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竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 八三 公廨稲(くがいとう)から万葉社会を考える

2014年09月27日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 八三 公廨稲(くがいとう)から万葉社会を考える

 今回は、特殊で聞き慣れない言葉、「公廨稲」と云うものから『万葉集』を鑑賞してみたいと思います。この「公廨稲」とは官が保有する稲種を農民に貸出、その貸し出した稲種に利子を取り、税収の一部としたことを意味します。天変地異などにより耕作の稲種を失った農民救済での稲種貸し出しは「公出挙」と云いますが、救済よりも営利目的が主体のものを「公廨稲」として特別に区分します。制度としては聖武天皇の天平十七年から正式に施行されています。

 視線を変えまして、一般に奈良時代の人々の暮らしぶりを『万葉集』巻五に載る山上憶良が詠う「貪窮問答」から、日々の食事もままならなかったほどの困窮した生活と紹介します。ただし、この説明は「貪窮」の言葉を一字換字して「貧窮問答」として「ビングウ」と訓む特別な解釈であり、もし、原文通りに「貪窮問答」の言葉を仏教用語の中国語訳である「ドングウ」と訓む場合は、まったく、違った解釈になります。
 ご存知のように、仙覚系万葉集写本(紀州本など)では「貪」の文字を使い、現代の校本万葉集では「貧」の文字をつかいます。その冠の部分が「今」と「分」の違いがあります。仏教の教えに従い「足ることを知らない底知れぬ欲望」との戒めを守るか、「貧乏に窮まった」と解釈するかの根本的な立場の違いがあります。当然、奈良時代の聖武天皇以降の特権を与えられ贅を尽くした僧侶や貴族が「仏教の教えに従い、欲を貪り、窮めるな」との戒めを守り、仏教説話である山上憶良が詠う「貪窮問答」をそのように解釈するかは、疑問です。その反映か、現在の解釈は平安時代以降の解釈である「ビングウ」と訓む立場から行われています。実に色眼鏡です。
 仏教ではその人のために特別に調理された食事を施しとして受け取ってはいけないとします。「貪窮問答」が詠う世界は、筑前国司である山上憶良のために夜が明ける前から人々が起き出して、甑で蒸した「ハレの日」のものである強飯の特別食を準備する様です。憶良は建前上の仏教徒(奈良時代の官僚は建前として仏教徒)としてはそれが「恥ずかしい」と感じ、一方、地方視察をする国司としてはその食事準備を当然としなければいけないとも思う、この感情の板挟みにあります。「貪窮問答」の歌には農民の貧困などは詠われてはいません。本来の根本仏教を詠うものです。

 さて、以前に奈良時代の庶民はどのようなものを食べ、いかに生活して来たかは、弊ブログ「庶民は何を食べていたのか」で考えを述べさせて頂きました。今回は、律令政治の税制からこの方面を眺めてみたいと思います。ただ、ブログの趣旨は『万葉集』の鑑賞ですから、守備範囲は持統天皇朝から元正天皇朝に絞らせて頂きます。古代史では、ちょうど、人口急増と社会資本の蓄積が急激に進んだ時代に相当します。なお、人口動態研究者によりますと、この後、聖武天皇の治世頃から統治悪化を起因として全国的な耕地管理の乱れが出始め、平安時代へ向けて農業生産量減少と人口減少の時代へと入るようです。現代でもそうですが文化と経済とに関係が見られるように、古代でも『万葉集』の全盛期と社会情勢の全盛期とが重なると云う現象があったようです。面白いものです。
 その律令制度での税制である租庸調に注目しますと、班田収授法に基づく地税に相当する収穫物に対する直接税は「租」です。一般にこの租税の税率は日本古来の風習である神道の出穂料に相当する税率約3%前後であったと説明されます。ちなみに、庸税は農作業で要求される水路・圃場整備での共同作業に相当し、調税は古代での支配者への貢に相当するものです。このように眺めますと、租庸調は大陸からの律令体系に基づく新しい税体系のように思われますが、その内実は日本古来の農村の慣習に従う税体制の一面もあります。そのためでしょうか、藤原京時代に新規に導入・施行された班田収授法と租庸調の税制が反乱や動乱と云う社会現象を伴うこともなく、また、朝廷軍による全国武力制覇と云うこともなく、全国規模で導入が成されています。これは日本独特の特徴で、諸外国では見られないものです。
 その租税率について見てみますと、平安時代初期に整備された『令集解』では奈良時代の租税税率を次のように紹介しています。

慶雲三年九月十日格云。(令集解)
准令、田租一段租稲二束二把、歩以之方内五得尺米為一歩升、町租稲廿二束。
令前租法、熟田百代租稲三束、歩以之方内六得尺米為一歩升、町租稲十五束。
右件二種租法。束數雖多少輸實猶不異、而令前方六尺升漸差地實。
遂其差升亦差束實。是以取令前束擬令内把、令條段租其實猶益。
今斗升既平。望請、輸租之式折衷聴勅者。
朕念、百姓有食萬條即成、民之豊饒猶同充倉。
宜収段租一束五把、町租十五束。主者施行。

 紹介しました「格」によると、大宝律令体系で規定される租税は国税相当の田租税が一段当たり稲二束二把と地方税相当の町租税が稲廿二束です。ところが、慶雲三年九月十日の勅令によりますと従来の租税は熟田百代当たり田租税が稲三束と町租税が稲十五束となっていました。これが古くからの慣例だったようです。ところが、大宝律令では大陸から新しい尺貫法が導入され面積と升容量の定義が変わったため新旧の税率を直ちに比べることは困難ですが、この文章からすると新税率の方が農民にとって重かったようです。このため、租税を納める農民の不満を解決するため、国税相当の田租税が新しい尺貫法による田一段当たり稲一束五把、地方税相当の町租税が稲十五束へと低減・調整されています。当時の水田の穀物生産量は田の地勢の優劣で上田は五百束、中田は四百束、下田では三百束と規定されていましたから、総合想定税率を単純計算しますと上田では3.3%、中田では4.1%、下田では5.5%の税率となります。ただ、実際は班田収授での不公平をなくすために収穫量により租税調整が為されていましたから、おおむね、持統天皇朝から元正天皇朝までの統治期間での平均的な租税率は3.5%程度であったと思われます。こうしてみますと、当時の耕作収穫物の大半は農民の手に残されていたことになります。江戸期の農民のように為政者によって収穫物の四割から五割ものが簒奪をされていた訳ではありません。農民は必ず貧困であって欲しいと云うイメージと実際の相違がここにあります。参考として町租税として収納された穀物は地域内に保管され凶作時には救荒米として一部が供出されましたから、農民にとっては不満の募るような税制ではなかったと思われます。
 さらに驚くべきことはこの3.5%程度の軽い租税であっても、元正天皇朝までの統治期間を通じて政府・行政側には余剰が生じていたようです。その状況を説明するものが公廨稲と云う言葉を説明するものの中にあります。それが次の文章です。

<解説>
天平17年(745年)、大国40万束・上国30万束・中国20万束・下国10万束(ただし、飛騨国・隠岐国・淡路国は3万束、志摩国・壱岐国は1万束とされた)を正税から分離して出挙し、その利稲(収益)で官物の欠失未納を補填し、残りを国司の収入とした。それ以前については公田の地子稲を充てたり、国司に無利子で官稲を貸し与えたりして、これを出挙に準じて運用(「借貸」)させていたと考えられている。なお、公廨稲導入の主な目的については、国司の給与を確保する目的とする見方と、官物の不足分を補うことが目的であったとする見方が対立している。

 この説明から判るように天平十七年段階では、正税(租税としての穎稲)として保管されてあったものから一部を分離して、農民への貸出用の稲種を確保するだけの十分なる余裕がありました。およそ、それは最低限、年度を通じて行政を運営する費用となる租税備蓄以外に大国40万束・上国30万束・中国20万束・下国10万束を「出挙」の原資に拠出することが可能な蓄えです。当時、租税に対して帳簿上の収支での欠損は確かにありましたが、それでもまだ、貸し出しに用する余裕は十分にあったと云うことです。
 ここで、天平十七年から正式に始まった「公廨稲制度」での出挙と利稲の言葉について、解説を紹介しますと、次のようになっています。

<解説>
稲粟の出挙は、主に農村部において盛んに行われた。元々、稲粟の出挙には、天武天皇四年四月の詔に示すように百姓の救済や勧農といった意味合いがあった。律令の雑令の規定では私的貸借の私出挙で満年利100%、公的貸借の公出挙でも満年利50%の利率とし、未返済利息への複利計算は禁止されていた。
天候不順や無知な農民への複利適用などに起因する公出挙や私出挙に対する返済で百姓が疲弊し始めたことを知った朝廷は、720年(養老4)3月、公出挙の利子率の低減(年利50%→30%)、私出挙の利子率(年率100%)や複利禁止の厳守、そして養老2年以前に生じた全ての公出挙や私出挙の債務の免除を決定し諸国へ通知し、これを按察使の監察項目とした。しかし、この通達は徹底することなく多くの地域で公出挙の利子率は50%のままであった。制度上では737年(天平9)9月に私出挙の禁止の通知が出されたがこれも不徹底に終わった。
律令上、租税の中でも正税は、地方機関(国府や郡家)の主要財源とされていたが、正税徴収には戸籍の作成、百姓への班田など非常に煩雑な事務を必要としていた。しかし、公出挙であれば、繁雑な事務を行わなくとも多額の収入を確保することができたので、行政監察が乱れ出すと地方機関の多くは百姓に対する強制的な公出挙を行い財源としたのである。このように、公出挙は租税の一部として位置づけられるようになった。つまり、国府や郡家などの地方機関は春になると正税(田租)の種籾を百姓へ強制的に貸与し、秋になると50%の利息をつけて返済させるようになった。この利息分の稲を利稲(りとう)という。
更に745年(天平17年)の国司の給与の財源として「公廨稲」が正税から分離されて、出挙の運用原資として用いられるようになった事で出挙と国司の収入が直接関係するようになると、むしろ公出挙は益々盛んになった。さらに一部の国司や郡司にこの公出挙を私出挙と偽り、さらなる高利で不当な利益を得る者も現れた。

 この解説にありますように「出挙」は農業活動において、気象環境からの凶作を乗り切るには必要な制度です。適切な水田農地と労働力が確保されている場合、水稲栽培は非常に生産性の高い農作物です。そのため、災害で稲種を失った農民が耕作農地面積に見合う分量の稲種を利率50-100%で借り受け、水稲栽培を行うことは非合理な高利ではありません。ここで、理解の補助として稲種と収穫量との関係を研究したものを紹介しますと、

イネの研究者、池橋宏は、中世ヨーロッパではムギの播種量に対する収穫量の割合は4倍であり、これに対して日本の奈良時代の稲作では25倍であったと、史料を分析しています。;「〈かごしまフォト農美展〉に見る水土の知」(門松 経久)より引用

となっています。発芽率(50%程度)を考慮しても借り入れ稲種に対して10倍以上の収穫は期待できるのではないでしょうか。「出挙」と云う制度は農民たちが厳しい自然環境の中に生きて行く上で生まれた生活の知恵です。説明しますと、中田とランク付けられた田の所有者は耕地面積から一段当たり30束程度の稲籾を借り受ければ十分に耕作が出来ますし、秋には400束ほどの稲穂の収穫が期待できます。返済は公出挙の場合は利子を含め45束です。手元には355束の稲穂が残ることになります。ここから租税を引いても約340束の稲穂が残ります。このように適切に運用がなされていれば農民救済策となります。ただし、このことは耕作農地面積に見合う分量の稲種を借り受けときだけの話です。強制的に100束もの稲籾を貸し出されたら大変なことになります。
 ところが、藤原氏が政権運営を本格的に始めた聖武天皇の時代から農民の暮らしは変わります。天平十七年に定められた「公廨稲制度」では、これを悪用する国守や郡司がいた場合、彼らは手持ちの稲種を強制的に公廨稲として「出挙」し、規定税収以上の利子収入があった場合は役人の収入にして良いことが制度として可能となりました。対する農民はその稲種の必要の有無に関わらず、つまり、それで農作業をして収穫があるかどうかに関わらず、最低限50%の利子を付けて返納する必要が生じたのです。ここに農村の疲弊が始まり、都市貴族の豪奢な生活の歴史が始まったのです。この天平十七年は聖武天皇の唯一の男子である安積皇子が急死(暗殺とも疑惑されている)した翌年で、政権運営は橘諸兄から光明皇后・藤原仲麻呂一派へと移って行った時代です。
 この天平より少し前、和銅年間から養老年間にかけて筑後国司と肥後国司とを兼務した道君首名と云う人物がいます。彼は善政を敷いたとして『続日本紀』に載せられた他、肥後国では神として祀られた人です。そして、彼と同時代人が「貧窮問答」を詠った山上憶良です。この元正天皇朝までの官僚たちと農村・漁村の人々の距離感は後の世代の人々とは違い、非常に近いものがあります。まだまだ、貴族や官僚の家族は旧来の生活基盤であった地域・農村から分離されてなくて、時に、在野で生活をしていた時代です。貴族・官僚の家族が在野で生活をしていたのでは、その地域の国司や郡司は、あまりでたらめな行政は出来なかったのではないでしょうか。それに元正天皇朝までは官僚は能力選抜が基本のようで、聖武天皇朝以降のように「蔭位」制度からの特定の氏族が役職を独占すると云う事態は起きていません。
 元正天皇朝ごろまでは貴族もまた地域・農村に基盤を持っていたと窺わせる歌が万葉集にはあります。それが次の大伴坂上郎女が詠う歌です。これらの歌からしますと坂上郎女は定期的に保有する荘園(庄や里)に出向き、直接に農作業などを指揮していたと推定されます。律令制度では五月と八月に十五日ずつの田假(でんげ)と云う農繁期の休暇制度があり、これが奈良時代では実際に運用されていましたから、まだまだ、農村と都市との分離は進んでいなかったと思われます。

<跡見庄>
大伴坂上郎女、従跡見庄、贈賜留宅女子大嬢謌一首并短謌
標訓 大伴坂上郎女の、跡見(とみの)庄(たどころ)より、宅(いへ)に留まれる女子(むすめ)の大嬢(おほをとめ)に贈賜(おく)れる謌一首并せて短謌
集歌723 常呼二跡 吾行莫國 小金門尓 物悲良尓 念有之 吾兒乃刀自緒 野干玉之 夜晝跡不言 念二思 吾身者痩奴 嘆丹師 袖左倍沽奴 如是許 本名四戀者 古郷尓 此月期呂毛 有勝益土
訓読 常世(とこよ)にと 吾が行かなくに 小金門(をかなと)に もの悲(かな)しらに 念(おも)へりし 吾が児の刀自(とじ)を ぬばたまし 夜昼(よるひる)といはず 念(おも)ふにし 吾が身は痩(や)せぬ 嘆(なげ)くにし 袖さへ沽(か)へぬ 如(かく)ばかり もとなし恋ひば 古郷(ふるさと)に この月ごろも ありかつましじ
私訳 あの世の常世にと私がいくのでもないのに、家の門口で悲しそうに見えた私の子供の貴女のことを漆黒の夜と昼とは問わずに恋焦がれると、私の体は痩せてしまった。逢えぬ嘆きのために袖までも涙で傷んでしまう。このように虚しく貴女を恋しく思っていると、故郷にこの一月も過すことはありえません。

反謌
集歌724 朝髪之 念乱而 如是許 名姉之戀曽 夢尓所見家留
訓読 朝髪し念(おも)ひ乱れて如(かく)ばかり汝(な)姉(ね)し恋ふれぞ夢に見えける
私訳 朝に髪が乱れるように思いは乱れて、このようにお姉さんの貴女が恋しがっているから、私の夢の中に見えたのでしょう。
右歌、報賜大嬢進謌也。
注訓 右の歌は、大嬢(おほをとめ)の進(たてまつ)る謌に報賜(こた)へり

<春日里>
獻天皇謌二首  大伴坂上郎女、在春日里作也
標訓 天皇(すめらみこと)に獻(たてまつ)れる謌二首  大伴坂上郎女、春日の里に在りて作れる
集歌725 二寶鳥乃 潜池水 情有者 君尓吾戀 情示左祢
訓読 にほ鳥(とり)の潜(かづ)く池水(いけみず)情(こころ)あらば君に吾が恋ふ情(こころ)示さね
私訳 にお鳥が水に潜る池の水よ、もし、人情があるなら貴方に私が人知れずお慕いする気持ちを示しなさい。

集歌726 外居而 戀乍不有者 君之家乃 池尓住云 鴨二有益雄
訓読 外(よそ)し居(ゐ)て恋ひつつあらずは君し家(へ)の池に住むいふ鴨にあらましを
私訳 遠くにいてただお慕い続けるくらいなら、貴方の家の池に住むと云う鴨になりたいものです。

<竹田庄>
大伴坂上郎女従竹田庄贈賜女子大嬢謌二首
標訓 大伴坂上郎女の竹田(たけたの)庄(たところ)より女子(むすめ)の大嬢(おほをとめ)に贈賜(おく)れる謌二首
集歌760 打渡 竹田之原尓 鳴鶴之 間無時無 吾戀良久波
訓読 うち渡す竹田(たけだ)し原に鳴く鶴(たづ)し間(ま)無く時(とき)無し吾が恋ふらくは
私訳 広々と広がる竹田の野原に啼く鶴の声が間無く時を択ばず聞こえるように、間無く時を択ばず私は貴女を心に留めています。

集歌761 早河之 湍尓居鳥之 縁乎奈弥 念而有師 吾兒羽裳可怜
訓読 早河(はやかは)し瀬に居(ゐ)る鳥し縁(よし)を無み念(おも)ひてありし吾が児はもあはれ
私訳 流れの早い川の瀬に居る鳥のように、こちらから逢う機会は無いものと思っていました私の貴女(わが子)よ、実に心残りです。


 班田収授の制度解釈としては難しいのですが、貴族・官僚たちはまだまだ旧来からの相続された荘園を持ち、自らが赴き、その荘園を経営していたと思われます。農業は地域が一体となり水利管理や病害虫・野獣対策を行う必要がある産業です。地域の農地が荒廃し農民が逃げ出すようでは、貴族・官僚たちの持つ農地にも影響が及びます。そうした時、自己の小作人だけは面倒を見るが、地域の農民の面倒は見ないと云うことが出来たでしょうか。これは疑問です。功利的に自己の農地と収益を守るために、地域と人々に庇護を与えたのではないでしょうか。
 その時、餓死者や逃亡多発と云うような事態は起きたのでしょうか。

 参考に奈良の都からそれほど離れていないと思われる大伴稲公の持つ跡見庄で開かれた宴会での歌と同じく大伴家持が持つ荘園で開かれた宴会での歌を紹介します。農村ですが貴族が同僚を呼び、風流の宴会をする様がありますから、周辺の地域・農村が荒廃していたとは想像が出来ません。

<大伴稲公の例>
典鑄正紀朝臣鹿人至衛門大尉大伴宿祢稲公跡見庄作謌一首より
標訓 典鑄正(てんちうのかみ)紀朝臣(きのあそみ)鹿人(しかひと)の衛門大尉(ゑもんのだいじょう)大伴宿祢稲公(いなきみ)の跡見庄(とみのたどころ)に至りて作りたる謌一首
集歌1549 射目立而 跡見乃岳邊之 瞿麦花 總手折 吾者将去 寧樂人之為
訓読 射目(いめ)立てて跡見(とみ)の岳辺(おかへ)し撫子(なでしこ)し花ふさ手折(たを)り吾(あ)は持ちて行く寧樂人(ならひと)しため
私訳 獣の跡を見つける射目を設ける跡見(とみ)の岳のほとりに咲く撫子の花、たくさん手折って私は持って行く。奈良の都で待っている人のために。
注意 旋頭歌です

<大伴家持の例>
三月十九日、家持之庄門槻樹下宴飲謌二首より
標訓 三月十九日に、家持の庄(たどころ)の門(かど)の槻(つき)の樹の下にして宴飲(うたげ)せし謌二首
集歌4302 夜麻夫伎波 奈埿都々於保佐牟 安里都々母 伎美伎麻之都々 可射之多里家利
訓読 山吹は撫でつつ生(お)ほさむありつつも君服(き)ましつつかざしたりけり
私訳 山吹は大切に育てましょう、このように貴方が身に付けられて、かざしにされたのですから。
右一首、置始連長谷
注訓 右の一首は、置始連長谷


 最後に天平年間から農民が苦しみ出したのは仏教が原因です。その源は聖武天皇・光明皇后による東大寺や全国での国分寺と国分尼寺の建立事業です。それ以前は鉱山開発、道路・港湾整備や河川・水利整備などの殖産興業への社会資本投資が中心でした。ところが、庶民の救済を忘れた仏教や宗教は消費の嵩を競うことだけが目的となります。それへの資本財の投資では生産基盤の整備にはつながりませんから、農村は疲弊し、人口減少へと陥って行きます。そして、同時に東大寺の大仏と云う世界最大の金銅仏を鋳造出来るほどの工業基盤は、やがて、自国で銅貨と云う通貨も鋳造出来ないほどに疲弊してしまします。それが晩期万葉集以降の世界です。
 現代の偉大なる観光資源に悪口を云う人はいません。ただ、一般の説明と『万葉集』が詠う世界とは少し相違があるようです。大伴旅人や山上憶良の時代までの『万葉集』の世界には豊富な食料の下、男女が愛を語らい、結果、子を産み増やすと云う明るさがあります。そのような庶民を含めた時代の明るさを楽しむ必要があります。
 偉大な聖武皇帝陛下は光明皇后・藤原仲麻呂が政治の実権を握った時、「公廨稲制度」と云う貴族・官僚が庶民を消費すると云う手段を日本で初めて発明し、実行しました。そして、この発明は姿を変え、進化しながら明治維新まで続きます。為政者からみると実に偉大な政治家です。
経済からみると、このような見方があります。
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万葉雑記 色眼鏡 八二 東国、別れ歌を鑑賞する

2014年09月20日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 八二 東国、別れ歌を鑑賞する

 古代社会を想像する時、有名な社会制度に律令体制とそれを支えた租庸調の税制がありました。古代では地税に相当する租税は3%程度のものでしたから、農作物への課税は江戸期に較べると軽微なものでしたし、納税先は原則として同一行政区内の近隣の神社の蔵(社倉)や官衙の蔵です。(なお、ここでは元明天皇朝頃までのこととします。聖武天皇朝以降の強制的な出挙による農作物の搾取を行っていないことが前提です。)
 一方、人頭税に相当する庸税や調税は律令制度では際立った存在です。庸税は現在でも地方農村で存在する寄合共同作業に類似するもので水を利用する稲作農業では、ある種、必要悪である強制的な共同労働供給を要請される税です。他方、調税は役所から指定された物品・特産物を性別・年齢を基準に割り当てられた必要量を整えて、指定された場所に納入する必要のある税です。古代の風習では支配者に対する「貢」に相当するもので、この調税に応じるのが大変だったのではないかと想像します。調税の対象となる物品や特産物は官衙で取り纏められ、それを庸税として召集された人々が運脚として政府が指定した場所にまで運搬し、同行する地方役人が納入先で納税手続きをします。この政府が指定する場所が大変です。おおよそ、奈良の都が指定されます。つまり、良民に位置付けられた人々には地方から奈良の都まで運搬する義務があったと云うことになります。
 なお、一部の学説として養老律令の規定文章中に唐令に示される「車舟」の文字が無いことを根拠に調税納付は人力運搬のみによる方法だったと指摘するものがあるようです。ただし、調税納付に船や馬も使ったことは『延喜式』に載る規定からの推定や『続日本紀』の記事にもありますから、当時も、一番確実で最も経済的な運搬方法を採用して物品の輸送を行っていたものと思われます。ここで、古代の資料や『万葉集』の歌を鑑賞する時、当時の人々の平均寿命は四十歳以下であり、一度、病気や傷害を受けると治癒することなく死亡することはまれではなかったことを知る必要があります。人はギョウチュウのような寄生虫でも死亡することもありますし、昭和時代までは学校での寄生虫検査は、ある種、風物詩でした。つまり、旅の道中で病死することの原因を特別な「旅」と云う重労働に一義的に帰結することは短絡であり、学問ではありません。農漁村での平均寿命・死亡原因などとの照合を経て、事故率などを比較検討するのが学問です。現在まで調税納付に関わる事故率と当時の平均寿命などの関係を研究した資料やそれを引用したものを浅学のため見たことがありません。

 さて、長い前置きをしました。本題に入ります。
 『万葉集』巻十四には、その東国の運脚集団(又は衛士)を率いる役人が奈良の都へ出発する時の、それを見送る女性の歌があります。それが集歌3457の歌です。
 この歌の表情は、従来の東国農民は租庸調の税制の重さに悲嘆していると解説するものとは違い、非常に明るいものを持っています。女性の感情では、自分の夫もまた他の男たちが行って帰って来たように無事に自分の許に帰って来ることを前提とするような雰囲気です。そして、他の男たちが里に帰って来て都の女たちを抱いたことを自慢するように、きっと、自分の夫も都の女たちを抱くであろうことを前提としています。その明るさを感じ取る必要があるようです。東国の運脚集団の一定の比率で都への道中で確実に死亡するであろうと云うようなものはありません。

集歌3457 宇知日佐須 美夜能和我世波 夜麻等女乃 比射麻久其登尓 安乎和須良須奈
訓読 うち日(ひ)さす宮の吾(わ)が背は倭女(やまとめ)の膝(ひざ)枕(ま)くごとに吾(あ)を忘らすな
私訳 日が射し照らす大宮に居る私の大切な貴方は、大和の女の膝枕を使うたびに、私のことを忘れないでね。

 集歌3457の歌に呼応するような歌が同じ巻十四にあります。それが集歌3532の歌です。鑑賞の仕方では奈良の都で都の女を抱いた後で、故郷に残して来た妻との閨での営みを思い出す風情があります。つまり、都の女がしてくれない、故郷の妻の性癖から来る肌が合うと云う景色です。そして、集歌3534の歌は、しみじみと懐かしさを詠うものとなっています。

集歌3532 波流能野尓 久佐波牟古麻能 久知夜麻受 安乎思努布良武 伊敝乃兒呂波母
訓読 春の野に草食(は)む駒の口やまず吾(あ)を偲(しの)ふらむ家の子ろはも
私訳 春の野で草の新芽を長く舌を延ばし食べる駒が常にもぐもぐと口を動かす。それを見ると、いつも話題に出して遠くに居る私を恋しく思っているでしょう、家に残した愛しい貴女よ。
注意 教室で歌を鑑賞しない場合は、この歌は「閨で妻が口と舌で夫のものを楽しむ」と鑑賞します。鳥の囀りではなく、舌を長く延ばして草を食む景色から妻を思い出したのがミソです。

集歌3534 安可胡麻我 可度弖乎思都々 伊弖可天尓 世之乎見多弖思 伊敝能兒良波母
訓読 赤駒が門出(かどで)をしつつ出(い)でかてにせしを見立てし家の子らはも
私訳 赤駒が家の門を出立するおりに、駒が行きしぶるのを見送ってくれた私の家に住むあの娘は、ああ、懐かしい。

 次に紹介する歌三首もまた巻十四に載る歌で、旅先から故郷の恋人を想う歌です。ただ、歌の内容からは直ちには旅先の状況が掴み難く、色々と旅先の様子を想像させられます。
 なお、不思議なのは、古代では道中の宿泊や食料の調達問題から旅立ちに際して相当な事前準備が要求されます。そのため、大げさに周囲に旅立ちを宣言する必要もなく、人々は誰が、何時、旅立つかは承知のことです。そのような状況ですが集歌3528の歌では「妹のらに物言はず来にて」とします。同様な表現は柿本人麻呂歌集の歌にも見つけることができますから、ある種、慣用句的な表現だったのでしょうか。それとも、「恋人に直接、二人だけで逢うと云う状況はなかった=恋人と別れの前夜に共寝をする暇がなかった」と云うことを暗示しているのでしょうか。このように、色々と想像させられます。
 色々と歌からは想像させられますが、現代の一般的な解説で「公共の要請での旅では行き倒れや病症死などがあり、人々は悲惨な生活だった」と云うものと違います。歌からは、旅人はその旅の目的地に着き、そこで故郷の恋人を恋しく詠い、さらにその歌を故郷に持ち帰り残されています。でもそこには生死をかけた苦難の旅と云う雰囲気はありません。そこも旅の歌としては不思議です。古代社会の研究者が示すものと万葉和歌が示す人々の生活には、なにか、ギャップがあります。

集歌3510 美蘇良由久 君尓母尓毛我母奈 家布由伎弖 伊母尓許等杼比 安須可敝里許武
訓読 み空行く国にもがもな今日行きて妹に事問(ことと)ひ明日帰り来(こ)む
私訳 大空を雲が流れ行く、あの雲の行き先が故郷だったらなあ。今日出かけて行って愛しい貴女に日頃の様子を聞き、明日には帰って来られるのに。

集歌3527 於吉尓須毛 乎加母乃毛己呂 也左可杼利 伊伎豆久伊毛乎 於伎弖伎努可母
訓読 沖に住(す)も小鴨のもころ八尺鳥(やさかとり)息づく妹を置きて来(き)のかも
私訳 沖に漂う小鴨のように八尺(=長い息)をする鳥。その鳥のように深い溜息をついた、あの娘を後に残して来てしまった。

集歌3528 水都等利乃 多々武与曽比尓 伊母能良尓 毛乃伊波受伎尓弖 於毛比可祢都母
訓読 水鳥の立たむ装(よそ)ひに妹のらに物言はず来(き)にて思ひかねつも
私訳 水鳥が飛び立つようなあわただしい旅立ちの準備で、愛しいあの娘に言葉も掛けずに旅立って来て、思いは切ない。

 一方、防人は近隣への御用の旅や運脚使役として奈良の都への往復であるのと違い、最低三年の期間の別離となります。そのため、防人たちが詠う歌の感情は今生の別れに等しいものがあります。ただし、その離別の旅や防人の任務に対して決死隊のような雰囲気があるかのと云うと歌にはそれがありません。当時の防人の離別は、ある種、現代の南極越冬隊の隊員の家族との別れに似たようなものではないでしょうか。

防人歌
標訓 防人(さきもり)の歌
集歌3567 於伎弖伊可婆 伊毛婆麻可奈之 母知弖由久 安都佐能由美乃 由都可尓母我毛
訓読 置きて行かば妹はま愛(かな)し持ちて行く梓の弓の弓束(ゆつか)にもがも
私訳 後に置いて行ってしまったならば貴女は、非常に愛おしい。貴女は持って行く梓の弓の弓束ででもあってほしい。

集歌3568 於久礼為弖 古非波久流思母 安佐我里能 伎美我由美尓母 奈良麻思物能乎
訓読 後れ居て恋ひば苦しも朝(あさ)狩(かり)の君が弓にもならましものを
私訳 後に残されここに居て恋焦がれることは苦しい。朝に狩りする貴方の弓にでもなれたら良いのに。
右二首、答
注訓 右の二首、答ふ

 参考として、この防人については「周防国正税帳」や「駿河国正税帳」の研究から難波と九州との往復は大船を使い、また、集結地からの往復の道中の食料は支給されたことが判明しています。また、任地では土地を与えられ、屯田兵のような形で自活していたようです。この屯田兵としての自活をベースに、時に現地の女性と家庭を持ち、結局、任地に土着し故郷に戻らなかった防人たちも多数、存在したようです。当然、当時の給与規定では中央から派遣される国守を含む行政官もまた現地で土地を与えられ耕作自弁することが要求されています。なにも防人だけが任地で耕作自弁するのではありませんでした。当然、歴史社会学者はこの社会規定を知っていますが、一般読者や学生はそれを知らないであろうとの前提で、あたかも防人だけが耕作自弁であったかのように説明します。実に色眼鏡です。

参考資料として新任国司等の官人に対する給粮の規定を紹介
養老八年正月二十二日格(『令集解』田令在外諸司条所引令釈);
凡新任外官、五月一日以後至任官、職田入前人。其新人給粮、限来年八月卅日。若四月卅日已前者、田入後人、功酬前入。即粮料限当年八月卅日。

意訳文
およそ新任外官の5月一日以降に任官に至るは、職田の生産物は前任人の収入に入れよ。その新たに任官した人には粮を給し、それは来年八月三十日までに限る。もし、四月三十日より前に任官の場合は、職田の生産物は後任人の収入に入れ、功酬による田からの生産物は前任人の収入に入れよ。新たに任官した人の粮料支給は当年八月三十日までに限る。

 補足情報として、天平十年の「周防国正税帳」の記録からは推定1800人余りの任期を終えた防人たちが大宰府那津から難波大伴湊まで無事に海上輸送で送り届けられていることが判明しますし、同様に同年天平十年の「駿河国正税帳」からは千人を越える還郷防人に食料を支給したことも読み取ることができます。こうしてみますと、一般的に紹介される防人像での、その帰赴任の食糧は自弁であり、現地では悲惨な生活を暮らしたと云うものは、どうも、当時の実情とは違っているようです。なにを根拠に帰赴任の食糧は自弁との説が誕生したのか、不思議です。また、『万葉集』の歌からも藤原京から平城京時代は九州那津から難波大伴湊、また、その大伴湊から伊豆国三島まで大船の運航があったことが窺われます。また、房州地域でも湊廻りの伝馬船に関する歌があります。

<瀬戸内海の海上交通>
柿本朝臣人麿下筑紫國時、海路作歌二首
標訓 柿本朝臣人麿の筑紫国に下りし時に、海路(うなぢ)にして作れり歌二首
集歌303 名細寸 稲見乃海之 奥津浪 千重尓隠奴 山跡嶋根者
訓読 名くはしき稲見の海し沖つ波千重に隠れぬ大和島根は
私訳 名が詳しく知られる稲見の海の、沖合の波よ。そのたくさんの波間に隠れてしまった。大和の山波が。

<東海道方面の海上交通>
田口益人大夫任上野國司時至駿河浄見埼作謌二首
標訓 田口益人(ますひと)大夫(まえつきみ)の上野國(かみつけのくに)の司(つかさ)に任(ま)けらえし時に、駿河の浄見埼(きよみのさき)に至りて作れる謌二首
集歌296 廬原乃 浄見乃埼乃 見穂之浦乃 寛見乍 物念毛奈信
訓読 廬原(あしはら)の清見(きよみ)の崎の三保し浦の寛(ゆた)けき見つつ物念(おも)ひもなし
私訳 廬原の清見の崎にある三保の浦が広々と豊かな様を眺めるいると、旅路の不安はない。

集歌297 晝見騰 不飽田兒浦 大王之 命恐 夜見鶴鴨
訓読 昼見れど飽かぬ田児(たご)浦(うら)大王(おほきみ)し御言(みこと)恐(かしこ)み夜見つるかも
私訳 昼に見ても見飽きることのない田児の浦よ。大王の御命令を畏まって承って、その田児の浦を夜に拝見します。

<房州地域の海上交通>
鹿嶋郡苅野橋別大伴卿謌一首并短謌
標訓 鹿嶋郡(かしまのこほり)の苅野(かるの)の橋にして大伴卿に別れたる謌一首并せて短謌
集歌1780 牝牛乃 三宅之酒尓 指向 鹿嶋之埼尓 狭丹塗之 小船儲 玉纒之 小梶繁貫 夕塩之 満乃登等美尓 三船子呼 阿騰母比立而 喚立而 三船出者 濱毛勢尓 後奈居而 反側 戀香裳将居 足垂之 泣耳八将哭 海上之 其津乎指而 君之己藝歸者
訓読 牝牛(ちちうし)の 官家(みやけ)し坂に さし向ふ 鹿島し崎に さ丹塗りし 小船(をふね)を設(ま)け 玉(たま)纏(まき)し 小梶(をかぢ)繁(しじ)貫(ぬ)き 夕潮(ゆふしほ)し 満ちの留(とど)みに 御船子(みふなこ)を 率(あとも)ひ立てて 喚(よ)び立たてて 御船(みふね)出(い)でなば 浜も狭(せ)に 後れ並み居て 反(こい)側(まろ)び 恋ひかも居(を)らむ 足(あし)垂(たり)し 泣(な)くのみや哭(ね)かむ 海上(うなかみ)し その津を指して 君し漕ぎ帰(い)かば
私訳 乳を採る牝牛を飼う官家のある坂に向かい立つ鹿島の崎に、丹を塗った官の使う小船を用意して、小さな梶を艫に取り付けて、夕潮が満潮になり、御船の水手達を引き連れ立て、呼び立てて、御船が出港すると、浜も狭いほどに後に残される人たちは並んで居て、悲しみに転げまわって貴方のことを慕うでしょう。寝転びて足をバタバタして泣くだけして貴方との別れを恨むでしょう。下総海上にある、その湊を目指して貴方が乗る船が漕ぎ行くと。

反謌
集歌1781 海津路乃 名木名六時毛 渡七六 加九多都波二 船出可為八
訓読 海(うみ)つ路(ぢ)の和(な)きなむ時も渡らなむかく立つ波に船出すべしや
私訳 海路を行くに凪である時を択んで渡るでしょう。このように波立っている波間に船出をするべきでしょうか。
右二首、高橋連蟲麻呂之謌集中出。

 やはり、「古代人、特に農民は悲惨な生活であった」との期待と要請からの色眼鏡を捨て、正しく資料を読み解き、『万葉集』の歌を鑑賞するのが良いのではないでしょうか。
 非常にバカバカしい話ですが、地方の物品を運搬する運脚集団が奈良の都への往復で要する食料の重量と運搬する物品の重量、それに対応する運搬手段や必要な運脚の人数、また、所要日数などを真面目に計算し、古代交通を研究したものはあるのでしょうか。遣唐使は約二十年の一度の行事ですが、調物の運脚は毎年のことです。毎年、全国規模での運営において多大な犠牲者を出したのでは、その制度自体が運営出来なくなることは中学生以上なら気が付くものでしょう。少なくとも、基本的な律令体制が持統天皇朝から聖武天皇朝までは確実に運営されていたことからすると非常に現代の古代史観は不思議です。そして、忘れてはいけないことに、『万葉集』に載る歌は基本的にこの律令体制が確実に運営されていた時代のものですし、その時代を反映しています。
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万葉雑記 色眼鏡  八一 類聚歌林を考える

2014年09月13日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡  八一 類聚歌林を考える

 現在、再び、山上憶良の「日本挽歌」を鑑賞しています。この記事はその再鑑賞に際して山上憶良を再確認するためのものです。このような背景があるために、以前に載せた記事の焼き直し的面がありますが、ご容赦を願います。
 さて、『万葉集』の重要歌人に山上憶良がいます。この山上憶良の人物像については歴史に登場する大宝元年(701)正月時点では「无位山於億良」とあるだけで、これ以前の経略については不明の人物です。現在までの研究では斉明天皇六年(660)の生まれで粟田朝臣一族の枝族に位置し、川嶋皇子に関係する史生ではないかとします。当然、大宝元年の遣唐使随員である「小録」に抜擢されるまでは経歴不明の人物の為、帰化人一家の子孫説など異説は数多く存在します。
 そうした時、山上憶良は『万葉集』の編纂に対して大きな影響を与えた『類聚歌林』を編纂しています。この『類聚歌林』はウキペディアでは次のように解説していますので、その理解を進める為に解説を紹介をします。

類聚歌林(るいじゅうかりん)は、歌集。正倉院文書、写私雑書帳に「六月(天平勝宝三年)三日来歌林七巻」とあり、もしこの「歌林」が『類聚歌林』をさすのであれば、7巻ということになる。山上憶良著、あるいは編纂か。成立年代不明、奈良時代前期か。『正子内親王絵合』、『和歌現在書目録』、『袋草子』など鎌倉時代以前の文献にその名が見える。現存しない。『和歌現在書目録』には「在平等院宝蔵」とあるから、平安時代末期までは存在していたと知れる。
その一部が『万葉集』巻一、巻二、および巻九の9箇所ばかりに引かれている。
文武天皇ころから以前の歌をあつめ、作者、歌作の事情を記し、同類歌を分類統一したものかという。「類聚」というから類纂的なものであったか。また、『和歌現在書目録』には「憶良臣伝旧聞、以集歌林」とあるから、考証的な内容をふくんでいたか。

 解説を紹介しましたが、『類聚歌林』が『万葉集』の編纂に影響を与えたことは『万葉集』に載る左注などから理解が出来ますが、その原本や写しが伝来しない為に『類聚歌林』と云う書籍については実に曖昧なものとなっています。
 他にこの『類聚歌林』の理解を進める為にインターネットを検索しますと、市瀬雅之氏の『「類聚歌林研究史」稿』(以下、『稿』)を見つけることが出来ます。この『稿』によりますと、今日の研究成果(平成四年時点)でも『類聚歌林』は山上憶良が編纂したであろうことは共通の認識になってはいるようでが、その内容、編纂された年代、目的などについては、依然、統一された見解はないようです。
 さて、歴史に於いて、山上憶良は養老五年(721)正月に東宮侍従に任命されています。『稿』によりますと『類聚歌林』の編纂時期と目的が、この東宮侍従の任命の理由の解釈により左右されます。憶良の歌人としての経歴を養老五年以前に置く人々は、東宮侍従に就任における東宮への教育テキストとして『類聚歌林』を編んだのではないかとし、その編纂内容も詩歌集の体裁を重視します。一方、憶良の遣唐使随員であった経歴や『万葉集』に載る彼の独特の歌の特徴から、『類聚歌林』編纂動機は中国の『藝文類聚』などに刺激を受けてのものであって、唐からの帰朝以降の慶雲四年(707)から伯耆守就任の霊亀二年(716)四月までの九年間に編纂され、その内容は詩歌だけに留まらず記事を含むものであったとします。それも朝廷に保管されていた資料を使ってのものであったため、憶良個人の編纂作業であったとしても、準公式のものであったとします。この説では『万葉集』の編纂者がその編纂に於いて躊躇なく『類聚歌林』から引用出来るのはこの「準公式のもの」であったためとします。このように色々な解釈と説があります。個人の感想としては、『万葉集』に載る憶良の作品の歌風からすると、彼は大和歌の歌人として東宮侍従に採用されたのではなく、漢識・学識や大唐事情通としての採用と考えます。つまり、『類聚歌林』は憶良の唐からの帰朝以降、伯耆守就任までに編まれた大和の詩歌史的な作品であったと考えます。
 ここで、万葉集に載る『類聚歌林』に関係する左注を紹介します。

集歌5より
幸讃岐國安益郡之時、軍王見山作謌
標訓 讃岐國の安益(やすの)郡(こほり)に幸(いでま)しし時に、軍(いくさの)王(おほきみ)の山を見て作れる謌
<左注>
右、檢日本書紀 無幸於讃岐國。亦軍王未詳也。但、山上憶良大夫類聚歌林曰、記曰、天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午、幸于伊豫温湯宮云々。一書云、 是時宮前在二樹木。此之二樹斑鳩比米二鳥大集。時勅多挂稲穂而養之。乃作歌云々。若疑従此便幸之歟。

注訓 右は、日本書紀を檢(かむが)ふるに讃岐國に幸(いでま)すこと無し。亦、軍王は未だ詳(つまび)らかならず。但し、山上憶良大夫の類聚歌林に曰はく「記に曰はく『天皇十一年己亥の冬十二月己巳の朔の壬午、伊豫の温湯(ゆ)の宮に幸(いでま)す、云々』といへり。一書(あるふみ)に云はく『是の時に、宮の前に二つの樹木在り。此の二つの樹に斑鳩(いかるが)・比米(ひめ)二つの鳥大(さは)に集まれり。時に、勅(みことのり)して多くの稲穂を挂けてこれを養ひたまふ。乃ち作れる歌云々』」といへり。若(けだ)し、疑ふらくは此より便(すなは)ち幸(いでま)ししか。

集歌7より
額田王謌 未詳
標訓 額田(ぬかだの)王(おほきみ)の歌 未だ詳(つばびら)かならず
<左注>
右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、一書戊申年幸比良宮大御謌。但、紀曰、五年春、正月己卯朔辛巳、天皇、至自紀温湯。三月戊寅朔、天皇幸吉野宮而肆宴焉。庚辰日、天皇幸近江之平浦。
注訓 右は、山上憶良大夫の類聚歌林を檢(かむ)がふるに曰はく「一(ある)書(ふみ)に戊申の年に比良の宮に幸(いでま)しし大御歌」といへり。但し、紀に曰はく「五年の春、正月己卯朔辛巳に、天皇、紀(きの)温湯(ゆ)に至る。三月戊寅朔、天皇の吉野の宮に幸(いでま)して肆宴(とよのほあかり)す。庚辰の日に、天皇の近江の平浦に幸(いでま)す」といへり。

集歌8より
額田王謌
標訓 額田(ぬかだの)王(おほきみ)の謌
<左注>
右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑、九年丁酋十二月己巳朔壬午、天皇大后、幸于伊豫湯宮。後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔丙寅、御船西征始就于海路。庚戌、御船、泊于伊豫熟田津石湯行宮。天皇、御覧昔日猶存之物、當時忽起感愛之情。所以因製謌詠為之哀傷也。即此謌者天皇御製焉。但、額田王謌者別有四首。
注訓 右は、山上憶良大夫の類聚歌林を檢(かむが)みて曰はく「飛鳥岡本宮の御宇天皇の元年己丑、九年丁酋の十二月己巳の朔の壬午、天皇(すめらみこと)大后(おほきさき)、伊豫の湯の宮に幸(いでま)す。後岡本宮の馭宇天皇の七年辛酉の春正月丁酉の朔の丙寅、御船の西に征(ゆ)き始めて海路に就く。庚戌、御船、伊豫の熟田津の石湯(いはゆ)の行宮(かりみや)に泊(は)つ。天皇、昔日(むかし)より猶存(のこ)れる物を御覧(みそなは)して、當時(そのかみ)忽ち感愛(かなしみ)の情(こころ)を起こす。所以に因りて謌を製(つく)りて哀傷(かなしみ)を詠ふ」といへり。即ち此の謌は天皇の御(かた)りて製(つく)らせしなり。但し、額田王の謌は別に四首有り。

集歌10より
中皇命、徃于紀温泉之時御謌
標訓 中(なかつ)皇命(すめらみこと)の、紀温泉(きのゆ)より徃へりましし時の御歌(おほみうた)
<左注>
右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、天皇御製謌云々。
注訓 右は、山上憶良大夫の類聚歌林を檢(かむが)がふるに曰はく「天皇(すめらみこと)の御(かた)りて製(つく)らしし謌、云々」といへり。

集歌17より
額田王下近江國時作謌、井戸王即和謌
標訓 額田王の近江國に下りし時に作れる歌、井戸王の即ち和(こた)へる歌
<左注>
右二首謌、山上憶良大夫類聚歌林曰、遷都近江國時、御覧三輪山御謌焉。日本書紀曰、六年丙寅春三月辛酉朔己卯、遷都于近江。
注訓 右の二首の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林に曰はく「都を近江國に遷す時に、三輪山を御覧(みそなは)す御歌(おほみうた)なり」といへり。日本書紀に曰はく「六年丙寅の春三月辛酉の朔の己卯に、都を近江に遷す」といへり。

集歌85より
磐姫皇后思天皇御作謌四首
標訓 磐姫(いはひめの)皇后(おほきさき)の天皇(すめらみこと)を思(しの)ひて御(かた)りて作(つく)らしし謌四首
<左注>
右一首謌、山上憶良臣類聚歌林載焉。
注訓 右の一首の謌は、山上憶良臣の類聚歌林に載す。

集歌199より
高市皇子尊城上殯宮之時、柿本朝臣人麿作歌一首并短哥
標訓 高市皇子尊の城上(きのへ)の殯宮(あらぎのみや)の時に、柿本朝臣人麿の作れる歌一首并せて短歌
<左注>
右一首類聚歌林曰、檜隅女王、怨泣澤神社之歌也。案日本紀曰、十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、後尊薨。
注訓 右の一首は類聚歌林に曰はく「檜隅女王の、泣沢神社を怨むる歌」といへり。日本紀を案(かむが)ふるに曰はく「十年丙申の秋七月辛丑の朔の庚戌、後尊(のちのみこと)薨(かむあが)りましぬ」といへり。

集歌1667より
大寶元年辛丑冬十月、太上天皇大行天皇幸紀伊國時謌十三首
標訓 大宝元年辛丑の冬十月に、太上天皇(おほきすめらみこと)大行天皇(さきのすめらみこと)の紀伊国に幸(いでま)しし時の歌十三首
<左注>
右一首、山上臣憶良類聚歌林曰、長忌寸意吉麿、應詔作此謌。
注訓 右の一首は、山上臣憶良の類聚歌林に曰はく「長忌寸意吉麿、詔(みことのり)に応(こた)へてこの歌を作る」といへり。

 さて、先に『類聚歌林』の編纂時期を慶雲四年(707)から霊亀二年(716)までの間と推定しました。一方、ここで紹介しましたように『万葉集』では『類聚歌林』に載る記事をのせ、その『類聚歌林』に載る記事には「記(古事記)」や「紀(日本書紀)」に載る記事を引用するものがあります。ところが歴史では『古事記』は和銅五年(712)の成立で、『日本書紀』は養老四年(720)の成立です。
 一見、先行する『類聚歌林』が後年の『日本書紀』の記事を引用すると云う不思議な現象になります。そのため、養老五年以前成立説を唱える人の中には『日本書紀』に先行する「紀」があったのではとします。では、本当にそうなのでしょうか、今一度、『万葉集』の関係する記事を見てみますと、次のようになっています。
 すると、集歌5の左注は前半の「右、檢日本書紀 無幸於讃岐國。亦軍王未詳也」と後半の「但、山上憶良大夫類聚歌林曰、・・・」とで区切られますますから、『類聚歌林』は『日本書紀』を引用しているとはできません。次に集歌7の左注もまた前半の「右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、一書戊申年幸比良宮大御謌」と後半の「但、紀曰、五年春、・・・」とで区切られますから、これも『類聚歌林』は『紀=日本書紀』を引用しているとは言えません。同様に集歌17の左注や集歌199の左注も二つの文章で構成されたものでありますので『類聚歌林』が『日本書紀』を引用しているとは言えないものです。およそ、『万葉集』の記事からは『万葉集』の編纂は『類聚歌林』と『日本書紀』とが成立した後に編纂されたとだけ言えるのみです。なお、『万葉集』の記事から強いて類推すると、『類聚歌林』には『記=古事記』の引用のみで『紀=日本書紀』の引用がないことを指摘しますと和銅五年(712)以降、養老四年(720)以前の成立ではないかと云う説を唱えることが本来ではないかと云う説を唱えることが出来ます。

集歌5より
右、檢日本書紀 無幸於讃岐國。亦軍王未詳也。但、山上憶良大夫類聚歌林曰、記曰、天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午、幸于伊豫温湯宮云々。一書云、 是時宮前在二樹木。此之二樹斑鳩比米二鳥大集。時勅多挂稲穂而養之。乃作歌云々。若疑従此便幸之歟。

集歌7より
右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、一書戊申年幸比良宮大御謌。但、紀曰、五年春、正月己卯朔辛巳、天皇、至自紀温湯。三月戊寅朔、天皇幸吉野宮而肆宴焉。庚辰日、天皇幸近江之平浦。

集歌17より
右二首謌、山上憶良大夫類聚歌林曰、遷都近江國時、御覧三輪山御謌焉。日本書紀曰、六年丙寅春三月辛酉朔己卯、遷都于近江。

集歌199より
右一首類聚歌林曰、檜隅女王怨泣澤神社之歌也。案日本紀曰、十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、後尊薨。

 以上のように原文を忠実に読みますと、従来の論点の論拠や論自体の成立に疑問が湧きます。これは万葉集研究において、『万葉集』に載る漢文・漢詩は解説がなくても一定水準の理解度で全員が訓み解き解釈できるとし、万葉仮名歌や漢詩体歌(略体歌)などは校訂された読み解きがなければ解釈が難しいと云うことが背景にあったからでしょうか。
 ここのブログにおいて折々の歌の鑑賞を通じて、少なくとも明治から昭和時代にかけての『万葉集』に載る漢文・漢詩の解釈には不安定なものや誤訳があるのではと指摘をしています。つまり、研究者であるから無理なく漢文・漢詩が解釈出来ていると規定することに無理があるのではないでしょうか。
 終わりに、山上憶良は川嶋皇子の関係者で、天武天皇時代から続く国史編纂に従事した書生や史生が元々の職務ではないかと云う説があります。その関係から遣唐使随員としての帰朝後も国史編纂に従事し、和銅五年(712)正月に古事記編纂の事業が成り一区切り着いた時、和銅七年(714)正月に正六位下から従五位下に特進し、さらに霊亀二年(716)四月に伯耆守として栄転したとの推理が可能ではないでしょうか。『類聚歌林』はある種の「記紀歌謡」の整備の一環で誕生した副産物的な詩歌集の書籍であったかもしれません。
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