竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
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今日のみそひと歌 月曜日

2013年09月30日 | 万葉 みそひと謌
今日のみそひと歌 月曜日

集歌304 大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念
訓読 大王(おほきみ)し遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代しそ思(も)ゆ
私訳 大王が遥か昔に置かれた都の跡に、大和からはるばるやってきて、その海峡を見ると神の時代だけが偲ばれます。

集歌305 如是故尓 不見跡云物乎 樂浪乃 舊都乎 令見乍本名
訓読 かく故(ゆゑ)に見じと云ふものを楽浪(ささなみ)の旧(ふる)き都を見せつつもとな
私訳 このような思いになるから見たくないと云うのに、近江楽浪の古き都を無理に見せて。

集歌306 伊勢海之 奥津白浪 花尓欲得 裹而妹之 家裹為
訓読 伊勢(いせ)し海(み)し沖つ白波花にもが包みに妹し家づとにせむ
私訳 伊勢の海の沖に立つ白波は花であってほしい。白波が花であればそれを包みものとして恋人へのみやげにしよう。

集歌307 皮為酢寸 久米能若子我 伊座家留 三穂乃石室者 雖見不飽鴨
訓読 はだ薄(すすき)久米(くめ)の若子(わくご)が座(いま)しける 三穂(みほ)の石室(いはや)は見れど飽かぬかも
私訳 はだ薄の穂に出るような、秀でた久米の若子がいらした三穂の石室は眺めても飽きることがありません

集歌308 常磐成 石室者今毛 安里家礼騰 住家類人曽 常無里家留
訓読 常磐(ときは)なる石室(いはや)は今もありけれど住みける人ぞ常なかりける
私訳 永久に変わらないでいる石室は、伝説のように今もあるのだが、そこに住んでいた人は、永久ではないようです。

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丹比真人国人と豊浦寺の沙弥尼等

2013年09月29日 | 原万葉集「奈弖之故」と「宇梅乃波奈」
丹比真人国人と豊浦寺の沙弥尼等

 丹比国人が原万葉集「奈弖之故」の編纂者であるとして、もう少し、推測の範囲を広げてみます。
万葉集の彼の歌を見ていく前に丹比国人に触れてみますと、丹比国人は万葉集の集歌1557の歌の標からの推測しますと、明日香の豊浦寺(甘橿丘の北東麓)近辺が故郷と思われます。公式な歴史からは丹比国人の生没年や本拠については不明ですが、続日本紀に載る丹比国人の記事や万葉集の歌の標や注訓から彼の生年と本拠について推測します。まず、彼は天平十二年(736)に従五位下で民部少輔に叙位・任官してます。ここで、皇族や藤原氏本流と云う特別な身分でない彼の立場では大夫格の叙任の適齢期が三十五歳ぐらいと考えられますので、丹比国人は大宝元年(701)頃の誕生と逆算することが可能です。これは、時代的には藤原京時代ですから、丹比真人国人の氏族の名前からすると、幼少を藤原京で過ごしたと推測することが出来ます。すると、豊浦寺付近を故郷と見做すことは無理な推測ではないことになります。つまり、明日香の邑には、彼の故郷と古き里との二重の意味があるわけです。
 ここで、私の強い思い込みですが、原万葉集である「奈弖之故」は天平勝宝四年(752)後半から七年春頃に編纂されたと確信しています。その編者と思われる丹比国人は「橘奈良麻呂の変」に連座したとして遠江守の官職を剥奪され、さらに天平宝字元年(757)七月に遠江国から反乱の容疑者として召還された奈良の都から伊豆国へ流刑に処されています。そして、その後の彼の消息は歴史からは不明です。
 さて、このような丹比国人の履歴から、次の歌を見ていきます。

故郷豊浦寺之尼私房宴謌三首
標訓 故(ふる)き郷(さと)の豊浦寺の尼の私房にして宴(うたげ)せる歌三首
集歌1557 明日香河 逝廻丘之 秋芽子者 今日零雨尓 落香過奈牟
訓読 明日香川逝(い)き廻(み)る岳(おか)し秋萩は今日(けふ)降る雨に落(ち)りか過ぎなむ
私訳 明日香川が流れ巡っていく丘に咲く秋萩の花は、今日降る雨に散ってしまうのでしょうか。
右一首、丹比真人國人。

集歌1558 鶉鳴 古郷之 秋芽子乎 思人共 相見都流可聞
訓読 鶉(うずら)鳴く古(ふ)りにし里し秋萩を思ふ人どち相見つるかも
私訳 野の鶉が鳴くような古寂びた里の秋萩の花を、貴方が尊敬する人の気持ちとなって、一緒に萩の花を見たでしょうか。

集歌1559 秋芽子者 盛過乎 徒尓 頭刺不捶 還去牟跡哉
訓読 秋萩は盛(さか)り過ぐるをいたづらに頭刺(かざさ)ず捶(う)ち還(かへ)りなむとや
私訳 秋萩はすぐに盛りが過ぎますね。何もなさらないで空しく、その萩の花を手折って挿頭(かざし)にせず花枝を鞭のように振るだけで、花を愛でずに還ろうとなさるのですか。
右二首、沙弥尼等。

 ここで、官僚の丹比国人が、なぜ、故郷ですが古き里である明日香の里や豊浦寺を訪ねて来たのでしょうか。また、それは何時でしょうか。
 歌の景色から丹比国人が豊浦寺を訪ねて来たのは初秋の萩の花が咲く時期です。私は先に「奈弖之故」の採歌・編纂開始を天平勝宝四年の後半と推定しました。その「奈弖之故」の完成は天平勝宝七年五月十一日ですから、五年の秋に丹比国人は採歌のために豊浦寺を訪ねたと思います。この豊浦寺は蘇我稲目の向原寺や推古天皇の豊浦宮に因む日本最古の尼寺ですから、ここに蘇我氏や天皇家に関わる伝承の資料が保管されていたと推定します。
 最初にこれらの歌を統括する集歌1557の標では豊浦寺の尼の私房で宴をしたと記しています。すると、酒が出るような宴会でもありませんし、丹比国人と沙弥尼等とは恋の関係もありません。標は実際の二人の関係に恋の関係が有る無しの詮索はせずに、尼の私房と云う歌の場を設定することで男女の関係はないとしています。
 この歌の場の設定の下に歌を見てみますと不思議な表現があります。沙弥尼等の詠う集歌1558の歌の「思ふ人どち相見つるかも」です。これを直訳すると「同じ気持ちの者同士で鑑賞したことだ」です。散り逝く明日香の川岸の萩の花を鑑賞するのは複数の人間ですが、その内の一人は丹比国人でしょう。では、相手は誰でしょうか。沙弥尼等ではありません。沙弥尼等が詠っているのですから、その場の花を見る自分の行動に「相見つるかも」と疑問形で詠うでしょうか。また、静かに明日香の川岸の萩の花を沙弥尼等と丹比国人とは見ていての丹比国人の歌に対する返歌ですから、風流として「貴方と私は、この萩の花を見る気持ちは同じでしょうか」と聞いた歌ではないと考えます。丹比国人と他の誰かです。歌詞の意味は「その誰かと丹比国人とが、萩の花を見る気持ちは同じですか」です。さて、その相手とは誰でしょうか。
 次に、集歌1559の歌で「頭刺不捶」の句の「捶」の字は万葉集伝本である西本願寺本では「捶」です。一般にはその「捶」という字では意味が取れないとして江戸の元禄年間の契沖の万葉代匠記から「插」の字に置き換えています。当然、「捶」と「插」では意味が違います。契沖が「插」の字に変更した背景には、「插」の字から花を手折ってカンザシの古語である挿頭として自分の髪に挿す行為を想像し、さらにそこに寓意として男女の肉体関係を想定しています。江戸時代の尼の生活の一端からの邪推がベースです。一方、「捶」の字は叩くや棒を振ることを意味しますから、「頭刺不捶」の句が意味するところは、美しい花枝を手折ってカンザシにして頭に挿さのではなくて、枝を鞭のように振る意味になります。この「捶」の字を尊重した本来の解釈は仏教の僧尼である沙弥尼等が詠う歌として相応しいものとなります。つまり、集歌1558の歌の「その誰かと丹比国人とが、萩の花を見る気持ちは同じですか。」に呼応する集歌1559の歌の「萩の花枝を手折って美しく挿頭にせずに、しなやかな花枝を鞭のように振る」です。秋萩の花枝を美しいと思うか、それともそれをただの鞭のような小枝と見るかの違いです。
 さらに私は「沙弥尼等」の名前は丹比国人の洒落ではないかと疑っています。丹比国人は架空の歌の相手のことを「沙弥の尼に等しい」と云っているのかもしれません。そして、それが洒落であるならば、その沙弥尼とは暗示として歴史唯一の僧尼天皇である孝謙天皇を指す可能性があります。もしそうなら、集歌1558と1559の歌は万葉集の編纂を御下問された孝謙天皇から丹比国人への歌の世界に対する質問となります。その答歌が集歌226の歌である可能性があります。
 ここで、集歌1558の歌で詠う「鶉鳴古郷之(鶉鳴く古にし郷)」の句には荀子の「鶉衣」の故事があり、昔は美しい衣も今は昔の面影もなく粗末になっているとの意味が隠されています。このように「鶉鳴古郷之」や「頭刺不捶」の言葉から思うと、女性の歌として似付かわない感覚がします。つまり、この三首の歌は丹比国人の自問自答の歌ではないでしょうか。「誰かと丹比国人とが、この小雨に濡れる萩の花を見る気持ちは同じなのか」であり、「花枝を美しいと思うか、それともそれをただの鞭のような枝と見るか」です。

 ここで、少し、歌集の編纂について寄り道をします。
 私は原万葉集である「奈弖之故」が丹比国人によって編纂されたと確信してます。その丹比国人が豊浦寺を訪れたとき、丹比国人は既に日本最初の大和歌の歌集の編纂方法の構想を固めていたと思います。そして、その編纂方法は中国の詩経の模倣だったでしょう。その模倣を行ったと思われる詩経は「風」、「雅」、「頌」の三分類で構成され、「風」は中国各地方の国風を意味を示し、一種、中国各地の民族史的な歌謡の形を示します。次に、「雅」は宮廷の宴会で演奏された楽章を示します。そして、「頌」は先祖の廟の祭りで演奏された楽章を示します。
 他方、万葉集の巻一と二の構成は三部構成で、「雜歌」、「相聞」、「挽歌」の三部に分類されています。この「雜歌」は歴史的背景を持つ歌と規定されるように詩経の「風」に相当します。次に「相聞」は大和での貴族達の風流を詠う歌で「雅」に相当します。そして、「挽歌」は葬送の場での歌で「頌」に相当するでしょう。丹比国人は日本最初の大和歌の歌集を編纂するに当たって詩経の構成を参考にしたでしょうが、日本の宮廷では歌舞・楽奏の風習が無いために、詩経の「雅」を風流と解釈し、大和民族の風流の根本である歌垣に対して「相聞」の題を付けたと思ってます。
 私は、丹比国人はこの編纂方針に従って採歌を行なったと推定します。しかし、丹比国人はすぐに困難に直面したでしょう。それは採歌した歌の数量に対して、各分類でのバランスが悪いことです。現万葉集の歌の分類と歌数からも判るように「雜歌」や「相聞」の歌は取捨に困るほど採歌は可能でしょうが、挽歌に相当するものは少なすぎたでしょうし、有るべき人物の挽歌が無かったと思われます。暗殺・刑死・地方での事故死等では、古法に則った葬送が行なわれていないでしょう。また、古式に則る葬送での誄(るい)と歌集に載せる大和歌との形式(大歌・長歌・短歌・旋頭歌)とが一致しなかったと想像されます。

 この困難な状況での沙弥尼等の集歌1558と1559の歌と、私は解釈しています。私の感覚では、沙弥尼等の歌は丹比国人の自問自答の歌です。そして、集歌1558の歌の「誰か」とは万葉集を編纂する上で有るべき歌が無い人物です。
 私は、この「誰かと、萩の花を見る気持ちは同じか」の自問自答の歌の答えを丹比国人は見つけたと思います。その答えが次に示す丹比国人の集歌0382の筑波山の歌です。丹比国人は高級官僚ですから公務以外での東下りはありえません。従いまして、宝字元年の伊豆国への流刑まで、彼が関東の箱根の山を越えたことは無いと思いますし、伊豆国の流刑地は伊豆国賀茂郡御嶋(または三嶋、現在の静岡県三島市)と推定しています。つまり、集歌0382の歌の標に「筑波の岳に登りて丹比真人國人の作れる」となってますが、実際の登山の歌とは違います。これは大和の平城京で創った想像歌です。それも「奈弖之故」編纂の時、彼の気持ちを詠ったものです。もし、彼が付けた標ならば、別の意味での「筑波の岳」です。
 集歌382の歌は、筑波山の歌自体としては拙い歌ですが、万葉集の巻一と巻二の歌を紹介する「もじり歌」とすると、和歌史上最初に位置するすばらしい歌です。この集歌382の歌をもじり歌としてみて見ますと、次のような私訳をすることができます。

筑波岳丹比真人國人作謌一首并短謌
標訓 筑波の岳に登りて丹比真人國人の作れる歌一首并せて短歌
集歌0382 鷄之鳴 東國尓 高山者 佐波尓雖有 明神之 貴山乃 儕立乃 見杲石山跡 神代従 人之言嗣 國見為 築羽乃山矣 冬木成 時敷時跡 不見而徃者 益而戀石見 雪消為 山道尚矣 名積叙吾来煎
訓読 鶏(とり)し鳴く 東(あずま)し国に 高山(たかやま)は 多(さは)にあれども 明(あき)つ神し 貴(たふと)き山の 朋(とも)立ちの 見杲(みあか)し磐山と 神代(かみよ)より 人し言(こと)継ぎ 国見する 筑波の山を 冬木なし 時しき時と 見ずに行かば ましに恋しみ 雪消(ゆきげ)なす 山道すらを なづみぞ吾が来る

意訳 鶏が鳴き夜が明けてくる東、その東の国に高山は多くあるけれども、現し身の神として貴い山、並び立つ姿の輝き見える磐山として神代から人々が語り伝え、国見をしてきた筑波の山を、今はまだ冬ごもりで登るべき時でないとして国見もせずにいってしまったとしたら、まして、恋しく思うだろうと、雪解けの山道さえを、苦労しつつ私は登ってきたことだ。

私訳 高市皇子の挽歌の「鶏が鳴く吾妻(199)」の東の国に、天智天皇の「高山(13)」のような高き山は、数多くあるけれど、持統天皇の「吉野宮の御幸(36)」で詠う神に相応しい、明つ神の貴い歌の山々の、その並び立つ姿の光輝く磐山と、神代の昔から人々が言い伝えて、舒明天皇の「国見(2)」の歌から大伴旅人の「筑波(1753)」の歌までの歌々を、額田王の「春秋競の歌(16)」で詠う冬籠るように、天武天皇の「三芳野(25)」の歌の「時無く間無い」ように、今は時勢が悪いと返り見なくなってしまったら、きっと、人麻呂の「戀しい石見(131)」のように後にそれらの歌々が恋しくなる。時勢の風向きが変わり大和歌への障害が雪解けし、その雪解けの山道を苦労して登るように、貴い歌の山々にどうにか私は登ってきた。
注意 括弧書きの数字は、旧国歌大観番号による万葉集の歌番号

反謌
集歌383 築羽根矣 冊耳見乍 有金手 雪消乃道矣 名積来有鴨
訓読 筑波嶺(つくばね)を外(よそ)のみ見つつありかねて雪消(ゆきげ)の道をなづみ来るかも
意訳 筑波の山を外(ほか)ながら見ていることができなくて、雪解けの道を苦労しつつ来ることだ
私訳 筑波の嶺の歌を、私には関係ないとそのままにしておくことが出来なくて、雪解けの山道を苦労して登るように貴い歌の山にどうにか私はたどり着くでしょう。

 この私訳に示すように集歌382の歌が万葉集の巻一と巻二の歌を紹介する「もじり歌」とすると、大伴旅人が詠う集歌1753の歌の「常陸國 二並」には重要な寓意があるようです。「常陸國二並」を「ひたつ くにし ふたなみに」と読むと、「日の立つ国の二並みに」と訓読みすることも出来ます。つまり、「日本の国の二つの高峰」や「日本の国の二人の偉人」との意味合いです。こうした時、私は筑波山の歌と集歌382の歌の詠いだしの「鶏の鳴く 東の国に」の句から、この二つの高峰を大伴旅人と柿本人麻呂と想像します。そして、集歌382の歌で丹比国人はその筑波の峯に登ったと詠っています。つまり、丹比国人は万葉集を代表する偉大な歌人である人麻呂と旅人との二人の高みに彼は登ったと詠ったのです。
 これが、「沙弥の尼に等しい」人が詠った集歌1558の歌での「誰かと、萩の花を見る気持ちは同じか。」の質問の答えです。丹比国人は橘諸兄を通じて万葉集「奈弖之故」を孝謙天皇に奉呈するのに当たり、万葉集の歌の中にどのような思いで万葉集を編纂したのかを隠したのだと思います。これらの歌々は、丹比国人の万葉集編纂の歌論です。そして、次の歌の標です。

丹比真人(名闕)擬柿本朝臣人麻呂之意報謌一首
標訓 丹比真人(名欠けたり)柿本朝臣人麻呂の意に擬へて報へたる歌
集歌226 荒浪尓 縁来玉乎 枕尓置 吾此間有跡 誰将告
訓読 荒波に寄り来る玉を枕に置き吾れこの間にありと誰れか告げなむ

 丹比国人は確かに人麻呂と旅人との二人の高みに登ったと確信し、それで無いはずの人麻呂の挽歌を「人麻呂の意に擬へて報へ」て作ったのです。
 ただし、集歌382の筑波山の歌は、丹比国人の万葉集を編纂するに際しての編集方針の歌です。万葉集を編纂し終えたときの歌ではありません。このため、集歌382の歌には万葉集巻一と巻二の歌しか取られていません。彼の編集後記は、集歌3791の竹取翁の歌です。
 私は、古今和歌集の歌番号1002の歌に載るもじり歌の数の二十二首から想像して、紀貫之は確かにこの歌論ともじり歌を理解したと思います。そのため、紀貫之は誇りある平安歌人として歌番号1002の歌の「古歌奉りし時の目録の その長歌」を詠い、仮名序を書かなければならなかったのでしょう。そして、その仮名序に「かの御時に 正三位柿本人麿なむ歌の聖なりける これは君も人も身をあはせたりといふなるべし」と記述したのも、この丹比国人の集歌1558の歌の「誰かと、萩の花を見る気持ちは同じか」の歌論があったためです。「世のあわれ」を同じように見るのなら時間を超越するという丹比国人の歌論に合意した証と考えます。しかしながら、紀貫之は平安歌人の代表としてのプライドから、丹比国人の編んだ原万葉集をすべて理解した上で、私はそれ以上にすばらしい古今和歌集を編纂したとして仮名序を「大空の月を見るがごとくにいにしへを仰ぎて 今をこひざらめかも」の言葉で閉じています。
 長い長い雑談でした。日本を代表する歌集のその編集者が時代を超えて、己が編んだ歌集と云う作品で対話をしていると想像してみていただければ、今後、万葉集や古今和歌集を眺める視線が変化するのではないでしょうか。

参考歌
検税使大伴卿登筑波山時謌一首并短謌
標訓 検税使大伴卿の、筑波山に登りし時の歌一首并せて短謌
集歌1753 衣手 常陸國 二並 筑波乃山乎 欲見 君来座登 熱尓 汗可伎奈氣 木根取 嘯鳴登 峯上乎 君尓令見者 男神毛 許賜 女神毛 千羽日給而 時登無 雲居雨零 筑波嶺乎 清照 言借石 國之真保良乎 委曲尓 示賜者 歡登 紐之緒解而 家如 解而曽遊 打靡 春見麻之従者 夏草之 茂者雖在 今日之樂者

訓読 衣手(ころもて)し 常陸(ひたち)し国し 二並(ふたなら)し 筑波の山を 見まく欲(ほ)り 君来(き)ませりと 熱(あつ)けくに 汗かき嘆(な)け 木(こ)し根取り 嘯(うそ)ぶき登り 峯(を)し上(うへ)を 君に見すれば 男(を)の神も 許し賜まひ 女(め)し神も ちはひ給ひて 時となく 雲居(くもい)雨降(ふ)る 筑波嶺(つくがね)を 清(さや)に照らして いふかりし 国しま秀(ほ)らを 委曲(つばらか)に 示し賜へば 歓(うれ)しみと 紐の緒解(と)きに 家し如 解けにそ遊ぶ うち靡く 春見ましゆは 夏草し 茂くはあれど 今日(けふ)し楽しさ

私訳 袖を水に浸す衣手の常陸の国に男山と女山の二並ぶ筑波の山を見たいと思って貴方が来られるというので、熱くて汗が出るのを嘆き木の根にすがりあえぎながら登ってきて筑波の山の頂を貴方に見せると、男神の山も視界をお許しになって、女神の山もご加護を下さって、いつもならば雲が立ち込め雨が降る筑波の山頂を清らかに照らして、しかとは見えなかった国の優れて大切な筑波の山の姿をはっきりと御示し為されると、うれしく思って衣の紐の緒を解いて家に居るように上着を脱いで景色をたのしむ。風に草木が靡く春に眺めるのだろうが、夏草が深く茂ってはいるが、今日のこの景色の良さよ。

反謌
集歌1754 今日尓 何如将及 筑波嶺 昔人之 将来其日毛
訓読 今(けふ)し日にいかにか及(し)かむ筑波嶺(つくばね)に昔し人し来(き)けむその日も
私訳 筑波の山に登ってきた今日の日にどうして及ぼうか。この筑波の嶺に昔に倭建命(やまとたけるのみこと)が来たというその日よりも。
解説 集歌1753の歌での標に示す検税使大伴卿は、「卿」の用字から最終官位が三位以上の人物として、大納言大伴宿祢旅人のことと解釈してます。
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万葉雑記 色眼鏡 丗六 女性の恋文を鑑賞する

2013年09月28日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 丗六 女性の恋文を鑑賞する

 今回はネットから拾った女性が残した恋文を鑑賞して行きたいと思います。このブログの趣旨から女性が残した恋文と云っても近世や現代のものは対象外です。近々のものでも平安時代中期から鎌倉時代までです。
 なぜ、近々でも平安時代中期から鎌倉時代までかと云うと、ここのブログの趣旨に関係することと、実際面において恋文の記録と云うものを調査してみますとネット上では女性が残した恋文についてはそれほど蓄積されていません。そのために検索や資料収集に問題があることに由来します。
 『古今和歌集』や『新古今和歌集』に載る女流歌人の「恋歌」のジャンルの歌を、特定の男性への恋歌、つまり、恋人への恋文と考えているものがありますが、それらの歌は特定の男性を想定して詠った歌ではなく、歌会などで与えられた「恋」と云うテーマに添った歌です。つまり、それは職業歌人や有名歌人が人々の要望や期待に応えた歌であって、現実の恋愛関係や感情を下にした歌とは云えないものです。逆に『万葉集』を鑑賞される御方は良く御存知のように、『古今和歌集』や『新古今和歌集』の作歌事情から、時に、万葉集歌に対する虚構説が説かれます。これは、『古今和歌集』以降の歌々が虚構であることに由来します。およそ、このような背景があるために女性から男性へと贈った恋文を調べることは大変なのです。
 この大変と云う背景には社会の慣習と時代性も一因します。およそ、男女の間に恋文が交わされるには、相互に性別を超えた個々の人間としての自立性を認めている社会の存在が前提です。女性に個々の人間としての自立性がない社会では、一般論として恋文と云うものは存在しません。例えば、婚姻形態が売買婚や媒酌婚の場合、婚姻対象となる女性が相手となる男性に対して恋愛感情を持つか、持たないかを尊重するような価値観は存在しません。イメージとして、現代のイスラム社会の婚姻形態があります。異性との接触は家族内だけに許される社会道徳規律では、若い男女において婚姻や恋愛対象となる異性との接触機会は存在しませんから、恋文を贈ると云う機会自体が存在しません。確かに可能性として、婚約後や婚姻後に愛情表現として恋文を贈る可能性はありますが、それが社会一般的なものかと云うと違うのではないでしょうか。同様な風習は儒教の影響が強い時代の東アジアでも見られるものです。従いまして、女性の婚姻における選択性や自主性を認めない、そのような社会では女性から男性へ恋文を贈ると云う風習は育たないと考えます。なお、西欧については非常に複雑ですから考察の対象から外しています。
 およそ、男女が相互に恋文を贈るには、次のような条件が満たされる必要があると考えます。
 相手を見知っている(噂話や紹介も含む)
 相手の住所を知っていて、届ける手段がある
 相互に感情を表す文章表現方法と読解能力を持っている
 婚姻や性交渉に女性の了承を必要とする
 女性に恋愛に対する拒否権がある

 ここに恋文を贈ることが成立する条件を提示しましたが、その条件に反して儒教の影響が強い時代の東アジアでも例外的に女性が男性へ恋文を贈ることがあります。その例外的な事例が民妓楼(遊郭)に住む女性が男性に贈るものです。
 最初に唐末の時代に魚玄機と云う女性から男性に出された恋文を紹介します。この魚玄機は唐代の高名な妓女で、主人となる李子安との縁が切れることを恐れて、この詩を作り贈ったとされています。参考に日本語では「恋文」と云いますが中国などの漢字圏では「情書」と云い、当然のこと、それは漢詩や漢文です。

情書(書情寄李子安) 情書 (情書を李子安に寄す)
飲冰食檗誌無功 冰(ひょう)を飲み檗(きはた)を食ふも誌(しるし)に功なく
晉水壺關在夢中 晉水(しんすい)の壺關(こかん)は夢中に在り
秦鏡欲分愁墮鵲 秦鏡(しんきょう)分たんと欲するも墮鵲(だじゃく)を愁ひ
舜琴將弄怨飛鴻 舜琴(しゅんきん)弄(ろう)せんと將(す)るも飛鴻(ほうこう)を怨む
井邊桐葉鳴秋雨 井邊(せいへん)の桐葉(とうよう)は秋雨に鳴り
窗下銀燈暗曉風 窗下(そうか)の銀燈(ぎんとう)は暁風(ぎょうふう)に暗し
書信茫茫何處問 書信(しょしん)茫茫何れの處にか問はん
持竿盡日碧江空 竿を持つこと盡日(じんじつ)なるも碧江(へきこう)空し

(現代語訳)
李子安さまへ私の愛しい気持ちを書に寄せます
冷たい氷を口に含んでも、苦いキハダを口に入れても、貴方に恋文を贈る気持ちを消すことが出来ず、貴方と過ごした晋水、壺関での想い出が夜毎の夢に出て来ます。
全ての心の内を映すという秦鏡の故事ではありませんが貴方への想いを断とうとしても、年に一度しか逢えない彦星と織姫との縁を繋ぐ天の川のカササギが作る橋が落ちてしまうことを恐れるように、完全に貴方との縁が切れてしまうのは怖いのです。
古代舜の時代から南風の中に琴を弾き太平を楽しむと云いますが、私の気持ちは貴方の許へと大鳥が行きたい処へ自由に飛んで行くのを恨むばかりです。
井戸のあたりに植えられている夫婦の象徴である青桐の葉は秋雨に打たれて音を立てながら今にも散りそうですし、窓の近くに置いてある燭火も夜明け前の風に消えそうです。
貴方からの便りはあやふやですが、貴方はどちらに御手紙を贈られたのでしょうか。希望を持って魚書の例えに因んで毎日、釣竿を垂れていますが、でも、その故事と違って碧江は何も答えてくれません。

 このように魚玄機は故事などを織り込み格調高く、逢いたい、そして、手紙も欲しいと訴えます。参考に中国の婚姻形態では家と家とを繋ぐ媒酌婚で正妻を定め、その正妻の下に妾や妓女たちを置きます。このとき、日本の妾が別邸に住むのと違い、中国では同邸宅内での同居形態を取ります。この生活形態の下、魚玄機はその正妻との確執により李子安の許を追われ、最後には縁が切れてしまいます。
 次に薛涛(せつとう)が詠う「春望詞」を紹介します。この薛涛もまた唐代の有名な妓女で、その漢詩を作る能力などから、魚玄機を含めて「詩妓」と云う特別な呼称を与えられています。この「春望詞」は縁が切れかけた主人を引き留めるために詠われた歌とも、妓女たちの気持ちを代表した詩とも評価されています。

春望詞 四首 薛涛(唐) 春の眺めの詞(うた) 四首 薛涛
其一
花開不同賞、花落不同悲 花開くも同(とも)に賞せず、花落つるも同(とも)に悲しまず
欲問相思處、花開花落時 問わんと欲す相(あい)思(おも)ふ処、花開き花落つるの時
其二
攬草結同心、將以遺知音 草を攬(と)りて同心を結び、将に以て知音に遺らんとす
春愁正斷絶,春鳥復哀吟 春の愁ひの正に断絶して、春鳥復(また)哀吟す
其三
風花日將老、佳期猶渺渺 風花日に将に老いんとするに、佳期猶ほ渺渺(べうべう)たり
不結同心人、空結同心草 同心の人を結ばずして、空しく同心の草を結ぶ
其四 
那堪花滿枝、翻作兩相思 花枝に満つるを那(なん)ぞ堪えむ、両相の思ひを翻(ふたた)び作(な)さむ
玉箸垂朝鏡、春風知不知 玉箸は朝鏡に垂(た)れ、春風知るや知らざるや

(現代語訳)
其一
花が咲いても一緒に楽しむこともならず、花が散る逝くときも残念に思う心を共に出来ません。
この思いを共に出来る処があったら教えて下さい。このように花が咲き、花が散り逝くときに。
其二
草花を摘み貴方のように風流を楽しむ気持ちをその草花に結び、風流を楽しむ貴方の許に送りましょう。
春の愁いはまさに極まり、春の鳥は今年もまたひそやかに啼いています。
其三
風に花びらが舞い、時は過ぎて行きますが、貴方との楽しい日はまだ遠い先でしょうか。
風流を共にする貴方と気持ちを結ぶことなく、私はただ独り空しくこのように風流を楽しんでいます。
其四
花が枝に満ちるこの時をどうして耐えられましょう、ねえ、二人が共に風流を楽しんだ時を再び過ごしましょう。
頂いた美しいカンザシは、朝、化粧をする鏡の中に揺れ、その時の私の想いを春風は、さて、知っているのでしょうか。

 唐代の女流歌人の作る恋文を紹介しましたが、これらの女性は詩妓と称されるように科挙に合格した役人や士大夫階級が行う宴に侍り、そのような教養ある男性に伍して風流を行う人々です。ただ、このような女性の多くは自身が売買や贈呈の対象とされるような自己の意思を持つことを許されない奴婢の身分が大半です。
 儒教の影響が強い東アジアでは、婚姻は家と家との結びつきを基本とした媒酌婚で正妻を娶り、その正妻の配下に性奉仕を基本とする売買婚や奉公人としての妾や妓女等を置く形態を取ります。また、時に贈答品として妓女を養うこともしています。この社会風土のため、相互の恋愛感情を下にする恋文を作る社会風習は育ちません。
 しかしながら、その時代、唯一、儒教の家族制度の外に位置する民妓楼(遊郭)の高級な妓女だけが自由恋愛や自己表現を行うことが許されていました。この薛涛の生家は下級役人階級であったとされていますから、薛涛は自己の持つ文学才能を認識して自ら妓女という立場を選択したと思われます。当時、高級妓女として十分な資産を有する女性は客を選択するという行為で自由恋愛をすることが可能ですし、そこから発展して恋愛で選んだ資産家の男に囲われること(=疑似恋愛婚)を理想としたとされています。
 その妓女として成功し社会的に自立していた薛涛は、ある時、役人であり、詩人であった元と云う男性に出合い、次のような恋文を贈っています。詩の末句「同心蓮葉間」は長命を祝う「蓮葉の宴」の比喩とし、そこでは死ぬまで貴方の傍に居たいと云う感情を表しています。このように情熱的に恋文を贈った薛涛ですが、歴史は薛涛と元とは一時の恋のままに終わったと伝えています。立場上、薛涛が正妻になると云う可能性はありませんし、薛涛が元の正妻の支配下に置かれることを良しとするも難しいと思います。

池上双鳥、 池の上(ほと)りに双(ふた)つの鳥
双栖緑池上、朝暮共飛還 双(とも)に池の上りの緑に栖み、朝暮共に飛び還える
更忙将趨日、同心蓮葉間 更に忙(おちつ)かず日は趨(すす)まんとし、同心は蓮葉の間

 最初に中国唐時代の女性が作る恋文を紹介しました。次に日本の鎌倉時代のものを紹介しようと思います。赤裸々な恋愛物語で有名な『とはずかたり』から、雪の曙と作者である後深草院二条との恋文交換となる和歌を紹介します。この『とはずかたり』の世界とは実話と創作との中間ではないかとされていますが、紹介する相聞歌はほぼ現実に交わされた恋の和歌ではないでしょうか。日本では文章ではなく、恋の和歌を結び文にし、花枝や趣きある品に添えて相手に贈るのが恋文の習いですから、この歌々は当時、実際に交わされた恋文となります。
 歌の背景は少し複雑です。作者であり主人公の二条は幼い時に後深草院の養女として引き取られています。その二条は初潮を見る前の十四歳頃にどうも雪の曙との間に男女の関係を結んだようです。その後、正式に初潮を見て成女となった二条は裳着の儀式を経て、その儀式の夜、長く二条の裳着を待ちわびていた後深草院からすぐさま寵愛を受けます。その直後、雪の曙から二条の許に和歌を添えた豪華な衣装が贈られて来ました。歌はその時のものです。従いまして、これらの歌は複雑な立場での二人の恋仲を確認する恋文となります。
 この雪の曙は西園寺実兼ではないかと推定され、複雑な政治情勢であった南北朝の鎌倉時代、京都の貴族と鎌倉の武士との間で調整役を果たした有力な政治家であり、和歌や琵琶の風流人でもあったと伝えられる人物です。このとき、雪の曙と二条とは年齢的では二十二歳ほど、離れた関係となります。

雪の曙
つばさこそ重ぬることのかなはずと着てだに馴れよ鶴の毛衣
後深草院二条
よそながら馴れてはよしやさ夜衣いとど袂の朽ちもこそすれ
雪の曙
契りおきし心の末の変はらずはひとり片敷け夜半の狭衣

 次に紹介するものは平安時代に作られた『蜻蛉日記』に載る後に摂政を務めた藤原兼家と作者藤原道綱母との妻問い前の相聞歌です。つまり、兼家は一生懸命に藤原道綱母なる女性を口説いている時の恋文とその返事です。この時の状況を説明しますと、本人以外の女家族全員は藤原兼家が妻問うことを許しており、既に返事を出すのを渋る藤原道綱母に為り変わって歌を返すようなことをしています。その妻問う前に兼家がこれから妻問う女性本人からの返歌を求めた時の相聞です。ただし、この時、兼家には清和天皇の孫である源兼忠の娘(四世王格)が正妻として嫁いでいましたから、格式では藤原道綱母は下となります。そのためか、藤原道綱母の返歌は気位の高いものとなっています。

藤原兼家
鹿の音も聞こえぬ里に住みながらあやしくあはぬ目をもみるかな
藤原道綱母
高砂の小野辺(をのへ)わたりに住まうともしか醒(さ)めぬべき目とは聞かぬを

藤原兼家
逢坂の関や何になり近けれど越えわびぬれば嘆きてぞふる
藤原道綱母
越えわぶる逢坂よりも音に聞く勿来(なこそ)をかたき関と知らなむ

 さて、ご存知のように『源氏物語』は物語本ですから、ここから恋文歌として相聞恋歌を取る訳にもいきません。また、『古今和歌集』などの平安時代の和歌集には「恋歌」のジャンルはありますが、恋をテーマにした男女の「相聞歌」となるものはありません。それらの歌集に載る恋歌は、作歌での約束の中での想像の歌であって、現実に相手の顔や姿を心に浮かべて作歌したものではありません。逆にそれが歌会歌のルールです。ですから、その約束の世界から抜け出すために平安時代の女性たちは、恋する相手の顔や姿を心に浮かべて「日記」や「物語」を作らなければならなかったのでしょうし、紫式部たちが理想とする恋愛の歌が載る『万葉集』、それも人麻呂歌集に載る相聞歌を愛した所以かもしれません。感覚として平安女性たちは人麻呂歌集に男女の本当の恋愛を見たと想像します。
 そうした点では、万葉時代の女性が、一番、自由であったかもしれません。一つには妻問い婚の風習から家産は女系相続が基本でしたし、子は母親だけでなく、その女系家族全体で育てるのが基本です。そして、日本の良さは儒教を上辺だけで取り入れ、社会に取り入れなかったことにあります。そのため、女性が教育を受けることに対し社会的な忌諱は無く、女性の漢字・漢文に対する障害は無かったようです。現在もなお平仮名が女手と云うように漢字・漢文に弱い女性向けの文字であるとの迷信がありますが、清少納言や紫式部の時代、『紫式部日記』にも載るように宮中女房に抜擢されるような女性は漢字・漢文の素養は必修でしたし、男性以上に使いこなせる女性はたくさんいました。また、そうでなければ、宮中行事の式次第や変体仮名で書かれた日常での文章は読めませんし、古典文学もまた読めません。それ以前であれば、平仮名と云う文字はまだありませんから、宮中女房生活をするのであれば、漢字・漢文の識字能力を欠くことはできません。つまり、万葉時代、都市生活を送る貴族階級の女たちには恋愛を謳歌する素地は整っていたのです。この背景からか、女性が漢字・漢文の素養を持つ分、日本では後宮秘書や庶務に宦官のような特殊な男性を用意する必要はありませんでした。
 このような時代の恋文を『万葉集』の中から紹介します。歌は相聞歌の中でも特に問答と分類されるような男女の二首相聞の恋歌で、相思相愛の男女が交わす和歌の恋文です。
 最初は人麻呂歌集から紹介します。歌に示すように男女は相思相愛の関係ですが、女性は宮中女官ですし、男性は朝廷に出仕する官人です。日々、逢える状況でもありませんし、同居する仲でもありません。そうした時、歌は雰囲気的に若い男女の会話のような恋文の様相を見せています。まず、宴などで披露する歌ではありません。

集歌2508 皇祖乃 神御門乎 衢見等 侍従時尓 相流公鴨
訓読 皇祖(すめろき)の神し御門を衢(みち)見しと侍従(さもら)ふ時に逢へる君かも
私訳 皇祖の神の御殿で、通路を見張るためにお仕えしている時の、その時だけに、お目に懸かれる貴方ですね。
注意 原文の「衢見等」の「衢」は、一般に「懼」の誤字として「懼(かしこ)みと」と訓みます。ここでは原文のままに訓んでいます。

集歌2509 真祖鏡 雖見言哉 玉限 石垣渕乃 隠而在孋
訓読 真澄鏡(まそかがみ)見とも言はめや玉かぎる石垣淵(いはがきふち)の隠(こも)りし麗(うるわし)
私訳 見たい姿を見せると云う真澄鏡、その鏡に貴女の姿を見て、逢ったと語れるでしょうか。川面輝く流れにある岩淵が深いように、宮中の奥深くに籠っている私の艶やかな貴女。

 次に紹介する歌は先の人麻呂歌集の二首相聞歌より、男女の関係は進んでいる雰囲気があります。仮に宮中での宴で交わされた歌としても、女性は非常に男性に対して好意を抱いていますから、この歌が交わされるまで恋仲でなかったとしても、その夜の男女関係が想像出来そうな女性からの返歌ですし、応諾歌の雰囲気があります。

集歌2812 吾妹兒尓 戀而為便無 白細布之 袖反之者 夢所見也
訓読 吾妹子(わぎもこ)に恋ひてすべなみ白栲し袖返ししは夢(いめ)そ見えきや
私訳 愛しい貴女に恋しても逢えず、どうしようもないので、白い栲の夜着の袖を折り返して寝たのを、貴女は夢にきっと見えたでしょう。

集歌2813 吾背子之 袖反夜之 夢有之 真毛君尓 如相有
訓読 吾(あ)が背子(せこ)し袖返す夜し夢(いめ)ならしまことも君に逢ひたるごとし
私訳 私の愛しい貴方が白い栲の夜着の袖を折り返した夜の夢なのでしょう。だから、まるで、夢の貴方は実際にお逢いしたようでした。

 最後になりますが、次の歌を紹介します。歌は親密で長い男女関係が前提です。昨日今日の関係ではありません。どこかの宴で詠われた歌としても、女性は男性の歌に対して、貴方と私とは昨日今日の関係ではないけれど、艶聞豊富な貴方は私との間が御無沙汰ですよと、詠っていますから、先の歌と同じように女性が相手の男性に対して持つ好意を想像させます。
 一見、しっぺ返しのようですが、男性の歌は襟元から覗く色を見たのか際どいのですが通り一遍のようにも窺え、女性との関係の深度までは詠っていません。ところが、女性が詠う返歌は閨での二人の行為を想像させるようなものですし、今、襟元から覗かせている色と閨で見せる色とは違うことを匂わせています。そこには、その夜の二人がどのようになったかを想像させるものがあります。

集歌2828 紅之 深染乃衣乎 下著者 人之見久尓 仁寳比将出鴨
訓読 紅(くれなゐ)し濃(こ)染(そめ)の衣(きぬ)を下し着(き)ば人し見らくににほひ出でむかも
私訳 貴女の紅色に濃く染めた衣を下に着たら、人が私の姿をじっと見つめる時に、その下着の色が透けて見えるでしょうか。

集歌2829 衣霜 多在南 取易而 著者也君之 面忘而有
訓読 衣(ころも)しも多くあらなむ取り替へに着ればや君し面(おも)忘れたる
私訳 下着と云っても、それをたくさん持っているからでしょうか。後朝の別れに下着を取り換えて着た貴方ですが、相手の女性の面影(=交換した下着の色)を忘れていますよ。

 参考として、一見、男女の恋の相聞歌のようですが、そうではない歌を紹介します。次の歌は宮中か、貴族の邸での宴に詠われた歌と思われます。ただし、現代語訳が示すように、宴会で男性が女性に対して「紐」と云う言葉が持つ男女関係での約束事から「貴女と私は夜を共にする仲」を前提に歌を詠い掛けていますが、対する女性はその「紐」を男女関係の約束事を示す言葉ではなく、物理的な物として歌を詠い返歌としています。歌は男性の歌に対して、女のたしなみとして裁縫道具は持っているが、貴方とは恋仲では無いと頓知で遣り込めた形となっています。宴では、ここで大笑いとなるようなもので、宴の後のその二人の関係を予感させるものではありません。そこが、先に紹介した相聞の恋歌との違いです。ちょっとこれでは恋文にはなりません。

中臣朝臣東人贈阿倍女郎謌一首
標訓 中臣朝臣東人の阿倍女郎に贈れる歌一首
集歌515 獨宿而 絶西紐緒 忌見跡 世武為便不知 哭耳之曽泣
訓読 独(ひと)り宿(ね)て絶えにし紐をゆゆしみと為(せ)むすべ知らに哭(ね)のみしぞ泣く
私訳 今、独りで夜を過ごし、貴女との夜の営みが絶えていると、貴女と操を誓ったのに取れてしまった衣の紐がはばかられると、どうしていいのか判らなくて恨めしく泣いています。

阿倍女郎答謌一首
標訓 阿倍女郎の答たる歌一首
集歌516 吾以在 三相二搓流 絲用而 附手益物 今曽悔寸
訓読 吾が持てる三相(みつあひ)に搓(よ)れる糸もちて附(つ)けてましもの今ぞ悔しき
私訳 衣の紐が取れたことを気にして下さるな。私が持っている丈夫な三つ縒りの糸で縫い付けてあげればよかったのに、今になって悔やまれます。

 今回は中国と日本との古代の恋文を紹介しましたが、鑑賞において好きなのは、やはり、『万葉集』のものです。そこには男女相互での尊敬と自立があり、対等の人間としての雰囲気があります。その分、歌には相思相愛の柔らかく、それでいて、艶色が漂います。日本のものでも平安、鎌倉と時代が遷るにつれ女性の社会的地位が変わり、それが和歌交換にも現れて来ています。こうしますと、日本の万葉時代の女性たちは、世界でも稀な立場を与えられた人たちだったのかもしれません。
 ただし、女性史などを研究される方々に万葉集の本来の世界を理解して頂いていないような気がするのが、残念であります。
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今日のみそひと歌 金曜日

2013年09月27日 | 万葉 みそひと謌
今日のみそひと歌 金曜日

集歌3871 角嶋之 迫門乃稚海藻者 人之共 荒有之可杼 吾共者和海藻
訓読 角島(つのしま)し瀬戸の稚海藻(わかめ)は人し共(むた)荒(あら)かりしかど吾れとは和海藻(にぎめ)
私訳 角島の瀬戸の若女(わかめ)は他人と一緒だと荒々しいのだが、私と一緒だと柔かい若女(わかめ)です。

集歌3872 吾門之 榎實毛利喫 百千鳥 々々者雖来 君曽不来座
訓読 吾が門(かと)し榎(え)し実もり食(は)む百千鳥(ももちどり)千鳥(ちどり)は来れど君ぞ来まさぬ
私訳 私の家の門にある榎の実をついばんで食べるたくさんの千鳥。その千鳥は来ますが貴方はきません。

集歌3873 吾門尓 千鳥數鳴 起余々々 我一夜妻 人尓所知名
訓読 吾が門(かと)に千鳥しば鳴く起よ起よよ我(われ)一夜妻(ひとよつま)人に知らゆな
私訳 私の家の門に千鳥がしきりに鳴く、「きよきよよ(起きろ起きろ)」と。私は貴方の一夜妻、人に気づかれないで。

集歌3874 所射鹿乎 認河邊之 和草 身若可倍尓 佐宿之兒等波母
訓読 射(い)ゆ鹿(しし)を認(つな)ぐ川辺し和草(わかくさ)し身し若(わか)かへにさ寝(ね)し子らはも
私訳 弓で射られた鹿を探して見つけた川辺の柔かい草がまだ若いように、まだ初々しいけど私と共寝したあの児は。

集歌3876 豊國 企玖乃池奈流 菱之宇礼乎 採跡也妹之 御袖所沾計武
訓読 豊国し企救(きく)の池なる菱し末(うれ)を摘むとや妹し御袖(みそで)濡れけむ
私訳 豊国の企救にある池に育つ菱の先を摘んだのでしょうか、愛しい貴女の袖が濡れている。
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今日のみそひと歌 木曜日

2013年09月26日 | 万葉 みそひと謌
今日のみそひと歌 木曜日

集歌2942 吾兄子尓 戀跡二四有四 小兒之 夜哭乎為乍 宿不勝苦者
訓読 吾が背子に恋ふとやあらし小児(をさなこ)し夜泣きをしつつ寝(ゐ)ねかてなくは
私訳 私の愛しい貴方の姿を乞い求めているからでしょう。幼子のように夜泣きをしながら、寝ようにも眠れないのは。

集歌2943 我命之 長欲家口 偽乎 好為人乎 執許乎
訓読 我(われ)し命(よ)し長く欲(ほ)しけく偽(いつは)りを好(よ)くする人を執(とら)ふばかりを
私訳 私の命は長くあって欲しいものです。嘘ばかりつく人を捕まえ懲らしめるために。

集歌2944 人言 繁跡妹 不相 情裏 戀比日
訓読 人言(ひとこと)し繁(しげ)みと妹し逢はずして心しうちに恋ふるこのころ
私訳 人の噂話をうるさいからと、愛しい貴女に逢わないで、心の内で恋い焦がれる、この頃です。

集歌2945 玉桙之 君之使乎 待之夜乃 名凝其今毛 不宿夜乃大寸
訓読 玉桙し君し使(つかひ)を待ちし夜のなごりぞ今も寝(ゐ)ねぬ夜の多(おほ)き
私訳 貴方がやって来ると云っていた夜の、立派な桙を立てる官路をやって来る貴方の使いを待っていた夜の、その心残りです。今も、その待っていたことを思い出すと寝られない夜が多いことです。

集歌2946 玉桙之 道尓行相而 外目耳毛 見者吉子乎 何時鹿将待
訓読 玉桙し道に行き逢ひに外目(よそめ)にも見ればよき子を何時(いつ)とか待たむ
私訳 立派な桙を立てる官路で行き逢って、遠くからみてもかわいい娘を、自分の恋人にする日は、何時だろうかとその恋を期待している。

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