竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

万葉集 集歌449から集歌453まで

2020年04月30日 | 新訓 万葉集
集歌四四九 
原文 与妹来之 敏馬能埼乎 還左尓 獨而見者 涕具末之毛
訓読 妹と来し敏馬(みぬめ)の崎を還(かへ)るさに独(ひと)りに見れば涙ぐましも
私訳 愛しい貴女と奈良の京から来た敏馬の埼を、筑紫からの帰還の折にただ独りだけで眺めると涙ぐむ。

集歌四五〇 
原文 去左尓波 二吾見之 此埼乎 獨過者 情悲哀
訓読 去(い)くさには二人吾(あ)が見しこの崎を独(ひと)り過ぐれば情(こころ)悲しき
私訳 奈良の京から筑紫へと去り行くときには二人で私が眺めたこの岬を独りで帰り過ぎると気持ちは悲しい。
左注 一云 見毛左可受伎濃
注訓 一(ある)は云はく、見も放(さ)かず来ぬ
左注 右二首、過敏馬埼日作謌
注訓 右の二首は、敏馬の埼を過ぎし日に作れる謌なり。

還入故郷家、即作謌三首
標訓 故郷(ふるさと)の家に還り入りて、即ち作れる謌三首
集歌四五一 
原文 人毛奈吉 空家者 草枕 旅尓益而 辛苦有家里
訓読 人もなき空しき家は草枕旅にまさりに苦しかりけり
私訳 愛しいあの人が居ない虚しい家は、草を枕にするような苦しい旅より、一層、辛いものです。

集歌四五二 
原文 与妹為而 二作之 吾山齊者 木高繁 成家留鴨
訓読 妹とせに二人作りし吾(あ)が山斎(しま)は木高(こたか)し繁しなりにけるかも
私訳 愛しい妻と二人で作った我が家の庭は、木が高く茂っている。

集歌四五三 
原文 吾妹子之 殖之梅樹 毎見 情咽都追 涕之流
訓読 吾妹子し植ゑし梅木し見るごとに情(こころ)咽(む)せつつ涙し流る
私訳 私の妻が植えた梅の木を見るたびに心もむせるように涙が切に流れます
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万葉集 集歌444から集歌448まで

2020年04月29日 | 新訓 万葉集
反謌
集歌四四四 
原文 昨日社 公者在然 不思尓 濱松之上於 雲棚引
訓読 昨日(きのふ)こそ君はありしか思はぬに浜松し上(へ)を雲したなびく
私訳 昨日までこそは、貴方は生きてこの世に在った。思いがけず、浜松の上を人の霊だと云う雲が棚引く。
注意 原文の「濱松之上於」の「上」は標準解釈では不要として「濱松之於」と校訂し「浜松がへに」と語調を合わせます。

集歌四四五 
原文 何時然跡 待牟妹尓 玉梓乃 事太尓不告 徃公鴨
訓読 いつしかと待つらむ妹に玉梓(たまづさ)の事(こと)だに告(つ)げず往(ゆ)きし公(きみ)かも
私訳 いつ帰ってくるのかと待っているでしょう貴方の妻に、美しい梓の杖を持つ正式の使いを送り急を告げることもせずに、死に逝った貴方です。

天平二年庚午冬十二月、太宰帥大伴卿向京上道之時作謌五首
標訓 天平二年庚午の冬十二月に、太宰帥大伴卿の京(みやこ)に向ひて上道(かむだち)せし時に作れる謌五首
集歌四四六 
原文 吾妹子之 見師鞆浦之 天木香樹者 常世有跡 見之人曽奈吉
訓読 吾妹子(わぎもこ)し見し鞆浦(ともうら)し室木(むろのき)は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき
私訳 私の愛しい貴女が眺めた鞆の浦の室木は、常にこの世に生えているのに、それを眺めた人はこの世にない。

集歌四四七 
原文 鞆浦之 礒之室木 将見毎 相見之妹者 将所忘八方
訓読 鞆浦(ともうら)し礒し室木(むろのき)見むごとに相見し妹は忘らえそやも
私訳 鞆の浦の磯にある室木を眺めるたびに、二人して眺めたその妻を忘れることはないでしょう。

集歌四四八 
原文 礒上丹 根蔓室木 見之人乎 何在登問者 語将告可
訓読 礒し上(へ)に根(ね)蔓(は)ふ室木(むろのき)見し人を何在(いづら)と問はば語り告(つ)げむか
私訳 磯の上に根を這わす室木を眺めた人は「今はどうしていますか」と聞かれたたら、出来事を語り告げましょうか。
左注 右三首、過鞆浦日作謌
注訓 右の三首は、鞆の浦を過ぎし日に作れる謌なり。
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万葉集 集歌439から集歌443まで

2020年04月28日 | 新訓 万葉集
集歌四三九 
原文 應還 時者成来 京師尓而 誰手本乎可 吾将枕
訓読 還(かへ)るべく時はなりけり京師(みやこ)にに誰が手本(たもと)をか吾(あ)が枕(まくら)かむ
私訳 都に還る時になった。その帰る都にあって、私は誰を私の腕の中に引き寄せ夜を共にしましょうか。

集歌四四〇 
原文 在京師 荒有家尓 一宿者 益旅而 可辛苦
試訓 京師(みやこ)なる荒れたる家にひとり寝(ね)ば益(まさ)りし旅に苦しかるべし
試訳 都にある、しばらく留守をして荒れた家に独りで寝ていると、人恋しさが募る旅よりも心苦しいことでしょう。
左注 右二首、臨近向京之時作謌
注訓 右の二首は、近く京(みやこ)に向ふ時に臨(な)りて作れる歌なり。

神龜六年己巳、左大臣長屋王賜死之後倉橋部女王作謌一首
標訓 天平元年(神亀六年)己巳、左大臣長屋王に死を賜(たまはれたま)ひし後に倉橋部女王の作れる歌一首
集歌四四一 
原文 大皇之 命恐 大荒城乃 時尓波不有跡 雲隠座
訓読 大皇(すめろぎ)し尊(みこと)恐(かしこ)し大殯(おほあらき)の時にはあらねど雲隠(くもかく)ります
私訳 天皇は畏れおおい方です。ところが、大殯が取り行われる訳でもないのに天皇は亡くなられてしまわれた。

悲傷膳部王謌一首
標訓 膳部王を悲傷(かな)しむ謌一首
集歌四四二 
原文 世間者 空物跡 将有登曽 此照月者 満闕為家流
訓読 世間(よのなか)は虚しきものとあらむとぞこの照る月は満ち闕(か)けしける
私訳 人が生きる世界は何と虚しいものであろうか。貴方が亡くなられたのに、この大地を照らす月は、ただ、何もなかったかのように満ち欠けをする。
左注 右一首作者未詳
注訓 右の一首は作れる者、未だ詳(つばび)らかならず。

天平元年己巳、攝津國班田史生丈部龍麿自經死之時、判官大伴宿祢三中作謌一首并短謌
標訓 天平元年己巳、攝津國の班田(はんでん)の史生(ししやう)丈部(はせつかべの)龍麿(たつまろ)の自(みずか)ら經(わな)き死(みまか)りし時に、判官大伴宿祢三中の作れる謌一首并せて短謌
集歌四四三 
原文 天雲之 向伏國 武士登 所云人者 皇祖 神之御門尓 外重尓 立候 内重尓 仕奉 玉葛 弥遠長 祖名文 継徃物与 母父尓 妻尓子等尓 語而 立西日従 帶乳根乃 母命者 齊忌戸乎 前坐置而 一手者 木綿取持 一手者 和細布奉乎 間幸座与 天地乃 神祇乞祷 何在 歳月日香 茵花 香君之 牛留鳥 名津匝来与 立居而 待監人者 王之 命恐 押光 難波國尓 荒玉之 年經左右二 白栲 衣不干 朝夕 在鶴公者 何方尓 念座可 欝蝉乃 惜此世乎 露霜 置而徃監 時尓不在之天
訓読 天雲し 向伏(むかふ)す国し 武士(ますらを)と 云はれし人は 皇祖(すめおや)し 神(かみ)し御門(みかど)に 外(そと)し重(へ)に 立ち候(さもら)ひ 内(うち)し重(へ)に 仕(つか)へ奉(まつ)り 玉葛(たまかづら) いや遠長く 祖(おや)し名も 継ぎ行くものと 母父(ははちち)に 妻に子どもに 語らひに 立ちにし日より たらちねの 母し命(みこと)は 斎瓮(いはひへ)を 前に据ゑ置きに 片手には 木綿(ゆふ)取り持ち 片手には 和細布(にぎたへ)奉(まつ)るを ま幸(さき)くいませと 天地の 神し祈(こ)ひ祷(の)み いかならむ 年し月日(つきひ)か つつじ花 香(にほ)へる君し 牛留鳥(にほとり)し なづさひ来むと 立ちて居に 待ちけむ人は 王(おほきみ)し 命(みこと)恐(かしこ)み 押し光(て)る 難波し国に あらたまし 年経るさへに 白栲し 衣(ころも)し干(ほ)さず 朝夕(あさよひ)し ありつる公(きみ)は いかさまに 思ひいませか 現世(うつせみ)の 惜しきこの世を 露霜し 置きて往(ゆ)きけむ 時にあらずして
私訳 空の雲が遠く地平に連なる国の勇者と云われた人は、皇祖である神が祀られる御門の外の重なる塀に立ち警護して、内の重なる御簾の間に仕え申し上げて、美しい蘰の蔓のようにいよいよ長く、父祖の誉れの名を後世に継ぎ行くものと、母や父に妻に子供にと語らって国を旅立った日から、乳を飲ませ育てた実の母上は、祈りを捧げる斎甕を前に据えて置いて、片手には木綿の幣を取り持って、もう一方の片手には和栲を捧げて、無事に居なさいと天と地の神に祈り願う、いつの年の月日にか、ツツジの花が香るような貴方が、にほ鳥のように道中を難渋して帰って来るかと、家族が立ったままで待っていた人は、大王の御命令を承って、天と地から光が押し輝くような難波の国に、新しき年に気が改まる、そんな年を経るにくわえて、白い栲の衣も着替えて干さず、朝に夕に勤務をしていた貴方は、どのように思われたのか、人の生きる死ぬには惜しいこの世を露や霜を置くように、跡をこの世に置いて死に逝った。まだ、死ぬべき時ではないのに。
注意 原文の「和細布奉乎 間幸座与」の「乎」は標準解釈では「平」の誤記として「和細布奉 平 間幸座与」と校訂して「和細布(にぎたへ)奉(まつ)り 平(たひら)けく ま幸(さき)くませと」と訓じます。ここは語調が悪いのですが原文のままとします。
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万葉集 集歌434から集歌438まで

2020年04月27日 | 新訓 万葉集
和銅四年辛亥、河邊宮人見姫嶋松原美人屍哀慟作謌四首
標訓 和銅四年辛亥、河邊宮人の姫嶋の松原に美人(をとめ)の屍(かばね)を見て哀慟(かな)しびて作れる謌四首
集歌四三四 
原文 加麻皤夜能 美保乃浦廻之 白管仕 見十方不怜 無人念者
訓読 かまはやの美保(みほ)の浦廻(うらみ)し白つつじ見れども怜(さぶ)し亡(な)き人念(おも)へば
私訳 波音が喧しいの美保の浜辺の白いつつじを眺めても、波音も心に響かず寂しい。亡くなった人を思うと。
注意 原文の「加麻皤夜能」は、標準解釈では「風早能」と校訂して「かぜはやの」と訓じます。ここでは原文のままに訓じ、「かまはや」は「喧(かま)+は+や」と解釈しています。
左注 或云 見者悲霜 無人思丹
注訓 或るは云はく、見れば悲しも亡き人思ふに

集歌四三五 
原文 見津見津四 久米能若子我 伊觸家武 礒之草根乃 干巻惜裳
訓読 御稜威(みつ)御稜威(みつ)し久米(くめ)の若子(わくご)がい触れけむ礒し草根の枯れまく惜しも
私訳 とても厳つい久米の若子が手で触れたと云う、その磯の草や木が今は枯れ荒れているのが残念だ。
注意 歌の題材は古事記歌謡「厳々し 久米の」です。

集歌四三六 
原文 人言之 繁比日 玉有者 手尓巻持而 不戀有益雄
訓読 人言(ひとこと)し繁きこのころ玉あらば手に纏(ま)き持ちに恋ひずあらましを
私訳 他の男が貴女に愛を誓うことが多いこのころ、貴女が玉でしたら私の手に巻いて持って、他人と競って貴女を恋い慕うことをしませんが。

集歌四三七 
原文 妹毛吾毛 清之河乃 河岸之 妹我可悔 心者不持
訓読 妹も吾も清(きよき)し河の河岸し妹し悔(く)ゆべき心は持たじ
私訳 愛しい貴女も私も互いに心清く、清見の川のその川岸が崩(くゆ)れるように、その言葉の響き「くゆ」ではありませんが、後に愛しい貴女が悔いるような心根を私は持っていません。
左注 右案、年紀并所處乃娘子屍作人名已見上也 但謌辞相違是非難別 因以累載於茲次焉
注訓 右は案(かむが)ふるに、年紀(とし)并せて所處(ところ)の娘子(をとめ)の屍(かばね)の作れる人の名は已(すで)に上に見えたり。 但し、謌の辞(ことば)相(あひ)違(た)ひて是非(ぜひ)は別き難(か)たし、 因りて以ちて累ねて茲(ここ)に次(しだい)を載す。

神龜五年戊辰大宰帥大伴卿思戀故人謌三首
標訓 神亀五年戊辰の大宰帥大伴卿の故人(なきひと)を思戀(しの)へる歌三首
集歌四三八 
原文 愛 人之纒而師 敷細之 吾手枕乎 纒人将有哉
訓読 愛(は)しきやし人し纏(ま)きにし敷栲(しきたへ)し吾が手枕(たまくら)を纒(ま)く人あらめや
私訳 愛おしいあの人と夜を共にした、その敷栲の床で私の手枕で貴女以外に夜を共にする人がいるはずはありません。
左注 右一首別去而經數旬作謌
注訓 右の一首は、別れ去(い)にて數旬(すうしゅん)を経て作れる歌なり。

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万葉集 集歌429から集歌433まで

2020年04月24日 | 新訓 万葉集
溺死出雲娘子葬吉野時、柿本朝臣人麿作歌二首
標訓 溺れ死(みまか)りし出雲娘子を吉野に火葬(ほうむ)りし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌二首
集歌四二九 
原文 山際従 出雲兒等者 霧有哉 吉野山 嶺霏微
訓読 山し際(ま)ゆ出雲し子らは霧なれや吉野し山し嶺(みね)したなびく
私訳 あの山際から棚引く、出雲の貴女は霧なのでしょうか、吉野の山の峰にその霊魂かのような霧が棚引いている。

集歌四三〇 
原文 八雲刺 出雲子等 黒髪者 吉野川 奥名豆風
訓読 八雲(やくも)さす出雲(いづも)し子らし黒髪は吉野し川し沖しなづさふ
私訳 多くの雲が立ち上る、その言葉のような出雲の里の貴女、その貴女の自慢の黒髪は吉野の川中で揺らめいている。

過勝鹿真間娘子墓時、山部宿祢赤人作謌一首并短謌   東俗語云可豆思賀能麻末能弖胡
標訓 勝鹿(かつしかの)真間(まま)の娘子(をとめ)の墓を過ぎし時に、山部宿祢赤人の作れる謌一首并せて短謌
東の俗語に云はく「可豆思賀能麻末能弖胡(かつしかのままのてこ)」
集歌四三一 
原文 古昔 有家武人之 倭父幡乃 帶解替而 廬屋立 妻問為家武 勝壮鹿乃 真間之手兒名之 奥槨乎 此間登波聞杼 真木葉哉 茂有良武 松之根也 遠久寸 言耳毛 名耳母吾者 不所忘
訓読 古(いにしへ)に 在(あ)りけむ人し 倭父(しふ)幡(はた)の 帯解(と)き交(か)へて 廬屋(とまや)立て 妻問ひしけむ 勝鹿(かつしか)の 真間(まま)し手児名(てこな)し 奥城(おくつき)を こことは聞けど 真木(まき)し葉や 茂くあるらむ 松し根や 遠く久(ひさ)しき 言(こと)のみも 名のみも吾は 忘れせず
私訳 遠い昔にいたと云う男が粗末な倭父の機織りの帯を解き合い、粗末な廬屋を作って妻問いをしたと云う。その勝鹿の真間の手兒名の墓の場所は、ここと聞いたけれど、立派な木の枝葉が茂っているので、松の根のように神さびて遠く久しくなってしまった。言い伝えやその手兒名の名前だけでも私は忘れられません。
注意 原文の「倭父幡乃」の「父」は標準解釈では「文」、「不所忘」の「所」は「可」の誤記とします。

反謌
集歌四三二 
原文 吾毛見都 人尓毛将告 勝壮鹿之 間間能手兒名之 奥津城處
訓読 吾も見つ人にも告(つ)げむ勝雄鹿(かつしか)し間間(まま)の手児名(てこな)し奥城(おくつき)ところ
私訳 私も見た。人にも告げましょう。勝鹿の真間の手兒名の墓のありかを。

集歌四三三 
原文 勝壮鹿乃 真々乃入江尓 打靡 玉藻苅兼 手兒名志所念
訓読 勝雄鹿(かつしか)の真間(まま)の入江にうち靡く玉藻刈りけむ手児名(てこな)しそ念(も)ゆ
私訳 勝鹿の真間の入り江で波になびいている美しい藻を刈っただろう、その手兒名のことが偲ばれます。
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