今日はひとつ悲しいことがありました。やっと友達になれそうだった人と会えなくなるということです。
ブログは、まったく見ず知らずの人とのお付き合いで、思いやりも、黒い思いも増幅していくものなのかもしれません。
現実の社会の中だったら、どこかで歯止めをかけているところがころりころりと坂を下っていくように、遠くまで行ってしまうものかもしれません。
人は誰も心の中に黒い塊を持っている。それは否定できないことだと私は思います。その塊をきれいさっぱり消してしまおうと努力する人やら、そんなもの持ってないわと否定する人や、だからどうなのさと突っ張る人やら、さまざまだと思いますが、私は、その塊を持ったことをわかった上で、どう生きるかが大切だと思います。否定したって、開き直ったって、たいしたことができそうにない私だからです。あるものは認めてしまって、その上でどうやっていこうかと考える方が、私にはぴったりきます。
だから、私が一番怖いのは、「自分が自分に絶望する」ということです。自分を嫌いになるということです。黒い塊を持っていたって、それに向かっていこうとする私は嫌いではありません。でも、それを他人にぶつけようと自分がしたら、そんな自分の醜い横顔を想像したら、とても自分であることに耐えられません。だから、自分を嫌いにならないように心に問いかけます。私は今、どんな顔で世の中を見ているんだろうって。このバーチャルな世界の中で、名無しで黒い思いを打ち込んでいる人たちは、どんな横顔の自分を、自分の中に描いているんでしょう。他人を攻撃すれば、自分が他人を羨んでる気持ちを露呈するばかりなのに。自分は負けてて、だからこうやって攻撃してるんですよって、言ってるみたいなのに。
このバーチャルな世界の話に戻りましょう。ここでは、書かれていることが全てです。うそを書いても、大げさを書いても、JAROが裁きに来てくれるわけではありません。逆に言えば、なりたい自分を装うこともできます。疑い出せば、一言一句信じられるものはありません。大金持ちの振りでも、天才の振りでも、この波の世界で本当ならば、信じて疑わないことしかできないのでしょう。でも、書かれたものが全てだから、書かれたものを信じていけばいいと思います。ここは、おとぎ話の世界ですから、この中で正しければ、何を疑うことがあるんでしょうか。このおとぎ話の中の友達にどんな真実を求める必要があるでしょうか。私が、うさととして書いたことに、心を込めて返事を下さる、それ以上の何が必要なんでしょうか。それだけで、十分です。もちろん、その人はうそを書いたわけではないと思います。しかし、悪意はやってきた。おとぎ話の友達だけど、その友達が遠くに行ってしまったことを、リアルな私が悲しく思っています。
ブログは、まったく見ず知らずの人とのお付き合いで、思いやりも、黒い思いも増幅していくものなのかもしれません。
現実の社会の中だったら、どこかで歯止めをかけているところがころりころりと坂を下っていくように、遠くまで行ってしまうものかもしれません。
人は誰も心の中に黒い塊を持っている。それは否定できないことだと私は思います。その塊をきれいさっぱり消してしまおうと努力する人やら、そんなもの持ってないわと否定する人や、だからどうなのさと突っ張る人やら、さまざまだと思いますが、私は、その塊を持ったことをわかった上で、どう生きるかが大切だと思います。否定したって、開き直ったって、たいしたことができそうにない私だからです。あるものは認めてしまって、その上でどうやっていこうかと考える方が、私にはぴったりきます。
だから、私が一番怖いのは、「自分が自分に絶望する」ということです。自分を嫌いになるということです。黒い塊を持っていたって、それに向かっていこうとする私は嫌いではありません。でも、それを他人にぶつけようと自分がしたら、そんな自分の醜い横顔を想像したら、とても自分であることに耐えられません。だから、自分を嫌いにならないように心に問いかけます。私は今、どんな顔で世の中を見ているんだろうって。このバーチャルな世界の中で、名無しで黒い思いを打ち込んでいる人たちは、どんな横顔の自分を、自分の中に描いているんでしょう。他人を攻撃すれば、自分が他人を羨んでる気持ちを露呈するばかりなのに。自分は負けてて、だからこうやって攻撃してるんですよって、言ってるみたいなのに。
このバーチャルな世界の話に戻りましょう。ここでは、書かれていることが全てです。うそを書いても、大げさを書いても、JAROが裁きに来てくれるわけではありません。逆に言えば、なりたい自分を装うこともできます。疑い出せば、一言一句信じられるものはありません。大金持ちの振りでも、天才の振りでも、この波の世界で本当ならば、信じて疑わないことしかできないのでしょう。でも、書かれたものが全てだから、書かれたものを信じていけばいいと思います。ここは、おとぎ話の世界ですから、この中で正しければ、何を疑うことがあるんでしょうか。このおとぎ話の中の友達にどんな真実を求める必要があるでしょうか。私が、うさととして書いたことに、心を込めて返事を下さる、それ以上の何が必要なんでしょうか。それだけで、十分です。もちろん、その人はうそを書いたわけではないと思います。しかし、悪意はやってきた。おとぎ話の友達だけど、その友達が遠くに行ってしまったことを、リアルな私が悲しく思っています。
だから、ネットの中の人々は、私にとってたとえそれが偽りの人であっても、喜びも悲しみも感じてしまうんです。それでいいのかも知れません。
私も何度かネット上の悲しい現実に遭遇した事があります。それはネット上だから、バーチャルだっていうかもしれませんが、私にとっては、忘れる事が出来ない事実として現実社会の私に影響を与えていました。
でもそれも私の人生。多くを学ぶ場であったのかも知れません。バーチャルだけど現実なんですね。だからそれもまた受け入れて生きていくしかないのかも知れません。
的外れなコメントだったらお許しください。
だって、自分が思ってること。文章に出来ずにいる事を、いとも容易く記事にしてしまうからです。
じゅん吉さんの経験も、おしゃれなうさとさんも違う経験ではあっても思いは一緒だって感じてます。
毎回素敵な写真ですね。
うさと博物館の開館記念パーティーやりましょうよ。
そうだね、きっと、蘇ってくるよね。
生まれ変わって、違う名前でもいいよ。このバーチャルな世界でいいから、また会いたいな。
そうか、けんちゃんもこんなことを考えておいででしたか。今日は、だから、ちょっとつらいっす。
開館記念パーティーのことでも考えて、私もよみがえろっと。THANKS けんちゃん
バーチャルだと思って会話していた人が、実はリアルの私を知っていてずっとだまされていたこと。
じゅん吉さんのように、私も忘れらない出来事でした。バーチャルな世界なんてもたなければこのように傷つかなくても良かったのに。
ショックを受けて、HPを閉鎖して、やっと最近7年越しにネットに再デビューしました。また傷つく出来事があるかもしれませんが、でもこやってうさとさんに出会えたりとか良いことの方が多いので、今度は続けていきたいと思っています。
元気、出してくださいね。
確かに気持ちの良い話ではないよね。淋しい話だし。でもバーチャルという世界があるなら、人生そのものがバーチャルかも知れない。ある人をある方向へ向かわせるために起きた必然的な出来事・・・と捉えれば、いくらか気持ちも楽になるのかな。トンチンカンなコメントでごめんなさい。
我田引水(独り善がり)であろうと、反省しなければ進歩は望めない。
自分の行動には全て動機があり意思の赴くままに動いているってことは出会いの場所を自分で決めてるってこと。
つまり偶然は無く成るべくして成ったという結果だけが時と共に刻まれるんだな~と解釈しています。
本日の正午12時に閉鎖して、
ある意味、スッキリですわい。^^
ちょっと寂しかったけれど、
嫌がらせの数十倍も陰で支えて下さった方がいたということを
実感でき、また、励まされました。
うさとさんのコメントは涙無しでは読めなかったです。
ありがとうございます。^^