竹取翁と万葉集のお勉強

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新選万葉集 文字遊びの世界

2023年12月23日 | 万葉集 雑記
 万葉集を中心に遊んでいますが、このところ守備範囲を平安時代中期当たりまでに広げています。この関係で新選万葉集上下巻に載る漢詩には読み下し、和歌には現代語訳を付けて先日に校訂版として紹介しました。浅学でそれは確かではありませんが、新選万葉集上下巻に載る漢詩すべてに読み下しを与えたのは私が最初になると考えています。従来、新選万葉集下巻の漢詩は正統な漢詩では無く、倭臭の強い和風漢詩で読解が不能との評判を持つものでした。それで新選万葉集下巻の漢詩全詩に読み下しを与えたものはないと推定しています。
 さてその新選万葉集について、平安時代初頭に和歌を基に和歌にちなんだ漢詩を付けて組にして詩を詠う作品を集めた詩歌集があります。それが新選万葉集と言うものです。その新選万葉集は寛平御時皇后宮歌合と言う歌合の宴で歌われた和歌をおおむね新選万葉集での和歌として採用をし、その和歌に対して漢詩を付けたようなものと考えられています。
 ただ、和歌表記スタイルでは奈良時代中期までには和歌は一字一音の万葉仮名で表記するスタイルに変わって来ていて、その一字一音の万葉仮名で表記するスタイルが平安中期、紫式部が活躍した時代の和歌集である拾遺和歌集でも踏襲されています。つまり、和歌を一字一音の万葉仮名で表記するスタイルは万葉集後期、古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集と踏襲されて変わっていません。

万葉集後期
原文 之奇志麻乃 夜末等能久尓々 安伎良氣伎 名尓於布等毛能乎 己許呂都刀米与
和歌 しきしまの やまとのくにに あきらけき なにおふとものを こころつとめよ
古今和歌集
原文 止之乃宇知尓 者留者幾尓个利 比止々世遠 己曽止也以者武 己止之止也以者武
和歌 としのうちに はるはきにけり ひとゝせを こそとやいはむ ことしとやいはむ
後撰和歌集
原文 布累由幾乃 美能之呂己呂毛 宇知幾川々 者留幾尓个利止 於止呂可礼奴留
和歌 ふるゆきの みのしろころも うちきつつ はるきにけりと おとろかれぬる
拾遺和歌集
原文 者累堂川止 以不者可利尓也 三与之乃々 也万毛加寸美天 計左者美由良无
和歌 はるたつと いふはかりにや みよしのの やまもかすみて けさはみゆらむ

 すると新選万葉集の和歌の表記が現在に伝わっている伝本に示す漢字交じり一字一音万葉仮名表記ではなく、本来は一字一音だけでの万葉仮名表記だった可能性があります。なお、以下に示す寛平御時皇后宮歌合に対するものは可能性を示したもので、他の和歌集とは違い何らかの母字研究に従ったものではありません。

寛平御時皇后宮歌合
原文 奈川乃比緒 安万久毛之者之 可久佐奈武 奴留保止毛奈久 安久留与尓世武
和歌 なつのひを あまくもしはし かくさなむ ぬるほともなく あくるよにせむ
新選万葉集
原文 夏之日緒 天雲暫芝 隱沙南 寢程裳無 明留朝緒
和歌 なつのひを あまくもしはし かくさなむ ぬるほともなく あくるあしたを

 ここから可能性で、新選万葉集の和歌の表記が一字一音万葉仮名表記から漢字交じり一字一音万葉仮名表記へと意図的に換えたのですと、そこに新選万葉集の編集者たちの意図が明確に存在することになります。この考えにあって、では、和歌が詠う世界観と組となる漢詩が詠う世界観とが同じかと言うと、一概にはそうだとは言えないのです。参考として新選万葉集の下巻の夏の歌となる作品を紹介しますが、漢詩と和歌との世界観は違います。

歌番158 佚名
漢詩 晴天夏雲無遺光 清河澄水不留滓 岸前連舟恒逍遙 終日欲通夕宴興
読下 晴天にして夏の雲に遺光は無く、清河の水は澄みて滓は留らず、岸前に舟を連ねて恒く逍遙し、終日、通ふを欲し夕宴を興す。
和歌 夏之日緒 天雲暫芝 隱沙南 寢程裳無 明留朝緒
読下 なつのひを あまくもしはし かくさなむ ぬるほともなく あくるあしたを
解釈 夏の太陽を空の雲がしばし隠して欲しい、そうしたら夏の夜は短く寝る間もないので、今明けるでしょうこの夜の次の夜にしましょう。
注意 皇后宮歌合 歌番68

 歌番158の詠う漢詩と和歌との世界観は違うのですが、漢字交じり一字一音万葉仮名表記の和歌の文字表記に注目すると、文字表記で漢詩が遊んでいることが推定出来ます。和歌の「夏之日緒 天雲暫芝」に対し漢詩の「晴天夏雲無遺光」ですし、和歌の「隱沙南」に対し漢詩の「清河澄水不留滓 岸前連舟恒逍遙」です。また、「寢程裳無 明留朝緒」に対し「終日欲通夕宴興」です。歌の世界観はまったくに違うのですが、和歌の万葉読みを棄てた時の漢字表記だけからイメージを膨らませると漢詩での表記の世界観を見ることが出来ます。これは文字遊びですから、この和歌と漢詩の組み合わせに鑑賞での世界観の一致や統一した意図を求めるのは、野暮であって風流人ではありません。
 同じような表記での遊びの感覚で新選万葉集を眺めますと、次の作品があります。ここの表記の遊びは和歌の末句「うちはへてなく」の表記「左右丹打蠅手鳴」にあります。ここのは、両手で蠅を打つ手が鳴るとの遊びがあります。これに対して、漢詩は和歌が詠う世界観を忠実に平明な表現で詠います。和歌のおふざけと漢詩の冷静さの面白みです。

歌番162 佚名
漢詩 蓬生荒屋前無友 郭公鳴侘還古栖 應相送鳥往舊館 去留愁誰待来夏
読下 蓬生の荒れたる屋前に友は無く、郭公は侘て鳴き古き栖に還へる、應に相はむ送鳥の舊き館に往くを、愁に留るを去り、誰か夏の来たるを待たむ。
和歌 蓬生 荒留屋門丹 郭公鳥 侘敷左右丹 打蠅手鳴
読下 よもきふの あれたるやとに ほとときす わひしきさふに うちはへてなく
解釈 蓬が生い茂り荒れてしまった屋敷に、ホトトギスが、淋しく感じていると「不如帰、不如帰」としきりに鳴いています。

 次の和歌と漢詩の組み合わせは非常に巧みです。和歌の「幾之間丹秋穗垂濫」の表記に対して漢詩の「幾閒秋穗露孕就」の表記です。示す景色も同じです。ただし、漢詩は秋の田園風景を詠いますが、和歌は稲の実りだけに焦点を当ていて見る世界は違います。その違いはあるのですが、和歌の「未歴無國」の漢字表記と漢詩の「大都尋路千里行」の漢字表記には似た語感があります。それでいて和歌の「未歴無國」は「いまたへなくに」の読みだけですから、その漢字表記には意味を持たせていません。これも前半部分の和歌の表記と漢詩の表記とでその読みと意味合いを同じくするものとの対比での遊びです。
 おまけで、漢詩の「大都尋路」は「大都を尋ねる路」ではありません。「都、美也、盛也。」と解釈すべき漢字選択です。これも知識者の遊びです。もう一つ、漢詩の「茶」は唐茶を意味して現代の茶とは品種が違いますし、またその唐茶とは近世以降では色彩での茶色を意味する言葉でもあります。まず、漢詩の景色は宇治方面の丘陵の茶畑の秋の景色であって水田の稲穂ではありません。そこには和歌と漢詩の見る秋の世界の差がありますが、言葉遊びと言う視線で見れば、なるほどの遊びがあります。

歌番169 藤原公忠
漢詩 幾閒秋穗露孕就 茶籃稍皆成黄色 庭前芝草悉將落 大都尋路千里行
読下 幾(きざし)を閒(うかが)ひ秋穗は露を孕みて就(な)り、茶籃(ちゃかご)は稍(ようや)く皆は黄色に成る、庭前の芝草(くさぐさ)は悉く將に落(かれ)むとし、都(うつくしみ)は大いにして路を尋ねて千里を行く。
和歌 幾之間丹 秋穗垂濫 草砥見芝 程幾裳 未歴無國
読下 いつのまに あきほたるらむ くさとみし ほといくはくも いまたへなくに
解釈 いつの間にか、秋の季節に稲穂が垂れている、まだ、苗草と眺めていてから、ほどもなく幾日も経たないはずなのに。
注意 皇后宮歌合 歌番91

 紹介した歌番169の藤原公忠が作歌したものと歌番186の文屋康秀が作歌したものは趣を同じとします。和歌と漢詩では詠う世界は違いますが、和歌の「郁子山風緒」の表記に対し漢詩は初句で「郁子裳垂任山風」と表現して詠います。文字を取っての別な世界を示しています。これは和歌と漢詩とに世界観の一致や統一した意図を求めるものでは無く、頓智であり遊びです。

歌番186 文屋康秀
漢詩 郁子裳垂任山風 許由袂招校秋草 岸邊蘆花孕秋光 林高枝頭惟葉光
読下 郁子の裳は垂れ山風に任せ、許由の袂は招きて秋草を校(くらべ)ぶ、岸邊の蘆花は秋光(しゅうこう)を孕み、高き林の枝頭は惟(もっぱら)に葉は光(て)れり。
和歌 打吹丹 秋之草木之 芝折禮者 郁子山風緒 荒芝成濫
読下 うちふくに あきのくさきの しをるれは うへやまかせを あらしなるらむ
解釈 山からの風が吹き付けると秋の草木がしおれてしまうので、なるほどそれで山から吹く風を嵐というのですね。
注意 古今和歌集 歌番249 初句「ふくからに」と異同あり。

 ここでちょっと和歌の世界で物名を取り込んで歌を詠う技法があります。それを拾遺和歌集から紹介します。

拾遺和歌集 歌番号 429
詞書 ね、うし、とら、う、たつ、み
詠人 よみ人しらす
原文 飛止世祢天 宇之止良己曽八 於毛飛个女 宇幾奈多川美曽 和比之可利个留
和歌 ひとよねて うしとらこそは おもひけめ うきなたつみそ わひしかりける
読下 ひと夜ねてうしとらこそは思ひけめうきなたつみそわひしかりける
解釈 貴方と一夜を寝て、後朝の別れが辛いこととは思い知らされた、浮名の噂が立つ我が身は情けないことです。

 この和歌の物名の技法で詠う遊びを取り入れたと思われるものが新選万葉集にありますので紹介したいと思います。和歌の表記に使われる漢字:公、江、敷、女、芝、籬、濫を用いて漢詩を詠っています。当然、漢字を共通させるだけの遊びですから和歌の詠う世界と漢詩が詠う世界は違います。また、漢字での遊びですから、「敷、散也。」の方の意味を使う工夫があります。当然、「侘敷」を倭臭として「侘び敷く(わびしく)」と読み下してはいけません。

歌番256 壬生忠岑
漢詩 女芝露孕秘籬前 江公位保蘙侘敷 秋風吹来將排卻 可惜草木且濫落
読下 女芝(めしば)に露は孕み籬の前に秘かにして、江公は位を保つも蘙りて侘しく敷(ち)る、秋風は吹き来たりて將(まさ)に排(しりぞ)け卻(のぞ)かむとし、惜むべし草木は且(まさ)に濫(みだり)に落(ち)らむとすを。
和歌 公丹見江牟 事哉湯湯敷 女部芝 霧之籬丹 立隱濫
読下 きみにみえむ ことやゆゆしき をみなへし きりのまかきに たちかくるらむ
解釈 貴方に顔を見られるようなことは畏れ多いのか、それで、女郎花は霧に包まれた籬に立ち隠れているのでしょう。

 ここまでは新選万葉集の下巻から紹介しましたが、従来での正統な鑑賞が為された上巻から作品を紹介します。和歌の世界と漢詩の世界が同じ方向を向いていますから、和歌と漢詩での表現方法での差だけを論じれば良くなります。ただ、これでは判り易いのですが新選万葉集全体を一つの作品として眺める場合、面白みがないのが欠点ではあります。

歌番1 伊勢
漢詩 春来天気有何力 細雨濛濛水面穀 忽忘遲遲暖日中 山河物色染深緑
読下 春来たりて天の気に何れの力(つとめ)か有る、細雨濛濛にして水面は穀(よろし)く、忽に忘る遲遲暖日の中、山河は物の色を染め緑深し。(注:爾雅「穀、善也」)
和歌 水之上 丹文織紊 春之雨哉 山之緑緒 那倍手染濫
読下 みつのうへに あやおりみたる はるのあめや やまのみとりを なへてそむらむ
解釈 雨が降ると水の上に丸い綾織り模様が乱れる、その春雨よ、綾織りの模様を織る春雨が山の緑をすべて染め上げるのでしょうか。
注意 皇后宮歌合 歌番19

歌番2 素性法師
漢詩 春風觸處物皆楽 上苑梅花開也落 淑女偷攀堪作簪 残香勾袖拂難卻
読下 春風は處の物に觸れ皆楽しく、上苑の梅花は開(さ)きて落(ち)り、淑女は偷(ひそやか)に攀りて簪を作すに堪(もち)ひ、残香は袖に勾ひて拂へども卻(のぞ)き難たし。
和歌 散砥見手 可有物緒 梅之花 別樣匂之 袖丹駐禮留
読下 ちるとみて あるへきものを うめのはな うたてにほひの そてにとまれる
解釈 花が散ってしまうと眺めて、散り終わってしまうべきなのに、梅の花は、余計なことに思いを残すその匂いが袖に残り香となって残っている。
注意 皇后宮歌合 歌番3

 以上、簡単に新選万葉集の文字遊びの世界を紹介しました。もし、大学生でこちら方面の方で面白いと思われましたら、卒論などで、もう少し追及して頂ければと思います。
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