うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

さあ、美術館へ

2008年04月25日 | お出かけ
この時期になると、「そろそろ展覧会の時間ですよ」と思えてくる。毎年、4月後半からは美術館・博物館は興味深い企画展が目白押しになるのだ。それにひきかえ、冬場はなぜか「出かけよう!」と思えるものがほとんどない。そのせいで、展覧会の告知サイトなども除いたりしないので、冬篭りということになってしまう。私も美術館も、冬の反動か、この時期に企画展が集中してくるので、私はネットを検索したり、チケットの入手方法を考えたり、わくわくの大忙しなのだ。
今、見に行ってやるぞ、遠いけど、と思っているのは、京都国立博物館の「暁斎」
京都国際博物館の企画展はいつもたいそう面白い。もちろん、京都という土地柄もあるだろうし、収蔵品も桁違いに質・量ともに豪勢なのだが、企画力もやはり素晴らしい。美しいと思うことや知るということは、破壊と融合からやってくる。自分の中にあらかじめ形作られている、美の枠・知の枠に、新しき要素をばら撒き、破壊し、融合していくこと、心の枠の破戒のようなものが、人にとっては必要だと思うのだけれど、京都博物館の企画はそれを与えてくれる。といっても、どうも最近、西洋美術が脂っこくって匂っちゃうと思っているからなのかもしれないし、幾分喰わずに敬遠していた日本ものを見る刺激によるものかもしれないのだけれど、見慣れたはずの日本の美術というのが、新しいもの として迫ってくる。
近くの名古屋では、モジリアニとかモネとかの企画展があるんだけれど、そそられない。河鍋暁斎 うーん、そうきたかという企画のもっていきようだ。
京都国立に比べるのは気の毒と言えば、「たしかに」なのだが、去年の岐阜県美術館開館25周年記念大ナポレオン展は、本当に本当に、しばらく腹立ちが収まらないほどのひどい展覧会だった。「開館25周年記念」と冠するのであるから、きっとそれなりの思いを持って企画もしくは巡回要請されたのであろうと私は思った。なんせ、県民の税金で運営されている美術館の記念企画展なんだしね、って思った。しかし、あんなひどい展覧会を見せられたのは公立の美術館では初めてかもしれない。税金を返してください!と叫びたい気持ちであった。まず、展示物の出自がはっきりしていない。簡易レプリカなのか、当時の量産品なのかもわからない。ただ、ただ、ナポレオンと名のつくものは手当たり次第並べましたよ、ってものだった。蒐集者の品の無さというのは、こうやって品物に反映するのだ、と学習してしまった。物を集めるときは気をつけよ、ってえ勉強にはなった。しかし、これを記念事業として開催した岐阜県美術館、学芸員は恥ずかしくないのだろうか、と思った。おお失礼、書いているうちに思わず当時の怒りがふつふつと再現してしまいました。美術館にはやはり、人々に美を伝えるという使命を厳しく正しく誇り高く持ってもらいたい。岐阜県民として本当に恥ずかしかった。
後日、怒りの余りに「大ナポレオン展 ひどい」ネット検索をしてしまったのだけれ、企画している美術館は、政党も持ってる大手宗教関連のものだった。ということは蒐集したのはあの学会長なんだなあ。確かに私設美術館で見せられるのなら、致し方ないとは思うけれど、何でそういうものが、県立美術館の開館記念の企画展となったかはわからないけれど、重ね重ね、恥ずかしくいたたまれない気持ちになったものだ。

さあ、春の美術館めぐりは、そのような催しには引っかからないよう、注意深く探してみよう。

みたいぞ!なのは
暁斎 kyosai 京都国立博物館
桃山・江戸絵画の美  徳川美術館
いまあざやかに 丸山金睨  一宮市博物館
金刀比羅宮 書院の美       三重県立美術館
小袖江戸のオートクチュール   名古屋市博物館
江戸と明治の華     岐阜市歴史博物館
あらあら、やっぱし近世になっちゃいましたね。
コメント (4)
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宿場の牡丹は池田山へと続いている

2008年04月19日 | お出かけ
最近の楽しみは、いわば下流である。無料、もしくは何百円という拝観料のところは、眼福の宝庫だ。国宝も、重要文化財も、登録文化財も、ほとんどは無料か小額の入場料で、その姿を拝見できる。千円札一枚も使い切らずに帰ってくるということも少なくない。

さて、先週の日曜は春の恒例である、多治見市之倉の陶祖祭に出かける。太っ腹の幸兵衛窯さんのお庭では、桜が散る中で太鼓のライブを聴く。昨年まではお茶とお菓子の接待があったが、今年からお菓子はカットされたよう。お大尽の無料お接待は、たとえ硬貨一枚で買える様なお菓子であっても、こちらまでのんびり泰平な気分になってうれしいものだ。ちょいとどんぶり勘定的な所が、利益率とかばかしの世知辛い中では時代錯誤でほっとする。幸兵衛さんのところでのそんな御接待がなくなってしまったのは寂しかったけれど、桜の堤が続く川沿いの窯では桜外郎の御接待があり、蕎麦茶を頂く。陶器を求める人たちが桜の中をゆっくり歩き、去年と同じように、桜が散り、菜の花が咲き、底まで透明の川が流れている。
今年は市之蔵の奥にある熊野神社にも出かけてみた。険しい参道の途中には、鳥居を横断するように、見事な枝垂れ桜の古木がある。花は終わっていたけれど、いつかは咲く姿を拝見したい。格天井には大正の陶工が奉納した絵が埋められている。唐美人やらが、ひっそりと在る。帰りは室町の本堂を持つ定光寺に行き着いたのもうれしかった。

         

熊野神社つながりで、今日は揖斐郡池田町の熊野神社クラフト展へ。
そういえば、牡丹の時期ですね、ということで、まず、旧中山道赤坂宿の御茶屋屋敷に。赤坂宿きっての旧家である矢橋家さんが無料公開しているお庭である。高い土塁に囲まれた御茶屋屋敷は惚れ惚れするような庭園である。                         
          
            
竹林に囲まれ、土塁の外には野草が揺れる。白い花を指し「これはオドリコ草」と友が教えてくれた。律儀に、そうして優しく整えられたお庭には時の花だけでなく、ぷっくりと育った野菜の花も咲いているのは好ましい。
牡丹の盛りはまだ少し先、ということだが、臙脂、紫、桃色の花は見時だ。
           
矢橋家は宿場の商いを経て、明治には大理石商となる。中山道から北の谷汲巡礼道、伊勢街道と分かれる四つ角に長い長い壁を持つ。そこから少し南東にはステンドグラスと大理石で作られていると噂に聞いた洋館がある。なまじのお大尽ではないのだ。
その四辻から谷汲巡礼道を北上し、池田町に向かう。近江から山越えをした西の人々は池田から美濃の平野をどのように見ただろう。そこかしこに清い水が流れ、遥遥と続く陽の当たる平野は、どんなにか魅力的であったろう。西の果ての向こうの地、東の始まりの地。たとえ凡夫でも天下取りを目指そうという気持ちにもなってしまうというものだ。茶畑の脇の水路には雪解け水がごうごうと流れる。ペットボトルに詰めたら「美濃一望の名水」とでも名づけ、そのまま売れそうな清らかな水だ。蓋のされているところは水琴窟のようにカランコロンと響く。春祭りのお囃子のようで、水音のようで私はわからなくなってしまう。遠くの山なみは新しい緑と陽の影で衣紋のようだ。そうだ、「夢」という映画の中に出てきたような、春のやまがだ。
池田熊野では参道でクラフト展。なんと50円という梅茶漬けを頂く。私、梅干はちょいと苦手なのだけれど、「だまさぬ味」の梅茶漬けはさらさらといただけた。このイベントの企画者の土川さんの庭では、窯でお肉がおいしそうに焼けていて、本とにほんとに夕方の懇親会に出たかったのだけれど、後ろ髪を引かれつつ帰った。少しだけお話をした土川さんは中濃のわたしにはかすかに西の言葉。
池田は京都の熊野神社の荘園であり、池田庄と呼ばれていたらしい。
中山道を近江から美濃へと辿っていくと、そこが西と東の境界であることがわかる。近江のべんがらが、関が原を境に消えていく。しかし、その言葉の端々に残る西の香り。そして、混じり物の一片もない水と大気。
本当に美しいものは商売をしない、ということが私には楽しい。
今まで生きてきた中で服とか装飾品とかに散財はしなかったけれど、たくさんたくさんの茶碗やらを買った。もしかしたら一生分を買ってしまったのかもしれない。でも、本当にほしいものは、定光寺の本堂だったり、御茶屋屋敷のような庭だったり、池田山からの眺めだったり、する。それらは値段のつけがたいもので、私はそれに今まで気づかなかった。物を手に入れれば入れるほど、本当に欲しい物は、手に入れられないものだと気づく。自分のものにするということにとらわれることの馬鹿馬鹿しさに気づく。年月を経、美しさを増していくものが、その場所に、居続けていてくれることの安らかに気づく。本当の贅沢は、それがそこにいて、見に行けばそこに居続けていてくれることだ。逆説的に言ってしまえば、私のものでないからこそ、それは美しい。私が気ままに出かけても、私が気に入らなくなっても、そうしてわたしがここから居なくなってしまっても、それがそこに在り続けるということが、美の完成であろう。
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春祭りをふたつ

2008年04月14日 | お出かけ
春はいいなあ。お祭がいっぱいだ。
この前の土曜4/12は、2年ぶりに美濃にわかに出かけた。うだつのあがる美濃の町は、電線も地中に埋められて、随所随所に提灯が提げられている。星の瞬く空が大きく見える。ぶらぶらと歩いていると、ゆっくりお神楽が近づいてくる。「わっち」「なも」との美濃言葉もゆかしくにわかが演じられ、また、神楽とともに去っていく。ちょいと前まで、この国の多くの人は、鼓やら太鼓やら笛やら三味線やらを演じることができていて、「わっち」やらのようなお国の言葉は何も恥ずかしがることなく話されていて、壮年の人老年の人は若者と祭の準備をしていた。大人になっても、年寄りになっても、「ちゃん付け」で呼ばれ続けていたのだ。

先週4/5は初めて、犬山祭に行った。
近くに住んでいて、これまでに一度も出かけたことがないなんて、本当に惜しいことだったと思う。宵祭に合わせて行ったため、からくりを見ることはできなかったけれど、ろうそくをつけ、引き回される山車は、それは豪壮だった。
   
        

日が落ちてくると町の若衆がこどもを肩車しながらやってくる。

                 
こどもたちは町のおにいさん、おじさんに担がれて、誇らしげに絢爛な衣装をつけてやってくる。この子らもお神楽を山車の中で演じるのだ。そこに細かな桜の花びらがいくつもいくつも舞い落ちる。夢の中でも見たことのないような、美しさだ。そうして、「民俗芸能」とか「保存」とかとは全く関係もなく、そこに「町」があり、町の営みがある。今そこに在る町の子と、今そこに在る町の大人が、毎日の暮らしの中で何百年も続いた祭を通して、繋がっている。
          

犬山は、本当にいい町だ。美濃は本当にいい町だ。
犬山を犬山と、美濃を美濃としているものが祭であるのかもしれない。いい町であり続けさせているものが祭だろう。多分、犬山も美濃も祭の都合に合わせて町並み作りがされている。それ故に、高層の建物や効率的な施設が作れないかもしれない。しかし、その効便を捨てて余りあるものが、そこにはきっとある。その町に住むと言うことは、その町の祭の中に入るということなのだろう。
古い町並みが観光資源として注目され、多くの地方がそれによる集客を目指しているけれど、ただ、それを装っているだけではないかと思われる所は興ざめで詰まらない。町も祭りも、観光の人のものだけでなく、住む人のものでなければ似非に成り下がってしまう。
そうして、町には祭が必要だ。春宵の町家の路地の上で考えた。町が観光だけを目指し、祭を殺せば町もきっと死んでしまうのだろう、とね。
コメント (4)
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