うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

下呂検定ふたたびin噴泉池

2009年02月24日 | お出かけ

 今年も行ってきました。下呂検定!

しかし、去年の検定問題のあまりの難しさに、すっかり戦意は喪失しており、おいしいもん食べて、温泉入って、芸者さんみて、楽しんできましょって、ゆるーい気持ちで親戚と3人で申し込んでみました。なんせ、今年の会場は水明館さん。下呂でもトップクラスの旅館です。普通に予約すれば、結構な宿泊料のとこです。

水明館さん、ロビーに入ると、静かな庭が見え、これでもかと香が焚かれて高級感はいかがですかという佇まい。実は数年前、ふとイトーヨーカドーを歩いていて、これから温泉に行きたいと思い、すぐ横にあった旅行取次店で、「今からだと下呂くらいの距離なら大丈夫ですよ」ってことで宿を取ってもらったのが水明館さんだった。確か確か、17000円だった。そん時の印象はあんまりよくなくって、水明館さんって安い客じゃ、楽しめないよね、って思ってる。しかし、今回は検定合宿だし、一泊三食検定料で10000円っていう(去年より2000円値上がりしてますが、下呂にも大人の事情があるのでしょう)破格なので、これを逃せば、また水明館さんお泊まりってこともなかなかなさそうなので、ちょいと楽しみ。

さて、合宿、一年前の遠い記憶の中から、飛騨小坂温泉やら湯ヶ峰やらアルカリ性単純泉やらの用語を引っ張り出しながら、受けましたよ。来る前は検定テキストに徒らにマーカー引いただけってお勉強だったけれど、このまま落ちてもいいやと楽しんでしまうか、それとも最後にあがいて勉強するかを迷いながらね。

1日目の講習が終わり、お部屋に移動。親戚はツインの部屋となり、私だけは格上の臨川閣で6人の相部屋。それが、すっごく楽しかった。ツアー業界のお嬢さんやら、メディア業界のお嬢さんやらと相部屋だったんだよね。なじみでない人と一緒の部屋なんて、まるで修学旅行みたいだ。

宴会は1万円としては当然考えられないようなご馳走でした。ちょっと辛口にいえば、去年の望川館さんよりは、世慣れた大人の原価計算のきっちりされたお料理だったけどね。旅館さんも地元一の看板旅館ともなると、こういうところが、私はちょっと嫌だ。こういうところでくつろごうと思ったら、値段を気にせぬ人になって宿泊することしかないんだろうけど、17000円の客にも、それなりの期待ってのはあるし、下呂検定だけに限って言えば、私は望川館さんのお料理や、検定の客への向かい方が好きだな。って、ここで、数年前の17000円の敵討ちみたいのも変だけどね。でも、去年、2年前に行ったときより、お湯がよくなってる気がする。ぬるぬる度が増している。下呂温泉に何か起こったのか、それともわたしの思い違いか、知りたいとこではある。

宴会が終わり、相部屋は、やっぱり楽しく話が弾み、「噴泉池に行こう!」ということになってしまった。「噴泉池」それは温泉街に流れる益田川(飛騨川)の河原に設けられた無料温泉・・・なんだけど、旅館からも橋からも丸見えの下呂名物。こんな寒いし、10時過ぎてるし、きっと人はいないよ、って浴衣を引っ掛けて行って見ると、先客はいた!地元のおばちゃんが1人と、4人のおにいさん。ままよとバスタオルに着替えて相部屋仲間4人で入っちゃった。私以外はちゃんとしたお嬢さんだったんだけれど、入ってしまえば、おにいさんたちとも、話はできてしまう。恥ずかしがっているほうが恥ずかしいようなとこなのだ、噴泉池は。彼らは「下呂合掌村」で影絵をしている「かかし座」の人たちで、雪降る噴泉池の戸板に影絵を映してくれた。

楽しい夜だった。お高い水明館臨川閣に泊まることも、混浴衝立ナシの噴泉池に入ることも、愉快なお嬢さんおねえさんたちや影絵のお兄さんとお話しすることも 二度とできぬだろうと思うような、特別に愉快な夜だった。もう一度話してみたい、もう一度味わってみたいような夜だった。

こちらは検定を終えて立ち寄った湯ノ島館。さすがの日本建築です。

今回は家に帰って自己採点してみました。

ふふ、受かってるぜ!

 

2008年 下呂検定 その後

 

 

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よそ者、盆踊りの町を歩く

2009年02月19日 | お出かけ
郡上八幡に来るのは何年ぶりかだ。
郡上踊りの狂おしさに夏になるたびに訪れた時期があった。夕ごはんを済ませ、盆踊り第一陣が帰り始める10時頃に着く様に行ったものだ。その頃になるとなぜかいつも雨になり、それでもみんな浴衣を雨に濡らしながら踊っているのを見、自分もその輪に入るとリフレインされる踊りの中でわけもわからずつかれたように踊ってしまうのだ。踊り疲れて町のそここにある名水を飲み、3時頃に帰ると、家につく頃には空が白み始める。
午前中に家を出て、156号線を走った。最近こちら方面へは高速を使うことがほとんどで、国道を明るいうちに走ったことがなかったかもしれない。
美濃を走る。洲原を走る。国道は長良川に沿って走る。春がやってきたような陽気の中。この道は、この川はこんなに美しかったことにはじめて気付いて、なんだか泣きたくなってしまうほどだった。
空も山も川の草も岩も。全部がこんなに美しいことってあるのだろうか。
右下には長良川、左には長良川鉄道。
一度、長良川鉄道に乗ってみたら、空の青い日に乗ったら、どんなにか幸福になれるだろうと思う。
小さい頃に、岐阜県民の歌というのをがっこうで歌った。
岐阜は木の国 というフレーズだ。
岐阜は木の国、山の国、川の国、水の国。

水の町、郡上八幡に着く。町の路地には水路が流れるよ。鯉もいるよ。


窓のばってんもゲージツ的に



懐かしいとか、レトロとか、癒されるとか、そんな言葉はどっかに行ってしまえばいい。そう言ってしまえば、もうそれはその言葉の中に閉じ込められてしまう。懐かしがるためでも、癒されるためでもないからね。わたしはね。ただ、間違いなく言えるのは、古い町にハズレはないということだ。退屈、しない。歩くだけでいい。新しい町のつまらなさと比べて、一体これはどういうことなのだろうと思う。新しいからつまらないのかな、と考えてみるけれど、ちょっと違う。失われようとするものを惜しんでいるという気持ちもあるけれど、でもそれも大きな要因でない。多分、数字で作られていないからなんだろうな。数字で考えられたものには顔も名前もなくって、覚えられない。古い町の古い家にはあるのにね。
世の中がどんどん、顔も名前もなくなっていく。数字でだけ決めた現在未来は何もわたしに語り掛けない。数字はどんどん消費され、数字を残すけれど、それがどんな姿かたちであったのか、笑ったのか泣いたのか、悩んだのか微笑んだのか、わからない。そんな中で、厚顔な人はテレビで強弁を振るうし、自分に都合のいい数字を証拠に、手品のように正当性を述べたてる。
そう考える私は、時代の波に乗れない人なのだろうか。間違ったカビの生えたカンジュセイなのだろうか。
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ひなめぐりの旅に出るずら

2009年02月14日 | お出かけ
こんばんは。毎度毎度の、街道、宿場、古建築めぐりのうさとです。
古い町並みのそそるところは、家の構えだけではない。路地の陰影、崩れかけ蔦草の縁取る姿だろう。特に、古くに栄えた町は。しかし、残念なのは、日常にある町をよそ者が歩くと、やっぱり不審者であることだろう。その証拠に、まず、犬に吠えられる。猫が怪訝に睨み付ける。写真を撮ろうとしようものなら人間にもよそ者とばれてしまう。大通りを歩いているのは許されるのだが、観光向けに公開してますよってのじゃない町の隅は許されない。しかし、やっぱり、そこが見たいのだなあ。古い家がなぜよいのか、いろいろ考えてみるのだけれど、やっぱり、「木」が違うのが第一だと思い当たる。長い年月を生真面目に育った木はぎゅうっと固まっていて、そのくせ伸びやかで、それが今物の建物と大きく違うところだ。見たいみたい。でも、不審者は困る。
しかし、この時期はいい手がある。このたび、古い町は町おこしで「ひなめぐり」が大流行なのだ。



先週は塩の道 足助宿 中馬のおひなさんにでかけた。



この路地は観光地図にも載る「観光公開許可路地」
しかし、大型バスでやってきた人が歩かないような路地には、もはや持ち人も定かでなさそうな、朽ちかけた家があったり、こんな可愛らしい窓があったりする。



懐かしい窓もある。



明日は日曜、また、どこぞのひなめぐりへと参りましょう。どこぞのひなめぐりの路地でお会いしましょう。
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美しい村

2009年02月07日 | お出かけ
日本一美しい村のてっぺんにある城跡に行った。
凍てついた空気の中で城跡は、バリバリと裂ける霜柱に囲まれている。遠い山も美しい里も見える見える。ここの山のてっぺんで、襲ってくる敵を思いながら石を運び、石を鍵形に組み、一人木立の中から里を眺めた城主は、寂しかったに違いないと、思えて仕様がない。ここで育ち江戸城の天皇に使えた女史も寂しかったに違いない。



保存地区に指定された城下町。小さな、やはり美しい町だ。春になれば、町屋の先には雛飾りがされるらしいけれど、まだそれには春浅き訪問だったようだ。



洗面台は、こんなです。



私が思っていたのとは違い、昔の人々はどこでも自在に旅をして、鄙な地も文化的な生活が溢れている。見るもの見るもの、全て。都の文化は流れ伝わり、その地の文化となり、美しく町を形作る。それと比して、今の私達の生活は、文化的だろうか。おもしろいだろうか。美しいだろうか。



寒天が田に乾されている。雪でもないのに、田は真っ白だ。
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