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竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

参考資料 官位朝服表

2015年02月28日 | 資料書庫
官位朝服表

注意;
本ブログではPDFファイルやExcelファイルは添付が出来ません。
そのため、グーグルドライブ上にファイルを保管し、それを引用出来るようにリンクを張りました。

 この官位朝服表を紹介する目的は、一般人の奈良時代での親王・諸王・諸臣での官位とそれに対応する朝服色の規定を再確認して頂きたい為です。
 さて、個人の考えですが、一般に紹介されている奈良時代の官位表と『続日本紀』本文に載る官位と朝礼などの正式の儀礼で着る朝服の規定とは一致していません。正式行事において、従五位下の諸王が着る朝服と正三位の臣民が着る朝服は同じ色です。そして、それは外交でも適用されますから、諸外国では同等とみなされるのではないでしょうか。それは従来の官位の認識と同じでしょうか。
 本来の大宝令や養老令に規定する諸王や諸臣の官位・朝服規定は別々のものであって、単純には比較することは困難です。朝服色を考えますと、諸王と諸臣二・三位の卿との区別は出来ません。


https://drive.google.com/file/d/0B13cUYgNOHKWLXFwQ0ZYLVhXQTA/view?usp=sharing
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万葉雑記 色眼鏡 百七 歌で遊ぶ万葉人

2015年02月28日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百七 歌で遊ぶ万葉人

 以前に「九七 紀女郎は老婆なのか」とテーマを打ち、万葉歌にはその表記と訓読みにおいて表で見せる歌意と同時に裏に隠された歌意を持つ歌があるとし、大伴家持が詠う集歌764の贈答返歌を紹介しました。
 『万葉集』は漢語と万葉仮名文字と云う漢字だけで表記された歌ですから、漢字の解釈によっては表裏二つの歌意を持つ歌として鑑賞できる可能性があります。これは『古今和歌集』以降に現れた平仮名歌における言葉を句の中に隠して詠う技法である折り句の歌と似たような言葉遊びや頓知問答歌のような世界なのかも知れません。
 それをかいつまんで紹介しますと、次のように説明することが出来ます。

<万葉集;表記での表意と訓読時の同音異義語の遊び歌>
集歌764 百年尓 老舌出而 与余牟友 吾者不厭 戀者益友
訓読 百年(ももとし)に老舌(おひした)出(い)でによよむとも吾は厭(い)とはじ恋ひは益(ま)すとも
私訳 百歳になり年老い口を開けたままで舌を出しよぼよぼになっても、私は嫌がることはありません。恋心が増しても。
<裏の意味>
試訓 百年(ももとし)に老羊歯(おひした)出(い)でに世々(よよ)むとも吾は厭(い)とはじ恋ひは益(ま)すとも
試訳 貴女は「古くて寂しいからとイヤではありませんが、早晩、このように百合の季節の後は寂しくなってしまうでしょう」と云いますが、百年と云う時間の中で羊歯が生い茂り、時代を越えて来たからといっても、私はその景色は嫌いではありません。反って、好ましいと云う気持ちは益したとしても。

 参考として、集歌764の歌は集歌762の歌の返歌の位置にあり、集歌764の歌に「神左夫(神さぶ)=」と云う言葉の風景観に反応してのものと鑑賞するのが本来と考えられます。

集歌762 神左夫跡 不欲者不有 八也多八 如是為而後二 佐夫之家牟可聞
試訓 神さぶと否(いな)にはあらね早(はや)多(さは)は如(か)くしに百合(ゆり)に寂(さぶ)しけむかも
試訳 この土地は古くて寂しいからとイヤではありませんが、早晩、いつものことのように百合の季節が終わってしまったら、風情は寂しくなってしまうでしょう。
注意 本来は「百合」ではなく、「後」の漢字を与えて、「後々には寂しく思うでしょう」と解釈します。

<古今和歌集;折り句で遊ぶ歌 をみなへし(女郎花)の言葉、五文字を句頭に隠したもの>
歌番号 439 物名 紀貫之
仮名 をくらやま みねたちならし なくしかの へにけむあきに しるひとそなき
読下 小倉山峰立ちならし鳴く鹿の経にけむ秋を知る人ぞなき 
意訳 小倉山の峰を歩き回って鳴く鹿が過ごしたであろう秋の数を知る人もない。

 紹介しましたように『万葉集』に載る歌には、和歌として情景や心情を詠うだけでなく、このような言葉遊びや頓知遊びを主たる目的とした相聞問答歌もあります。
 さて、和歌で遊ぶと云う視線から、同音異義語での言葉遊びや頓知遊びの源流を『万葉集』に探りますと、巻二に弓削皇子と額田王との間で頓知問答を交わした集歌111の歌から集歌113の歌までの、都合三首の相聞問答歌に辿り着きます。
 その三首の歌の鑑賞に先立ち、歌の背景を紹介しますと、歌が詠われたのは持統天皇五年四月と思われ、この時、弓削皇子は二十二歳前後で額田王は六十一歳ほどと思われます。およそ、老女と孫とに相当する年齢差です。ただし、その額田王は若かりし時には巻一に載る集歌16の歌の標題から推定されるように天智天皇の近江朝時代、漢詩を中心とした宮中での宴に参列し、題詞に沿って競う漢詩の宴で判者となるほどに漢詩にも造詣が深かったと推定される才媛ですし、宮中の宴では晴れやかなスターでした。

天皇、詔内大臣藤原朝臣、競憐春山萬花之艶秋山千葉之彩時、額田王、以謌判之謌
標訓 天皇の、内大臣藤原朝臣に詔(みことのり)して、春山の萬花(ばんくわ)の艶(にほひ)と秋山の千(せん)葉(ゑふ)の彩(いろどり)とを競はしたまひし時に、額田王の、歌を以ちて判(こと)れる歌

集歌16 冬木成 春去来者 不喧有之 鳥毛来鳴奴 不開有之 花毛佐家礼抒 山乎茂 入而毛不取 草深 執手母不見 秋山乃 木葉乎見而者 黄葉乎婆 取而曽思努布 青乎者 置而曽歎久 曽許之恨之 秋山吾者

訓読 冬こもり 春さり来(く)れば 鳴かざりし 鳥も来(き)鳴(な)きぬ 咲(さ)かざりし 花も咲けれど 山を茂(も)み 入りにも取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木(こ)し葉を見には 黄葉(もみち)をば 取りにそ偲(しの)ふ 青きをば 置きにそ嘆く そこし恨めし 秋山吾は

私訳 冬の木芽から春を過ぎ来ると、今まで鳴かなかった鳥も来て鳴き、咲かなかった花も咲きますが、山は茂り合っていて入ってその花を手に取れず、草は深くて花を手折って見ることも出来ない。秋の山では、その木の葉を眺めては、色付くその黄葉を手に取ってはとても美しいと思う。このまだ黄葉していない青葉は早く色付いて欲しいと思う。それがじれったく待ち遠しい。それで秋山を私は採ります。

 その古き時代には漢詩にも造詣が深く、宮中での行事では奉呈和歌や寿歌を詠うようなスターであった額田王の許に吉野御幸に従事した弓削皇子から集歌111の歌が贈られて来ます。これが頓知問答の口火となるものです。このとき、額田王は飛鳥浄御原宮に住んでいたと思われ、目出度い吉野御幸には従事せず留守居をしていたと推定されます。なお、解釈において私訳の注意として付記していますが、専門家のする解釈に沿わすために西本願寺本万葉集の表記には従わず、加字・変字して原文を変更しています。

幸于吉野宮時、弓削皇子贈与額田王謌一首
標訓 吉野宮に幸(いでま)しし時に、弓削皇子の額田王に贈り与へたる歌一首
集歌111 古尓 戀流鳥鴨 弓絃葉乃 三井能上従 渡遊久
訓読 古(いにしへ)に恋ふる鳥かも弓絃葉(ゆづるは)の御井(みゐ)の上より渡り遊(あそ)びく
私訳 昔を恋うる鳥だろうか、神事の弓絃葉を飾る御井のほとりをあちこちと飛び渡っていく
注意 一般には原文の「渡遊久」を「鳴」の字を足し「鳴渡遊久」と変え「鳴き渡りゆく」と訓みます。全体の歌意は変わりませんが鳥の情景が違います。

額田王和謌一首 従倭京進入
標訓 額田王の和(こた)へ奉(たてまつ)れる歌一首 倭の京(みやこ)より奉(たてまつ)り入る
集歌112 古尓 戀良武鳥者 霍公鳥 盖哉鳴之 吾戀流其騰
試訓 古(いにしへ)に恋ふらむ鳥は霍公鳥(ほととぎす)けだしや鳴きし吾(わ)が恋(こ)ふるそと
試訳 昔を恋しがる鳥はきっと霍公鳥でしょう。さぞかし鳴いたでしょうか。私がそれを恋しく思っているように。
注意 原文の「吾戀流其騰」は、一般には「吾念流碁騰」と大きく表記を変え「吾(わ)が念(おも)へるごと」と訓みます。そのため歌意が違います。

従吉野折取蘿生松柯遣時、額田王奉入謌一首
標訓 吉野より蘿(こけ)生(む)せる松の柯(えだ)を折り取りて遣はしし時に、額田王の奉(たてまつ)り入れたる歌一首
集歌113 三吉野乃 玉松之枝者 波思吉香聞 君之御言乎 持而加欲波久
訓読 み吉野の玉松(たままつ)し枝(え)は愛(は)しきかも君し御言(みこと)を持ちに通はく
私訳 み吉野の美しい松の枝は愛しいものです。物言わぬその松の枝自身が、貴方の御言葉を持って遣って来ました。

 さて、これら三首組歌での「ホトトギス」を詠う季節感と集歌111の歌の句「弓絃葉」からしますと、古来、神道神事において弓絃葉は繁栄を象徴する植物として奉げますので、歌は初夏の孟夏祭でのものではないかと推定されます。仏教色に染められる以前、奈良時代初期までの孟夏祭は風日祭でもあり、祭は旧暦四月一日となりますし、その年の豊作を願うものです。つまり、集歌111の歌には次の二つの暗示が込められていることになります。
 昔を恋う鳥
 農作業の開始を告げる
 額田王は漢詩に造詣が深いひとですから、中国の故事や漢詩集は教養として身につけていたと考えられます。従いまして、集歌111の歌を贈った弓削皇子は額田王が「杜宇の故事」は知っていることを前提にしています。参考として、その「杜宇の故事」を紹介します。

<参考;杜宇の故事についての解説>
『太平寰宇記』によると、蜀の王であった杜宇(望帝)は、宰相の鼈霊の謀反によって逃亡し、復位を計るも果たせず、怨魂が杜鵑になったとあります。農暦三月になると杜鵑に化して鳴き、民衆に播種の時期を知らせるそうです。
また別な伝承では、蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。=帰りたい)と鳴きながら血を吐いた、血を吐くまで鳴いた、などと言い、ホトトギスのくちばしが赤いのはそのためだ、と言われるようになったそうです。

 このように集歌111の歌を贈られた額田王は当然のように「杜宇の故事」を踏まえて、ホトトギスと云う鳥の名前を上げ、そして故事で示す鳴き声である「不如帰去」に因んで「吾戀流其騰」と歌を返します。ここまででも頓知歌ですが、さらにこの額田王が詠う歌での句中「其騰」と云う言葉をどのように解釈するかで、風流士か、どうかが決まります。
 弓削皇子はどのように返したか、その答えは歌無しでの「蘿生松柯」の贈り物です。しかしながら、この皇子の贈った「苔むす松の枝」を額田王は誉めています。なぜでしょうか、それを考えてみたいと思います。
 まず、現在もそうですが、松と鶴は長寿のシンボルとされ、目出度いものとされています。特に松は常緑であり、樹木自体も寿命が長い植物です。そこからか、紹介する中国の文章にあるように、百年、千年の生命と述べ、その松の実を食べると人は長寿になるとします。おおよそ、一般的な『万葉集』の解説では、この長寿を意味する苔むす松の枝をもって、額田王を祝ったとします。

『藝文類聚』巻八十八 木部上
原文 嵩高山記曰、嵩岳有大樹松、或百歳千歳。其精変為青牛、或為伏亀。採食其実、得長生。
訓読 嵩高山記に曰く、嵩岳に大樹の松有り、或いは百歳、千歳。其の精変じて青牛と為る。或いは伏亀と為る。其の実を採りて食すれば、 長生を得る。

 ただし、老女に対し、「貴女は老女だから、これからも長生きして下さいね」ということを、剥き付けに示すことが風流か、どうかと云うと、疑問を感じます。それと、奈良時代の歌人もまた平安時代の歌人と同じ態度であったとして、すこし意地悪な見方をしてみます。つまり、これらの歌三首が世に残り、『万葉集』に載ったのは、これらの相聞問答が吉野御幸での宴で、歌を飛鳥浄御原宮に残る額田王に贈ったらどのような反応を示すのか、それを確かめるようなことが座興として行われたのかもしれないのです。つまり、弓削皇子の名を使っていますが、持統天皇朝の現役の風流人と先の時代の風流スターであった額田王との風流対決であったかもしれないのです。
 ここで、以下に示す陶淵明の松を詠う漢詩を見て下さい。最初に紹介しましたように額田王は天智天皇の時代、漢詩を主体とする宴で左右の勝敗の判定を託されるような人物でした。つまり、女性ですが、漢詩や中国故事にも造詣が深かったと考えられますから陶淵明もまた教養として身にあったと考えますし、当時を代表する風流の第一人者です。
 個人の鑑賞ですが、御幸に同行している弓削皇子たちの真意はこの漢詩の世界を吉野御幸に招待されることなく飛鳥浄御原宮に残された額田王に示したのではないかと考えています。このような暗示があったのか、どうかは判りません。しかしながら、集歌111の歌に典拠が難しい「杜宇の故事」があるのなら、それよりも容易な陶淵明はあったと考えたためです。当然、相聞問答ですから、歌の内容をどのように解釈するか、はたまた、「蘿生松柯」をどのように解釈するかは、受け手の風流に依存します。

晋  陶潜(陶淵明)
飮酒二十首 其八
松在東園、衆草没其姿。 松東園に在れど、衆草其の姿を没す
凝霜殄異類、卓然見高枝。 凝霜異類を殄(ほろぼ)さば、卓然として高枝を見(あらは)す
連林人不覚、獨樹衆乃奇。 林に連なれば人覚(さと)らざるも、獨樹にして衆すなはち奇とす
提壺撫寒柯、遠望時復為。 壺を 提げて寒柯(かんか)を撫で、遠望して時に復(ま)た 為(な)す
吾生夢幻間、何事紲塵羈。 吾が生夢幻の間、何事ぞ塵羈(じんき)に紲(つな)がる

 参考として「飮酒二十首 其八」には、今、世に潜むような人であっても立派な人物は、夏、雑草に蔽われ青松を隠したとしても冬になり周囲の雑草が枯れるとちゃんとその姿を表すように、また、適材適所でなければ野にあってもそれに気付くように、人はそれに気付くでしょうと云う意味合いがあります。つまり、御幸に招待されていませんが集歌112の歌でちゃんと貴女は人々にその存在を示していますよと云うことになるでしょうか。
 これが万葉歌人の遊びだと思います。三首組歌は情景も心情も詠いません。互いの教養を認め合い、そこに遊ぶのです。もしこの穿った推測が正しいものとしますと吉野御幸に同行した風流人たちは額田王の教養に感嘆したかも知れませんし、場合に理解出来ない木偶であったかもしれません。ただ、そうでありましたら私のようなものには、ちょっと、怖い風流人の世界です。

 おまけとして、『万葉集』の集歌3909の歌の標題に「詠霍公鳥謌二首」とあり、本文中では「保登等藝須 周無等来鳴者(ホトトギス住むと来鳴かば)」とあります。他に類似の標題と本文表記のものがあり、「霍公鳥」は「ホトトギス」と訓じるのが『万葉集』での約束です。ただ、霍公鳥は音字からすると「かくこうちよう」とも訓じることが出来るため、万葉時代では「ホトトギス」と「カッコウ」は同じ鳥と認識されていたのではないかと想像します。参考例として、集歌1979の歌での「霍公鳥」とそれに続く「保等穂跡」の表現での可能性があります。

集歌1979 春之在者 酢軽成野之 霍公鳥 保等穂跡妹尓 不相来尓家里
訓読 春し在(あ)ばすがるなす野し霍公鳥(カツコトリ)ほとほと妹に逢はず来にけり
私訳 春の季節にはスガル蜂が飛び交う野にいるカツコトリ。その鳴き声が「カツコヒ(片恋)」と啼くように、ほとんど、腰細のスタイルの良い貴女に逢わずに過ごして来てしまった。

 なお、「カッコウ」は中国では漢字で「郭公」、「布谷」、「大杜鵑」と記しますが、それに対して『万葉集』では「郭公」などの表記は全くありません。また、中国では「ホトトギス」は「杜鵑」、「小杜鵑」、「子規」などと表記します。
 ここで、「ホトトギス」と「カッコウ」とは鳴き声や姿からするとその区別は容易なところから推定して、『万葉集』では「ホトトギス」は霍公鳥や保等登藝須と表記し、一方、「カッコウ」は「ヨブコトリ(喚兒鳥、喚子鳥、喚孤鳥)」や「カホトリ(杲鳥、容鳥)」がそれを示すのではないかとも考えられています。ただ、『万葉集』では歌と標題との関係において、作歌者自身が標題を付けることは例外的なこととされますから、標題から霍公鳥は「ホトトギス」であると決めてかかるのは危険かもしれません。さらに、中国語には「大杜鵑」と「小杜鵑」との表記があるように、漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表記する『万葉集』の世界では、ただ「杜鵑」とした時、その区分は中国漢字表記に従って情景に合わせて読み手に委ねられていたのかもしれません。
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万葉雑記 色眼鏡 百六 源氏物語と万葉集を考える

2015年02月21日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百六 源氏物語と万葉集を考える

 今回は、非常に偏見と狭差な考えに因るもので、悪臭が漂っています。最初にそれを案内し、ご勘弁を願います。
 さて、先に『遊仙窟』と云う伝奇小説にテーマを取り、遊びました。その関係で中古時代の漢籍将来とその受容と云うことについて検索を行った影響で少し『源氏物語』と紫式部に寄り道をしました。その寄り道の成果として「下品な万葉集歌を楽しむ」と云うものを弊ブログに載せています。弊ブログでは、寄り道の成果物の一部として「資料編 源氏物語引歌 万葉集部」と云うものを整備し資料として紹介をしています。ブログ記事一つ書くのに対しては実に馬鹿馬鹿しくも暇な話です。
 そのような各種、調べ物を行っている時に、少し、気になることがあり、直接の万葉集歌の鑑賞ではありませんが、万葉集歌の鑑賞態度に重要な問題点を含んでいると思えますので、その気になる点を紹介します。

 ここで、個人の感覚かもしれませんが『万葉集』や『源氏物語』は、ある種、女性目線での作品とも思えるほど男尊が表には出て来ていません。また、中国書籍では特異ですがこの匂いは『遊仙窟』にもあります。どうも、この男女平等的な扱いが近現代までの文学研究者たちには面白くなかったようです。そして、近現代までの儒教的かつ家長制度下での教育が、主に男子で構成される文学研究者たちの作品鑑賞態度に色眼鏡を掛けたのでないかと思えるのです。
 例えば、幕末期の歌人・国学者である萩原広道はその作品である『源氏物語評釈』で次のように評論しているようです。

女は万葉集にはうとく、源氏物語に引く歌で、万葉集の歌として意識して引いたと思われるものはない。原歌は万葉集であっても、実はみな『古今和歌六帖』などに見える歌である。
紫式部が万葉集の歌を引いているのは、みな「古今六帖」などによる。(「源氏物語たより151」より引用)

 また、明治から大正時代に新聞ジャーナリズムをリードした宮武骸骨は『売春婦異名集 全』を刊行して、その中で『万葉集』の女流歌人を次のように罵倒しています。

遊女を賤業婦であると卑しむのは後世のことである。だからわたしは、『万葉集』第二巻所載の石川郎女(いしかわのいらつめ)をはじめとして、巨勢郎女(こせのいらつめ)、依羅娘子(いらのいらつめ)、坂上郎女、阿部郎女などはことごとく遊女であると見るのである。
その事実の証明としては、第一の石川郎女のごときは、久米禅師、大津皇子ほか多数のなじみ男があるというのに、さらに押しかけ売春として大伴宿禰田主の家に行き、それをハネられたので、「風流男(みやびを)と吾は聞けるを宿貸さず、吾を帰せり をぞ(愚鈍)の風流男」と詠んで、押し売りに応じない男を馬鹿者と罵っている。これこそ放浪的売春の遊行女婦サブルコ、うかれめでなくて何であろうか、と言いたいのである。

 面白いものです。萩原広道は自身が苦労して解読した訓点付万葉集の歌を「平安時代の女が解読できるはずはない。当時、存在していた平仮名表記の『古今和歌六帖』から引用したに違いない」と決めつけています。他方、宮武骸骨に至っては宮中で男女が遊びで和歌を相聞すると云う、古来の歌垣から発展した歌会のようなものへの想像も出来ず、また、万葉集歌本来の鑑賞も出来ない能力不足を、女性を罵倒することで隠しています。まったくもって、酷いものです。ただ、宮武骸骨は当時の新聞ジャーナリストのスターですから、どこかの新聞社のようにセンセーショナルを売り物に部数を売るのを目的として真実はどうでもよかったかもしれません。戦前ですが、宮武骸骨と同じ時代、毎日新聞や朝日新聞は軍部とともに政府を叩きに叩き、戦争へと日本を導くことで大会社へと成長しています。今も昔も戦争とポルノはジャーナリストの原動力です。
 そのような時代です。しかしながら、困ったことがあります。萩原広道にしろ、宮武骸骨にしろ、現代の研究からすれば論外の「トンデモ研究」ですが、彼らの時代では大変な権威のする研究として世をリードするようなものとして扱われています。その影響下、近々まで石川女郎は単独の女流歌人であり恋多き女性と云うものを推定する研究者が存在しました。そこには万葉集中の作品間に五十年近い時代の流れとその時代毎に違う複数人の「石川女郎(郎女)」の存在、場合によっては「XX小町」のような美人の代名詞としての名前の借用と云う発想はありませんでした。つまり、そのような研究者は自身の説で宮武骸骨たちの「トンデモ研究」に引きずられた結果、宮武骸骨たちと同様に原文からきちんと『万葉集』を鑑賞出来ていないことを証明しています。
 また、万葉集訓点付の研究では藤原道長の時代以前にすでに約四千首の短歌には古点が付けられていた(桂本万葉集の研究)としますから、『白氏文集』などの漢籍が自在であった紫式部・清少納言たちに代表される宮中女房たちにとって訓点万葉集が読解出来ないはずはありません。こうした時、明治期から昭和期までの研究者は、そのような基礎的視野を持っていたかのでしょうか。当然、この点は源氏物語引歌の引用元の推定議論にも大きく影響します。清少納言は『枕草子』で読むべきものの筆頭に『万葉集』、『古今和歌集』、『後撰和歌集』を挙げていますし、『源氏物語』の文中に嵯峨天皇の四巻本古万葉集を取り上げます。ですから、引用元にこの三歌集を筆頭に想定するのが論理的ではないでしょうか。
 ここで、冒頭に「資料編 源氏物語引歌 万葉集部」の話題を紹介しましたが、源氏物語引歌を調べますと、萩原広道の主張とは違い『古今和歌六帖』に典拠を取れない万葉集歌は存在します。

<例1>
源氏物語 四帖 夕顔
引歌文 あさけの姿は、げに、人のめできこえんもことわりなる御さまなりけり。
万葉集巻十二 集歌2841
原文 我背子之 朝明形 吉不見 今日間 戀暮鴨
訓読 我が背子し朝明(あさけ)し姿よく見ずて今日し間(あひだ)し恋ひ暮らすかも
読下 わがせこのあさけのすがたよくみずてけふのあひたをこひくらすかも
私訳 私の貴方がまだ薄暗い朝明けの中を帰っていく姿をはっきりと見ないまま、おぼつかなく、今日の一日を恋しく暮らすのでしょうか。

<例2>
源氏物語 第六帖 末摘花
引歌文 故宮おはしましし世を、などてからしと思ひけむ。かく頼みなくても過ぐるものなりけりとて、飛び立ちぬべくふるふもあり。
万葉集巻五 集歌893
原文 世間乎 宇之等夜佐之等 於母倍杼 飛立可祢都 鳥尓之安良祢婆
訓読 世間(よのなか)を憂(う)しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
読下 よのなかをうしとやさしとおもへともとひたちかねつとりにしあらねば
私訳 この世の中を辛いことや気恥ずかしいことばかりと思っていても、この世から飛び去ることが出来ない。私はまだ死者の魂と云う千鳥のような鳥ではないので。

 特に第六帖の末摘花でのものは『万葉集』巻五に載る山上憶良が詠う「貧窮問答歌」の短歌からのもので、『古今和歌六帖』を始めとして他にもありません。まず、面倒でも源氏物語引歌を丁寧に調べますと、今日の研究では萩原広道のものは調査深度が浅いと云うことが判ります。または、彼の研究成果は「女では『万葉集』は読めない」と云う色眼鏡を掛けたためではないかと云う疑惑があります。
 もう一つ、源氏物語引歌の研究は、読者は『源氏物語』の地文は自在に読めることを前提とし、『源氏物語』は和歌の本歌取の技法と同様に先行する和歌の部分から採用した句を示すことで和歌が詠う世界を文中に取り込み、それにより文章が示す世界により広がりを持たせていることを、引用したであろう元歌を示すことで明らかにします。この背景から『源氏物語』が整備された直後から源氏物語引歌の研究はスタートしていますし、本質における『源氏物語』の鑑賞や研究はこの源氏物語引歌の研究に集約されざるを得ません。
 その引歌の技法からしますと、元歌が複数存在したのでは引用して物語の文章に広がりを持たすはずの効果に混乱を生じさせることになります。読者がそれぞれの好みで別々の元歌を任意に選択出来るのでは引用する目的を達成できません。ですから、引歌の技法理論からしますと、以下に紹介する第三四帖の若菜上でのものは『万葉集』からでなくてはならず、類型歌が複数存在する『古今和歌六帖』ではあってはいけないのです。逆に見ますと、原則、先行する和歌集から類聚した秀歌集である『古今和歌六帖』は使えず、本来の原典である『万葉集』、『古今和歌集』、『後撰和歌集』からでなくてはいけません。源氏物語引歌の研究は単なる文字列の一致を調べるものではありません。歌が示す世界を物語に導引していることを示すことであり、その引用したであろう和歌と物語との相乗を検討するものなのです。さて、萩原広道の『源氏物語評釈』に載る解説を参照する人は、それを認識しているでしょうか。
 なお、平安時代中期での『万葉集』の訓じは現代に流布するものではなく『古今和歌六帖』に載る万葉集歌の訓じと同等なものが平安時代中期の認識とすべきです。紫式部は現代訓読み万葉集を知らないことを原則とする必要があります。「紫式部は現代訓読み万葉集を知っている」と決め付けたようなトンデモ研究は無しです。

<例3>
源氏物語 第三四帖 若菜上
引歌文 水鳥の青羽は色も変はらぬを萩の下こそけしきことなれなど、書き添へつつすさびたまふ。
万葉集巻八 集歌1543
原文 秋露者 移尓有家里 水鳥乃 青羽乃山能 色付見者
訓読 秋露は移しにありけり水鳥の青羽(あをば)の山の色付く見れば
読下 あきつゆはうつりにありけりみすとりのあをはのやまはいろつくみれは
私訳 秋の露は彩りを移す染める物だなあ。水鳥の青い羽が秋山の彩に染まっていくのを見ると。
六帖 白露はうつしなりけり水鳥の青葉の山の色づくみれば(第二帖-921)
六帖 紅葉する秋は来にけり水鳥の青葉の山の色づくみれば(第三帖-1468)

 対して宮武骸骨についてですが、彼の本業は権威指弾と云う建前でのセンセーショナルを売りとした新聞ジャーナリストですから、『万葉集』をきちんと鑑賞出来ていないのは仕方がないかもしれませんし、そのような学問的な要請もありません。テレビに出て来る大学教授との肩書を持つタレントが番組責任者から筋書きに沿って専門外の分野に対し単なる素人の雑談・パロディとしてコメントをさせられているのと同じです。
 古典が専門では無い宮武骸骨としては、『売春婦異名集全』と云うセンセーショナルな題名を付けた書籍の販売が最重要な目的です。内容は発禁の可能性のある皇族を除き、古代からの大衆が知る有名女性はすべて売春婦であったと云う大衆受けする結論を事前に設定し、それに向かって論を立てれば良いのです。正誤は関係ありません。本が売れるか、売れないかです。ですから、最初から結論は見えています。場合により、彼は言葉として石川女郎と云うものを知っていた程度かもしれません。どっかの新聞社と同じです。事実を真摯に研究するより、読者の期待に沿ったセンセーショナルな創作が販売では重要です。また、彼らは最後には報道は学問じゃないと開き直れば、真実性は関係ありません。
 ただし、宮武骸骨を擁護するのではありませんが、彼の時代、『万葉集』の鑑賞と云う場面において、斎藤茂吉に代表されるように学問として原文を整備し、その原文から訓読みを精査した上で歌を鑑賞するようなことはまだまだの時代です。和歌の歌人として、伝統とされた漢字交じり平仮名表記の万葉集歌を鑑賞し、個人の感想を述べることが研究とされた時代です。つまり、ある種、読書感想の随想が学問とされた時代です。宮武骸骨も斎藤茂吉も随想では同等です。およそ、原文表記での表記方法の相違から時代の新旧推定や漢字交じり平仮名表記された万葉集歌自体のその訓読みの正当性と云う学問的な問題には目が向きづらい状況でした。

 最後に個人の一方的な感想ですが、昭和四十年代以前の国文学の資料を参照される場合、その論拠を貴女自身が整備するデータベースから確認・検証されることをお勧めします。また、その場合、板書のさらなる板書のようなものではなく、極力、原文から整備された一次資料的なものを使用することを勧めます。現代はインターネット上から著作権が切れた古典原文は電子データとして容易に入手が可能ですし、貴重な原本も写真データとして公表されています。
 さらに、専門家が行ったとする漢文訓読みは信用せず、面倒でも漢語辞典やインターネット検索を通じて漢唐時代の用語例などから丁寧に扱われることを勧めます。斎藤茂吉氏の『万葉秀歌』は有名な書籍ですが、斎藤茂吉氏が『万葉集』に載る漢文をきちんと読解出来たかについては大正期以前の人々と同様に平成以降では否定的に扱われています。『万葉集』巻五は前置漢文を正確に解釈出来ませんと、それが説明する大和歌は鑑賞することは困難です。しかしながら、斎藤氏は、少なくとも「大宰帥大伴卿報凶問歌一首」や「日本挽謌一首」などの前置漢文の理解に対しその難を指摘することは可能です。
 背景として、漢語辞典や漢唐時代の用語例を丁寧に調べますと近現代の漢字の解釈と奈良時代での漢字の解釈が違うものがあることに気付くと思います。そうした時、データベース構築や検索技術が今一つであった平成期以前では丁寧な漢語検討は非常に困難であったと推察します。従って、近代の忙しい国文学研究者は、勢い、旧来の解釈をそのまま引用することになったと考えます。およそ、板書のさらなる板書のようなもの形です。

 今回もまた、ブログアップへのノルマ稼ぎとテーマに対する時間稼ぎのようなものになりました。反省する次第です。
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資料編 六百番歌合から鎌倉貴族の万葉集読解を探る 『六百番歌合・六百番陳状』と万葉集

2015年02月19日 | 資料書庫
資料編 六百番歌合から鎌倉貴族の万葉集読解を探る
『六百番歌合・六百番陳状』と万葉集

 この資料は鎌倉時代中期、まだ仙覚による『万葉集』への新点が行われていない時代、平安時代末期から鎌倉時代初期を代表する歌人である藤原俊成と阿闍梨顕昭とがどのように『万葉集』を読んでいたかを確認するものです。
 紹介する資料は『六百番歌合・六百番陳状』(峯岸義秋校訂、岩波文庫)に載る歌合での判定に対する俊成の評論とそれに反論した顕昭の、それぞれが論拠として引用した万葉集歌を転記し、紹介しています。この鎌倉時代初期での万葉集歌の訓みの検討を行う趣旨に従い『万葉集』底本は『萬葉集』(おうふう)からその脚注を使って復元した西本願寺本万葉集歌を用い、その西本願寺本万葉集歌に対する個人の行為としての試みの私訓を使用しています。また、正統な現代の訓みとして校本万葉集からのものを「校本」と称して載せています。このような背景があるため、ここでのものは学問ではありません。つまり、引用には耐えません。
 なお、俊成や顕昭が歌論の中で万葉集歌の一部分のみを引用するものは、歌の訓みの比較と云う趣旨から、『六百番歌合』及び『六百番陳状』に載るものであってもここではその歌の紹介を省略しています。

 紹介は次のような構成で行っています。
 紹介元;『六百番歌合』または『六百番陳状』の順に従う
 歌番号;万葉集の歌番号
 底本;西本願寺本万葉集準拠しており、校本万葉集とは必ずしも一致しない。
 歌合訓じ;藤原俊成または阿闍梨顕昭の訓じ、俊成または顕昭と表示
 校本訓じ;校本万葉集の訓じ、校本と表示
 私訓訓じ;弊ブログでの訓じ、私訓と表示


 『六百番歌合』より 藤原俊成の読み
歌番号 2265
底本 朝霞 鹿火屋之下尓 鳴蝦 聲谷聞者 吾将戀八方
俊成 朝霞かひやが下に鳴く蛙聲だに聞かば家戀ひんやは
校本 朝(あさ)霞(かすみ)鹿火屋(かひや)が下に鳴くかはづ声だに聞かば吾れ恋ひめやも
私訓 朝霞(あさかすみ)鹿火屋(かひや)し下に鳴くかはづ声だに聞かば吾(われ)戀ひめやも

歌番号 3818
底本 朝霞 香火屋之下乃 鳴川津 之努比管有常 将告兒毛欲得
俊成 朝霞かひやが下に鳴く蛙忍びつゝありやと告げん子もがも
校本 朝(あさ)霞(かすみ)鹿火屋(かひや)が下(した)の鳴くかはづ偲ひつつありと告げむ子もがも
私訓 朝霞(あさかすみ)鹿火屋(かひや)の下の鳴くかはづ偲(しの)ひつつありと告げむ子もがも

歌番号 3387
底本 安能於登世受 由可牟古馬母我 可豆思加乃 麻末乃都藝波思 夜麻受可欲波牟
俊成 あの音せず行かん駒もが葛飾のまゝの繼橋やまず通はん
校本 足(あ)の音(おと)せず行かむ駒もが葛飾(かつしか)の真間(まま)の継橋やまず通はむ
私訓 足(あ)の音(おと)せず行かむ駒もが葛飾の真間(まま)の継橋やまず通はむ


 『六百番陳状』より 阿闍梨顕昭の読み
歌番号 815
底本 武都紀多知 波流能吉多良婆 可久斯許曽 烏梅乎乎利都々 多努之岐乎倍米
顕昭 む月たち春のきたらばかくもこそ梅をかざして楽しきをつめ
校本 正月(むつき)立ち春の来(き)たらば如(かく)しこそ梅を招(を)きつつ楽しきを経(へ)め
私訓 正月(むつき)立ち春の来(き)たらば如(かく)しこそ梅を招(を)りつつ楽しきを経(へ)め

歌番号 4137
底本 牟都奇多都 波流能波自米尓 可久之都追 安比之恵美天婆 等枳自家米也母
顕昭 む月たつ春の初にかくしつつあひしゑみてはときじけめやも
校本 正月(むつき)立つ春の初めにかくしつつ相し笑(ゑ)みてば時じけめやも
私訓 正月(むつき)立つ春の初めにかくしつつ相(あひ)し笑(ゑ)みてば時じけめやも

歌番号 3841
底本 佛造 真朱不足者 水渟 池田乃阿曽我 鼻上乎穿礼
顕昭 佛つくるあかに足らずは水たまる池田のあそが鼻の上を掘れ
校本 仏造る真朱(まそ)足らずは水溜まる池田の朝臣(あそ)が鼻の上(うへ)を掘れ
私訓 佛造る真朱(まそ)足らずは水渟(た)まる池田の阿曽(あそ)が端(はな)し上(へ)を掘れ
注意 古語の「阿曽」は崖地を意味しますが、ここでは同時に諧謔として「朝臣」を意味します。

歌番号 2230
底本 戀乍裳 稲葉掻別 家居者 乏不有 秋之暮風
顕昭 戀ひつつも稲葉かき分け家居せばともしくもあらじ秋の夕風
校本 恋ひつつも稲葉かき別け家(いへ)居(を)れば乏(とも)しくもあらず秋の夕風
私訓 戀ひつつも稲葉かき別け家(いへ)居(を)れば乏(とも)しくもあらず秋の暮風(ゆふかぜ)

歌番号 4429
底本 宇麻夜奈流 奈波多都古麻乃 於久流我弁 伊毛我伊比之乎 於岐弖可奈之毛
顕昭 むまやなる縄たつ駒のおくるなべ妹がいひしおきてかなしも
校本 馬屋なる縄立つ駒の後るがへ妹が言ひしを置きて悲しも
私訓 馬屋(うまや)なる縄立つ駒の後(おく)るがへ妹が云ひしを置きて悲しも

歌番号 4292
底本 宇良々々尓 照流春日尓 比婆理安我里 情悲毛 比等里志於母倍婆
顕昭 うらゝにて照れる春日に雲雀あがる心かなしも猶し思へば
校本 うらうらに照れる春日(はるひ)に雲雀(ひばり)上がり心悲しも独し思へば
私訓 うらうらに照れる春日(はるひ)に雲雀(ひばり)上がり心悲しも獨(ひとり)し思へば

歌番号 2649
底本 足日木之 山田守 翁置 蚊火之粉枯耳 余戀居久下
顕昭 足引の山田もるをのおくかひの下焦れつゝわが戀ふらくは
校本 あしひきの山田(やまだ)守(も)る翁(おきな)が置く蚊火(かひ)の下(した)焦(こが)れのみ余(わ)が恋ひ居(を)らむ
私訓 あしひきし山し田し守(も)る翁(おきな)置く蚊火(かひ)し焦(こが)れみ余(あ)が恋ひ居(を)くし

歌番号 88
底本 秋田之 穂上尓霧相 朝霞 何時邊乃方二 我戀将息
顕昭 秋の田のほのうへきりあふ朝霞いづくの方に我戀やまん
校本 秋の田の穂の上(うへ)に霧(き)らふ朝(あさ)霞(かすみ)何処(いつ)辺(へ)の方(かた)に我が恋やまむ
私訓 秋し田し穂(ほ)し上(へ)に霧(き)らふ朝霞(あさかすみ)何時辺(いつへ)の方(かた)に我(あ)が戀やまむ

歌番号 1940
底本 朝霞 棚引野邊 足桧木乃 山霍公鳥 何時来将鳴
顕昭 朝霞たなびく野べに足引の山時鳥いつか来なかん
校本 朝霞たなびく野辺(のべ)にあしひきの山霍公鳥いつか来鳴かむ
私訓 朝霞たなびく野辺(のへ)にあしひきの山霍公鳥(ほととぎす)いつか来鳴かむ

歌番号 2174
底本 秋田苅 借廬乎作 吾居者 衣手寒 露置尓家留
顕昭 秋田かるかり庵つくり我をれば衣も寒し露ぞ置きにける
校本 秋田刈る刈廬(かりほ)を作り吾が居(を)れば衣手(ころもて)寒く露ぞ置きにける
私訓 秋田刈る刈廬(かりほ)を作り吾(あ)が居(を)れば衣手(ころもて)寒く露ぞ置きにける

歌番号 2161
底本 三吉野乃 石本不避 鳴川津 諾文鳴来 河乎浄
顕昭 みよし野の岩もとさらず鳴く蛙うべもなきけり川の瀬ごとに
校本 み吉野の石本(いはもと)さらず鳴くかはづうべも鳴きけり川を清(さや)けみ
私訓 み吉野の石本(いはもと)さらず鳴くかはづうべも鳴きけり川を清(さや)けみ

歌番号 2162
底本 神名火之 山下動 去水丹 川津鳴成 秋登将云鳥屋
顕昭 神なみの山下とよみ行く水に蛙鳴くなり秋のいはんとや
校本 神南備(かむなび)の山下(やました)響(とよ)み行く水にかはづ鳴くなり秋と言はむとや
私訓 神名火(かむなひ)し山下(やました)響(とよ)み行く水にかはづ鳴くなり秋と云はむとや

歌番号 2163
底本 草枕 客尓物念 吾聞者 夕片設而 鳴川津可聞
顕昭 草枕旅に物思ふわがきけばゆふかたまちて鳴く蛙かな
校本 草枕旅に物念(おも)ひ吾(わ)が聞けば夕(ゆふ)片設(かたま)けて鳴くかはづかも
私訓 草枕旅に物(もの)念(も)ひ吾(わ)が聞けば夕(ゆふ)片設(かたま)けて鳴くかはづかも

歌番号 2164
底本 瀬呼速見 落當知足 白浪尓 川津鳴奈里 朝夕毎
顕昭 瀬をはやみ落ちたきつたつ白波に蛙鳴くなり朝ゆふごとに
校本 瀬を速み落ち激(たぎ)ちたる白波にかはづ鳴くなり朝夕(あさよひ)ごとに
私訓 瀬を速み落ち激(たぎ)たる白波にかはづ鳴くなり朝夕(あさよひ)ごとに

歌番号 2165
底本 上瀬尓 河津妻呼 暮去者 衣手寒三 妻将枕跡香
顕昭 かみつせに蛙つま呼ぶ夕されば衣手寒し妻まかむとは
校本 上つ瀬にかはづ妻呼ぶ夕(ゆふ)されば衣手(ころもて)寒み妻枕(ま)かむとか
私訓 上つ瀬にかはづ妻呼ぶ暮(ゆふ)されば衣手(ころもて)寒み妻枕(ま)かむとか

歌番号 2222
底本 暮不去 河蝦鳴成 三和河之 清瀬音乎 聞師吉毛
顕昭 夕さらす蛙鳴くなりみわ川の清き瀬の音をけはしよしも
校本 夕(ゆふ)さらずかはづ鳴くなる三輪川の清き瀬の音を聞かくし良(よ)しも
私訓 暮(ゆふ)さらずかはづ鳴くなる三輪川し清き瀬音(せをと)を聞かくし吉(よ)しも

歌番号 2267
底本 左小牡鹿之 朝伏小野之 草若美 隠不得而 於人所知名
顕昭 さを鹿の朝ふす小野の草わかみかくろへかねて人にしらるな
校本 さ雄(を)鹿(しか)の朝伏す小野の草(くさ)若(わか)み隠(かく)らひかねて人に知らゆな
私訓 さ雄鹿(をしか)し朝伏す小野し草(くさ)若(わか)み隠(かく)らひえずに人そ知らゆな

歌番号 2268
底本 左小牡鹿之 小野草伏 灼然 吾不問尓 人乃知良久
顕昭 さを鹿の小野の草ぶしいちじるく我とは更に人の知るらん
校本 さ雄(を)鹿(しか)の小野の草(くさ)伏(ぶ)しいちしろく吾が問(と)はなくに人の知れらく
私訓 さ雄鹿(をしか)し小野し草伏(くさふ)しいちしろく吾(あ)が問(と)はなくに人の知れらく

歌番号 2239
底本 金山 舌日下 鳴鳥 音聞 何嘆
顕昭 金山舌(した)日下(ひかした)になく鳥の聲だに聞けばなどけがるる
校本 秋山のしたひが下(した)に鳴く鳥の声だに聞かば何か嘆かむ
私訓 秋山ししたひが下(した)し鳴く鳥し声だに聞かば何か嘆かむ
注意 顕昭は、金山は「かな山の」又は「秋山の」と訓むと云う

歌番号 1994
底本 夏草乃 露別衣 不著尓 我衣手乃 干時毛名寸
顕昭 夏草の露分衣著もせぬにわが衣手のひる時もなし
校本 夏草の露(つゆ)別(わ)け衣(ころも)着(つ)けなくに我が衣手(ころもて)の干(ふ)る時もなき
私訓 夏草の露(つゆ)別(わ)け衣(ころも)著(つ)けなくに我が衣手(ころもて)の干(ふ)る時もなき

歌番号 1984
底本 廼者之 戀乃繁久 夏草乃 苅掃友 生布如
顕昭 此の頃の戀のしげげく夏草の刈りくれども生ひしくがごと
校本 このころの恋の繁けく夏草の刈り掃(はら)へども生(お)ひしく如し
私訓 このころし恋の繁けく夏草の刈り掃(はら)へども生(お)ひしく如し

歌番号 1983
底本 人言者 夏野乃草之 繁友 妹与吾 携宿者
顕昭 人ごとは夏野の草のしげくとも妹と我としたづさはりねば
校本 人言(ひとこと)は夏野の草の繁(しげ)くとも妹と吾(わ)れとし携(たづさ)はり寝(ね)ば
私訓 人言(ひとこと)は夏野の草し繁(しげ)くとも妹と吾(われ)と携(たづさ)はり寝(ね)ば

歌番号 250
底本 珠藻苅 敏馬乎過 夏草之 野嶋之埼尓 舟近著奴
顕昭 玉藻かるとしまを過る夏草の野島が崎に船近づきぬ
校本 珠藻刈る敏馬(みぬめ)を過ぎて夏草の野島(のしま)が崎に舟近づきぬ
私訓 珠藻刈る敏馬(みぬめ)を過ぎて夏草し野島(のしま)し崎に舟近づきぬ

歌番号 1981
底本 霍公鳥 来鳴五月之 短夜毛 獨宿者 明不得毛
顕昭 時鳥鳴くやさ月のみじか夜も獨しぬれば明かしかねつも
校本 霍公鳥来鳴く五月(さつき)の短夜(みじかよ)もひとりし寝(ぬ)れば明(あか)しかねつも
私訓 霍公鳥(ほととぎす)来鳴く五月(さつき)し短夜(みじかよ)もひとりし寝(ぬ)れば明(あか)しかねつも

歌番号 1558
底本 鶉鳴 古郷之 秋芽子乎 思人共 相見都流可聞
顕昭 鶉鳴くいはれの野邊の秋萩を思ふ人とも見つるけふかな
校本 鶉(うずら)鳴く古(ふ)りにし里の秋萩を思ふ人どち相見つるかも
私訓 鶉(うずら)鳴く古(ふ)りにし里し秋萩を思ふ人どち相見つるかも

歌番号 74
底本 見吉野乃 山下風之 寒久尓 為當也今夜毛 我獨宿牟
顕昭 み吉野の山下風の寒けくにはたやこよひも我獨ねん
校本 み吉野の山の下風(あらし)の寒けくにはたや今夜も我が独り寝(ね)む
私訓 み吉野の山し下風(あらし)し寒けくにやとや今夜も我(わ)が獨(ひとり)寝(ね)む

歌番号 1556
底本 秋田苅 借蘆毛未壊者 鴈鳴寒 霜毛置奴我二
顕昭 秋田かるかりいほも未だこぼれぬに雁がね寒し霜おきぬがに
校本 秋田刈る刈廬(かりほ)もいまだ壊(こぼ)たねば雁が音(ね)寒し霜も置きぬがに
私訓 秋田刈る刈廬(かりほ)もいまだ壊(こぼ)たねば雁が音(ね)寒し霜も置きぬがに

歌番号 3452
底本 於毛思路伎 野乎婆奈夜吉曽 布流久左尓 仁比久佐麻自利 於非波於布流我尓
顕昭 面白き尾花なきそふる草ににこ草まじりおひはおふるがに
校本 おもしろき野をばな焼きそ古草(ふるくさ)に新草(にひくさ)交(まじ)り生ひは生ふるがに
私訓 おもしろき野(の)尾花(をばな)焼きそ古草(ふるくさ)に新草(にひくさ)交(まじ)り生(お)ひは生(お)ふるがに

歌番号 2219
底本 足曳之 山田佃子 不秀友 縄谷延与 守登知金
顕昭 足引の小山田つくるこひてすともつなだにはへよもるとしかね
校本 あしひきの山田(やまだ)作る子秀(ひ)でずとも縄(なは)谷(たに)に延(は)へよ守(も)ると知るがね
私訓 あしひきし山田(やまだ)作る子秀(ひ)でずとも縄(なは)谷(たに)し延(は)へよ守(も)ると知るがね

歌番号 1958
底本 橘之 林乎殖 霍公鳥 常尓冬及 住度金
顕昭 橘の林をうゑん郭公つねに冬まですみ渡るかな
校本 橘の林を植ゑむ霍公鳥常に冬まで住(す)み渡るがね
私訓 橘し林を植ゑむ霍公鳥(ほととぎす)常に冬まで住(す)み渡るがね

歌番号 2683
底本 彼方之 赤土少屋尓 霈零 床共所沾 於身副我妹
顕昭 久堅のはにふの小屋に小雨降りそこさへぬれぬ身にそへわぎもこ
校本 彼方(をちかた)の赤土(ひにふ)の小屋(をや)に小雨(こさめ)降り床(とこ)さへ濡れぬ身に副(そ)へ我妹(わぎも)
私訓 彼方(をちかた)し赤土(はにふ)し小屋(をや)に小雨(こさめ)降り床(とこ)とそ濡れぬ身に副(そ)へ我妹(わぎも)

歌番号 357
底本 縄浦従 背向尓所見 奥嶋 榜廻舟者 釣為良下
顕昭 なはの浦を背向に見ゆるおくの島漕ぎまよふには釣せすらしも
校本 縄(なわ)の浦ゆ背向(そがひ)に見ゆる沖つ島漕ぎ廻(み)る舟は釣りしすらしも
私訓 縄(なは)し浦ゆ背向(そがひ)にそ見ゆ沖つ島漕ぎ廻(み)る舟は釣りしすらしも

歌番号 358
底本 武庫浦乎 榜轉小舟 粟嶋矣 背尓見乍 乏小舟
顕昭 むこの浦をこぎまふを舟あは島を背にみつゝともしき小舟
校本 武庫(むこ)の浦を漕ぎ廻(み)る小舟(をふね)粟島(あはしま)を背向(そがひ)に見つつ羨(とも)しき小舟
私訓 武庫(むこ)浦を漕ぎ廻(み)る小舟(をふね)粟島(あはしま)を背向(そがひ)に見つつ乏(とも)しき小舟

歌番号 4472
底本 於保吉美乃 美許登加之古美 於保乃宇良乎 曽我比尓美都々 美也古敝能保流
顕昭 大君のみことかしこみ麻生の浦をそがひに見つゝ都にのぼる
校本 大君の命(みこと)畏(かしこ)み於保(おほ)の浦をそがひに見つつ都へ上る
私訓 大王(おほきみ)の御言(みこと)畏(かしこ)み於保(おほ)の浦を背向(そがひ)に見つつ都へ上る

歌番号 1412
底本 吾背子乎 何處行目跡 辟竹之 背向尓宿之久 今思悔裳
顕昭 わがせこをいづちゆかぬと辟竹のそがひにねむく今しくやしも
校本 吾が背子を何処(いづち)行かめと辟竹(さきたけ)の背向(そがひ)に寝(ね)しく今し悔(くや)しも
私訓 吾が背子を何処(いづち)行かめと辟竹(さきたけ)し背向(そがひ)に寝(ね)しく今し悔(くや)しも

歌番号 2338
底本 霰落 板敢風吹 寒夜也 旗野尓今夜 吾獨寐牟
顕昭 みぞれふる板間風吹き寒き夜やはたのに今夜わが獨りねん
校本 霰(あられ)降(ふ)りいたく風吹き寒き夜や旗野(はたの)に今夜(こよひ)吾が独り寝(ね)む
私訓 霰(あられ)降(ふ)り塡(は)むこ風吹き寒き夜や旗野(はたの)に今夜(こよひ)吾が独り寝(ね)む
注意 底本の「板敢風吹」の「敢」は、一般に「玖」の誤記として「いたく風吹き」と訓みます。ただし、板聞(イタモ)、板敢(サカヘ)、板暇(イタマ)等の別訓があります。ここでは、底本を尊重して音として「敢」の語源の「古」から「板敢」を「塡むこ」と訓み、意味としては板の隙間から強いて取り込むとします。

歌番号 65
底本 霰打 安良礼松原 住吉之 弟日娘与 見礼常不飽香聞
顕昭 みぞふる遠つ大海による浪のたとひ娘と見れど飽かぬかも
校本 霰打つあられ松原住吉(すみのえ)の弟日(おとひ)娘(をとめ)と見れど飽かぬかも
私訓 霰(あられ)打つあられ松原住吉(すみのえ)し弟日(おとひ)娘(をとめ)と見れど飽かぬかも

歌番号 3883
底本 伊夜彦 於能礼神佐備 青雲乃 田名引日良 霈曽保零
顕昭 いや姫のおのれ神さびあをひものたな引く日すら霙(みぞれ)そぼふる
校本 弥彦(いやひこ)おのれ神さび青雲(あをくも)のたなびく日すら小雨そほ降る
私訓 弥彦(いやひこ)おのれ神さび青雲(あをくも)のたなびく日すら霈(こさめ)そほ降る

歌番号 2766
底本 三嶋江之 入江之薦乎 苅尓社 吾乎婆公者 念有来
顕昭 みしまの入江の薦をかりにこそ我をば君は思ひたりけれ
校本 三島(みしま)江(え)の入江の薦(こも)を刈りにこそ吾(わ)れをば君は思ひたりけれ
私訓 三島江(みしまえ)し入江し薦(こも)を刈りにこそ吾(われ)をば公(きみ)は念(おも)ひありけれ

歌番号 500
底本 神風之 伊勢乃濱荻 折伏 客宿也将為 荒濱邊尓
顕昭 神風や伊勢の濱荻折りふせて旅ねやすらん荒き濱べに
校本 神風(かむかぜ)の伊勢の浜荻(はまはぎ)折り伏せて旅(たび)寝(ね)や為(す)らむ荒き浜辺(はまへ)に
私訓 神風(かむかぜ)し伊勢の濱荻(はまをぎ)折り伏せて旅寝(たびね)や為(す)らむ荒き浜辺(はまへ)に

歌番号 940
底本 不欲見野乃 淺茅押靡 左宿夜之 氣長有者 家之小篠生
顕昭 印南野の浅茅おしなみさねし夜のけ長く有れば家しものはる
校本 印南野(いなみの)の浅茅(あさぢ)押しなべさ寝(ぬ)る夜の日(け)長くしあれば家し偲(しの)はゆ
私訓 印南野(いなみの)の浅茅(あさぢ)押しなべさ寝(ぬ)る夜し日(け)長くあれば家し偲(しの)はゆ

歌番号 1677
底本 山跡庭 聞徃歟 大我野之 竹葉苅敷 廬為有跡者
顕昭 やまとには聞ゆらんかもおほか野のさゝかり敷きて庵せりとは
校本 大和には聞こえ往(い)かぬか大我野(おほがの)の竹葉(たかは)刈り敷き廬(いほり)せりとは
私訓 大和には聞こえ往(い)かぬか大我野(おほがの)し竹葉(たかは)刈り敷き廬(いほり)せりとは

歌番号 3493
底本 於曽波夜母 奈乎許曽麻多賣 牟可都乎能 四比乃故夜提能 安比波多我波自
顕昭 おりはやも猶こそまためむかつをの椎のこやでのあひはたがはじ
校本 遅(おそ)速(はや)も汝(な)をこそ待ため向(むか)つ峰(を)の椎(しひ)の小枝(こやで)の逢ひは違(たが)はじ
私訓 遅速(おそはや)も汝(な)をこそ待ため向(むか)つ峰(を)の椎(しひ)の小枝(こやで)の逢ひは違(たが)はじ

歌番号 919
底本 若浦尓 塩満来者 滷乎無美 葦邊乎指天 多頭鳴渡
顕昭 和歌の浦に潮みち来れば潟をなみ蘆べをさしてたづ鳴きわたる
校本 若(わか)の浦に潮満ち来れば潟(かた)を無み葦辺(あしへ)をさして鶴(たづ)鳴き渡る
私訓 若(わか)し浦に潮満ち来れば潟(かた)を無み葦辺(あしへ)をさして鶴(たづ)鳴き渡る

歌番号 776
底本 事出之者 誰言尓有鹿 小山田之 苗代水乃 中与杼尓四手
顕昭 こそてしとたがことかある小山田の苗代水のなか淀みして
校本 言(こと)出(で)しは誰が言(こと)にあるか小山田(をやまだ)の苗代(なわしろ)水(みず)の中(なか)淀(よど)にして
私訓 事(こと)出(で)しは誰が言(こと)にありしか小山田(をやまだ)し苗代(なはしろ)水(みづ)の中淀(なかよど)にして

歌番号 278
底本 然之海人者 軍布苅塩焼 無暇 髪梳乃少櫛 取毛不見久尓
顕昭 しかの海士はめかり鹽焼きいとまなみけづる小櫛もとらず来にけり
校本 志賀(しが)の海人(あま)は藻(め)苅り塩焼き暇(いとま)無み髪梳(くしら)の小櫛(をぐし)取りも見なくに
私訓 志賀(しか)し海人(あま)は藻(め)苅(か)り塩焼き暇(いとま)無(な)み髪梳(くしら)の少櫛(すくし)取りも見なくに

歌番号 2571
底本 大夫波 友之驂尓 名草溢 心毛将有 我衣苦寸
顕昭 ますらをがとものそめきになぐさむる心もあらん我ぞ苦しき
校本 大夫(ますらを)は友の騒(さわ)きに慰(なぐさ)もる心もあらむ我れぞ苦しき
私訓 大夫(ますらを)は友し騒(さは)きに慰(なぐさ)もる心もあらむ我(われ)ぞ苦しき

歌番号 3287
底本 乾坤乃 神乎祷而 吾戀 公以必 不相在目八
顕昭 天地の神を祈りて我が戀ふる君にかならず戀ひざらめかも
校本 天地の神を祈りて吾が恋ふる君いかならず逢はずあらめやも
私訓 天地の神を祈りに吾(あ)が戀ふる公(きみ)いかならず逢はずあらめやも

歌番号 2662
底本 吾妹兒 又毛相等 千羽八振 神社乎 不祷日者無
顕昭 わぎもこに又もあはんと千早振(ちはやふる)神の社(やしろ)にねかぬ日はなし
校本 吾妹子にまたも逢はむとちはやぶる神の社(やしろ)を祈(の)まぬ日はなし
私訓 吾妹子しまたも逢はむとちはやふる神し社(やしろ)を祈(の)まぬ日はなし

歌番号 西本願寺本万葉集に載らない歌、本来は伊勢物語第65段に載る歌
伊勢 こひせじとみたらし河にせしみそぎ神はうけずもなりにけるかな
顕昭 戀せじと御手洗河にせしみぞぎ神はうけずもなりにけるかな
校本 (省略)
私訓 (省略)
注意 この歌は「古今和歌集巻十一 歌番501 読人知らず」としても採歌されている。一方、伊勢物語では「在原なりける男」が読人となっている。

歌番号 2403
底本 玉久世 清川原 身秡為 齊命 妹為
顕昭 たまくせの清き河原にみそぎして祈る命もいもがためなる
校本 玉(たま)久世(くせ)の清き川原に身秡(みそぎ)して斎(いは)ふ命は妹がためこそ
私訓 玉(たま)久世(くせ)し清き川原し身秡(みそぎ)して斎(いは)ふ命し妹(いも)しためこそ


<解説>
 鎌倉中期に仙覚により『万葉集』は先行する万葉集写本から交合・校本され、第一次校本である寛元四年(1246)版と第二次校本となる文永六年(1269)版などが仙覚本校本万葉集として、その写本が現在に伝わっています。紹介のように弊ブログではこの第二次校本でとなる文永版校本万葉集の姿を伝える西本願寺本万葉集を底本としています。
 一方、今回紹介しました『六百番歌合』と『六百番陳状』とは鎌倉初期の建久四年(1193)に行われた歌会でその判者である藤原俊成が点けた勝負の判定とその判定を記録した覚え書きの書、所謂、『六百番歌合』と云うものであり、他方、この歌合に出席し、その俊成が点けた勝負の判定に対して異議を申し立て、反論を陳べた歌論文が顕昭の記した『六百番陳状』です。
 この『六百番陳状』では、顕昭は『万葉集』の歌を多く引用し俊成の為した歌の判定に批判を加えていますので、平安末期から鎌倉初期での『万葉集』の訓みを知るのに都合の良いものです。そこで、この『六百番歌合』や『六百番陳状』において引用された万葉集歌を紹介しました。
 肝心の紹介した目的である『万葉集』の訓みからしますと、藤原俊成や阿闍梨顕昭が引用したものは時代的には次点にグループ分けされます。また、俊成や顕昭が歌合で引用した万葉集歌の分布からしますと、彼らの時代では現在と同じような二十巻本万葉集に載る短歌は読み解かれ、当時の歌人たちの教養となっていたと推定されます。
 なお、参考として歌会が催された建久四年は契沖の交合・校本作業が完成するおよそ五十年前です。従いまして、俊成や顕昭が使った『万葉集』のテキストは藤原定家本の流れを汲むと云う『広瀬本万葉集』と称されるものではないかと考えられ、それは、藤原道長や藤原基俊たちの研究成果が伝わったものと思われます。場合により、道長と紫式部の関係を考えますと、紫式部や清少納言たちと俊成や顕昭たちの『万葉集』に対する訓じと解釈はそれほど大きくは違っていなかったとも推定されます。
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万葉雑記 色眼鏡 百五 山口女王を鑑賞する

2015年02月14日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百五 山口女王を鑑賞する

 以前、万葉雑記シリーズの「本歌取」と云うテーマで山口女王の詠う歌を例題に与太話をしました。ここでは、その山口女王の歌に関連する与太話をしてみたいと思います。
 さて、山口女王の歌は『万葉集』に載るだけでなく、『伊勢物語』や『新古今和歌集』にも取られています。あまり、有名な人物ではありませんが、平安時代に一度はスポットライトを浴びた人物です
 鑑賞の最初に平安時代初期にあたる『伊勢物語』から歌を紹介します。その歌は山口女王の歌とは紹介されてはいませんが『万葉集』からの本歌取のような、ほぼ、引用するような形で使われています。

(伊勢物語 三十三段)
昔、男、津の国むばらの郡にかよひける、女、このたびいきては又は来じと思へるけしきなれば、男、
葦辺より満ちくる潮のいやましに君に心を思ひますかな
返し、
こもり江に思ふ心をいかでかは舟さすさをのさして知るべき
ゐなか人のことにてはよしやあしや。

 この男歌は、山口女王の詠う次の歌をなぞったものです。山口女王は『万葉集』では注目を浴びるスターではありませんが、在原業平や紀貫之の時代には、その歌が好まれた女流歌人です。

集歌617 従蘆邊 満来塩乃 弥益荷 念歟君之 忘金鶴
訓読 葦辺より満ち来る潮のいや増しに念へか君し忘れかねつる
私訳 葦の生える岸辺に満ち来る潮のように、ひたひたと満ち来る慕情でしょうか。貴方が忘れられない。

 『万葉集』に載る集歌617の歌をほぼなぞったような『伊勢物語』の男歌「葦辺より満ちくる潮のいやましに」は、平安貴族たちには評判が良かったようで、この『伊勢物語』の男歌を下に、後に多くの派生歌が作られています。

藤原家隆
下燃えにつのぐみわたる葦辺よりみちくる潮の恋ひまさりつつ

藤原定家
夜な夜なは身もうきぬべし葦辺よりみちくる潮のまさる思ひに

 また、鎌倉時代初期となる『新古今和歌集』には、直接、山口女王の歌として次のものが載せられています。(読下は新古今和歌集 佐佐木信綱校訂 岩波文庫より)

新古今和歌集1378番歌
中納言家持に遣はしける 山口女王
原文 あしへよりみちくるしほのいやましにおもふかきみかわすれかねつる
読下 あしべより満ち来る汐のいやまししに思ふか君が忘れかねつる

新古今和歌集1379番歌
原文 しほがまのまへにうきたるうきしまのうきておもひのあるよなりけり
読下 鹽釜のまえに浮きたる浮島のうきておもひのある世なりけり

 ここで、『新古今和歌集』の鑑賞では一般に1378番歌に付けられた標題「中納言家持に遣はしける 山口女王」は1378番歌と1379番歌とを説明するとします。つまり、1379番歌もまた山口女王が中納言家持に贈ったものとします。
 さて、歌の鑑賞は面白いもので、時代と共に歌の作歌者やその詠われたと思われる背景も変わります。その例を紹介した山口女王が詠ったとされる『新古今和歌集』の1379番歌から見てみたいと思います。
 その鑑賞に先だって関係する人物像や事実関係を紹介しようと思います。
 まず、山口女王が切ない恋の歌を贈った相手である大伴家持は、およそ六十六歳となる延暦元年(782)に陸奥按察使兼鎮守将軍に補任され、多賀城(宮城県多賀城市)に赴任しています。この背景から、1379番歌を踏まえて現在では『新古今和歌集』に載る歌は奈良の都に残る山口女王から多賀城に居る大伴家持に贈った歌として伝承されているようです。また、その認識から「塩釜」と云う場所は万葉の時代から有名な和歌を詠うべき場所と藤原定家たちは考えていたようです。
 次に山口女王自身ですが、彼女は正史などに記載がないために正体不明の人物です。一方、『万葉集』には大伴家持に贈った恋愛歌六首(五首一組と他に一首)があり、そこから推定して『万葉集』の研究からは天平十年前後に活躍した女流歌人と推定されています。ここで、「山口」の名が女王の壬生に関わるものですと、河内国志紀郡に根を張った山口臣から大阪市平野区から八尾市付近を本拠とする王族であった可能性があります。なお、『万葉集』には「山口女王」とありますから、大宝律令の制度下では山口女王が成人した場合、御蔭制度から少なくとも従五位下の官位を持つ身分となります。この場合、青年期の大伴家持と山口女王との関係では身分において山口女王の官位が家持の官位(天平十七年に従五位下となる)を上回り、官位・身分において家持は隠れた恋人には成り得ても、夫には成り得ないことになります。また、そのような立場が予定されていますから、女王の成人以前としても恋愛関係ではバランスが悪い仲となります。逆に女王を年長者と考え家持を若い燕として扱う場合には可能性があるような関係です。従いまして、現在では宮中かなにかの歌サロンでの空想下での戯れの相聞と考えるのが良いようです。

<参考歌;恋愛歌六首の内の五首>
山口女王の大伴宿祢家持に贈れる謌五首
集歌613 物念跡 人尓不見常 奈麻強 常念弊利 在曽金津流
訓読 もの念(おも)ふと人に見えじとなまじひし常し念(おも)へりありぞかねつる
私訳 物思いをしていると人からは見えないようにと生半可に我慢して、貴方を常に慕っています。生きているのが辛くてたまりません。

集歌614 不相念 人乎也本名 白細之 袖漬左右二 哭耳四泣裳
訓読 相念(おも)はぬ人をやもとな白栲し袖漬(ひづ)つさへに哭(ね)のみし泣くも
私訳 私を慕ってもくれない人をいたずらに恋い慕い、夜着の白い栲の袖を濡れそぼるほどに忍び泣きします。

集歌615 吾背子者 不相念跡裳 敷細乃 君之枕者 夢尓見乞
訓読 吾が背子は相念(おも)はずとも敷栲の君し枕は夢(いめ)に見えこそ
私訳 私の愛しい貴方は私のことを愛してくれなくとも、床に敷く栲の上で共寝するでしょう貴方の、その枕姿だけでも、私の夢の中に見えて欲しい。

集歌616 劔大刀 名惜雲 吾者無 君尓不相而 年之經去礼者
訓読 剣太刀(つるぎたち)名(な)し惜しけくも吾はなし君に逢はずて年し経ぬれば
私訳 柿本人麻呂たちが歌に詠う、その「剣太刀」のような貴方。私にはもう淑女でなければならないと云う女の評判を惜しむと云う気持ちは、もう、ありません。貴方に逢えないままに年月が過ぎて往きましたから。

集歌617 従蘆邊 満来塩乃 弥益荷 念歟君之 忘金鶴
訓読 葦辺(あしへ)より満ち来る潮のいや増しに念(おも)へか君し忘れかねつる
私訳 葦の生える岸辺に満ち来る潮のように、ひたひたと満ち来る貴方への慕情でしょうか。私は貴方が忘れられません。

 ここで、先の奈良の都に残る山口女王から多賀城に居る大伴家持に贈った歌であると云う伝承に戻りますと、『万葉集』の研究からしますと天平十年前後には相聞歌を交わす関係ですから多賀城時代の大伴家持と山口女王の推定年齢は家持が六十六歳、女王が生きていて六十代前半となります。先に紹介しました恋愛歌六首の内の五首の鑑賞からしましても、もし、天平十年頃の互いに十代後半であった時から四十年間以上も二人が親密な関係を保っていたとしますと、さてはて、このような「しほがま」の歌を詠うでしょうか。歌の鑑賞からは、まず、無理筋の伝承と思います。
 ただし、今日の歌の鑑賞はこのような伝承を下に、歌中の「塩釜」は多賀城の津であった地名の「塩釜」を、「浮島」はその塩釜地区にあった地名である「浮島」として鑑賞します。つまり、平安時代後期から鎌倉時代初期の段階で、既に遠距離恋愛の物語や地名が創作されています。

原文 しほがまのまへにうきたるうきしまのうきておもひのあるよなりけり
読下 塩釜のまえに浮きたる浮島のうきて思ひのある世なりけり
意訳 塩釜の前方に浮かぶ浮島のような、浮ついて落ち着かない私たちの仲なのですね。

 当然、「しほがま」を詠う歌は『万葉集』にはありませんし、山口女王本人が当時は蝦夷との紛争の余波が残り、その最前線となる陸奥の塩釜を訪れたと云う可能性はありません。奈良時代では、まだまだ、多賀城やその港町となる塩釜の津は戦場であり、景色を詠うような場所とは認識されてはいなかったと思われます。そのためか、山口女王が詠ったとされる『新古今和歌集』1379番歌は『万葉集』には載せられていません。数百年の時を越え、突然、『新古今和歌集』に登場します。
 そこでこの『新古今和歌集』に載る1379番歌の由来を探しますと、『古今和歌六帖』に「山ぐちの女らう」が詠ったとされる歌が収められています。およそ、この『古今和歌六帖』の1796番歌が根拠なのでしょう。

<古今和歌六帖より>
山ぐちの女らう
1796番 しほかまのまへにうきたるうきしまのうきておもひのあるよなりけり
1797番 わかおもふ心もしるくみちのくのちかのしほかまちかつきにけり

 なお、『古今和歌六帖』では紹介するように「山ぐちの女らう」の歌として二首が載せられていますが、これ以前にはこれらの歌二首は「山口女王」の歌としては扱われていませんし、その存在も知られていませんから、「山ぐちの女らう」を漢字表記した時には「山口女郎」が正しいのかもしれません。つまり、『新古今和歌集』を編纂した藤原定家たちの誤読からの収録ミスなのでしょう。
 参考として、『続日本紀』によると神護景雲元年(767)に河内国志紀郡の正六位上山口臣犬養たちに山口朝臣の姓が与えられています。もし、この一族から娘を宮中に女官として出仕させていた場合、その娘は和歌などの教養レベルによっては文芸サロンに出入りする女性として親の官位から「紀女郎」と同様な立場から「山口女郎」と呼ばれた可能性はあります。時代として奈良時代末期から平安時代へと移り行く時代です。参考として「山口女王」と「紀女郎」とは同時代人で、共に大伴家持と相聞問答歌を交わす関係にありました。
 ここで『古今和歌六帖』の和歌集の解説を見てみますと、次のような説明をウィキペディアから見ることが出来ます。

<古今和歌六帖 解説>
成立時期や撰者はともに不明。ただしおおよその目安として、天禄から円融天皇の代の間(970年から984年の間)に成立したといわれており、撰者については紀貫之とも、また兼明親王とも具平親王ともいわれるが、源順が撰者であるという説もある。・・・中略・・・。採られている和歌は『古今和歌集』のほか『後撰和歌集』などからも採られているが、『万葉集』から採られたと見られるものも1000首以上あり、その本文は古い時代の『万葉集』の訓読を残しているという。

『古今和歌集』の成立が延喜五年(905)のことですので、『古今和歌六帖』はそれより半世紀ほど遅れますが、平安時代初期までの秀歌集として個人的に編まれた歌集であることは動かない事実です。他方、『古今和歌集』では、1088番歌に見られるように既に「塩釜」の景色は詠われています。

古今和歌集 1088 みちのくのうた 読人知らず
陸奥はいづくはあれど塩釜の浦こぐ舟の綱手かなしも

 こうしますと、『万葉集』には載らない「塩釜(しおかま)」なる言葉や地名は『古今和歌集』の時代には有名となっていたのでしょう。そうしますと、『古今和歌六帖』に載る歌二首の作歌者「山ぐちの女らう」とは可能性として「山口女王」ではなく、やはり、「山口女郎」なのでしょう。
 さて、藤原定家の早とちりから山口女王は老齢になっても大伴家持と乙女のような遠距離恋愛をしていたとの伝承を作られましたが、似たような伝承は源融にもあったようです。雑談として次の文章を紹介します。

<源融の伝承紹介>
源融(みなもとのとおる)は嵯峨天皇の皇子で、仁明天皇の異母弟にあたる。『三代実録』の貞観六年(864)三月八日の条に「正三位行中納言源朝臣融加陸奥出羽按察使」とあり、融は、陸奥出羽按察使の任にあったが、『続日本後紀』等の文献により、直接任国に行くことを免除された「遥任」であったことが知られる。しかし、これによらず、かつての多賀城の周辺に、源融にまつわる神社や古跡が散見されるのは、どのような背景からだろうか。
むかし、東北地方は西国の人々にとって「道の奥」すなわち未知の国であり、少々恐れを抱きながらも憬れの地であり、こころ惹かれる土地であった。その一端をうかがわせるエピソードが、鴨長明の『無名抄』に書かれている。これによれば、歌人として知られた橘為仲が陸奥守の任を終えて京へ戻るときに、宮城野の萩を十二個の長櫃に収めて持ち帰ったところ、大勢の人がその土産を見るため、二条の大路に集まっていたという。

(無名抄 五月五日かつみを葺く事)
此為仲、任果てて上りける時、宮城野の萩を掘りとりて長櫃十二合に入れて持ち上りければ、人あまねくききて、京へ入ける日は、二条の大路にこれを見物にして人多く集まりて、車などもあまたたちたりけるとぞ。

 しかし、源融にとって、陸奥への思いは深く、こうした土産や土産話では充分に満足できなかったと見えて、加茂川にほどちかい六条辺り(六条河原)の自邸の庭に、わざわざ海水を運ばせて塩釜の浦の景色をこしらえ、藻塩を焼く風雅を楽しんだ。源融は、こうした振舞いから河原左大臣と呼ばれるようになり、「庭に作った塩釜」の話は、『宇治拾遺物語』や『伊勢物語』にも取り上げられ、広く知られるところとなった。

(宇治拾遺物語 巻第十二 十五 河原院融公の霊住む事)
今は昔、河原院は融の左大臣の家なり。陸奥の塩釜の形を作りて、潮を汲み寄せて、塩を焼かせなど、さまざまのおかしき事を尽して、住み給ひける。大臣失せて後、宇多院には奉りたるなり。延喜の御門、たびたび行幸ありけり。

(伊勢物語 第八十一段)
むかし、左のおほいまうちぎみ(大臣)いまそかりけり。賀茂川のほとりに、六条わたりに、家をいとおもしろく造りて、すみたまひけり。かんなづきのつごもりがた、菊の花うつろひさかりなるに、もみぢのちぐさに見ゆるをり、親王(みこ)たちおはしまさせて、夜ひと夜、酒のみし遊びて、夜明けもてゆくほどに、この殿のおもしろきをほむる歌よむ。そこにありけるかたゐおきな(在原業平)、板敷のしたにはひ歩きて、人にみなよませはててよめる。
塩釜にいつか来にけむ朝なぎに釣する舟はここによらなむ
(わたしは塩釜にいつ来ていたのだろう。朝なぎの中、釣りに出ている船はこちらに寄ってきてほしい。)
となむよみけるは、陸奥の国にいきたりけるに、あやしくおもしろき所々多かりけり。わがみかど六十余国の中に、塩竈という所に似たる所なかりけり。さればなむ、かのおきな、さらにここをめでて、塩釜にいつか来にけむとよめりける。

 このように、源融が自邸に塩釜の浦を築き上げ、さらには、上の通りに「おもしろきをほむる歌」を詠む趣向の最後に、在原業平が「塩釜にいつか来にけむ」の歌を詠んで、模擬の塩釜を実景と見まごうばかりと過大に評価した。
 「塩釜にいつか来にけむ」の歌は、『続後拾遺和歌集』や家集『在原業平集(在中将集)』にも見られる。

(続後拾遺和歌集)
河原の左大臣の家にまかりて侍りけるに、塩がまといふ所のさまをつくれりけるを見てよめる
塩がまにいつか来にけむ朝なぎにつりする舟はここによらなむ 業平朝臣

(在原業平集)
ひたりのおほいまうちきみ、かも河のほとりに家をおもしろくつくりて、神な月のつこもり菊の花さかりなるころ、みこたちおはしまさせて、ひゝと日、酒のみ遊びしたまふ、この殿のおもしろきよし人々よみけるに
しほかまにいつか来にけむ朝なきにつりする舟はここによらなむ

 こうなると、かの塩釜が京でも見られるとのうわさが広まり、橘為仲の萩の話のように風流人が興味津々で融の庭に集まってくる。紀貫之もそうした中の一人と見えて、次の歌が『古今和歌集』に採録されている。

(古今和歌集 巻十六)
河原左大臣の身罷免りて後、かの家にまかりてありけるに、塩釜という所のさまをつくれりけるを見てよめる、
君まさで煙たえにし塩釜のうらさびしくも見え渡るかな
(河原左大臣がお亡くなりになり、塩を焼く煙も絶えてしまった「塩釜」は、ほんとうにうら寂しく見えてしまうものだ)

 こうして、源融は、時の流れとともに「実際に陸奥に赴いた経験があり、塩釜の風雅を語れる」人間として伝播し、その結果、陸奥各地に融にまつわるさまざまな伝説が生まれることとなり、遂には、「融公 (中略) 塩浦の勝を愛慕し、其美を当時に繁揚す。塩浦第一の知己と謂つべし。此地に祠して祭る」(鹽勝松譜)として、源融を祭る神社まで存するに至った、と思われるのである。


 以上、非常に長く源融の伝承を紹介しました。
 いたずらで、地方の名士が歌に合わせ想像からの名所を作ると、いつしか、時代と共にここで紹介したようにそれが史実となるのかもしれません。平安時代後期以降の人々は「しおかま」の歌とは六条河原にあった源融の私邸の庭の景色を「みなし」の技法で詠った歌とは、まず、思わないでしょうし、そのようには鑑賞出来ないでしょう。実に不思議で、面白いものです。
 なお、和歌で詠う塩釜と云う風景は、おおよそ、兵庫県の芦屋から須磨にかけての海岸線で行われていた古式の薪で煮詰める製塩の風景を思うのが良いようです。

古今和歌集より
852番歌 題しらず 読人知らず
須磨の海人の塩やく煙風をいたみ思はぬ方にたなびきにけり
(須磨の海人の塩を焼く煙は、風が強いために、思わぬ方向にたなびいた)

古今和歌集852番歌が引用したと思われる歌、万葉集巻七より
集歌1246 之加乃白水郎之 燒塩煙 風乎疾 立者不上 山尓軽引
訓読 志賀の白水郎(あま)し塩焼く煙(けぶり)風を疾(と)く立ちは上(のぼ)らず山に棚引く
私訳 志賀の海人が塩を焼く煙は、風が速いのでまっすぐに立ち上らず、山に棚引く。

 歴史と云う視座を持ち、歌を鑑賞しますと、時に一般の鑑賞とは懸け離れ非常識となるようです。
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