蒸しがいい、とか、プリンがいいとかいう問題にすり替えてはいけない。
ウクライナはウクライナの善、アメリカはアメリカの、ロシアはロシアの,インドはインドの、NATOはNATOの、中国は中国の善で語っていることを否定しても何にもならない。ただ、それぞれが自らの善の中で語っているということを、いつも注意深く考えねばならない。、
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梅とステーキ

2022年03月18日 | ことばを巡る色色
めっちゃめんどくさい仕事を依頼され、頭の中がめっちゃ ぱぁ になっています。
少しやっては、寝転がり 仕事のばかやろぉ とつぶやき、いろんな誘惑に負けそうになりながら、全然進まないけど、とにかくやろうと思いながらも、こんなとこに入力してるってことは、つまり、やれてないということです。はぁ。
昨日は友達と、それこそ一年ぶりかで会って、大縣神社の梅を見て、ステーキ食べてやったぜ。
まったく、この感染症のせいで、誰とも会えないし、ご飯もいけないし、仕事してもリセットできないし、神社もお寺もいけないので、身の内は穢れ塵芥澱だらけです。
大縣神社は姫宮で知る人ぞ知る、小縣神社との対の奇祭のお宮さんです。奉納された姫岩なんてのもあるのだけど、夫婦で放送禁止的な岩を奉納するって、なんともはや五穀豊穣なことです。
そうです。ウクライナの人も、コロナになってる人も、全世界の困っている人ごめんなさい。私は昨日友達と遊びに行ってステーキ食いました、1月に捻挫をして、ずっと歩いてなかったんで、今日は筋肉痛です。本当にごめんなさい。
理不尽な侵略を憂い、怒っても、私はステーキを食べ、花を見る。面倒な仕事を投げ出しそうになりながらも文句を言って過ごす。
それは、きっと、悪いことじゃない。
罪悪感を持つことじゃない。あれもこれも、今日の私。そうやって、今日も明日も生きるのが大切。
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Parsley, sage, rosemary and thyme

2022年03月16日 | ことばを巡る色色
ここ数日スカボローフェアを思い出している。
Tell her to make me a cambric shirt,
Parsley, sage, rosemary and thyme,
Without no seam nor fine needlework,
And then she'll be
縫い目のないシャツを作る、涸れた井戸でシャツを洗う、いばらでシャツを乾かす、海辺に1エーカーの耕地を探す、羊の角で地を耕す、革の鎌で刈り取る

なんと理不尽な要求。 それは真実の愛、a true love of mineなのだろうか。真実の愛はそんな実現不可能なものか。
PサイモンのCanticleは続ける。
And to fight for a cause they've long ago forgotten
理由も忘れた戦いをしているのだと。
東西の大国がこの戦いに、表面上は乗っていないのが過去の戦いとは違うところだ。それは救いでもあり、一面見捨てているということでもある。

闘いの中の要求も、愛の要求も理不尽で、私たちは理由も忘れた戦いをする。だから、いつもいつも思い出さねばならないし、問い直さなければならない。理不尽な要求でないのか、戦いのための戦いになっていないか。また、私たちが無意識のうちに西の目線を持っていることも忘れてはならない。もたらされる情報も西的なものであるし、私たちの考えも西的なアンコンシャスバイアスの中のものである。バイアスを解けば、理不尽と感じているものも違うものに見えるのかもしれない。
ただ、先月までは普通の生活がされていた街が破壊されていい理由など、やはり、どこにもない。

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旧ソ猫を We Shall Be Released

2022年03月14日 | ことばを巡る色色
雨音の激しい深夜、テレビで映画「チョコレートドーナツ」を観た。こんなに雨が降るなんて、もう春がやってきたんだな。
映画の最後、歌っていた。
any day now we shall be released

あるべき場所に 誰もがあるべきである。そのためには戦わなくてはならないのか。戦わなくとも、あるべき場所が許される世界というのは不可能なのか。私たちが捉われているものは何か。外の世界にも自分のうちのもある捉われ。自由というのはメビウスの帯のようで、自由を求めておこなったことが、いつしか自分を不自由にする。自分の自由を求めて選んだことが他者を不自由にする。そこはそれ、折り合いをつけていくのが肝要なのだろうが、折り合いをつけることで、これ、と思っていたものが見えなくなる。そこの大統領も主席もみんな自分も他者も be released しちゃえばいいのにね。


ウクライナの問題は私の域を超えており、どのように考えていけばよいかわからない。
分からない問題にあった時は、まず、違うものに当てはめて考えてみるしかない。たとえば、今のロシアは1900年代前半の日本で、となれば、ウクライナはアジアの國で。日本は国際的孤立の中で戦争をした。その時の日本の国民の心もちと今のロシアの国民を考えてみる。戦いを辞めるために多くの犠牲が出たけれど、あの時の日本で、戦いの始まりに正しい情報を持つものも、事の重大さに気づくものも多くはなかった。ロシアは自滅の道を歩んでいるという意見もあるが、そう思ってしまえばいくぶん気も楽であろうが、それまでには更なる人的犠牲が出るのだろう。
今日は中国がオリンピックを終えた1日目だ。
私は電気のついた部屋で考える人でしかない。できれば、暖かい部屋の中にいて、戦いたくないから、折り合いをつけたいからだ。
however, any day now we shall be released
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旧ソ猫を噛む 追記

2022年03月12日 | ことばを巡る色色
理不尽で謀略の人であるおじに対抗するには、おじの家人であるおばからしか、方法はないのかもしれない。おじの飴と鞭のなかにいる人であっても、家人の支持がなければ、孤立するはずなのだろう。
家族の問題でも状況を変えていくには時間と数えきれぬ葛藤が必要であり、朝目覚めると問題が寛解しているなんてあり得ない。
どうしても従いたくないことなのに従わざるを得ないというのは、人の尊厳を踏みにじることだ。選択の余地もなく、説得の会話もなければ、それが蹂躙というものだ。
そんな時に名ばかりのものであれ、会って話すことは徒労なのだろうか。
もう十分苦しんだのだから、という審判が下されることはなく、天は沈黙し、音のない街に爆音が響く。
かつての、息もできぬほど苦しかった時も、誰も もう十分だ とは言ってくれなかった。
誰が誰に もう十分だ といえばその声は効果を持つのだろう。
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旧ソ猫を嚙む

2022年03月11日 | ことばを巡る色色
今日は3.11 11年目の日だ。
ここから東北は遠く、街と原発の映像を見た時の喪失感、無力感、絶望感は消えない。
失われたものすべてに手を合わせ祈るだけだ。

破壊された街を、また見ることになった今日の異国の映像。

例えば、親戚のおじさんは強権的な人で、理屈の通らぬ人であったとしよう。昔は反社会的な仕事もしていたらしい。おじさんの子である従姉妹はいとこの家を自分の資金を出して改修し、家財も買いそろえた。おじの理不尽な振る舞いに、いとこは独立したいと思って当然である。何年も自費を投じてきたものも自分のものとしたい。が、おじは育ててやった恩は返さないのか、親子ではないのか、水臭い。この家は俺のものだ、いやなら全部残して出て行け、といいとこに暴力をふるう。おじの妻であり、いとこの母であるおばは、生計をおじに委ねているためにいとこの味方になってはくれない。いとこの心身の傷は深く、今も増えている。一度あの家を出れば、いとこは築いてきたものを手放し、あの家に二度と帰ることはできない。
警察やら、役所やらが仲介に入ってくれると思ったが、身内のことはできるだけ身内で解決してほしそうだ。取り返しのつかぬ状況にならねば介入できないということを痛感する。
わたしには何ができるのか。おじと親せきづきあいを辞めてみても、おじは家さえ手に入れば、誰とも付き合わなくとも生きていけるという。いとこが周りを味方につけ、おじに敵対し、おじを窮地に追いやっているという。
永久凍土のようだ。凍り続ける大地。
本来は自分のものであるものと、自分のものであるという主張と尊厳を放棄し、心身の安全を守るべきなのか。逃げながら尊厳を守ることなんかできるのだろうか。おじが年老いて面倒を見るものが必要となった時、やはりその面倒をいとこが見なければいけないのか。愛され憎まれ、身の内にしたいと欲され、愛することができなければ見えぬところに行ってしまえと言われる。
よその家の話である。しかし、いつ自分の家の話になるやもしれぬ話である。捨てて逃げろというのも、そこに留まり自分の権利を守れというのも正しい。いつだって正しいことは一つではないのだ。

あの家を思う。懐かしく思い出す。それらを愛している。
ラフマニノフ、エカテリーナ宮殿、ニジンスキー、プルシェンコ、ジャムの入った紅茶、ピロシキ、ボルシチ、ポーリュシカポーレ、黒い瞳。
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ナショナルnational

2022年03月04日 | ことばを巡る色色
もうすぐパラリンピックが始まる。その前に北京の開会式閉会式について思ったことを二言三言。
中華の十二節、若葉のそよぎ、飛ぶ柳は美しかった。春節にやってきた世界の祭りを唄う。そうきたか、そうでなくっちゃね、と思ったよ。
で、その続きは、ね。
Appleのような、UNIQLOのような、Googleのような、 Coca-Colaのような、MUJIのような、シルクドソレイユのような、CM見てるような既視感。
おしゃれなものを作ろうとするとこうなってしまうのだな。
自らの文化をしめしながら、創造することのなんと困難なことよ。
他と違うということを違う人に向けて伝えることの、なんと困難なことよ。
いつしか自分も借り物の目で自分のものを見ているのだな。張芸謀でさえ、そこから抜け出せないのだな。正直なとこ、どんなすごいもの見せられるのかとビビってたんだけど、ショウジキなとこ、あんま、すごくなかったね。
どこかでみたような、丁寧でおしゃれなような、心を揺さぶりたがっている何か、でしかないもの。

そして、また、それとは別の問題ではあるが、母文化、祖国とは何かを考えてしまう。遠い記憶の中では一つの国であったのに、今は侵略するものと侵略されるものとなっている、幾つもの場所。同じ文化を持ちながら別の国となっていたり、全く別の文化なのに同じ国となっていたり。「現実」はおしゃれな映像になぞできぬのだ、というのが今日の現実だ。

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