うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

Good Night

2024年09月03日 | ことばを巡る色色
やっぱり、井上尚弥が勝って、
ぷっつり中断のようなTKOだったけど、
ラウンドなはじめはパンチのラッシュも見られたし、
彼はやっぱり勝ったし、
今日は新月だし
LeminoのスポットCMで聞いたasobiのHurts So Goodは
ほのさびしくていい曲で、
そうか、なんだか林檎の丸の内サディスティックに似てて
聴いてて気分がいいし、
いい夜だな、いい夜だね、
いい夜よ 
巷に、夜に、私に、みなさまに
Good Night


追記メモ
丸の内サディスティックはJust the Two of Us進行、
俗にマルサ進行というコード進行、で、おしゃれなのね
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ワタシの問題

2024年09月03日 | ことばを巡る色色
「虎に翼」を見ている。
夫婦別姓、LGBT、原爆裁判、そして認知症に、更年期障害。
これに対して、政治的だとか、左だと評する人がいるのに、ちょっと驚く。
確かにそれらは、憲法や法律の問題となるが、
始まりは個人の問題であり、終わりも個人の問題である。
困っているのはワタシであり、何とかしたいと思っているのはワタシである。問題の奥には、ご飯を食べ、眠り、怒り、笑う、たくさんのワタシがいるのだ。それは大きな課題の前に見えづらくなってしまうけれど。
法は個人の問題への対策であり、個人に還元されなくては法の法としての意味はないと思う。
それを、主義の問題、主張の問題としてひとくくりにしてしまうことは、危ないことだ。
人は主調のために生きているのではない。
初めに個人の問題があり、そのために主義のカテゴリー分けで便利になることはある。
しかし、本来は個人が生活者として尊重されるための法であり、主義であろう。
あっち寄りだからどうの、こっち方面の話だからどうの、と言っているうちに
個人の問題は、個人の声の意味合いを薄めてしまう。
姓が変わって困る人、異性婚では困る人、原爆の後遺症に困っている人、それらの人がそうでない人と変わらず生活する人として尊重されるためのものが法であり、国であろう。
自分の考えと方向性の異なる人の声を、自分の考えと方向性が違うという理由で、意味のないものとしてはいけない、と私は私を戒めたい。
くくったところから、個人は見えなくなってしまうことを自戒したい。
自分が個人として生きるには、他者も個人として生きている世でなければいけないのだ。
くくって、グループ分けをして考えるのは、効率的で楽な方法だ。だからこそ、その中で個人の声をこの方向の声として聞いてはいけない。そうしてしまうのは、個人を考え、個人の問題の解決へと還元していくことの面倒さ、コスパ、タイパを厭う気持ちである、ということをいつも考えたい。
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してもらう人 してあげる人

2024年08月26日 | ことばを巡る色色
「家族だから~」というドラマを見ている。

母が車いすになり、外出をしようと娘は車いすを押す。
娘は周りの人に「すみません」「すみません」と何度も言いながら道を行く。
「すみません」と言わねば、車いすではすんなり道を行けないのだ。
「すみません」は謝罪の言葉だ。自分がいけないことをしているとき、迷惑をかけた時、世の中に謝る言葉だ。

しかし、車いすに乗っていること、車いすで外出すること、車いすで道を行くことは、いけないこと、迷惑をかけていることなのだろうか。
車いすになっていることは、いけないこと迷惑なことなのだろうか。
そもそも車いすになることをその本人も望んでしているわけではないし、本人の落ち度があっての結果でもない。だのに、謝らなければ道を行けないことって、どういうことなのだろうか。
車いすで外出すること、ひいては車いすを使っていることは「すみません」ことなのか。

「してあげる」側の人がいて、「してもらう」側の人がいる。
「してもらう」側の人は「してもらい」たくて、「してもらう」側になっているわけではない。「してもらう」側になりたくはなかったと思っている人が多いだろう。
「してあげる」側の人は、自分の意志で「してあげる」かどうかを決め、「してあげる」ということをしているのだが、「してもらう」側の人は、自分の意志で「してもらう」側にいるのではない。障がいだけでなく、出自も性別も貧富も、世の中のありとあらゆる差異は、本人の望むと望まざるとにかかわらずやってくる。だから、「してあげる」側の人が、安易に「してもらう」人は「してもらう」ことに甘えていると考えるのは、「してあげる」側からしか見ていない発想かもしれない。
その不公平を、その偏りを、いつもいつも考えていなければならないということを「家族だから~」は静かに示す。
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女の詩

2024年08月21日 | ことばを巡る色色
私は小中学校と委員長だった。委員長として、責務をstrictに実行した。
そして、カシコイオナゴであった私は、高校以降は委員長にならぬように過ごしてきた。

多くのカシコイオナゴは知っている。そうして賢明である故に計算をする。委員長などやる女子が男子からどのようにみられるかを。同じ仕事をしていても男子は責任感があり前向きに取り組んでいるとされるが、女子は出しゃばりだと後ろ指をさされ陰口を言われ疎まれることを、賢明である故にちゃんと想像してしまう。
よほどの覚悟か、事情を持たねば人の上にむやみに立つものではないとの算術をする。
賢ければ賢いほどそれがわかってしまう。自分を押し込め、にこにこと笑って身を潜め、誹謗中傷と徒労のリスクを避けようとする。

そんな私に、あの言葉は胸元に刃を突き付けるように迫ってきた。
 私を束ねないで 私を止めないで 私を注がないで 私を名付けないで

私は社会に 束ねられ止められ注がれ名付けられ、
私は自分を 束ね止め注ぎ名付けていた。

自分の住む所には 自分の手で表札をかけるに限る。 精神の在り場所もハタから表札をかけられてはならない

オナゴというのは、居ながらにして、自分で束ねられないようにし、名付けられないようにし、自分の手で表札をかけねばならない存在である、のだ。

 自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ
と叱咤せねばならぬ存在である。

何もしなければ、束ねられ名付けられ他人に表札をかけられ感受性を守れない、のだ、残念ながら。
彼女らが謳った時から何十年もったったのに、残念ながら今もそれは続いている。そしてそれは男子をもである。男子も男子として束ねられ、名付けられ、表札をかけさせられ、感受性を守っていかねばならない。なんというめんどくさい社会であろう。

本当は誰もが
 だれかに あいたくて
 なにかに あいたくて
 生まれてきたーー
そんな存在であるはずなのに。だから、そんな存在に戻り生きていく、私は。

そして、
 立ち戻った健康の上
 消え失せた危険の上
 思い出のない希望の上に
 君の名を書く

 一つの言葉の力によって
 僕の人生は再び始まる
 僕の生まれたのは 君と知り合うため
 君を名ざすためだった
 リベルテ と


私を束ねないで/新川和江 表札/石垣りん 自分の感受性くらい/茨木のり子 あいたくて/工藤直子 自由/エリュアール
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復活の時(ちょっとだけだけど)

2024年08月10日 | ことばを巡る色色
ちょっとだけ、自分で生きることを取り戻しかけている。
詮ないことは考えないこととし、
暑くなりすぎない時間に家仕事をし、
ちょっとだけ、下界に出てみる。
恐る恐るだけどね。

って、こんなときは
なぜか、スピッツの歌がくるくる思い出されて、
スピッツの歌が聴きたくなる。

遠い昔に聴いたことがあったような、
今初めて聴くような、
塗りつぶした傷にそっとスピッツを捧げ
君も大変だったからさ、と自分に言ってみる
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メモメモ

2024年07月09日 | ことばを巡る色色
記憶の中にちゃんとメモ。
現兵庫県知事と前安芸高田市長
なんかの選挙に出たら彼らには注意すること。
処理が速いって万能の才能ではないのに、他者を無能と切り捨てるのは世の一部しか理解できていないということだ。一時期のN先生のよう(以前の『N先生のこと』をご覧くだされ)だね。N先生もなんだか失速してしまい、逆につまんないけど。
彼らも一度、名前とか経歴とか引っ剥がしてコンビニとかで働いてみるといいよね。学歴経歴のない名無しの自分がどれほど心許なく、その場の行動のみで判定されるかを知るべきだ。東大京大卒だの、省庁キャリアだのアナリストだのをアナウンスできない自分がどれだけ無力か、どれだけ即座の快適な対応を求められるかを知るがよい。なんとかちゃんのパパでしかない自分が子からも他のパパからも嫌われているのを知るがよいのだ。
そんなことも想像できないのなら、それは無能、ということだよ。
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七夕の夜は

2024年07月08日 | ことばを巡る色色
久しぶりに曇っていない七夕の夜。
1-99とAIが言っているから残り時間も少ないし渡辺さんの勝ちとなってしまうよねと思い、都知事選の開票結果を見に行って、やっぱ結局百合子さんは勝つのね、一番じゃなきゃダメなんですかにも、元市長にもと思って将棋中継に戻ったら99-1と全く逆になってて、いつの間にと思ってるうちに藤井君第一局勝利となってた。そしてやっぱそんなに面白くもなかろうと見ずにおいた井岡戦はマルティネス判定3-0で勝利。井岡の敗北に終わっていた。
ドラマメイクの晴天七夕の夜。ある程度予想されていた勝敗とはいえ、やっぱりね、ってだけではないのだよね。

わかっていたはずではあっても、結果が眼前にあると(そういうことだったのか)と思う。こうなるだろうと思っていた未然の時とは違う、のだ。事実現実というのは、揺るがず決定であるという点で絶対であり、どうよ、と刃を突きつけてくる。であるのに、刃で己れを突こうと、払い除けようと、はたまた翻って他者に切先を向けようと、「御自由に」なのであり、(絶対)はなんの色も意思も持たず、ただ事実現実として、陳列される。

さて、私の答えは?
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リベルテ

2024年05月29日 | ことばを巡る色色
私は最近、不自由な人、である。
そこで、考えた。
そうだ、私は今まで自由を手に入れるために生きて来たのだ、と。優先順位一番は「自由」リベルテだった。
家の、過去の、親のしがらみから逃れるために、それに囚われない自由を手に入れるために、我慢したり、受験勉強したり、妥協したり、折り合いをつけたり、した。自由のために我慢するって、いささか矛盾を孕むのだけれど、誰だってなんらかに対する自由を手に入れようとしたら、それ以外については切り捨てねばならぬものであろう。全方向の自由なんて、いずれは他者を害し、他者から糾弾、阻害され、短命のものでしかない。
だから、誰もが自分の自由に優先順位をつけることとなるし、どうしても自由にせねば耐えられぬものに対する自由を手に入れようとする。
なんて色々言ってはみるが、要するに、兎も角、何はともあれ、私は私の思うようにしたいのである。指図されたり、咎められたり、邪魔されたり、文句を言われたりするのが嫌、な我儘な性分なのだ。
そんな私が今は不自由を感じている。思い立った時に思い立ったところに行けない、思い立ったものを食べられない。思い立ったことができない。これらの(出来ない)が私の不自由の所以であるのなら、私の自由ってそんなものだったんだろうか。私とて、幾多の経験積んだ分別ある大人であるので、突拍子のない、宇宙に行くとか上海で上海蟹を食べるとか言っているわけではない。ごく常識的な願いである。そんなささやかな願いが今のところ叶えられないという閉塞感。その反面、自分の自由ってそんなありふれた娯楽っぽいものでしかないのか、という腰砕感。しがらみがあり、なかなか抜け出せにが努力すれば突破できそうだと思えた頃の「自由」はもっともっと崇高で高邁なものであったのに。ここに至っては、なんだか、困ったことに、安っぽい。年月は自由の価値さえ変えてしまうのか、それとも私の年月の使い方の何かが間違っていたのだろうか。
自由を尊いものとし続けることの困難を知った春はもはや、夏に変わろうとしているが。

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義なきところ

2024年05月28日 | ことばを巡る色色
慶應は慶應義塾大学である。が、最近、ニュースだけでなく出版物まで、慶應大学と義塾を省略しているのをよく見かけるようになった。確かに2字の画数の多い漢字を略した方が面倒はないだろう、とも思うが、今までのメディア、公式のものなどは律儀に慶應義塾と書いていたのに、どうしてしまったことなのだろうと思う。ひょっとして、これまでは慶應義塾自体が、慶應と略すものには「うちは慶應義塾です」といっていたのに、最近は緩くなったとも考えられなくない。

さて、その慶應であるが最近、塾長(学長)が、国立大学の授業料を上げるよう文科省の会合で国に提案したらしい。半世紀ほど前にも国立大学の授業料は値上げされたが、その時も私立大学から国への要望によるものであった。
その時も今回も私立大学の経営が厳しく、学問の充実のために学費を上げるべきというものであった。

設置形態に関わらず、大学教育の質を上げていくためには公平な競争環境を整えることが必要」とし、国公立大学の学納金(学費)を年150万円程度、現状の3倍近くに引き上げることを提言した。「このことで一部の私立大学では経営努力により、国立より低水準の学納金設定で公平な競争に参加できる」とし、奨学金制度や貸与制度についても公私大共通の土壌で整備する必要性を訴えた

とのことである。
殿様は自分のお国の年貢による藩の経営が思うようにならぬから、隣の藩のお殿様に(オタクの年貢あげてくれんかな、みんなが隣は安いのにと不満を言って値上げできないんだよね)ってことか?国立大学が、私立大との兼ね合いで学費を決めるというとんでもない非常識で道理の通らぬことを、この国は過去にして来た、というのは事実であるが、それを今回も繰り返して良いのか。
高校を無償化し、或いは不要な進学まで推進して、国を支える国立大学による人材の育成は、学費という形で家庭に負担を押し付けるのか。それも慶應義塾の提案を受けてであるのか。発言した伊藤塾長、その発言を会合で許した文科省は正気でそんなことをやりとりしていたのだろうか。

奨学金等も統合するという提案であるが、国立大学には現在、学費全額、あるいは一部免除の制度があり、いわゆる難易度の高い大学ほど多くの免除枠をもっている。学費の払えぬものも、国立大学なら学問を続ける手立てはあるのだ。多くの才ある者に門戸を開き人材を育成するのが国立の使命であろうのに。年額150万の学費がどれだけの人材を切り捨ててしまうこととなるのか。

人を育てるこの国の「義」は一体どこに行ってしまったのか
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あちら側こちら側

2024年05月19日 | ことばを巡る色色
ある時、あちらとこちらがある事に気づく。私はこちら側に来てしまったので、あちら側にいるままの知人や周囲の人は、もう、もう、どこかで遠い人。
こちら側は静かだ。そうして今までの私は、あちら側にいた昔の私は、こちら側の人を、自分とは隔たりある人と見てきた。そして、自分がそうなっている事に茫然としている。人の間を歩きながら、私以外はあちら側を生きているのだなと思う。その間には、越えられない、どれだけの深さがあるのかわからないような靄が立ち込めている。違うところに来てしまったのだな思う。
それは事実であるのだけれど、私はもう一度あちら側に戻りたいのだと思っているのだな、やっぱり。
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