うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

流れの底の

2006年05月23日 | ことばを巡る色色
幾らか前から、「下流」ということが言われるようになった。そうして、「そうだ、そうだ、下流の人が増えているんだ」と世の人々は賛同した。時流にのったということは、多くの人がそう思っているからだろう。有史以来、「上流」の人がいれば「下流」の人もいた。それは否定の出来ない事実である。それは、出自だったり、知識だったり、財力だったり職業だったりで作られるのだけれど、何らかの形で上下が出来てしまっているのは誰がなんと叫ぼうが事実なのだ。しかし、今問題なのは、それが決定事項のように感じられてしまっていることだ。「下」であれば、何の可能性もないように考えられ、そうして自らを「下」にあると考える人が、そう考えてしまっていることだ。いつの日からか、努力などしても、所詮は報われず、面倒に過ぎないと思う人が増えている。「下」でいるほうが、辛い努力などせずともすむし、職や住居や身分が不安定でも、その日の楽しみだけを考え生きていくほうが楽ジャンと思う人が多くなってはいないか。
生まれつきの才、というのはどこまでその後の環境で変更が可能なのだろうかと、私はよく考える。十代後半にもなってしまうと、ある意味での「上」「下」が出来上がってしまっていることが多い。「上」の人は自らの知識、意識と他者の相違をすり合わせながら、他者が語る内容をなるべく他者の思いのまま理解しようと努める。それに対して「下」の人は、自らの基準、能力の中でしか理解が出来ない。ゆえに多くの誤解や錯覚が起こり、意思の疎通がはかれないことが多い。そのような低理解の中で不幸は起こりやすい。もちろん、「上」と思われている人が引き起こす犯罪もある。しかし、可能性を考えようとしない人々の不幸は周りを巻き込みながら拡散する。
私は、誰でも理解する力を持つ可能性があると思う。それはいろいろな方法でなされるだろう。学校の勉強の中でつけられると考えられがちだが、それは方法の一つに過ぎない。ある技術を会得する中だったり、スポーツをする中だったり、植物を育てる中だったりするだろう。そんなさまざまな場面の中で、人は「わかろうとする」力をつけていくはずである。「わかろうとする」過程に「上」も「下」もないはずだ。どこにいようと人は、自らの立ち位置から世界を理解しようとするもののはずだった。
それなのに、今「下流」が歯止めなく進んでいるのはなぜだろうか。私たちが、そうして私が失ったものはなんだろう。皆楽しそうに、楽そうに暮らしているのに、この国の中に漂う空虚感はなんだろう。そう、「空虚」な感じ。そう感じているのは私だけなのか、あなたたちは、そう感じてはいないのか。
それは例えば、狭い鶏舎で育てられた鶏肉の味気ない感じにも似ている。肉ではあるが地や陽の恵みからは縁遠い感じ。今の世の中をそのように憂う私がおかしいのだろうか。
今まで人を律してきたものはなんだったのだろう。なぜ、人は自らを律するものをなくしてしまったのだろうか。
これは私の問題でもある。そうして私は「考え中」の札を立てたまま、立ち尽くしている。
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神の眼

2006年05月15日 | 語る!
神を信じる意味というのは、神様の眼で自分を見てみるという練習なのだろう。神がいるとかいないとかは問題ではないと思う。
自分はいつも直線でしか自分や周りを見ることが出来ない。Iがamであり、Youがareであり、それ以外の他者は、isでありという自分の視線。私は(am)で、特別なあなたは(are)だけれど、それ以外は一緒くたの(is)。たくさんいれば(are)であるという視線である。(I)である私は、いつも(you)を自分の輪の中に入れ、一直線の視線を結ぶ。そうして他の(is)の人を輪の外に置く。いつも私はあなたへと向かってしまう。輪の中にいるあなたが私を見てくれていなければ、この輪は意味のないものになり、(I)も意味を見失う。それを、神が見たらどう見えるだろうと考えてみようとするところに意味がある。高い高いところにある神の眼で見れば、すべては(is)である。そう考えて、神の眼で自分を見れば、随分、楽になるところがある。自分をも含めて俯瞰したら、自分が誰かのためとか思ってしていることも、結局は「自分がしたいと思ったこと」であり、その意味で、「自分のためにしている」ことであるということが分かる筈だ。「自分のためにしていること」なのであるのだから、その思いが伝わろうが、届かざろうが、それは「私の悲しみ」にはなっても、「相手の責」ではないのだ。輪はいつでも、違う場所で結べるのだ。
折に触れ、神のいない時代というものを考えることがある。神が見えない時代といってもいいだろう。長い間、人間は神を心に持っていた。それは、神が存在するとかしないとかということではなく、そう思って生きていくのが生き易かったからだろう。神のようなものを考えずとも、きちんと生きていける人はそう多くはない。しかし、今の世の中で神を信じることは難しい。神の眼で見るという練習の場を失った私たちは、[I〕と〔you]に縛られ、そのくせ迷子のようだ。深夜の店に人は溢れ、部屋は散らかされたままになり、職を持たず、今日の享楽のみを求める。報われぬ好意は報復と変わる。
私たちは俯瞰の眼を持てなくなっている。「罰が当たる」とか、「お天道様に申し訳ない」とか、そんな言葉はかび臭くなってしまっている。知恵なき貧しき人という生き物が、この世に生きながらえる杖であったはずの「信仰」が見えなくなっている今という時代。私たちが持つべきものは何なのか。聞きなれた「神」が見えないならば、何を「神」とすればよいのか。
知恵のない人、杖のない人が救われぬ流れが加速していると、私には感じられてならない。そうして、知恵や杖を持った人の一部が、持たざる人を利用し「持たぬことが悪い」といって憚らぬ流れが渦巻いている。
楔を打ち、土嚢を積まねば、堰は切れかけている。それはあまりに悲観的な考えに過ぎるのだろうか。
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ひととせ過ぎたりて

2006年05月06日 | ことばを巡る色色
5月4日は、ブログを始めて一年目の日だった。
それは私の積極的な行為でなく、行きがかり上の開設だった。パソコンサークルの入会条件が、「ブログを始めること」だったからという理由に過ぎない。
そうして、ネットの海を漂流した。その中で、情報の危うさというものを痛感した。
見たいものを見たいように見ることが出来るのは稀であるし、
見たいものを見ていると思い込んでいても、見せられているに過ぎないということがある。
見たくないものを見ることもある。それは見るべきでないものだったかもしれないし、見なければいけないものだったかもしれない。
それを決めるのは、私なのか否かも、今の私には分からない。どの情報を信じていいのかも分からない。世界は無味無臭の活字で伝えられ、臭覚も触覚も役に立たない。見たもの、触れたものだけを信じていればいい幸福な時代は終わったのだ。私にとっても、世界にとっても。
そんな中でも
ブログをはじめて、少なからぬ知人が出来た。甘えたり、甘えてもらったり、の知人である。
そこに、救いがあるのではないかということだけは、信じている。
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探検協会

2006年05月04日 | お出かけ
世の中のゴールデンウィークの皆様、いかがお過ごしでしょうか。私は今日も仕事です。が、まわりが連休に浮かれて、仕事になりません。こんなことなら、万障繰り合わせてお休みしたほうがましだったかと思いながら、そうも出来ず、でございます。
世間並みの連休を過ごせぬ私は、昨夜、つれづれに新聞を読んでいて、「鍾乳洞」についての記事を見つけました。
鍾乳洞といえば、一昔前までは、メジャーな観光地でしたよね。砕石会社のしゃちょーさんが作ったようなお土産屋と、怪しげな秘法館を併設している鍾乳洞が、高度経済期の日本人のレジャーだったんですよね。しかし、今じゃ、「さあ、ゴールデンウィークだ、鍾乳洞に行こう!」「やったぁ、パパ、ありがとう!」なんて家庭は、あるはずもなく、冷静に考えてみると、「鍾乳洞」を見に行くというレジャーってどうしてだったんだろうと言う疑問がわいてしまいます。うちの祖父は旅行好きで、私も小さい頃はいくつかの鍾乳洞に連れて行かれました。洞穴のところどころに「~観音」とか、「~タワー」とか名づけれらた場所があったりするんだけれど、そのひんやりとしてぬるぬるした感じは、小学生の女の子にとって「楽しい観光」とは言いがたいものでありました。むしろ、修行のようでもありました。何であの頃の日本人は、うれしそうに鍾乳洞に行ったんでしょう。そうそう、祖父には水族館やら、大温室やらにもつれてってもらいました。その頃の水族館のような施設は、たいがいが薄暗くって、細長いにゅるにゅるした魚をじっと見ていて、気づくと、周りに誰もいなくて、壁の高いところに飾られた海亀の剥製がこっちを見ていて、というような思い出があります。また、温室も、熱帯の植物が背よりも高く生えていて、じめじめと蒸し暑い中で、真っ赤な花を見ていて気づくと、やっぱり一人で残されていて、壁に掛けられた巨大羊歯のようなものの陰から何かが出てきそうで、今も私は水族館や温室が少し苦手です。
ちょっと横道にそれてしまいましたが「鍾乳洞」はこんな記事でした。
(国内最長の鍾乳洞、岩手の安家洞はこれまで知られていた長さの2倍24キロあった。)

…私は、安家洞はもちろん岩手も行ったことはないのですが、この記事には妙にそそられてしまいました。なぜって、調査したのがNPO法人「日本洞穴探検協会」 かけた労力は、494日延べ8451人。
こういうNPO法人があったなんて・・・しかも、延べ8000有余人により、綱を張りながら鍾乳洞を進んで行ったなんて・・・  楽しそうだ・・・
こういうNPO法人というのもあるんですね。作ってみたくなっちゃいませんか、探検協会。
野生林探検協会、一本桜探検協会とか、裏道探検協会、富士樹海探検協会(こわすぎるぅ)
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あまえていいよ

2006年05月01日 | ことばを巡る色色
甘えるのが怖いのはなぜだろう。
迷惑や心配をかけてはいけないと自制する君よ。
君が甘えたかった誰かが、君を傷つけたことがあったのだろうか。
少しだけ踏み出しすぎてしまったために、眉をひそめられたことがあったのだろうか。
そんなときは、また、少しだけ出した足を引っ込めればいいんだよ。
どんなときにどれだけ心配をかけていいかなんて、
心配をかけて、覚えていくものなんだよ。
ゆるゆる、ちょっとだけ迷惑かけたり、ちょっとだけ傷ついたりしながら、進んでいけばいいんだよ。
心配しているあたしは、
心配をかけられることより、何より
君がいなくなってしまうことがイヤだ。
どこか遠い遠いところであっても、君がちゃんとそこにいるって分かっていれば、
君の隣にあたしはいつもいる。
あたしの見えないところでも構わない。そこにいてくれれば、それでいいんだよ。
生きて、どこかで生きていてくれるって、なんて、うれしいことなんだろう。
会いたいと思えば、会えなくもないって、なんて安心できることなんだろう。
心配ができるって、いいことだよ。
君は、そこで、うぅんと、あたしに、君を思わせてください。
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