DEEPERさんのオルトをみていたらこんなことが書かれていました。
駄文>家計>囲碁>モンコレ たまには挫折もしてみたり:会話の断片
買い物をして自転車での帰り道の途中
泣きじゃくる子供とその子の前でしゃがんでなにか語りかけている母親らしき人を見かけた。
通り過ぎるときに聞こえた会話の断片が
「いい?自分の好みだけで好き嫌いは決めちゃだめなの。」
そのときは特になにも思わなかったんだが・・・
よく考えたら、おかしいよ。いいんだよ、好き嫌いは好みで決めて。
決めちゃいけないのは善悪だろう。
真面目に話をしてるだけに、少しツボに入った。
この文を読んで、私は少し考え込んでしまいました。
多分、このお母さんは「好き嫌い」と「善悪」を混同してしまっているのでしょうね。
あるいは、「好き嫌い」と「優劣」を混同しているのかもしれません。
「好き嫌い」、「善悪」、「優劣」これらはどれも、自分の主観で選ぶものです。
「善悪」や「優劣」に関しては社会的な通念なんかはあるでしょうけど、最終的に選択するのは自分であり、主観的なものだと言えるはずです。
さて、それを選ぶ際、「好き嫌い」は文字通り、好きか嫌いかの選択なので、好みで選ぶより他ありません。
しかし、「善悪」や「優劣」は好みで選べるものではありません。
これら2つと「好き嫌い」は別次元の問題なのです。
いくら良いことだと解っていても、好きになれないことは多々あると思います。
食べ物の好き嫌いなんかがその例として挙げることができるでしょう。
「ピーマンが体にいいと解っていても嫌いである」とか。
反対に悪いことだと解っていても好きなことってのもあるはずです。
「わかっちゃいるけどやめられない」
タバコや酒なんかがこの例でしょうか。
タバコや酒が悪いものであると言っているわけではないのですが。
優劣に関しても同じことが言えるはずです。
「アイツは確かに優れているが好かない」とか、「アイツはいまいちだがなぜかにくめない」というのはよく聞く話です。
さらに言うなら、「善悪」と「優劣」も全く別物ですよね。
良いものが優れているとは限らないし、悪が劣っているとも限らない。
第一、良いものにも利点と欠点、長所と短所はあるでしょうし、悪いものに関しても同じ、同一の視点で見ることに無理があります。
しかし、なんだかこの3つは混同されやすいように感じます。
例えば、「良い学校」「悪い学校」という言葉があります。
よくTYドラマなんかで教育ママさんが、「良い学校に入って、良い会社にはいらなきゃ」云々と言ってたりします。
これは明らかに、「良い学校」=「優れている学校」としているのでしょうし、「悪い学校」=「劣っている学校」としているのでしょう。
さらに、その教育ママさんには「良い学校」は「好ましい」のでしょうし、「悪い学校」は「好ましくない」のでしょう。
「好嫌」、「善悪」、「優劣」が一体になっているのです。
これを混同と言えるかどうかはわからないですが、「良い」=「優れている」=「好ましい」という見方をされていると思います。
まあ、大体そんな場合だと、その当人、学校へ行くお子さんにとっては、「良い」=「好ましい」でない場合が多いのですけれど。
「好嫌」「善悪」「優劣」ともに主観なのですから、人それぞれ、バラバラなのが当たり前です。
さらにそれが指す部分の大きさも違います。
一つのものだって、「全部が好きで優れていて良い」なんてことはまずありません。
アレのここは好きだけどあそこは嫌い、ここは優れているけどあそこは劣っている、あちらにとっては善いことだけど、こっちにとっては悪いこと…色々あるはずです。
そうなんだけれども、なんだかそれは混同されてしまうことが多いような気がするのです。
いや、そうではありません。
それを私はどうしても混同してしまっているような気がするのです。
昔書いたこの記事、
好き嫌いはいけませんよと教わった。
この記事に書いたように、私は、「好き嫌い」を決めるのが苦手です。
その理由が多分この混同にあるのだと思うのです。
この記事の時は、好きなgooBLOGを選ぶというものでした。
しかし、私は選べなかった。
それは、
「好きなblogとして選んだblog以外は嫌いなblogであり、さらには悪い、劣っているblogということになる。」
そんな考えがあったのだと思います。
もちろん、実際にそんなこと思っている訳ではありません。
ですが、自分が本当はそう考えているのではないかという「疑い」、「恐れ」、さらには他の人からそう見られてしまうのではないかという「恐れ」があるのです。
多分、人からそう見られる「恐れ」の方が大きいのでしょう、私は結構いろいろと気にしちゃう方なので。
そして、自分が本当はそう考えているのなら、そう見られても当たり前だと思っている。
だから、自分でそれに関して考えることを避けている。
ですから、そんな「嫌い」なものを決めるなんてことは怖くて出来ませんし、「好き」なものを決めると「嫌い」なものも決まることになってしまいますから、「好き」なものを決めることもできません。
しかし、よく考えると、そのように「好き嫌い」を決めることを「悪い」ことだと考えている訳で、この部分の「善悪」の判断はしっかりしていることになります。
ここだけは混同していないようでよく解らないところです。
他にも、ところどころ、ある部分に関しては「好き嫌い」をはっきり決めているような所も見受けられます。
自分のことながらよく解りません。
勢いに任せて書いてきましたが、自分で書いていることがよく解らなくなってきました…。
結局なんだかよく解らなくなってきてしまいましたが、こんな風になんだかんだ理屈っぽいことを書いてみても、私の性格はそのままですし、好き嫌いはこれからもはっきり決めることはできないのでしょう。
DEEPERさんの元記事とは全然関係ない話かもしれない。
DEEPERさん、こんな変な記事に引用してしまって申し訳ないです。
駄文>家計>囲碁>モンコレ たまには挫折もしてみたり:会話の断片
買い物をして自転車での帰り道の途中
泣きじゃくる子供とその子の前でしゃがんでなにか語りかけている母親らしき人を見かけた。
通り過ぎるときに聞こえた会話の断片が
「いい?自分の好みだけで好き嫌いは決めちゃだめなの。」
そのときは特になにも思わなかったんだが・・・
よく考えたら、おかしいよ。いいんだよ、好き嫌いは好みで決めて。
決めちゃいけないのは善悪だろう。
真面目に話をしてるだけに、少しツボに入った。
この文を読んで、私は少し考え込んでしまいました。
多分、このお母さんは「好き嫌い」と「善悪」を混同してしまっているのでしょうね。
あるいは、「好き嫌い」と「優劣」を混同しているのかもしれません。
「好き嫌い」、「善悪」、「優劣」これらはどれも、自分の主観で選ぶものです。
「善悪」や「優劣」に関しては社会的な通念なんかはあるでしょうけど、最終的に選択するのは自分であり、主観的なものだと言えるはずです。
さて、それを選ぶ際、「好き嫌い」は文字通り、好きか嫌いかの選択なので、好みで選ぶより他ありません。
しかし、「善悪」や「優劣」は好みで選べるものではありません。
これら2つと「好き嫌い」は別次元の問題なのです。
いくら良いことだと解っていても、好きになれないことは多々あると思います。
食べ物の好き嫌いなんかがその例として挙げることができるでしょう。
「ピーマンが体にいいと解っていても嫌いである」とか。
反対に悪いことだと解っていても好きなことってのもあるはずです。
「わかっちゃいるけどやめられない」
タバコや酒なんかがこの例でしょうか。
タバコや酒が悪いものであると言っているわけではないのですが。
優劣に関しても同じことが言えるはずです。
「アイツは確かに優れているが好かない」とか、「アイツはいまいちだがなぜかにくめない」というのはよく聞く話です。
さらに言うなら、「善悪」と「優劣」も全く別物ですよね。
良いものが優れているとは限らないし、悪が劣っているとも限らない。
第一、良いものにも利点と欠点、長所と短所はあるでしょうし、悪いものに関しても同じ、同一の視点で見ることに無理があります。
しかし、なんだかこの3つは混同されやすいように感じます。
例えば、「良い学校」「悪い学校」という言葉があります。
よくTYドラマなんかで教育ママさんが、「良い学校に入って、良い会社にはいらなきゃ」云々と言ってたりします。
これは明らかに、「良い学校」=「優れている学校」としているのでしょうし、「悪い学校」=「劣っている学校」としているのでしょう。
さらに、その教育ママさんには「良い学校」は「好ましい」のでしょうし、「悪い学校」は「好ましくない」のでしょう。
「好嫌」、「善悪」、「優劣」が一体になっているのです。
これを混同と言えるかどうかはわからないですが、「良い」=「優れている」=「好ましい」という見方をされていると思います。
まあ、大体そんな場合だと、その当人、学校へ行くお子さんにとっては、「良い」=「好ましい」でない場合が多いのですけれど。
「好嫌」「善悪」「優劣」ともに主観なのですから、人それぞれ、バラバラなのが当たり前です。
さらにそれが指す部分の大きさも違います。
一つのものだって、「全部が好きで優れていて良い」なんてことはまずありません。
アレのここは好きだけどあそこは嫌い、ここは優れているけどあそこは劣っている、あちらにとっては善いことだけど、こっちにとっては悪いこと…色々あるはずです。
そうなんだけれども、なんだかそれは混同されてしまうことが多いような気がするのです。
いや、そうではありません。
それを私はどうしても混同してしまっているような気がするのです。
昔書いたこの記事、
好き嫌いはいけませんよと教わった。
この記事に書いたように、私は、「好き嫌い」を決めるのが苦手です。
その理由が多分この混同にあるのだと思うのです。
この記事の時は、好きなgooBLOGを選ぶというものでした。
しかし、私は選べなかった。
それは、
「好きなblogとして選んだblog以外は嫌いなblogであり、さらには悪い、劣っているblogということになる。」
そんな考えがあったのだと思います。
もちろん、実際にそんなこと思っている訳ではありません。
ですが、自分が本当はそう考えているのではないかという「疑い」、「恐れ」、さらには他の人からそう見られてしまうのではないかという「恐れ」があるのです。
多分、人からそう見られる「恐れ」の方が大きいのでしょう、私は結構いろいろと気にしちゃう方なので。
そして、自分が本当はそう考えているのなら、そう見られても当たり前だと思っている。
だから、自分でそれに関して考えることを避けている。
ですから、そんな「嫌い」なものを決めるなんてことは怖くて出来ませんし、「好き」なものを決めると「嫌い」なものも決まることになってしまいますから、「好き」なものを決めることもできません。
しかし、よく考えると、そのように「好き嫌い」を決めることを「悪い」ことだと考えている訳で、この部分の「善悪」の判断はしっかりしていることになります。
ここだけは混同していないようでよく解らないところです。
他にも、ところどころ、ある部分に関しては「好き嫌い」をはっきり決めているような所も見受けられます。
自分のことながらよく解りません。
勢いに任せて書いてきましたが、自分で書いていることがよく解らなくなってきました…。
結局なんだかよく解らなくなってきてしまいましたが、こんな風になんだかんだ理屈っぽいことを書いてみても、私の性格はそのままですし、好き嫌いはこれからもはっきり決めることはできないのでしょう。
DEEPERさんの元記事とは全然関係ない話かもしれない。
DEEPERさん、こんな変な記事に引用してしまって申し訳ないです。
「母親は善悪を考えることなく好き嫌いだけで物事を判断してはいけない」
ということを子供に教えようとしているのが会話の断片から読み取れるが
前後の会話を聞いていないと「好き嫌いを好みで決めてはいけない」
という矛盾に一瞬は気づかないという点と
「変なことを口走っていながら気づかずに真面目に話をしている母親」
という2つの点でおかしみを表現して見たつもりでしたが
ここまで掘り下げられるとは驚きました。(笑
俺もたまに情熱にかられて長文をだだっと書くことがありますが
内容としてはたいてい日頃からとりとめもなく考えていることなんですよね。
きっと、とうとよさんに関して「好き嫌い」や「主体性・主観性」というのは
それなりにアイデンティティに関わることなのでしょうか。
自分の中の矛盾に気づくといろいろ悩みますが、それもまた必要なことなんでしょうね。
のわーんちゃって、たまに真面目な文を書くとえらく恥ずかしいですわ。(笑
あまり気を詰めて考えすぎないことが日々を平穏にすごす策だと思うですよ。
あと、水聖デックに「神秘の女神アクラシエル」をお勧めしますよ。
ホリコアと組むと、戦闘常動を封殺できます。
あと、入れると感じのいいデックになります。見た目。(笑
なんとなくだらだら~っと書き殴ってしまいました。
とりとめもなくかんがえていることなので、結局結論はでず、そのままとりとめもなく続いていってしまう…
結果元記事とは離れてしまっていて、掘り下げになっていないような気もする。
まあ、結局私は私なんですが。
…また返信になっているのかなっていないのかわからないような文を書く。
話し変わって、確かに、アクラシエルはコアトルを活かす手段になりますね。
前のバージョンには入っていたのに、コアトル入りでは外してしまっていました。
ふむ。考え直さなければならない。
見た目か…風神拳の攻撃力をもらって、凄い勢いで殴りかかるアクラシエル…
確かに見た目はいい…のかな。
あと。
オルト、モンコレの記事に関しては参考にさせていただいてますよ。
囲碁の記事も興味深いですし、日々の暮らしの記事も面白く読ませていただいております。