竹取翁と万葉集のお勉強

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額田王を考える 身分の推定

2009年09月29日 | 万葉集 雑記
額田王を考える

万葉集を紹介する本を読むとき、不思議な解説があります。それは、万葉集の歌が標と歌がセットで同時に造られたとの前提条件で解説し、さらにそれを前提で論を展開するものがあることです。ところが、万葉集の大伴家持に関係する歌日記等の特殊な歌以外は、万葉集の目録、標、歌、左注はそれぞれ独立したものです。本来は、歌があり、編纂によって標と左注が付けられ、最後に目録が造られています。現代に伝わる万葉集では、その標や左注にも、後に書き入れが地文と扱われているものが存在することが推定されます。ここでは、標の表記法で歌の作られた年代や作歌者を推定するような特殊な推定は行いません。
また、額田王については、先に説明したように百済系渡来人の氏族長の一員である「王(きし)」の肩書を持つ人物である可能性を排除しません。つまり、皇族の女王とは規定しませんから、従者の立場も認める立場です。なお、万葉集の額田王と日本書紀の鏡王女額田姫王とは、同一人物であると仮定します。


身分の推定

それでは、額田王を万葉集の歌から、その身分と居住地について見て行きたいと思います。

額田王下近江國時作謌、井戸王即和謌
標訓 額田王の近江國に下りし時に作れる歌、井戸王の即ち和(こた)へる歌
集歌17 味酒 三輪乃山 青丹吉 奈良能山乃 山際 伊隠萬代 道隈 伊積流萬代尓 委曲毛 見管行武雄 數々毛 見放武八萬雄 情無 雲乃 隠障倍之也
訓読 味酒(うまさけ) 三輪の山 青(あを)丹(に)よし 奈良の山の 山の際(は)に い隠(かく)るまで 道の隈(くま) い積もるまでに 委(つば)らにも 見つつ行かむを しばしばも 見(み)放(は)けむ山を 情(こころ)なく 雲の 隠さふべしや
私訳 味酒の三輪の山が、青丹も美しい奈良の山の山の際に隠れるまで、幾重にも道の曲がりを折り重ねるまで、しみじみと見つづけて行こう。幾度も見晴らしたい山を、情けなく雲が隠すべきでしょうか。

反謌
集歌18 三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉
訓読 三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなも隠さふべしや
私訳 三輪山をこのように隠すのでしょうか。雲としても、もし、情け心があれば隠すでしょうか。
右二首謌、山上憶良大夫類聚歌林曰、遷都近江國時、御覧三輪山御謌焉。日本書紀曰、六年丙寅春三月辛酉朔己卯、遷都于近江。
注訓 右の二首の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林に曰はく「都を近江國に遷す時に、三輪山を御覧(みそなは)す御歌なり」といへり。日本書紀に曰はく「六年丙寅の春三月辛酉の朔の己卯に、都を近江に遷す」といへり。

集歌19 綜麻形乃 林始乃 狭野榛能 衣尓著成 目尓都久和我勢
訓読 綜麻形(へそがた)の林のさきの狭野(さの)榛(はり)の衣(ころも)に著(つ)く成(な)す目につく吾(わ)が背
私訳 綜麻形の林のはずれの小さな野にある榛を衣に摺り著け、身に着けて、私の目に相応しく見えます。私が従う貴女は。
右一首謌、今案不似和謌。但、舊本載于此次。故以猶載焉。
注訓 右の一首の歌は、今案(かむ)がふるに和ふる歌に似はず。但し、旧本には此の次に載す。故に以つてなお載す。

さて、額田王の人物を考えるに集歌19の歌は、非常に重要な歌です。その重要性は、この歌の「狭野榛能衣尓著成」の詞にあります。これを「狭野の榛の衣に著け成す」と訓読みしたとき、「著」の漢字の意味がキーポイントです。「付着させる」と理解すると衣は榛の葉の摺り染めされた神御衣となりますし、「身に着ける」と理解すると衣は榛で染めた黒味かかった濃い緑の衣を意味します。ここで、遷都と云う公の行列での黒味かかった濃い緑の衣は、孝徳天皇の大化三年の七色の十三階の冠の制度からすると大・小黒冠(七位・八位)の官位に相当します。私は「著」の漢字の意味を「付着させる」と理解して、井戸王が詠った相手が着ていた衣を神御衣と解釈します。
ここで、集歌17と18の歌を見てみますと、歌は近江遷都への行幸の途中で大和盆地全域を見渡せる奈良の平城山付近の峠から、今来た方角を振り返り、大和国との別れの歌です。すると、歌は遷都の行幸で通過する国境での歌ですから、なんらかの神事に関係すると考えて良いのではないでしょうか。つまり、集歌19の歌とは、国境での神事での着ている神御衣が映える姿を誉める歌です。それで、「井戸王即和謌」の標が付くのでしょうし、その標と歌の意味が通じます。
そして、その集歌17の歌の標に従うと、神御衣を着て神事に従事する額田王は、近江宮への遷都のときに井戸王と云う従者を引き連れていることになります。これは、ちょうど、推古天皇の近習の栗下女王が栗隅采女黒女や女孺鮪女達の采女団を率いていたのと同じような風景です。

日本書紀 推古天皇三六年(628)九月の記事より
原文
吾聞天皇臥病、而馳上之侍于門下。時中臣連弥気自禁省出之曰。天皇命以喚之。則参進向于閤門。亦栗隈釆女黒女迎於庭中引入大殿。於是、近習者栗下女王為首、女孺鮪女等八人、并数十人、侍於天皇之側
訓読 吾(おのれ)、天皇(すめらみこと)の臥病(みやまひ)したまふと聞(うけたまは)りて、馳上(まうのぼ)りて門下(みかきもと)に侍りき。時に中臣連弥気、禁省(みやのうち)より出でて曰さく「天皇の命(おほみこと)を以つて喚す」とまうす。則ち参進(もうすす)みて閤門(うちつみかど)に向づ。亦(また)栗隈(くるくまの)釆女(うねめ)黒女(くろめ)、庭中(おほば)に迎へて、大殿に引て入る。是に、近習者栗下(くりもとの)女王(ひめみこ)を首(このかみ)として、女孺(めのわらは)鮪女(しびめ)等八人、并て数十人、天皇之側(おほみもと)に侍りき。

このように見てみますと、額田王は宮中神事に関係する「本来の采女」であった可能性があります。本来の采女は、飛鳥坐神社の御田祭に見られるように神婚儀礼を含む神事を行うために後年の「植女」と混同されたため誤解されていますが、その神婚儀礼に関係して天皇の重大な即位の大礼である大嘗宮で御衾の介添えを行う重要な役職です。斉明天皇時代の額田王の姿を含め、天皇の側で神事に従事する「本来の采女」と解釈するのが、額田王を良く理解できるのではないでしょうか。
さて、集歌17の歌は、三輪山近辺を行幸の出発点として奈良の平城山付近の峠で、大和盆地を振り返り、大和国との別れの歌を詠うものですから、神御衣を着て神事に従事する立場上、額田王は倭の関係者でよそ者ではありません。つまり、倭での額田王の館は三輪山付近にあったものと思われます。もし、ここで額田王の倭での館が三輪山付近にあったとすると、その館の場所はもう少し絞れてきます。
少し寄り道をして、新撰姓氏録に載る石上神社祠官家の祖先に当たる布瑠宿禰の由来について、紹介したいと思います。

原文
男木事命。男市川臣。大鷦鷯天皇御世、達倭賀布都努斯神社於石上御布瑠村高庭之地。以市川臣為神主。四世孫、額田臣・武蔵臣。斉明天皇御世。宗我蝦夷大臣、号武蔵臣物部首并神主首。因失臣姓為物部首。男正五位上日向、天武天皇御世、依社地名改布瑠宿禰姓。日向三世孫邑智等也。
訓読 男(をのこ)、木事(こごとの)命(みこと)。男(をのこ)、市川(いちかはの)臣(おみ)。大鷦鷯(おほさざきの)天皇(すめらみこと)の御世に、倭(やまと)に達(い)でまして布都努斯(ふつぬしの)神社(かみのやしろ)を石上(いそのかみ)の御布瑠(みふる)村(むら)の高庭の地に賀(いは)ひまつりて、市川臣を以て神主と為(な)したまふ。四世の孫に、額田(ぬかたの)臣(おみ)と武蔵(むさしの)臣(おみ)あり。斉明天皇の御世に、宗我蝦夷(そがのえみしの)大臣(おほおみ)、号(な)づけて武蔵臣を物部(もののべの)首(おびと)とし、并(あは)せて神主(かむぬしの)首(おびと)とせり。これによりて臣(おみ)の姓(かばね)を失ひて、物部(もののべの)首(おびと)と為(な)れり。男(をのこ)、正五位上日向(ひむか)ありて、天武天皇の御世に、社(やしろ)の地の名に依りて布瑠(ふるの)宿禰(すくね)の姓(かばね)に改(あらた)めむ。日向の三世の孫は邑智(むち)等(ら)なり。

の記事があります。
ここから天武天皇の時代の石上神社の神主である布瑠宿禰邑智から三代遡ると額田臣(この臣は「さん」に近い敬称)と武蔵臣との兄弟が布瑠村に住んでいたことが判かります。推定で、弟の武蔵臣が後の布留宿禰に繋がる人物ですから、彼の本拠は布留山から国見山の裾野一帯を支配し、兄の額田臣が倭の中心地に近い布留山から穴師山の裾野一帯を生活の基盤にしたのではないでしょうか。石上神社の神主の布瑠宿禰は大春日臣に繋がる大和の氏族ですから、その先祖である額田臣は大和支配者階級に当たります。つまり、額田部は額田臣の配下に入る部民です。
もし、額田王の本来の表記が額田部王としますと、額田王は皇女ではありませんから「額田」の名の由来は養育氏族の名ではありませんし、額田王は女性ですから、その額田王は本名ではなく出身地の名に由来していると思います。ここから、額田王の里は布留山から穴師山の裾野一帯、穴師川の流域とする推測が生まれます。これですと若い大海人皇子が額田王の許へ、夜な夜な妻問いすることも可能ではないでしょうか。
ただ、良くある地名探しから額田王の里を推定する場合は、畿内だけでも額田宿禰、額田首、額田臣、額田部宿禰、額田部、額田部湯坐連など、「額田王の故郷探しの旅」への参加を希望する一族が多数になり、大変だと思います。通常、額田王の故郷探しの研究者は、それぞれの好みで地名を取り上げて、後は紹介もしないのがルールです。そこで、私は、一番血筋の良さそうなのを狙い打ちしました。
なお、「額田王の故郷探し」での地名探しで、これらの氏族の拠点や関係地を全て網羅して検討したものは、まだ、無いようです。さらに、鏡王の本拠の伝承は滋賀県野洲市ぐらいまでが検討範囲ですから、もし、「額田」に関わる地名探しなら額田王もそれぐらいに範囲を広げる必要があるはずです。さらに、「額田」が「ぬかる田」に由来しますと、現在の地名で深田や沼田等も「額田」の関係地名になります。つまり、現存する地名では額田王の故郷探しは非常に困難です。
ただし、額田王の故郷探しで忘れてはいけない重要な基本ルールは、大海人皇子が一夜の内に額田姫王の許に妻問いが出来る範囲内であるか、どうかです。当時、大海人皇子は海柘榴市、阿倍、明日香付近に屋敷があったでしょうから、そこが妻問いの範囲の拠点です。

参考に集歌19の歌の左注は、本来の采女が榛の摺り染め衣の神御衣を着て神事に従事する風習をすでに失くした延喜二年(902)頃に紀貫之によって書き加えられたものと推測されます。従いまして、万葉集の専門家が、「狭野の榛の衣に著け成す」の詞から「神御衣」の可能性を思い当たらなくても、それは仕方がないと思います。
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漢字で読む人麻呂歌集

2009年09月27日 | 万葉集 雑記
漢字で読む人麻呂歌集

万葉集が漢語や漢字で記述してあるとすると、万葉仮名で記述したと解釈する万葉集古義以降の「訓読み万葉集」とは、解釈が違ってきます。その違いを、実例を挙げて示してみたいと思います。当然、素人と泰斗とのものとは同列にはなりませんが、微苦笑で実験と思って許して下さい。なお、ここでの岩波書店とは「新日本古典文学大系 万葉集」を意味し、それを引用させていただいています。

例題-1 「あらたま」を考える。
麁:あらい、粗末な穀物、雑穀。粗末な布
はるかに離れたさま。はるかに遠い。
西本願寺本
集歌2385 麁玉 五年雖経 吾戀 跡無戀 不止恠
訓読 あらたまの五年(いつとせ)経(ふ)れど吾(わ)が恋の跡(あと)無き恋の止(や)まなく怪(あや)し
私訳 はるかに遠く貴重な玉のような五年を過ごしたけれど、私の恋の、その貴女と実際に愛し抱き合うことの出来ない、そんな恋なのに止むことがない不思議さよ。
岩波書店
集歌2385 麁玉 五年雖経 吾戀 跡無戀 不止恠
訓読 あらたまの五年(いつとせ)経(ふ)れど吾(わ)が恋ふる跡(あと)なき恋の止(や)まなくも怪(あや)し
意訳 (あらたまの)五年も経ったが、私が恋している、このむなしい恋が止まないのは不思議なことだ。

璞:あらたま、玉を含んだ石。または、まだ磨かれていない玉の原石。
素朴な様、純真な様
西本願寺本
集歌2410 璞之 年者竟杼 敷白之 袖易子少 忘而念哉
訓読 あらたまの年は竟(は)つれど敷栲(しきたへ)の袖交(か)へし子を忘れて思へや
私訳 貴女と何もなく今年は終わってしまったけれど、夜寝る床の栲で衣を脱いでお互いの体に掛け合った貴女を、忘れてしまったと思っていますか。
岩波書店
集歌2410 璞之 年者竟杼 敷白之 袖易子少 忘而念哉
訓読 あらたまの年は竟(は)つれどしきたへの袖交(か)へし児を忘れて思へや
意訳 (あらたま)の年は暮れたが(しきたへの)袖を交わしたあの子を忘れられようか。


例-2 「竟」を考える。
竟:おわる、完了する。つきる。
きわめる、追及する。問い詰める。
わたる、川を渡る。
西本願寺本
集歌1996 天漢 水左閇而 照舟 竟舟人 妹等所見寸哉
訓読 天の川水(みなも)もさへに照らす舟竟(わた)る舟人(ふなひと)妹と見えきや
私訳 天の川の水面もさへも輝かすような舟。天の川を渡る舟人は恋人に逢ったでしょうか。
岩波書店
集歌1996 天漢 水左閇而照 舟竟 舟人 妹等所見寸哉
訓読 天の川水もさへに照る舟泊(は)てて舟なる人は妹(いも)に見えきや
意訳 天の川の水面までも照っている。対岸に舟を泊めた舟中の人は妻と相見えただろうか。

西本願寺本
集歌2004 己麗 乏子等者 竟津 荒磯巻而寐 君待難
訓読 己(おの)が妻乏(とも)しき子らは竟(わた)る津の荒礒(ありそ)枕(ま)きて寝(ぬ)君待ちかてに
私訳 貴方の妻のなおざりにされている恋人は、貴方の船が渡って来る今は寂しい岸で石を手枕として寝ている。貴方を待ちわびて。
岩波書店
集歌2004 己麗 乏子等者 竟津 荒磯巻而寐 君待難
訓読 己(おの)夫にともしき児らは泊てむ津の荒礒(ありそ)まきて寝(ぬ)君待ちかてに
意訳 我が夫に稀にしか逢えない織女は、船着場の荒磯を枕にして寝ている。夫を待ちきれずに。


例-3 「遏」を考える。なぜ、「過」の誤字とするのか?
遏:とどめる、抑える。阻止する。
さえぎる、遮り止める。断ち切る。
西本願寺本
集歌2023 左尼始而 何太毛不在者 白栲 帶可乞哉 戀毛不遏者
訓読 さ寝(ね)そめて幾許(いだく)もあらねば白栲の帯(おび)乞(こ)ふべしや恋も遏(とど)めずば
私訳 抱き合って寝てそれほどでもないのに、身づくろいの着物の白栲の帯を求めるのでしょうか。恋の行いを抑えきれないのに。
岩波書店
集歌2023 左尼始而 何太毛不在者 白栲 帶可乞哉 戀毛不過者
訓読 さ寝そめていくだもあらねば白たへの帯乞ふべしや恋も過ぎねば
意訳 共寝してまだどれほどのも時間は経っていないのに、(白たへの)帯を取ってくれなどと言うべきでしょうか。積もった恋の思いも晴れないのに。

西本願寺本
集歌2032 一年迩 七夕耳 相人之 戀毛不遏者 夜深往久毛
訓読 一年(ひととせ)に七夕(ひちせき)のみに逢ふ人の恋も遏(とど)ずば夜は更(ふ)けゆくも
私訳 一年に一度七夕の夜に逢う人も恋を抑えきれずに夜は更けて往くよ。
岩波書店
集歌2032 一年迩 七夕耳 相人之 戀毛不遏者 夜深往久毛
訓読 一年(ひととせ)に七日(なぬか)の夜(よ)のみ逢ふ人の恋も過ぎねば夜(よ)はふけ行くも
意訳 一年に七夕の夜がけ逢う人の恋の思いも過ぎ去らないのに夜が明けてしまったことだ。


例-4 「眷」を考える。
眷:かえりみる、頭をまわして見回す。懐かしむ。思い慕う。
けん、親族。身内。婦人の親族。
西本願寺本
集歌1890 春日野 犬鶯 鳴別 眷益間 思御吾
訓読 春日野(かすがの)の犬鶯(おほよしきり)の鳴き別れ眷(かえりみ)す間(ま)も思ほせわれを
私訳 春日野で犬鶯が鳴いて飛び去るのを振り返り見る、そんな束の間も思いだして下さい、私を。
岩波書店
集歌1890 春日 友鶯 鳴別 眷益間 思御吾
訓読 春山の友うぐいすの鳴き別れ帰ります間(ま)も思はせ我を
意訳 春山の友鶯が鳴き別れるように、お帰りになられる間も思って下さい、私のことを。

西本願寺本
集歌2481 大野 跡状不知 印結 有不得 吾眷
訓読 大野らにたどきも知らず標結(しめゆ)ひてありかつましじ吾(わ)れ眷(かへりみ)る
私訳 大野に人に見つからないように願いの標を結って、その願いの印が表れて来ないのならば、私はもう一度その願いの標を返り見みましょう。
岩波書店
集歌2481 大野 跡状不知 印結 有不得 吾眷
訓読 大野らにたどきも知らず標結ひてありかつましじ我が恋ふらくは
意訳 大きな野原にとりとめもなく標縄を張って、そのまま生きてはいられないだろう。私の恋は。

西本願寺本
集歌2501 里遠 眷浦経 真鏡 床重不去 夢所見与
訓読 里(さと)遠(とほ)み眷(か)ねうらぶれぬ真澄鏡(まそかがみ)床の辺(へ)去(さ)らず夢に見えこそ
私訳 貴方の家が遠いので振り返り見て寂しく思う。願うと姿を見せるという真澄鏡よ。夜の床を離れない私に夢の中にあの人の姿を見せてください。
岩波書店
集歌2501 里遠 眷浦経 真鏡 床重不去 夢所見与
訓読 里遠(どほ)み恋ひうらぶれぬまそ鏡(かがみ)床(とこ)の辺(へ)去らず夢(いめ)に見えこそ
意訳 里が遠いので、恋い焦がれ心はしおれてしまった。(まそ鏡)床辺を離れずに夢に見えてください。
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「額田王」は「ぬかだのきし」と読むのか

2009年09月26日 | 万葉集 雑記
「額田王」は「ぬかだのきし」と読むのか

 万葉集初期を彩る女流歌人に額田王がいます。この額田王の万葉集の歌を鑑賞する前に、額田王自身について考えてみたいと思います。
 さて、漢字表記の「額田王」は、普段の解説では「ぬかだのおほきみ」と訓読みします。ただし、本当に当時、そのように呼ばれていたかは確かではありません。また、この額田王は万葉集での表記ですが、日本書紀では十市皇女を産んだ「鏡王女額田姫王」がいて、この額田姫王が万葉集での額田王と同一人物ではないかと推定されています。参考に、万葉集の巻一 集歌7の歌では、標の「額田王歌」に対して「未詳」の注記が行われていて、普段の解説では「額田王の歌に関して、未だ明らかではない」と解釈することになっていて、「未詳」の意味合いは額田王自身に対してではないことになっています。このように額田王自身について正式に考えると、色々と不確定の問題があります。

額田王謌 未詳
標訓 額田王の歌 未だ詳(つまびら)かならず
集歌7 金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念
訓読 秋の野の御草(みくさ)刈り葺(ふ)き宿(やど)れりし宇治の京(みやこ)の仮(かり)廬(ほ)し念(おも)ほゆ

右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、一書戊申年幸比良宮大御謌。但、紀曰、五年春、正月己卯朔辛巳、天皇、至自紀温湯。三月戊寅朔、天皇幸吉野宮而肆宴焉。庚辰日、天皇幸近江之平浦。

注訓 右は、山上憶良大夫の類聚歌林を檢(かむ)がふるに曰はく「一(ある)書(ふみ)に戊申の年に比良の宮に幸(いでま)しし大御歌」といへり。但し、紀に曰はく「五年の春、正月己卯朔辛巳に、天皇、紀温湯に至る。三月戊寅朔、天皇の吉野の宮に幸(いでま)して肆宴(とよのほあかり)す。庚辰の日に、天皇の近江の平浦に幸(いでま)す」といへり。

 ここで、以前から日本紀と日本書紀との話題を取り上げて、平安初期の桓武天皇の時代以前では朝廷の正式な正史は日本紀であって、日本書紀ではないことを続日本紀、日本後紀、万葉集の原文から説明しました。一方、万葉集での額田王を「ぬかだのおほきみ」と訓読みする重要な根拠は、日本書紀が正史であることに拠っています。日本書紀では、「○○王」と表記される人物で、明らかに新羅国王や百済国王ではない人物は、すべて皇族の後胤の関係にあります。そこから、類推して「王」の表記を皇族の尊称として「おほきみ」と読むことになります。では、「日本書紀」が正史ではなく、江戸時代以前の評価と同じような「先代舊事本紀」と同じ意味合いの私家史書であった場合は、どうなるのでしょうか。この場合は、続日本紀の記事などから「鏡王女額田姫王」は「かがみのきしのむすめのぬかだのひめきし」、「額田王」は「ぬかだのきし」と読む可能性があります。日本後紀の記事からは平安初期の段階では日本書紀が存在したかどうかは不明ですから、万葉集の目録が整備された紀貫之の時代に集歌7の歌の標の「額田王歌」に対して、その出身が不明としての「未詳」の注記が付されても不思議ではありません。
 さて、大宝律令の成立以降、皇族の敬称は宮中において皇子や皇女から、親王・内親王・王への変更がありました。では、生活レベルにおいては、飛鳥・奈良時代の人々にとっての「○○王」の呼称には、どのような意味合いがあったのでしょうか。六世の王のような皇族から離籍する「王」の立場や亡命百済王族の子孫の立場からの「○○王」の呼称の意味合いを、奈良時代末期の様子を続日本紀の記事から下記に紹介します。

 下記の確認して頂いたこれらの記事にあるように、当時、「百済王」は国王の身分を表す呼称ではなく、姓名を表す姓(かばね)と思われます。また、登美真人藤津の事例では、皇族の後胤とは関係ない「○○王」の呼称を有する「八色の姓(やくさのかばね)」の制度の外の氏族がいたために、「王」の表記だけでは単純に皇胤を意味しませんし、大和氏族の尊敬を得られないことが推定できます。そのための、藤津王たちの「登美真人」への改姓の願いです。つまり、日本の正史では「王」と表記するから「おほきみ」と一義に訓読みすることは出来ません。もし、「王」を「おほきみ」や「きみ」と訓読みする場合は、その皇族の後胤関係を明らかにしなければいけないようです。
 さらに、韓国連源の例にあるように、延暦九年二月二十七日の桓武天皇の百済王(くだらのこきし)一族を皇族に組み入れる詔の発布以降、大和氏族で由緒ある古風の姓を捨て、直接の姓の呼称で朝鮮半島出身者と氏素性を区分し明らかにする動きが出てきます。一方、百済王仁貞・元信・忠信・津連真道の例のように、同時に渡来の百済人達に対しても改姓や姓(かばね)の区分の変更が行われています。
 日本の姓の区分の根源は神話や皇統に由来しますから、延暦九年から始まり延暦十六年二月まで続く桓武天皇の国史編纂事業で、百済系の母親をもつ桓武天皇の延暦九年二月二十七日の百済王を皇族に組み入れる詔は、何らかの影響を与えたのではないでしょうか。このようなとき、「額田王」をどのように訓読みを行うかは、難しい問題です。さらに、発展して日本書紀から大海人皇子の最初に娶した女性は、「鏡王女額田姫王」です。古代の男子の成人式には母方の姪や叔母の中で適齢の経験者の女性が添臥に就くことになっていますから、古代の風習からは大海人皇子の母親は百済系の渡来人である可能性が出てきます。そして、続日本紀と日本後紀からの史観から見るとき日本書紀の記事が正しいのならば、百済系の渡来人かもしれないその母親は第三十五代及び三十七代天皇です。これは、水戸藩の国文・神学者が最も嫌う姿です。
 万葉集は歴史書ではありませんが、万葉集の歌を鑑賞するのに、その万葉集と国史の原文が示す歴史は、水戸藩が監修し文部科学省が検定した、教えられている訓読みの万葉集や歴史とは違うことを踏まえて、本来の飛鳥・奈良時代を理解する必要があると思います。


続日本紀より引用資料
延暦十年(791)七月己卯(20)の記事
原文
己卯。故少納言従五位下正月王男藤津王等言、亡父存日、作請姓之表。未及上聞、奄赴泉途。其表称、臣正月、源流已遠、属籍将尽。臣男四人・女四人、雖蒙王姓、以世言之、不殊疋庶。伏望、蒙賜登美真人姓。以従諸臣之例者、請従父志、欲蒙願姓。
有勅許焉。

訓読 己卯。故少納言従五位下正月王(むつきのきみ)の男(こ)の藤津王(ふじつのきみ)等の言ひて「亡き父の存るときに日はく『姓(かばね)を請ふ表を作らむ』といへり。未だ上聞に及ばざるに、奄(にわ)かに泉途に赴(おもむ)きぬ。其の表に称して『臣(しん)正月(むつき)、源流は已(すで)に遠し。籍に属(つ)くは将に尽きなむ。臣の男(をのこ)の四人(よたり)と女(をみな)の四人(よたり)の、ただ蒙(こうむ)る王(きみ)の姓(かばね)を以つて世に之を言ふは、疋(そ)の庶(しょ)に殊(こと)ならず。伏して望む。登美真人(とみのまひと)の姓(かばね)を蒙(こうむ)りて賜(たま)はらむ』といへり。以つて諸臣(もろもろのおみ)の例(たぐひ)に従ふは、父の志に従うを請ひ、願ふ姓を蒙(こうむ)るを欲す」と申す。
勅(みことのり)有りて許す。

延暦九年(790)七月乙丑朔辛巳(17)の記事
原文
秋七月辛巳、左中弁正五位上兼木工頭百済王仁貞・治部少輔従五位下百済王元信・中衛少将従五位下百済王忠信・図書頭従五位上兼東宮学士左兵衛佐伊予守津連真道等上表言、真道等本系出自百済国貴須王、貴須王者百済始興第十六世王也。夫、百済太祖都慕大王者、日神降霊、奄扶余而開国、天帝授婁惣諸韓、而称王。降及近肖古王、遥慕聖化、始聘貴国。是則神功皇后摂政之年也。其後軽嶋豊明朝御宇応神天皇、命上毛野氏遠祖荒田別、使於百済捜聘有識者。国主貴須王恭奉使旨、択採宗族、遣其孫辰孫王〈一名智宗王〉随使入朝。天皇嘉焉、特加寵命、以為皇太子之師矣。於是、始伝書籍。大闡儒風、文教之興、誠在於此。難波高津朝御宇仁徳天皇。以辰孫王長子太阿郎王為近侍。太阿郎王子亥陽君、亥陽君子午定君。午定君生三男、長子味沙・仲子辰爾・季子麻呂。従此而別始為三姓。各因所職以命氏焉。葛井。船。津連等即是也。逮于他田朝御宇敏達天皇御世。高麗国遣使上鳥羽之表。群臣諸史莫之能読。而辰爾進取其表。能読巧写。詳奏表文。天皇嘉其篤学。深加賞歎。詔曰。勤乎懿哉。汝若不愛学。誰能解読。宜従今始近侍殿中。既而又詔東西諸史曰。汝等雖衆。不及辰爾。斯並国史家牒、詳載其事矣。伏惟、皇朝則天布化、稽古垂風、弘沢浹乎群方、叡政覃於品彙、故能修廃継絶。万姓仰而頼慶、正名弁物、四海帰而得宜。凡有懐生、莫不抃躍。真道等先祖、委質聖朝、年代深遠。家伝文雅之業、族掌西庠之職。真道等生逢昌運、預沐天恩。伏望。改換連姓、蒙賜朝臣。
於是、勅因居賜姓菅野朝臣。

訓読 秋七月辛巳、左中弁正五位上兼木工(もく)頭(かしら)百済王(くだらのこきし)仁貞・治部少輔従五位下百済王元信・中衛少将従五位下百済王忠信・図書(ずしょ)頭従五位上兼東宮学士左兵衛佐伊予守津連(つのむらじ)真道(まみち)等が上表して言はく「真道等の本系は百済国の貴須(きす)王より出でぬ。貴須王は百済を始めて興して第十六世の王(こきし)なり。夫れ、百済の太祖都慕(つも)大王は日神の霊が降(あまも)り、扶余を奄(おほ)ひ国を開く。天帝は婁に惣く諸(もろもろ)の韓を授け王と称す。近肖古(きんしょうこ)王に降るに及び、遥かに聖化を慕ひ、始めて貴き国を聘(と)ふ。是れ則ち神功皇后摂政の年なり。其の後に軽嶋豊明朝御宇応神天皇、上毛野氏の遠祖荒田別に命(みことのり)して、百済に使ひして識有ある者を捜し聘(と)ふ。国主貴須王の使ひの旨(おもむき)を恭(うやま)ひ奉(たてまつ)りて、宗族を択び採り、其の孫の辰孫(しんそん)王(一(あるいは)、智宗(ちそ)王と名(な)のる)を使ひの入朝に随(したが)ひて遣りぬ。天皇のこれを嘉(よみ)したまひ、特に寵命を加へ、以つて皇太子の師と為す。是より、始めて書籍を伝ふ。大いに闡(ひら)く儒の風・文教の興は、誠に此に在る。難波高津朝御宇仁徳天皇、辰孫王の長子太阿郎(たあら)王を以つて近侍と為す。太阿郎王の子亥陽君(がいようくん)、亥陽君の子午定君(ごじょうくん)。午定君は三(みつたり)の男(をのこ)を生(な)す。長子味沙(みさ)・仲子辰爾(しんに)・季子麻呂(まろ)なり。此より別れ、始めて三姓を為す。各の職の所に因りて以つて氏の命(な)となす。葛井(ふぢい)・船(ふね)・津(つ)連等は、即ち是なり。他田朝御宇敏達天皇御世に逮(およ)びて、高麗国の使ひを遣りて鳥羽の表を上(のぼ)らす。群(つど)ふ臣(まえつきみ)・諸(もろもろ)の史(ふみのつかひ)の之を能く読むことなし。而して辰爾の進みて其の表を取り、巧みに写し能く読みて、詳らかに表文を奏す。天皇の其の篤学を嘉(よみ)したまひて、深く賞歎を加ふ。詔(みことのり)して曰はく『勤(いそ)しむや、懿(よ)し。汝の若し学を愛(めで)ることなかりせば、誰か能く読み解かむ。宜しく今より始めて殿の中に近侍せしめむ』とのたまふ。既にしてまた詔して東西の諸(もろもろ)の史(ふみのつかひ)に曰はく『汝等の衆(やから)は、辰爾に及ばざる』とのたまふ。斯(ここ)に並びて国史と家牒の詳びらかに其の事を載す。伏して惟(おも)ふに、皇朝の天を則(のっと)り化を布し、稽古の風を垂れ、沢浹(たくしょう)を群方に弘め、叡政は品彙(ひんい)に覃(およ)ぶ。故(ゆえ)に能く廃を修(ととの)へ絶を継ぐ。万姓の仰ぎて慶(のり)を頼むに、弁物の名を正(ただ)し、四海は帰して宜(のり)を得む。凡そ生るを懐(おも)ふる有るは、抃躍(べんやく)せざるはなし。真道(まみち)等の先祖の、聖朝の質(もと)を委(まか)されて、年代は深遠なり。家の伝ふる文雅の業、族(うらから)の掌(つかさど)る西庠(せいしょう)の職。真道等は生きて昌運に逢ひて、天恩を沐するを預(あずか)らむ。伏して望む、連(むらじ)の姓(かばね)を改め換へて、朝臣(あそみ)を賜はることを蒙(こほむ)らん」と申す。
是において、勅(みことのり)して居るところに因りて菅野(すがの)朝臣の姓(かばね)を賜はる。

延暦九年(790)十一月癸亥朔壬申(10)の記事
原文
壬申。外従五位下韓国連源等言。源等是物部大連等之苗裔也。夫物部連等、各因居地行事、別為百八十氏。是以、源等先祖塩児、以父祖奉使国名、故改物部連、為韓国連。然則大連苗裔。是日本旧民。今号韓国。還似三韓之新来。至於唱姓。毎驚人聴。因地賜姓、古今通典。伏望。改韓国二字。蒙賜高原。
依請許之。

訓読 壬申。外従五位下韓国連(からくのむらじ)源(みなもと)等の言はく「源等は是れ物部(もののべの)大連(おほむらじ)等の苗裔なり。夫れ物部連等は、各(おのおの)の事を行ふ居る地に因りて、百八十氏に別つ。是を以つて、源等の先祖の塩児(しおこ)、父祖の使ひし国の名を奉(たてまつ)るを以つて、故に物部連を韓国連に改めむ。然らば則ち大連の苗裔なり。是れ日本の旧(ふる)き民(たみ)なり。今、韓国と号(なず)くは、還つて三韓の新来(いまき)に似る。至りて名を唱ふるに、毎に聴く人を驚(おどろか)す。地に因りて姓(かばね)を賜はらむは、古今の典(のり)に通ず。伏して望まむ。韓国の二字を改めて、高原(たかはら)を賜(たま)はらむことを蒙(こうむ)らむ」と申す。
請ふに依り、之を許す。
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持統天皇の誕生日は、延暦十六年(797)二月十三日

2009年09月23日 | 万葉集 雑記
持統天皇の誕生日は、延暦十六年(797)二月十三日

万葉集から歴史を見ると、日本書紀や続日本紀の記事と矛盾するものがあります。それが、日本書紀では持統天皇の時代に相当する「朱鳥」の元号です。日本書紀に従った場合、天武天皇の病気平癒を祈願した朱鳥の年号は元年九月までで、朱鳥元年(686)九月に天武天皇が亡くなられて皇后である菟野皇女が称制を執ったことになっていますので、同年に持統称制元年(686)が始まります。ところが、万葉集の歌の左注に注目しますと、朱鳥の年号は万葉集 集歌50の歌の左注の「朱鳥八年十二月」まで確認できます。ここに、歴史の不思議を万葉集に見ることが出来ます。
資料:1、2、3、4、5
一方、万葉集の左注から推測して、天武天皇の時代にはまだ元号はなかったと思われます。これは万葉集と日本書紀とで一致しますから、日本の元号は686年からの「朱鳥の元号」が公式の元号の最初のようです。そして、この朱鳥の元号の次に「天皇の謚を元号」としない元号は、701年の「大宝の元号」です。そして、この大宝の元号以降は、天皇の謚を元号としない元号が定着します。
資料:6、7、8
つまり、万葉集や日本書紀から歴史を見ると、朱鳥九年に相当する696年頃から大宝元年の701年までの五年間に渡って、突然に元号が無くなったことになります。ところが、正式の国史である日本後紀巻三逸文(欠補類聚国史)の延暦十三年八月に、次のような面白い記事があります。

原文
若、夫襲山肇基以降、清原御寓之前、神代草昧之功、往帝庇民之略、前史所著、燦然可知。除自文武天皇、訖聖武皇帝、記注不昧、余烈存焉。

訓読
若(けだ)し、夫れ襲山の基を肇(ひら)くを以つて降(の)ち、清原御寓(注)の前、神代の草昧(そうまい)の功、往(いに)しへの帝の庇民の略、前史の著すところ、燦然として知るべし。除(さず)くる文武天皇より聖武皇帝までの、記する注は昧(くら)からず、余(あま)す烈(れつ)は焉(ここ)に存(あ)る。

意訳
それは瓊瓊杵尊(神武天皇)が襲山(高千穂峰)に降臨して日本国の基を開いて以降、飛鳥浄御原(天武天皇)の朝廷以前の、神代の草創の功績、過去の天皇の人民愛護の政略、それらは前史(日本紀)に著述してあり、燦然として明らかである。文武天皇より聖武皇帝までの間の歴史を記録したもの(続日本紀前編三十巻)は、不確かな記述はなく、すべての功績はここに纏まられている。

注 続日本紀慶雲四年七月の記事から、持統天皇の尊称は「藤原宮御宇倭根子天皇」であって、「清原御寓」ではありません。また、養老六年十二月に次のような記事があり、「浄御原宮御宇」と「藤原宮御宇」とは別な天皇であることが判りますから、やはり、日本後紀巻三逸文にある「清原御寓」を持統天皇と解釈することは出来ません。ただし、正式な学会の日本史では、正史にどのように書いてあっても日本後紀の「清原御寓」を持統天皇の尊称と解釈するのが約束です。

養老六年(722)十二月戊戌朔庚戌(13)の記事より
原文
十二月庚戌、勅奉為浄御原宮御宇天皇、造弥勒像。藤原宮御宇太上天皇、釈迦像。其本願縁記、写以金泥。安置仏殿焉。
訓読
十二月の庚戌に、勅(みことのり)して浄御原宮御宇天皇(天武天皇)の為に弥勒像を造らしめ、藤原宮御宇太上天皇(持統天皇)の為に釈迦像を造らしめ、奉(たてまつ)らしめる。其の本願の縁を記し、金泥を以つて写す。仏殿に安置せしむ。

 この日本後紀巻三逸文の記事には、万葉集に示す元号が「朱鳥」から「大宝」に直接に移るように、皇位は天武天皇(清原御寓)から文武天皇へと直接に続きます。そこには、持統天皇の姿はありません。ただし、この延暦十三年の続日本紀の編纂の成果は朝廷に採用されずに、桓武天皇によって「引き続き続日本紀の編纂を行うべし」との勅命があり、その再編纂は延暦十六年二月に改定作業を完了しています。日本後紀の記事からすると、現在に繋がる日本書紀と続日本紀は、この延暦十六年二月の桓武天皇の改訂版続日本紀を底本とするようですから、延暦十六年二月に持統天皇が誕生したと考えられます。
 これらの正式の国史編纂の歴史からすると、万葉集の歌が詠われたとき、持統天皇なる天皇は存在しません。そこには懐風藻の葛野王の爵文にあるように菟野皇太后がいらっしゃるだけです。この国史の原文に従った歴史を踏まえて、専門家でない普段の私たちは万葉集を原文から楽しむ必要があると思います。

資料-1
幸于紀伊國時川嶋皇子御作謌 或云、山上臣憶良作
集歌34 白浪乃 濱松之枝乃 手向草 幾代左右二賀 年乃經去良武
訓読 白波の浜松が枝(え)の手向(たむ)けぐさ幾代までにか年の経(へ)ぬらむ
日本紀曰、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇幸紀伊國也。

資料-2
石上大臣従駕作謌
集歌44 吾妹子乎 去来見乃山乎 高三香裳 日本能不所見 國遠見可聞
訓読 吾妹子(わぎもこ)をいざ見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも
右、日本紀曰、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰、浄廣肆廣瀬王等為留守官。於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位撃上於朝、重諌曰、農作之前車駕未可以動。辛未天皇不従諌、遂幸伊勢。五月乙丑朔庚午、御阿胡行宮。

資料-3
藤原宮之役民作謌
集歌50 八隅知之 吾大王 高照 日乃皇子 荒妙乃 藤原我宇倍尓 食國乎 賣之賜牟登 都宮者 高所知武等 神長柄 所念奈戸二 天地毛 縁而有許曽 磐走 淡海乃國之 衣手能 田上山之 真木佐苦 檜乃嬬手乎 物乃布能 八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼 其乎取登 散和久御民毛 家忘 身毛多奈不知 鴨自物 水尓浮居而 吾作 日之御門尓 不知國 依巨勢道従 我國者 常世尓成牟 圖負留 神龜毛 新代登 泉乃河尓 持越流 真木乃都麻手乎 百不足 五十日太尓作 泝須良牟 伊蘇波久見者 神随尓有之
訓読 八隅(やすみ)知(し)し 吾(あ)が大王(おほきみ) 高照らす 日の皇子 荒栲(あらたへ)の 葛原(ふぢはら)が上に 食(を)す国を 見し給はむと 都宮(みあから)は 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も 寄りてあれこそ 磐(いは)走(はし)る 淡海(あふみ)の国の 衣手の 田上山の 真木さく 檜の嬬手(つまて)を 物の布(ふ)の 八十(やそ)宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ 其を取ると 騒く御民(みたみ)も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居(ゐ)て 吾(あ)が作る 日の御門に 知らぬ国 寄し巨勢道より 我が国は 常世にならむ 図(ふみ)負(お)へる 神(くす)しき亀も 新代(あらたよ)と 泉の川に 持ち越せる 真木の嬬手を 百(もも)足らず 筏に作り 泝(のぼ)すらむ 勤(いそ)はく見れば 神ながら有(な)らし
右、日本紀曰、朱鳥七年癸巳秋八月、幸藤原宮地。八年甲午春正月、幸藤原宮。冬十二月庚戌朔乙卯、遷居藤原宮

資料-4
反謌一首
集歌195 敷妙乃 袖易之君 玉垂之 越野過去 亦毛将相八方
訓読 敷栲の袖交(か)へし君玉(たま)垂(たれ)の越野(をちの)を過ぎ去(ゆ)くまたも逢はめやも
右或本曰、葬河嶋皇子越智野之時、獻泊瀬部皇女歌也。日本紀云、朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑、浄大参皇子川嶋薨。

資料-5
大津皇子被死之時、磐余池陂流涕御作謌一首
集歌416 百傳 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見哉 雲隠去牟
訓読 百(もも)伝(づた)ふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲(くも)隠(かく)りなむ
右、藤原宮、朱鳥元年冬十月

資料-6
明日香清御原宮天皇代 天渟中原瀛真人天皇 謚曰天武天皇
十市皇女、参赴於伊勢神宮時、見波多横山巌吹黄刀自作謌
集歌22 河上乃 湯津盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常處女煮手
訓読 河の上(へ)のゆつ磐群(いはむら)に草生(む)さず常にもがもな常処女(とこをとめ)にて
吹黄刀自未詳也。但、紀曰、天皇四年乙亥春二月乙亥朔丁亥、十市皇女、阿閇皇女、参赴於伊勢神宮。

資料-7
麻續王聞之感傷和謌
集歌24 空蝉之 命乎惜美 浪尓所濕 伊良虞能嶋之 玉藻苅食
訓読 現世(うつせみ)の命を惜しみ浪に濡れ伊良虞(いらご)の島の玉藻刈り食(は)む
右、案日本紀曰、天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯、三位麻續王有罪、流于因幡。一子流伊豆嶋、一子流血鹿嶋也。是云配于伊勢國伊良虞嶋者、若疑後人縁歌辞而誤記乎。

資料-8
天皇、幸于吉野宮時御製謌
集歌27 淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三
訓読 淑(よ)き人の良(よ)しとよく見て好(よ)しと言ひし吉野よく見よ良き人よく見つ
紀曰、八年己卯五月庚辰朔甲申、幸于吉野宮。
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難癖か 諌言か 「農作(なりわい)の節の諌言とは、神道反対の抗議」

2009年09月22日 | 万葉集 雑記
難癖か 諌言か 「農作(なりわい)の節の諌言とは、神道反対の抗議」

日本書紀に忠臣として扱われる三輪朝臣高市麻呂の「農作の節」に関係する歌が、万葉集にあります。それが、次の歌です。

石上大臣従駕作謌
集歌44 吾妹子乎 去来見乃山乎 高三香裳 日本能不所見 國遠見可聞
訓読 吾妹子(わぎもこ)をいざ見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも
私訳 私の恋人をさあ(いざ)見ようとするが、いざ見の山は高くて大和の国は見えない。国を遠く来たからか。
右、日本紀曰、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰、浄廣肆廣瀬王等為留守官。於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位撃上於朝、重諌曰、農作之前車駕未可以動。辛未天皇不従諌、遂幸伊勢。五月乙丑朔庚午、御阿胡行宮。
訓読 右は、日本紀に曰はく「朱鳥六年壬辰の春三月丙寅の朔の戊辰、浄廣肆廣瀬王等を以ちて留守の官となす。ここに中納言三輪朝臣高市麻呂その冠位を脱ぎて朝(みかど)に撃上(ささ)げ、重ねて諌めて曰はく『農作の前に車駕いまだ以ちて動くべからず』といふ。辛未、天皇諌(いさめ)に従はず、遂に伊勢に幸(いでま)す。五月乙丑の朔の庚午、阿胡の行宮に御(おは)す」といへり。

この歌自身は平凡な旅先の歌ですが、この歌の面白いのは「朱鳥六年の伊勢御幸の従駕の歌」としても良いところを、わざわざ農作の節の諫言の解説が付いていることです。この「農作の節の諫言」の説話は、万葉集、日本書紀や懐風藻等でも見ることが出来ます。つまり、当時としては、大事件だったようです。
古来、この左注の説話の内容から三輪朝臣高市麻呂は忠臣とされています。ただ、この説話で三輪高市麻呂が忠臣になるには、重要な条件があります。それは、春三月が「公式の農業の季節」でなければいけません。農業の季節には地域性がありますから、公式の農繁期の季節が定まっていない場合、天皇は冬以外に御幸が出来なくなりますし、思想や立場が違う者にとって気に食わなければ、いかようにも難癖は付けることが出来ます。また、農閑期である冬の時期も、北陸・畿内・九州では違います。
さて、そうすると問題は農繁期となる公式の「農作の節」なのですが、これが公では、その時期が明確ではありません。公の時期の判定の拠り所になりそうなのが「暦」と思います。この暦の内の二十四節気の中で、農業に直接関係するものが「穀雨」と「芒種」ではないでしょうか。この「穀雨」は旧暦三月下旬(4月20日頃)になりますし、「芒種」は旧暦五月上旬(6月6日頃)にあたります。集歌44の歌の左注にある「春三月丙寅朔戊辰」は、この年の旧暦三月三日(3月28日)に当たります。日本書紀によると伊勢国御幸は、旧暦三月六日(3月31日)に大和を出発し、十七日に伊勢で祭事を行い、三月二十日(4月14日)に大和の浄御原宮に還っています。つまり、朱鳥六年三月の伊勢国御幸は、暦の上で春の農作業が始まる「穀雨」の前に終わっていることになります。
また、これらの御幸の日程は、日本書紀の記事から推測すると、御幸の前に近隣諸国の騎兵や丁の人手を集めていますから、相当前に御幸の日程等が調整され決められています。つまり、三輪高市麻呂の「農作の節の諫言」によって予定されていた日程を変更して、「穀雨」以前に還って来たわけではありません。農業歴とも云われる当時の暦から推定して、この御幸は季節的には「農作の節」には当たりませんし、実際に行われた行幸と帰京の日程は、本来の暦から推定される「農作の節」を外すことを踏まえての行事日程です。
ここで、「暦」から、少し視点を変えてみます。
農業の専門家が指摘することですが、飛鳥時代に水稲稲作を行うのに「田起し」や「苗代作り」を行ったかは不明です。現在は、「田起し」や「苗代作り」を行う明治中期以降の「乾田起耕苗植法」と分類される水稲稲作ですが、飛鳥時代の当時は「深田不起耕直播法」と分類される水稲稲作ではないかとされています。この「深田不起耕直播法」とは、沼のような泥田で稲作を行う農法で、その地形から鋤や鍬などを使う田起こしはしません。また、苗を育て・植えることもしません。種を直に泥田に播く農法です。この「深田不起耕直播法」による稲作は、水がぬるみ深田に体を沈めても寒くない旧暦五月上旬に当たる「芒種(麦や稲の種を播く季節)」頃からが、当時の「農作の節」の季節ではないでしょうか。また、万葉集に載る東歌などから推測して、歌には農作業として田の草取りや山田での猪や鹿などの獣から田を守ることが辛いと歌われていますが、占い神事以外では苗による田植えは見えません。どうも、当時は開墾作業を除くと、水稲稲作自体は「深田不起耕直播法」が標準的な作業方法ではないでしょうか。
このように、暦と農作業の実務の面から「農作の節」を見てみますと、朱鳥六年三月の伊勢国御幸と実際の農作業の時節としての「農作の節」とは、関係が薄いと思われます。すると、実際の農作業の時節としての「農作の節」とは関係の無い、いいかがりとしての「農作の節の諫言」とは、何なのでしょうか。
さて、三輪高市麻呂が、朱鳥六年三月にこの「農作の節の諫言」をしたとき、日本書紀によると、彼は近江令の理官(治部省)です。当然、彼は、職務上、伊勢国御幸の反対の理由である「農作の節」が暦の上から季節的に理屈に合わないことを十分知っていますし、実際に計画されている御幸の日程は「農作の節」を踏まえて、それ以前に帰京することも知っています。さらに、重要なことには、この持統天皇が行った朱鳥六年三月の伊勢御幸の目的が、亡くなられた草壁皇子の豊受大神宮(俗称、伊勢外宮)への最初の遷宮祭(本来は落慶の入魂祭)であることも知っています。こうしてみますと、三輪高市麻呂は、誰に何を諫言したのか疑問が生じてきます。さて、三輪高市麻呂は、持統天皇に対して「豊受大神宮で神道により草壁皇子の霊を祭る」ことに反対したのでしょうか。

このような状況で、「農作の節の諫言」の事件では三輪高市麻呂の宗教的立場が重要ではないでしょうか。そこで、その観点から当時の時代と三輪高市麻呂の背景を見てみたいと思います。
さて、現代の私たちは不思議な感覚に陥りますが、飛鳥時代を代表する仏教信者の代表が、三輪高市麻呂で、飛鳥仏教の大檀那です。三輪一族ゆかりの三輪山は、三輪高市麻呂の飛鳥時代頃から明治二年の廃仏毀釈までは、大三輪寺と大御輪寺の二つの大寺院を中心に仏教寺院が立ち並び、戒壇を持つような仏教の聖地(政府公認の僧侶認定機関の性格も持つ)でした。それを創建・維持・管理したのが、三輪高市麻呂です。ただし、大三輪寺と大御輪寺は、共に官寺ではなく、三輪氏の私寺の性格を持つ寺です。ここで、同じ三輪一族ですが、名字で大神(みわ)朝臣は大神神社を祀る氏上です。他方、名字で三輪(みわ)朝臣は大三輪寺と大御輪寺とが代表する三輪寺院群の大檀那での保護者の立場です。そして、この事実は明治二年以降から昭和二十年までは、皇統派国家神道の人にとって知ってほしくない事項だったようです。それで、歴史好きには有名な事実ですが、普段の人には知られていなくて、現在の日本史において仏教の聖地である三輪山信仰がひどく誤解されています。神道の聖地になるのは、明治以降の水戸神道の流れを汲む新しい信仰です。
一方、天武天皇や太政大臣高市皇子が治めた飛鳥時代は、朝廷が天皇家の伊勢皇大神宮を頂点とする国家神道を形成する時期に当たります。朱鳥三年頃から、伊勢の皇大神宮、豊受大神宮と月読宮が整備されていますし、神道神事は天武天皇の時代から龍田神社・廣瀬神社の祭礼も始まります。それに伴い祝詞や儀礼が整備されたようです。ただし、飛鳥時代からの伊勢皇大神宮を頂点とする国家神道は、中国の仙人道教や墨家の思想と古くからの自然崇拝信仰との融合した洗練された近代宗教で、古くからの自然発生的な信仰の発展ではありません。天皇家を頂点とする近代国家神道は、各地の豪族たちの優越する身分の保証とその身分の由来を神話で担保し、その神話からの身分で朝廷での官位や昇階のルールを規定するような公の規定持つものです。さらに、各氏族が神社を持つ場合は、その神田・社田の保有と免税を許す実利のある規定を持っています。
このような天皇家を頂点とする近代国家神道が創られつつあった時の、一大イベントが朱鳥六年三月の草壁皇子の豊受大神宮での最初の遷宮祭です。これに対して、飛鳥仏教界最大の大檀那が、三輪高市麻呂です。さて、三輪高市麻呂は、農作業とは関係ない「農作の節の諫言」で、持統天皇に対して何を抗議したのでしょうか。仏教を信仰する持統天皇が草壁皇子の豊受大神宮での最初の遷宮祭に参加することでしょうか、それとも、仏教国家ではなく、天皇家を頂点とする近代国家神道による国家運営を行っていく新しい国家戦略でしょうか。
歴史では、飛鳥時代を築いた太政大臣高市皇子と左大臣丹比嶋が亡くなられた後に、失脚した三輪高市麻呂は復権します。

注:深田不起耕直播法は、一年中水田に水を蓄え泥田状態に保ち、田起し等を行わずに種を直接播く方法。田下駄や田舟で農作業を行い、牛馬を使用しない農作業の方法。
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