竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
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万葉集巻十四を鑑賞する  集歌3540から集歌3559まで

2011年09月29日 | 万葉集巻十四を鑑賞する
万葉集巻十四を鑑賞する


集歌3540 左和多里能 手兒尓伊由伎安比 安可胡麻我 安我伎乎波夜未 許等登波受伎奴
訓読 左和多里(さわたり)の手児(てご)にい行き逢ひ赤駒が足掻(あが)きを速(はや)み言問はず来ぬ

私訳 左和多里の若い娘子に道で出会った。赤駒の駆け足が速いものだから、言葉も交わさないでやって来た。


集歌3541 安受倍可良 古麻乃由胡能須 安也波刀文 比等豆麻古呂乎 麻由可西良布母
訓読 崩岸(あず)辺(へ)から駒の行(ゆ)ごのす危(あや)はとも人妻(ひとつま)子ろを目(ま)ゆかせらふも

私訳 崩れた崖の上を駒が行くような危ない。そのように恋することは当てにならないと云っても自分の思うようにならない娘子の、その娘がまばゆく感じられる。


集歌3542 佐射礼伊思尓 古馬乎波佐世弖 己許呂伊多美 安我毛布伊毛我 伊敝乃安多里可聞
訓読 細石(さざれいし)に駒を馳(は)させて心(こころ)痛(いた)み吾(あ)が思(も)ふ妹が家のあたりかも

私訳 河原の小石の上を駒を駆けさせるように、貴女への想いを馳せて私の心が辛い。ここはその私が恋焦がれる愛しい貴女の家の近所です。


集歌3543 武路我夜乃 都留能都追美乃 那利奴賀尓 古呂波伊敝杼母 伊末太羊那久尓
訓読 室草(むろかや)の都留(つる)の堤(つつみ)の成りぬがに子ろは云へどもいまだ寝なくに

私訳 未通娘が女になる新室を葺く草の生い茂る都留にある堤が次第に出来上がるように、仲が次第に深まるとその娘は云うけども、未だに共寝は出来ない。


集歌3544 阿須可河泊 之多尓其礼留乎 之良受思天 勢奈那登布多理 左宿而久也思母
訓読 安須可(あすか)川下(した)濁(にご)れるを知らずして背ななと二人さ寝て悔(くや)しも

私訳 安須可川の下流が濁れるのを知らないで、愛しい貴方と二人で共寝をした後、貴方の振舞いが悔しいことです。


集歌3545 安須可河泊 世久登之里世波 安麻多欲母 為祢弖己麻思乎 世久得四里世波
訓読 安須可(あすか)川塞(せ)くと知りせばあまた夜も率(ゐ)寝(ね)て来(こ)ましを塞くと知りせば

私訳 安須可川が堰き止められるように、二人の仲を止められると知っていたならば、多くの夜を貴女の身を引き寄せて共寝をしたのに。仲を止められると知っていたなら。


集歌3546 安乎楊木能 波良路可波刀尓 奈乎麻都等 西美度波久末受 多知度奈良須母
訓読 青柳(あをやぎ)の張(は)らろ川門(かわと)に汝(な)を待つと清水(しみづ)は汲(く)まず立(たち)処(と)平(なら)すも

私訳 青柳の芽がふくらむ川の入江に貴方を待つとして、娘はその清水を汲まない。毎日来て川門を足で踏み均しても。


集歌3547 阿遅乃須牟 須沙能伊利江乃 許母理沼乃 安奈伊伎豆加思 美受比佐尓指天
訓読 味鴨(あじ)の棲む須沙(すさ)の入江の隠沼(こもりぬ)のあな息(いき)づかし見ず久(ひさ)にして

私訳 味鴨の棲む須沙の入江にある隠り沼。その言葉のひびきではないが、心がこもりぬ(気持ちがふさぐ)。ああ、嘆かわしい。貴女に逢うことが久しくなって。


集歌3548 奈流世路尓 木都能余須奈須 伊等能伎提 可奈思家世呂尓 比等佐敝余須母
訓読 鳴瀬(なるせ)ろに木屑(こつ)の寄すなすいとのきて愛(かな)しけ背ろに人さへ寄すも

私訳 瀬音が鳴り響く川の瀬に木っ端が流れ寄るように、靡き寄ると、とりわけ愛おしい私の貴方に、他の女が靡き寄ったとしても。


集歌3549 多由比我多 志保弥知和多流 伊豆由可母 加奈之伎世呂我 和賀利可欲波牟
訓読 多由比(たゆひ)潟(かた)潮満ちわたる何処(いづ)ゆかも愛(かな)しき背ろが吾(わ)許(がり)通はむ

私訳 多由比潟に潮が満ち渡る。一体、どこを通って愛しい私の貴方は、私の許に通って来るのでしょう。


集歌3550 於志弖伊奈等 伊祢波都可祢杼 奈美乃保能 伊多夫良思毛与 伎曽比登里宿而
訓読 強(お)して否(いな)と稲(いね)は搗(つ)かねど波の穂(ほ)の甚(いた)振(ふ)らしもよ昨夜(きそ)ひとり寝て

私訳 無理に嫌だとして稲は搗きませんが、稲の穂波の、その稲穂が風に靡くように、物想いに心が揺さぶられた。昨夜、貴方無しで私一人寝て。


集歌3551 阿遅可麻能 可多尓左久奈美 比良湍尓母 比毛登久毛能可 加奈思家乎於吉弖
訓読 阿遅可麻(あぢかま)の潟(かた)に咲く波平瀬(ひらせ)にも紐解くものか愛(かな)しけを置きて

私訳 阿遅可麻の潟に打ち寄せ白く咲く波、その波が打ち寄せる平瀬のように、平に(やすやすと)私の下着の紐を解きはしない。愛しい貴女を差し置いて。


集歌3552 麻都我宇良尓 佐和恵宇良太知 麻比等其等 於毛抱須奈母呂 和賀母抱乃須毛
訓読 麻都が浦に騒(さわ)ゑ群(うら)立(た)ち真人こと思ほすなもろ吾(わ)が念(も)ほのすも

私訳 麻都が浦に潮騒がしきりに立っているように、立派な貴方よ、そのようにしきりに恋焦がれないで。私が貴方に恋い慕うほどには。


集歌3553 安治可麻能 可家能水奈刀尓 伊流思保乃 許弖多受久毛可 伊里弖祢麻久母
試訓 安治可麻(あぢかま)の可家(かけ)の水門(みなと)に入る潮(しほ)の小手(こて)たずくもが入りて寝まくも

試訳 安治可麻の可家の入江に入って来る潮がやすやすと満ちるように、やすやすとお前の床に入り込んで共寝がしたいものだ。

注意 原文の「許弖多受久毛可」は難訓です。ここでは「小手+助ずく+も」の意味で試訓を行っています。


集歌3554 伊毛我奴流 等許乃安多理尓 伊波具久留 水都尓母我毛与 伊里弖祢末久母
訓読 妹が寝る床のあたりに岩ぐくる水にもがもよ入りて寝まくも

私訳 愛しいあの娘が寝る床のあたりに、河原の岩の下を流れる水にでもなりたい、その水のようにするするとくぐり入り込んで、あの娘と共寝がしたい。


集歌3555 麻久良我乃 許我能和多利乃 可良加治乃 於等太可思母奈 宿莫敝兒由恵尓
訓読 麻久良我(まくらが)の許我(こが)の渡りの韓(から)楫(かぢ)の音高しもな寝なへ子ゆゑに

私訳 麻久良の許我にある渡しの韓式の楫の音が高い。そのように噂話がかしましい、共寝をしたこともないあの娘のために。


集歌3556 思保夫祢能 於可礼婆可奈之 左宿都礼婆 比登其等思氣志 那乎杼可母思武
訓読 潮(しほ)舟(ふね)の置かれば愛(かな)しさ寝つれば人(ひと)言(こと)繁(しげ)し汝(な)を何(ど)かも為(し)む

私訳 浪を切る潮舟が岸に引き上げられると気にかかるように、お前が愛おしいと共寝をすると世間の噂話がうっとうしい。お前を、さて、どうしたら良いだろうか。


集歌3557 奈夜麻思家 比登都麻可母与 許具布祢能 和須礼波勢奈那 伊夜母比麻須尓
訓読 悩(なや)ましけ人妻かもよ漕ぐ舟の忘れはせなないや念(も)ひ増すに

私訳 心を悩ます自分の思いのままにならない娘だなあ、漕ぐ舟がやがて視界から消えるように、心から消えるどころか、恋焦がれる思いは増すのに。


集歌3558 安波受之弖 由加婆乎思家牟 麻久良我能 許賀己具布祢尓 伎美毛安波奴可毛
訓読 逢はずして行かば惜しけむ麻久良我(まくらが)の許我(こが)漕ぐ舟に君も逢はぬかも

私訳 貴方に逢わないままで、貴方が行き過ぎてしまうと残念です。麻久良我の許賀の渡しを漕ぐ舟の中ででも貴方に逢えないでしょうか。


集歌3559 於保夫祢乎 倍由毛登母由毛 可多米提之 許曽能左刀妣等 阿良波左米可母
訓読 大船を舳(へ)ゆも艫(とも)ゆも堅(かた)めてし許曽(こそ)の里人顕(あらは)さめかも

私訳 大船の舳先や艫からも綱を出しもやい堅めるように、契を堅めた二人の仲だからこそ、許曽の村人でも二人の仲をばらすでしょうか。

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万葉集巻十四を鑑賞する  集歌3520から集歌3539まで

2011年09月26日 | 万葉集巻十四を鑑賞する
万葉集巻十四を鑑賞する


集歌3520 於毛可多能 和須礼牟之太波 於抱野呂尓 多奈婢久君母乎 見都追思努波牟
訓読 面形(おもかた)の忘れむ時(しだ)は大野ろにたなびく雲を見つつ偲(しの)はむ

私訳 面影を忘れそうな時は、大野の嶺に棚引く雲(=霊魂や気の意味がある)を眺めて懐かしみ思いだしましょう。


集歌3521 可良須等布 於保乎曽杼里能 麻左弖尓毛 伎麻左奴伎美乎 許呂久等曽奈久
訓読 烏(からす)とふ大(おほ)をそ鳥(とり)の真実(まさて)にも来まさぬ君を子(こ)ろ来(く)とぞ鳴く

私訳 烏と云う大うつけ鳥が、実際にはお出でにならないあの御方のことを「コロク(子ろ、来=あの人がやって来た)」と云って啼く。


集歌3522 伎曽許曽波 兒呂等左宿之香 久毛能宇倍由 奈伎由久多豆乃 麻登保久於毛保由
訓読 昨夜(きそ)こそば子ろとさ寝(ね)しか雲の上(うへ)ゆ鳴き行く鶴(たづ)の間遠く思ほゆ

私訳 昨夜には確かにあの娘と共寝をした、それなのに、雲の上を啼き飛んで行く鶴の鳴き声のようにかすかに遠い出来事のように感じられる。


集歌3523 佐可故要弖 阿倍乃田能毛尓 為流多豆乃 等毛思吉伎美波 安須左倍母我毛
訓読 坂越えて(こえて)阿倍(あべ)の田の面(も)に居る鶴(たづ)の羨(とも)しき君は明日さへもがも

私訳 坂を飛び越えて阿倍の田に居る鶴のように、なぜか、心惹かれる貴方には明日もまたお目にかかりたい。


集歌3524 麻乎其母能 布能末知可久弖 安波奈敝波 於吉都麻可母能 奈氣伎曽安我須流
訓読 まを薦(こも)の節(ふ)の間近くて逢はなへば沖つ真鴨(まかも)の嘆きぞ吾(あ)がする

私訳 まを薦の節の間のようにすぐ近くにいて逢えなければ、沖に漂う真鴨のように気持を揺らして溜息を私はしてしまう。


集歌3525 水久君野尓 可母能波抱能須 兒呂我宇倍尓 許等乎呂波敝而 伊麻太宿奈布母
訓読 水久君野(みくくの)に鴨の匍(ほ)ほのす子ろが上(うへ)に言緒(ことを)ろ延(は)へていまだ寝なふも

私訳 水久君野の居る鴨が匍い廻る、その言葉のひびきではないが、放(はほ)のす(=ほったらがし)にしているあの娘に、ただ、言葉を伝えるだけで未だに共寝をしていない。


集歌3526 奴麻布多都 可欲波等里我栖 安我己許呂 布多由久奈母等 奈与母波里曽祢
訓読 沼二つ通(かよ)は鳥が巣吾(あ)が心二(ふた)行くなもとなよ思(も)はりそね

私訳 沼二つを行き通う鳥の寝床が一つのように、私の恋心が二か所に行くとは、決して思わないでくれ。


集歌3527 於吉尓須毛 乎加母乃毛己呂 也左可杼利 伊伎豆久伊毛乎 於伎弖伎努可母
訓読 沖に住(す)も小鴨のもころ八尺鳥(やさかとり)息づく妹を置きて来(き)のかも

私訳 沖に漂う小鴨のように八尺(=長い息)をする鳥。その鳥のように深い溜息をつく。あの娘を後に残して来てしまった。


集歌3528 水都等利乃 多々武与曽比尓 伊母能良尓 毛乃伊波受伎尓弖 於毛比可祢都母
訓読 水鳥の立たむ装(よそ)ひに妹のらに物言はず来(き)にて思ひかねつも

私訳 水鳥が飛び立つような旅立ちの準備で、愛しいあの娘に言葉も掛けずに旅立って来て、思いは切ない。


集歌3529 等夜乃野尓 乎佐藝祢良波里 乎佐乎左毛 祢奈敝古由恵尓 波伴尓許呂波要
訓読 等夜(とや)の野に兎狙(ねら)はりをさをさも寝なへ子ゆゑに母に嘖(ころ)はえ

私訳 等夜の野で兎を狙いしっかり仕留めたが、その言葉のひびきではないが、ちっとも共寝をしたこともないあの娘のために、その母親に怒鳴られた。

注意 原文の「乎佐乎左毛」を「納さ納さも」と否定語の「をさをさも(=めったに、ほとんど)」の二つの意味に取っています。


集歌3530 左乎思鹿能 布須也久草無良 見要受等母 兒呂我可奈門欲 由可久之要思母
訓読 さを鹿の伏すや草群(くさむら)見えずとも子ろが金門(かなと)よ行かくし良(え)しも

私訳 立派な角を持つ牡鹿が伏すだろう、その草むらが見えないように、姿は見えなくても、あの娘のりっぱな門を通るのは、それだけでも気持ちが良い。

注意 教室の授業で鑑賞しない場合は、古来、歌意に従って歌のさお鹿は男性の性器、金門は女性の性器、草群は女性の陰毛の寓意を以って、大人の歌として鑑賞します。


集歌3531 伊母乎許曽 安比美尓許思可 麻欲婢吉能 与許夜麻敝呂能 思之奈須於母敝流
訓読 妹をこそ相見に来しか眉(まよ)引(ひ)きの横山辺(へ)ろの鹿猪(しし)なす思へる

私訳 愛しいお前だからこそ逢いに来ただけだのに、まるで眉を引いたような横山の辺りの鹿や猪かのように扱われる(追い払われる)と思ってしまう。

注意 この歌は教室の授業で鑑賞しない場合は、集歌3530の歌を受けて男女が野良で「鹿や猪のようにする」と鑑賞します。


集歌3532 波流能野尓 久佐波牟古麻能 久知夜麻受 安乎思努布良武 伊敝乃兒呂波母
訓読 春の野に草食(は)む駒の口やまず吾(あ)を偲(しの)ふらむ家の子ろはも

私訳 春の野で草の新芽を食べる駒が常に口をもぐもぐと動かすように、いつも話題に出して遠くに居る私を恋しく思っているでしょう、家に残した愛しい貴女よ。

注意 教室で鑑賞しない場合は、歌は妻が口で夫のものを楽しむと鑑賞します。


集歌3533 比登乃兒乃 可奈思家之太波 々麻渚杼里 安奈由牟古麻能 乎之家口母奈思
訓読 人の子の愛(かな)しけ時(しだ)は浜(はま)渚鳥(すとり)足(あ)悩(なよ)む駒の惜(を)しけくもなし

私訳 自分の自由にならないあの娘が愛しい時は、浜千鳥が止まり歩くような、そのような歩きをする足を痛めた駒をかわいそうと思わず、(駒の歩みを速める。)


集歌3534 安可胡麻我 可度弖乎思都々 伊弖可天尓 世之乎見多弖思 伊敝能兒良波母
訓読 赤駒が門出(かどで)をしつつ出(い)でかてにせしを見立てし家の子らはも

私訳 赤駒が家の門を出立するおりに、駒が行きしぶるのを見送ってくれた私の家に住むあの娘は、ああ、懐かしい。


集歌3535 於能我乎遠 於保尓奈於毛比曽 尓波尓多知 恵麻須我可良尓 古麻尓安布毛能乎
訓読 己(おの)が命(を)をおほにな思(も)ひそ庭に立ち笑(ゑ)ますがからに駒に逢ふものを

私訳 自分の命をつまらないと思いなされるな。庭に立ちにっこりほほ笑むならば、恋する人の駒に逢うと云うではないか。


集歌3536 安加胡麻乎 宇知弖左乎妣吉 己許呂妣吉 伊可奈流勢奈可 和我理許武等伊布
訓読 赤駒を打ちてさ緒(を)引(ひ)き心引(ひ)きいかなる背なか吾(わ)許(がり)来(こ)むと云ふ

私訳 赤駒に鞭を打って手綱の緒を引くように、心を懸けて私の気を引く。どのような人でしょうか。私の許に来ると云います。


集歌3537 久敝胡之尓 武藝波武古宇馬能 波都々々尓 安比見之兒良之 安夜尓可奈思母
訓読 柵(くへ)越(こ)しに麦食(は)む小馬のはつはつに相見し子らしあやに愛(かな)しも

私訳 柵越に舌を伸ばして麦を食べる仔馬のように、やっと共寝したあの娘が、とても愛おしい。

或本歌曰、宇麻勢胡之 牟伎波武古麻能 波都々々尓 仁必波太布礼思 古呂之可奈思母
或る本の歌に曰はく、
訓読 馬(うま)柵(せ)越(こ)し麦食(は)む駒のはつはつに新(にひ)肌(はた)触れし児ろし愛(かな)しも

私訳 馬柵越しに舌を伸ばして麦を食べる駒のように、やっと新肌に触れたあの娘が愛おしい。


集歌3538 比呂波之乎 宇馬古思我祢弖 己許呂能未 伊母我理夜里弖 和波己許尓思天
訓読 広橋(ひろはし)を馬越しがねて心のみ妹(いも)許(がり)遣(や)りて吾(わ)はここにして

私訳 幅の広い広橋を馬が越えかねるように、越して行くことが出来ずに気持ちだけを愛しい貴女の許に使い遣った、私の身はここに置いたままで。

或本歌發句曰、乎波夜之尓 古麻乎波左佐氣
或る本の歌に発句(ほつく)に曰はく、
訓読 小林(をはやし)に駒を馳(は)ささげ
私訳 林の中に駒を駆けさせて、


集歌3539 安受乃宇敝尓 古馬乎都奈伎弖 安夜抱可等 比等豆麻古呂乎 伊吉尓和我須流
訓読 崩岸(あず)の上(うへ)に駒を繋ぎて危(あや)ほかと人(ひと)妻(づま)子ろを息(いき)に吾(わ)がする

私訳 崩れた崖の上に駒を繋いで危ないと云うように、恋することは当てにならないと云う自分の思うようにならない娘子の、その娘を生きがいと私は選ぶ。

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日本紀私記序(弘仁私記序)原文 から日本書紀の編纂時期を考える 後編

2011年09月25日 | 資料書庫
日本紀私記序(弘仁私記序)原文 から日本書紀の編纂時期を考える 後編



(本文となる大字体表記のみを抜き出したもの)
夫日本書紀者、一品舍人親王、從四位下勳五等太朝臣安麻呂等、奉敕所撰也。
先是、淨御原天武天皇御宇之日、有舍人、姓稗田、名阿禮。年廿八。為人謹恪、聞見聽慧。天皇敕阿禮使習帝王本記及先代舊事。未令撰録、世運遷代。
豐國成姫元明天皇臨軒之季、詔正五位上安麻呂俾撰阿禮所誦之言。和銅五年正月廿八日、初上彼書。所謂、古事記三卷者也。
清足姫元正天皇負扆之時、親王及安麻呂等、更撰此日本書紀三十卷并帝王系圖一卷。養老四年五月廿一日、功夫甫就獻於有司。
上起天地混淪之先、下終品彙瓢成之後。神胤皇裔、指掌灼然、慕化古風、舉自明白。異端小説、恠力亂神、莫不該愽。
世有神別紀十卷、自此之外、更有帝王系圖。諸民雜姓記、新撰姓氏目録者、如此之書、觸類而夥。踳駮舊説、眩曜人看。或以馬為牛、或以羊為犬。輙假有識之號、以為述者之名。謂借古人及當代人之名。即知、官書之外、多穿鑿之人。是以官禁而令焚、人惡而不愛。今猶遺漏、遍在民間、多偽少真、無由刊謬。是則不讀舊記。無置師資、之所致也。
凢厥天平勝寶之前、毎一代使天下諸民各獻本系。永藏秘府、不得輙出、令存圖書寮者是也。
冷然聖主嵯峨帝弘仁四年在祚之日、愍舊説將滅、本紀合訛。詔刑部少輔從五位下多朝臣人長、使講日本紀。即課大外記正六位上大春日朝臣穎雄・民部少丞正六位上藤原朝臣菊池麻呂・兵部少丞正六位上安倍朝臣藏繼・文章生從八位上滋野朝臣貞主・無位嶋田臣清田・無位美努連清庭等受業、就外記曹局而開講席。
一周之後、卷袟既竟。其第一・第二兩卷、義縁神代、語多古質。授受之人、動易訛謬。故以倭音辨詞語、以丹點明輕重、凢抄三十卷、勒為三卷。
夫天常立命、至畏根命、八千萬億歳。是雖古記、尚不緊切。
自伊諾命、至彦瀲尊、史官不備、歳次不記。
但、自神倭天皇庚申年、至冷然聖主嵯峨弘仁十年、一千五百五十七歳御宇五十二帝庶。後賢君子留情情察之云爾。

訓読 夫れ日本書紀は、一品舍人親王、從四位下勳五等太朝臣安麻呂等、敕(みことのり)を奉りて撰する所なり。
是より先、淨御原天武天皇御宇の日(とき)、舍人有り、姓を稗田、名を阿禮。年廿八。人は謹恪(きんかく)と為し、聞見(ぶんけん)聽慧(ちょうすい)。天皇の阿禮に敕(みことのり)して帝王・本記及び先代舊事を習(ならわ)しめる。未だ撰録せしめずに、世は運(めぐ)り代は遷(うつ)る。
豐國成姫元明天皇臨軒(りんけん)の季(とき)、詔(みことのり)して正五位上安麻呂をして阿禮の誦む所の言(ことば)を撰(しる)せしむ。和銅五年正月廿八日、初めて彼(か)の書を上(たてまつ)る。所謂(いわゆる)、古事記三卷なり。
清足姫元正天皇負扆(ふい)の時、親王及び安麻呂等は、更に此の日本書紀三十卷并びに帝王系圖一卷を撰ぶ。養老四年五月廿一日、功(いさ)しき夫甫の有司に獻ずるを就(な)す。
上は天地混淪の先に起き、下は品彙(ひんい)瓢成(ひょうせい)の後に終える。神胤皇裔、指掌(ししょ)灼然(しゃくぜん)。慕化古風、舉自明白。異端小説、恠力亂神。聞くを多く備ふを為し、該愽(かいはく)ならざることなし。
世に神別紀十卷有り、此の外に、更に帝王の系圖有り。諸(もろもろ)の蕃の雜姓の記、新撰姓氏目録、今此の書は、踳駮(しゅんばく)舊説(きゅうせつ)、眩曜(げんよう)人看(じんかん)なり。或(ある)は馬を以って牛と為し、或は羊を以って犬と為す。輙(すなわ)ち假(かり)そめの有識と之を號(よびな)し、以って述(しる)す者の名と為す。謂く、古人及び當代人の名を借る。即ち知る、官書の外、穿鑿(せんさく)の人多し。是を以って官は禁じ、而(すなは)ち焚かしむ、人は惡(にく)み而(しか)るも愛(したが)わず。今なお遺漏あり、遍(あまね)く民の間に在り、偽り多く真(もこと)は少なし、由(ゆゑ)無く謬(あやまち)を刊(きざ)む。是れ則ち舊記を読まず。師(=規範)の資(よりどころ)を置くこと無くして、之を致す所なり。
およそ、かの天平勝寶の前(とき)、一代毎に天下諸民を使(つか)いて各(おのおの)本系(もとつすじ)を獻じ、永藏秘府し、輙り出すを得ず、圖書寮に存らしめるは是なり。
冷然聖主嵯峨帝の弘仁四年在祚の日に、舊(ふる)き説(はなし)の滅するを愍(あわれ)み、本(もと)つ紀(き)に訛(か)を合させしめる。詔して刑部少輔從五位下多朝臣人長に日本紀の講を使(つか)はしめ、即ち、大外記正六位上大春日朝臣穎雄・民部少丞正六位上藤原朝臣菊池麻呂・兵部少丞正六位上安倍朝臣藏繼・文章生從八位上滋野朝臣貞主・無位嶋田臣清田・無位美努連清庭等(たち)に業(わざ)を受くることを課し、外記曹局に就かしめ、講の席を開かしめた。
一周の後、卷袟(けんちつ)は既に竟(お)わる。その第一・第二の兩卷は、義は神代に縁り、語(ことば)は多く古質、世の質は民淳、言詞(ことば)は今に異なる。之を授け受くる人、訛謬(かびゅう)は動き易し。故に倭(やまと)の音を以って詞語(ことば)を辨(わか)ち、丹(あか)き點(てん)を以って輕重を明からにし、およそ抄三十卷、勒して三卷と為す。
それ天常立命より、畏根命まで、八千萬億歳。これ古記にして、なお緊切(きんせつ)あらず。伊諾命より、彦瀲尊まで、官に不備、歳次を記さず。
但し、神倭天皇の庚申年より、冷然聖主嵯峨弘仁十年まで、一千五百五十七歳の御宇五十二帝の庶(もろもろ)。後(すえ)の賢き君子、情々を留め、これを察(み)ると云ふ。


 最初に、注でも説明しましたが、この弘仁私記は、冷然聖主嵯峨帝の「冷然聖主」の表記から、嵯峨天皇が淳和天皇に譲位されて太上天皇として冷然院に住まわれた期間、弘仁十四年(823)四月から承和九年(842)七月の崩御まで、その時代、またはそれ以降に記されたと推定されます。もう少し、幅を絞ると天長三年の藤原緒嗣の上表や承和十年六月一日の仁明天皇の詔が引用されている可能性がありますから、承和十年六月の仁明天皇による日本紀講筵開始に備えて、菅野朝臣高年の要請で多朝臣人長が当時の関係者である参議滋野朝臣貞主達の資料や記録から弘仁年間の日本紀講筵覚書を、前例の資料として内史局で作成した可能性があります。
 次に、万葉集を鑑賞する上でこの「序」の重要な点は「冷然聖主嵯峨帝弘仁四年在祚之日、愍舊説將滅、本紀合訛」の一節です。つまり、嵯峨天皇が詔を下し、弘仁四年(813)から弘仁十年(819)頃にかけて日本紀に民の間に在った旧説を合併させ、その合本作業の世話人をこの多朝臣人長が行ったと記録していることです。また、「授受之人、動易訛謬。故以倭音辨詞語、以丹點明輕重」と記すように、同時に日本紀の解釈や訓みを安定させるために小文体や赤点で注記や倭音を表記する作業を行ったとしています。この状況を踏まえて日本後紀の弘仁三年六月二日の条と多人長の「序」を合わせて読むと、日本紀の講読作業は参議で従四位下である紀臣広浜を筆頭として陰陽頭で正五位下である阿部朝臣真勝達が行い、その講読作業の成果の記録や旧説との合併の実務は大外記で正六位上の大春日朝臣穎雄等、外記曹局の官人達が行ったようです。そして、その講読作業や合本作業の取りまとめを「講」の責任者として多人長が行ったと思われます。
 延暦十八年十二月二十九日の桓武天皇の詔に端を発する入り乱れた本係帳と日本紀との整合をとる「本紀合訛」と日本紀自体の訓読みを安定させる「丹點明輕重」との作業の結果として、嵯峨天皇の時代には本来の伝えられた国書である「日本紀」と嵯峨天皇の詔勅により多人長等の手によって作成された新撰姓氏目録の根拠と日本紀講筵で使う注釈書との二つの目的を持つ「日本書紀」の二種類の本が存在していたと推定出来ます。この二種類の本が存在していたことを窺わせる資料として続日本紀の神亀元年(724)十月丁亥朔の条(参照資料)に「白鳳以来、朱雀以前」と云う言葉を含む詔が降されています。つまり、藤氏家伝等の資料を含めて考察すると、日本紀においては天智天皇の即位以来、白鳳、朱雀、朱鳥と年号は続いていたと考えられます。ここに日本紀と現在の日本書紀とに違いが明白に表れて来ます。こうしたとき、「序」の注釈で日本紀は図書寮に収納されているとしていますが、同時に「是則不讀舊記 日本書紀・古事記・諸民等之類」と述べ、国家の定める正しい歴史を知るには旧記、日本書紀、古事記や民のこの類の本を一般の人が読むことを推薦しています。ここから、当時、民間には官の薦めにより旧記、日本書紀や古事記などの写本が在ったとの推定が可能です。
 つまり、この推定が許されるのなら、万葉集の左注に見られる日本紀と日本書紀との表記から、万葉集での左注が行われた時期の推定が可能になる希望があります。それは第一に、現在の伝日本書紀は弘仁十年頃に完成したと推定できますから、万葉集での日本書紀の表字を使った左注は自動的に弘仁十年頃以降となります。逆に日本紀とあれば弘仁十年頃以前となります。さらに、その注記において日本紀を参照して日本紀の表字で左注が行える人物は図書寮に保管されている日本紀を閲覧出来る人物に限定されますから、朝廷の承認の下に万葉集の編纂や注記作業を行ったとの推定が可能になります。つまり、初期万葉集は、確実に勅撰和歌集の性格を持ちます。従って、このような点から、万葉集を研究する上では、この「弘仁私記」は非常に重要なものとなります。
 なお、万葉集から離れれば、この「序」は朝廷での官人秩序の基準となる氏族の地位を裏付ける本係帳とそれに密接に関係する新撰姓氏目録の証拠となる日本紀から日本書紀への改訂作業の実態を示すものですので、平安時代の官僚組織や祖神簒奪(参照資料)による神社再編成の歴史を探る端緒になるのではないでしょうか。また、日本書紀編纂の契機となった嵯峨天皇の詔の本質から、今後の新撰姓氏目録におけるその根拠となる「本紀合訛」の作業の期日を明らかにしておくために「序」の末文に「但、自神倭天皇庚申年、至冷然聖主嵯峨弘仁十年」の一文が必要になったと考えられます。この一文があることによって、将来において、日本書紀に新たに「一書」や「或云」による一文や小字体注記を加えることを保証したと考えられます。つまり、嵯峨天皇の詔から、弘仁十年に新たに作成された日本書紀は、都度、改訂をして良いことになります。

 さて、最初に述べましたように、ここでのものは独学の漢文和訳を元にしていますので、話題を提供するだけにしたいと思います。ここでの推定が認められた段階で、万葉集での日本紀と日本書紀との表記の相違の時期を考えてみたいと思います。


参考資料 1
日本後紀 弘仁三年六月戊子(二日)の条
是日、始令参議従四位下紀臣広浜・陰陽頭正五位下阿部朝臣真勝等十余人読日本紀、散位従五位下多朝臣人長執講。

訓読 是の日、始めて参議従四位下紀臣広浜・陰陽頭正五位下阿部朝臣真勝等十余人に日本紀を読ましめ、散位従五位下多朝臣人長に講を執らしめた。


参考資料 2 注1及び注5
日本後紀 大同四年(809)二月辛亥(五日)の条
勅、倭漢惣歴帝譜圖、天御中主尊標爲始祖、至如魯王・呉王・高麗王・漢高祖命等、接其後裔。倭漢雜糅、敢垢天宗、愚民迷執、輙謂實録。宜諸司官人等所藏皆進。若有挾情隱匿、乖旨不進者、事覺之日、必處重科。

訓読 勅(みことのり)して、倭漢惣歴帝譜圖は、天御中主尊を標(しる)して始祖と為し、魯王・呉王・高麗王・漢の高祖命等(たち)に至るが如く、其の後裔と接(まじ)る。倭漢雜糅(ざつじゅう)、敢(あえ)て天宗の垢(よごれ)となり、愚民迷執し、輙(すなわ)ち實録と謂ふ。宜く諸司(もろもろのつかさ)官人(みやひと)等は所藏を皆進せよ。若し情を挟み隱匿すること有り、旨(のり)に乖(そむ)き進(たてまつ)らざる者は、事の覺(あきらか)なる日(とき)に、必ず重き科(とが)に処す。


参考資料 日本紀と日本書紀での年号の相違の推定
続日本紀 神亀元年(724)十月丁亥朔の条
治部省奏言、勘検京及諸国僧尼名籍、或入道元由、披陳不明、或名存綱帳、還落官籍、或形貌誌黶、既不相当。惣一千一百廿二人、准量格式、合給公験、不知処分。伏聴天裁。詔報日、白鳳以来朱雀以前、年代玄遠、尋問難明。亦、所司記注多有粗略、一定見名、仍給公験。

訓読 治部省の奏して言はく「京及び諸国の僧尼の名籍を勘検するに、或は入道の元の由(ゆゑ)は、披陳(ひちん)は明らかならず、或は名は綱帳(こうちょう)に存るも、還して官籍より落ち、或は形貌を黶(えん)に誌(しる)すも、既に相ひ当らず。惣(そう)じて一千一百廿二人、格式に准(なぞら)えて量(はか)るに、合給公験の、処分を知らず。伏して天裁を聴く」と。詔して報じて日はく「白鳳以来、朱雀以前、年代は玄遠にして、尋問は難明なり。また、所司の記する注に多く粗略有り、一(ひと)たび見名を定だめ、仍ち公験を給せよ」と。


参考資料 祖神簒奪による神社再編成の例
日本後紀 弘仁四年(813)十月丁未(廿八日)の条
從四位下左中辨兼攝津守小野朝臣野主等言、猿女之興、國史詳矣。其後不絶、今尚見在。又猿女養田在近江國和邇村・山城國小野郷。今小野臣・和邇部臣等、既非其氏。熟捜事緒、二氏之中、貪人利田。不顧恥辱、拙吏相容、無加督察也。乱神事於先代、穢氏族於後裔。積日經年、恐成舊慣。伏請。令所司厳加捉搦、斷用非氏。然則、祭祀無濫、家門得正者。可之。

訓読 從四位下左中辨兼攝津守小野朝臣野主等(たち)が言ふには「猿女の興るは、國史に詳(つまび)らかなり。其の後は絶えず、今なお見在なり。また、猿女の養田は近江國の和邇村と山城國小野郷に在る。今の小野臣と和邇部臣等は、既(かって)、其の氏に非ず。事緒を熟捜するに、二氏の中に、人を貪(むさぼ)り田を利す。恥辱を顧(かえり)みず、拙吏は相容し、督察を加ふこと無きなり。先代に神事は乱れ、後裔に氏族を穢(けが)す。日を積み年を経て、舊き慣の成るを恐る。伏して請ふ。『所司を令(つか)しめて厳しく捉搦(そくじゃく)を加(く)はえ、非氏を用ふるを斷(た)たしめむことを』。然らば則ち、祭祀は濫れ無く、家門は正しき者を得るなり」と。これを可(か)とする。
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日本紀私記序(弘仁私記序)原文 から日本書紀の編纂時期を考える 前編

2011年09月25日 | 資料書庫
日本紀私記序(弘仁私記序)原文 から日本書紀の編纂時期を考える 前編


 現在、日本書紀と名が付けられている国書に対して、万葉集には日本紀と日本書紀の二種類の表記があります。そこで、なぜ、万葉集に日本紀と日本書紀との二つの表記があるのかを明らかにするために、平安初期の嵯峨前太上天皇・淳和後太上天皇・仁明天皇の時代の承和十年六月頃に多朝臣人長達の記録により内史局(図書寮)が日本紀講筵の前例資料として作成したと思われる日本紀私記序を紹介します。
 この日本紀私記序には、書写されたものをインターネットで閲覧できるものとして、愛媛大学や早稲田大学のものがあります。その愛媛大学公開では日本紀私記序(承平六年日本紀私記零本)、早稲田大学公開では日本書紀私記巻上并序と書題を付けられていて、所謂、弘仁私記序(以下、「弘仁私記」又は「序」と云います)の伝本です。この「序」の漢文は、本文となる大字体で記されたものと、その注釈となる小文体で記されたものとで構成され、注釈となる小文体で記されたものには、愛媛大学、早稲田大学の公開書写やHP「久遠の絆」に載るものとに異同があります。また、標題自体も「日本紀」と「日本書紀」との二種類があります。
 ここでは、HP「久遠の絆」から「序」文を元とし、愛媛大学公開の日本紀私記序(承平六年日本紀私記零本)等で点検し、その訓読を紹介しています。最初に「序」全体の漢文とその訓読を載せ、引き続いて「序」の本文大字体のみを抜き出したものを便宜のために紹介します。掲載が前後しますが、始めに本文大字体の訓読で概要を掴んでいただくと、全容の理解が容易と思います。
なお、「序」で示す日本紀講筵の開始が弘仁四年に対して、日本後紀ではその開始の詔を嵯峨天皇が下したのは弘仁三年ですので、そこに一年の異同があることを了解して下さい。また、無学の者が漢文和訳を行っているここでの行為は「トンデモ研究」の典型ですので、ここは話題提供とご理解ください。
(注 ブログではその表示の関係で大字体、小文体の表記が上手くいかない可能性があります。)

日本書紀私記巻上并序
夫日本書紀者、日本國、自大唐東去万餘里、日出東方、昇於扶桑、故云日本。古者謂之倭國。倭意未詳。或曰取稱我之音、漢人所名之字也。通云山跡。山謂之耶麻、跡謂之止、音登、戶、及下同。夫天地剖判、埿濕未燥、是以栖山徃來固自多蹤跡、故曰邪麻止。又、古語謂居住為止、言止。住於山也、音同上。武玄之曰、東海、女國也。一品舍人親王 淨御原天武天皇第五皇子也、從四位下勳五等太朝臣安麻呂等 王子神八井耳命之後也、奉敕所撰也。
先是、淨御原天武天皇御宇之日、氣長帶日舒明天皇之皇子、近江天智天皇同母弟也。有舍人、姓稗田、名阿禮。年廿八、天鈿女命之後也。為人謹恪、聞見聽慧。聽、一本作聰。天皇敕阿禮使習帝王本記及先代舊事。豐御食炊屋姫推古天皇廿八年、上宮太子聖、嶋大臣蘇我馬子共議、録天皇記及國記、臣、連、伴造、國造百八十部并公民等本記。又、自天地開闢至豐御食炊屋姫天皇、謂之舊事。未令撰録、世運遷代。
豐國成姫元明天皇臨軒之季、季、或作年。天命開別天智天皇第四皇女也。軒者、榲上板也、謂御宇、馬臨軒、詔正五位上安麻呂俾撰阿禮所誦之言。和銅五年正月廿八日 豐國城姫元明天皇年號也、初上彼書。所謂、古事記三卷者也。
清足姫元正天皇負扆之時、淨御原天武天皇之孫、日下太子之子也。世號飯高天皇、扆、戶牅之間也。負斧扆者、言以其所處名之、今案天子座之後也。親王及安麻呂等、更撰此日本書紀三十卷并帝王系圖一卷。今見在圖書寮及民間也。養老四年五月廿一日 淨足姫元正天皇年號也。功夫甫就獻於有司。今圖書寮是也。
上起天地混淪之先、混、大波也。淪、小沉小波也。下終品彙瓢成之後、品、眾也。彙、類也。瓢、成也。神胤皇裔、指掌灼然、中臣朝臣、忌部宿禰等為神胤也。息長真人、三國真人等為皇裔也。慕化古風、舉自明白。東漢、西漢史及百濟氏等為慕化、高麗、新羅及東部、後部氏等為古風也。異端小説、恠力亂神、一書及或説、為異端。反語及諺曰、為小説也。恠、異也。大鷦鷯仁天王御宇之時、白鳥陵人化為白鹿。又蝦夷叛之、堀上野田道墓。則大蛇瞋目、出自墓以咋蝦夷也。力、多力也。天國排開欽明天皇御宇之時、膳臣巴提便至新羅、有虎噬兒去也。提尋至巖岫、左手摯虎舌、右手拔釰刺殺。又蜾嬴捕山雷之類也。亂、逆也。蘇我入鹿失君臣之禮、有覬覦之心也。神、鬼神也。大泊雄略天皇獵於葛城山、急見長人面白、容儀相似天皇。天皇問名、答云僕是一言主神也。為備多聞、莫不該愽。該、備也。
世有神別紀十卷、天神、天孫之事、具在此書。發明神事、最為證據。然秊紀夐遠、作者不詳。夐、遠視也、隳正反。自此之外、更有帝王系圖。天孫之後、悉為帝王。而此書云、或到新羅高麗為國王、或在民間為帝王者。囙茲延曆年中、下符諸國、令焚之。而今猶在民間也。諸民雜姓記、或以甲後為乙胤、或以乙胤為甲後。如山之誤徃徃而在、苟以曲見或無識之人也。諸蕃雜姓記、田邊吏、上毛野公、池原朝臣、住吉朝臣等祖、思須美、和兩人、大鷦鷯仁天皇御宇之時、自百濟國化來、而言己等祖、是貴國將軍上野公竹合也者。天皇矜憐、混彼族訖。而此書云諸蕃人也。如此事觸類而世也。新撰姓氏目録者、柏原桓武天皇御宇之時、若狹國人中新本系事同茲。今諸國獻本系、撰此書。而彼主當人等、未辨真偽、抄集誤書、施之民間、加以引神胤為上、推皇裔為方。尊卑雜亂、無由取信。、正書目録、今在太政官。今此書者、所謂書之外、恣申新意歟。故錐迎禁駟、不及耳也。如此之書、觸類而夥、夥、多也。踳駮舊説、眩曜人看。踳駮差雜貌。或以馬為牛、或以羊為犬。輙假有識之號、以為述者之名。謂借古人及當代人之名。即知、官書之外、多穿鑿之人。是以官禁而令焚、人惡而不愛。今猶遺漏、遍在民間、多偽少真、無由刊謬。是則不讀舊記 日本書紀・古事記・諸民等之類。無置師資、之所致也。翻士為師、弟子為資。
凢厥天平勝寶之前、感神聖武天皇年號也。世號法師天皇。天平勝寶、實孝謙天皇年號也。然勝寶感神聖武皇帝者、聖武天皇也。毎一代使天下諸民各獻本系、謂譜講為本系也。永藏秘府、不得輙出、令存圖書寮者是也。雄朝妻稚子宿禰、允恭天皇御宇之時、姓氏紛謬、尊卑難決。囙咄月櫓丘、令探湯、定真偽。今大和國高市郡有釜是也。後世、帝王見彼覆車、毎世今獻本系、藏圖書寮也。
冷然聖主嵯峨帝弘仁四年在祚之日、天智天皇之後、柏原天王之王子也。愍舊説將滅、本紀合訛。詔刑部少輔從五位下多朝臣人長、祖禰見上。使講日本紀。即課大外記正六位上大春日朝臣穎雄、王子大帶彦國押人命之後、從五位下魚成第一男・民部少丞正六位上藤原朝臣菊池麻呂、天孫天兒命之後、從五位下是人第四男也・兵部少丞正六位上安倍朝臣藏繼、正二大彦命之後、從四位下弟者第工男也・文章生從八位上滋野朝臣貞主、天孫魂命之後、從五位上家譯第一男・無位嶋田臣清田、王子神八井耳命之後、正六位上村田第一男・無位美努連清庭等受業、天神角凝命之後、正六位上友依第三男也、就外記曹局而開講席。
一周之後、卷袟既竟。一季為周。其第一・第二兩卷、義縁神代、語多古質、世質民淳、言詞異今。授受之人、動易訛謬。訛、化也。故以倭音辨詞語、以丹點明輕重、凢抄三十卷、勒為三卷。
夫天常立命、倭語云阿麻乃止己太知乃美己止。至畏根命、倭語曰加之古禰乃美己止。八千萬億歳、日本一書有此句。但、無史官、涉疑。是雖古記、尚不緊切。緊、切也。
自伊諾命、天神、是即陽神也。倭語云伊左奈支乃美己止。至彦瀲尊、天孫彦火火出見命第一男。倭語云比古那支佐乃美己止。史官不備、歳次不記。
但、自神倭天皇。庚申年、彦瀲尊第四男、諱狹野尊也。庚申、天皇生年。至冷然聖主嵯峨弘仁十年、一千五百五十七歳御宇五十二帝庶。後賢君子留情々察之云爾。

訓読 夫れ日本書紀は、日本國、大唐より東に万餘里去り、日の出る東方、扶桑(ふそう)の昇る、故に日本(やまと)と云う。古(いにしえ)は之を倭國(やまと)と謂ふ。し「倭」の意は未だ詳(つばびら)かならず。或は曰く「我」の音を取り稱(とな)え、漢人のこの字を名する所なり。通(みな)、云はく山跡(やまと)。「山」は之を耶麻(やま)と謂ひ、「跡」は之を止(と)と謂ふ、音の登(と)、戶(と)、下に及ぶも同じ。夫れ天地剖(わか)ち判(か)たく、埿濕(でいしつ)未だ燥(かわ)かず、是を以ちて栖山(すさん)に徃來し多くの蹤跡(じゅうせき)は自(おのず)から固まる、故に曰はく邪麻止(やまと)。又、古語に居住を謂ひて止(と)と為し、止と言う。住は山なり、音は上に同じ。武玄に之を曰はく、東海女(をみな)國(こく)なり。一品舍人親王 淨御原天武天皇の第五皇子なり、從四位下勳五等太朝臣安麻呂等 王子神八井耳命の後なり、敕(みことのり)を奉りて撰する所なり。
是より先、淨御原天武天皇御宇の日(とき)。氣長帶日舒明天皇の皇子、近江天智天皇の同母弟なり。舍人有り、姓を稗田、名を阿禮。年廿八、天鈿女命の後なり。人は謹恪(きんかく)と為し、聞見(ぶんけん)聽慧(ちょうすい)、聽、一本(あるほん)に聰と作る。天皇の阿禮に敕(みことのり)して帝王・本記及び先代舊事を習(ならわ)しめる。豐御食炊屋姫推古天皇廿八年、上宮太子聖、嶋大臣蘇我馬子共に議りて、天皇記及び國記・臣・連・伴造・國造百八十部并びに公民等の本記を録す。又、天地開闢より豐御食炊屋姫天皇まで、之を舊事(ふるきこと)と謂ふ。未だ撰録せしめずに、世は運(めぐ)り代は遷(うつ)る。
豐國成姫元明天皇臨軒(りんけん)の季(とき) 季、或は年と作る。天命開別天智天皇の第四皇女なり。軒は、榲(すぎ)の上板なり、謂く御宇、馬の軒を臨むなり。詔(みことのり)して正五位上安麻呂をして阿禮の誦む所の言(ことば)を撰(しる)せしむ。和銅五年正月廿八日、豐國城姫元明天皇の年號なり。初めて彼(か)の書を上(たてまつ)る。所謂(いわゆる)、古事記三卷なり。
清足姫元正天皇負扆(ふい)の時、淨御原天武天皇の孫、日下(くさかの)太子(たいし)の子なり。世を飯高天皇と號(なつけ)る。扆(ついたて)は、戶と牅(よう)の間なり。斧扆(ふい)を負ふは、其所の處名(ところな)を以って言う。今、天子の座の後を案じ、親王及び安麻呂等は、更に此の日本書紀三十卷并びに帝王系圖一卷を撰ぶ。今の圖書寮及び民(たみ)の間に在るを見る。養老四年五月廿一日、淨足姫元正天皇の年號なり。功(いさ)しき夫甫の有司に獻ずるを就(な)す。今圖書寮の是なり。
上は天地混淪の先に起き、混は、大波なり。淪は、小(しょう)沉(ちん)小波(こなみ)なり、下は品彙(ひんい)瓢成(ひょうせい)の後に終える。品は、眾(しゅう)なり。彙(い)は、類なり。瓢は、成なり。神胤皇裔、指掌(ししょ)灼然(しゃくぜん)。中臣朝臣・忌部宿禰等は神胤と為し、息長真人・三國真人等は皇裔と為す。慕化古風、舉自明白。東漢・西漢の史及び百濟の氏等は慕化と為し、高麗・新羅及び東部・後部の氏等は古風と為す。異端小説、恠力亂神、一書(あるふみ)及び或説(あるせつ)は、異端を為す。反語(およづれ)及び諺に曰はく、小説を為すなり。恠は、異なり。大鷦鷯仁天王御宇の時、白鳥陵(しらとりのみささぎ)の人の白き鹿と化(な)すなり。又、蝦夷の叛(そむ)けし、堀(ほり)上野(かみつけの)田道(たみち)の墓。則ち大蛇の瞋目し、墓より出でて以って蝦夷を咋(くら)ふ。力は、多力なり。天國排開欽明天皇御宇の時、膳臣巴(はすひ)の便(たより)を提(たづ)さえ新羅に至り、虎の兒を噬(か)みて去ること有り。提尋し巖(いはほ)の岫(くき)に至り、左手に虎の舌を摯げ、右手に釖を拔き刺し殺す。又、蜾嬴(するが)の山に雷を捕える類なり。亂は、逆なり。蘇我入鹿の君臣の禮を失い、覬覦(きゆ)の心有り。神は、鬼神なり。大泊雄略天皇の葛城山の獵(かり)に、急(にわか)に長人(たかきひと)の面(おも)白きを見る、容儀は天皇に相似る。天皇の名を問うに、答へて云うには僕はこれ一言主神なり。聞くを多く備ふを為し、該愽(かいはく)ならざることなし。該は、備なり。
世に神別紀十卷*注1有り、天神、天孫の事、具(つぶさ)に此の書に在り。明神の發(あらわ)る事は、最も證據(しょうこ)と為す。然るに秊紀(ねんき)夐遠(けいおん)、作る者は詳(つまび)らかならず。夐は、遠視なり、隳は正の反。此の外に、更に帝王の系圖有り。天孫の後、悉く帝王と為す。此書の云はく、或は新羅・高麗到りて國王と為し、或は民(たみ)の間に在りて帝王者と為す。よって茲に延曆年中に、符を諸國に下し、之を焚(や)かしむ。而(しか)るに今なお民(たみ)の間に在る。諸(もろもろ)の民の雜姓の記、或は甲の後(のち)を以って乙の胤(のち)と為し、或は乙の胤を以って甲の後と為す。山の如くこの誤り徃徃に在りて、苟(いやし)くも曲見を以ち、或いは之を識る人無きなり。諸(もろもろ)の蕃の雜姓の記、田邊吏、上毛野公、池原朝臣、住吉朝臣等(たち)の祖(おや)、思須美、和の兩人、大鷦鷯仁天皇御宇の時、百濟國より化(おもむ)き來たる、而(すなは)ち己(おのれ)等の祖(おや)と言ふ、これ貴き國つ將軍上野公竹合なる者なり。天皇*注2矜憐(きんれん)し、彼(か)の族の訖(のち)を混(ま)じふ。而(しか)るに此の書に諸蕃の人と云うなり。此の事の如く類(たぐい)に觸れ而(しか)るに世となす。新撰姓氏目録は、柏原桓武天皇御宇の時*注3、若狹國の人の中(うち)に新たに本系(もとつすじ)の事を同(あつ)める。今諸國の本系を獻じ、此の書を撰ぶ。彼(か)の主の當の人等(たち)、未だ真偽を辨(わか)たず、抄集(しょうしゅう)誤書(ごしょ)、之を民の間に施(さら)し、加えて以って神胤を引いて上と為し、皇裔と推(かこつ)け方(よるべ)と為す。尊卑雜亂、由(ゆゑ)無くして信を取る。し、正しき書の目録*注4は、今太政官に在る。今此の書は、所謂(いわゆる)書の外なり、恣(ほしいまま)に申(もう)して新たな意を歟(か)く。故に錐迎(すいげい)禁駟(きんし)し、耳(き)くに及ばざるなり。此の書の如くは、類(たぐい)に觸れ而(かえ)って夥(おびただ)しい。夥は、多なり。踳駮(しゅんばく)舊説(きゅうせつ)、眩曜(げんよう)人看(じんかん)なり、踳駮(しゅんはく)は雜貌(ざつぼう)とは差(たが)ふ。或(ある)は馬を以って牛と為し、或は羊を以って犬と為す。輙(すなわ)ち假(かり)そめの有識と之を號(よびな)し、以って述(しる)す者の名と為す。謂く、古人及び當代人の名を借る。即ち知る、官書の外、穿鑿(せんさく)の人多し。是を以って官は禁じ、而(すなは)ち焚かしむ*注5。人は惡(にく)み而(しか)るも愛(したが)わず。今なお遺漏あり、遍(あまね)く民の間に在り、偽り多く真(まこと)は少なし、由(ゆゑ)無く謬(あやまち)を刊(きざ)む。是れ則ち舊記、日本書紀、古事記、諸(もろもろ)の民(たみ)等(たち)の之の類(たぐい)のものを読まず。師(=規範)の資(よりどころ)を置くこと無くして、之を致す所なり。士を翻(あらた)め師(=規範)と為し、弟子の資(よりどころ)と為さむ。
およそ、かの天平勝寶の前(とき)とは、感神聖武天皇の年號なり。世を法師天皇と號(よびな)す。天平勝寶は、實は孝謙天皇の年號なり。然し勝寶感神聖武皇帝とは、聖武天皇なり。一代毎に天下諸民を使(つか)いて各(おのおの)本系(もとつすじ)を獻じ、謂く譜(ふ)を講(あきらかに)し本系と為すなり。永藏秘府し、輙り出すを得ず、圖書寮に存らしめるは是なり。雄朝妻(をあさつま)稚子(わくご)宿禰、允恭天皇御宇の時、姓氏は紛謬(ふんびゅう)し、尊卑決め難し。よって咄月櫓の丘に、探湯(くかたち)をして、真偽を定める。今大和國高市郡に有る釜は是なり。後の世に、帝王は彼(か)の覆車を見る。世毎に今の本系(もとつすじ)を獻じ、圖書寮に藏(おさめ)るなり。
冷然*注6聖主嵯峨帝の弘仁四年在祚の日(とき)に、舊(ふる)き説(はなし)の滅するを愍(あわれ)み、本(もと)つ紀(き)に訛(か)を合させしめる。詔して刑部少輔從五位下多朝臣人長に日本紀の講を使(つか)はしめ、即ち、大外記正六位上大春日朝臣穎雄・民部少丞正六位上藤原朝臣菊池麻呂・兵部少丞正六位上安倍朝臣藏繼・文章生從八位上滋野朝臣貞主・無位嶋田臣清田・無位美努連清庭等(たち)に業(わざ)を受くることを課し、外記曹局に就かしめ、講の席を開かしめた。
一周の後、卷袟(けんちつ)は既に竟(お)わる。一季を周に為(よう)す。その第一・第二の兩卷は、義は神代に縁り、語(ことば)は多く古質、世の質は民淳、言詞(ことば)は今に異なる。之を授け受くる人、訛謬(かびゅう)は動き易し。訛は、化なり。故に倭(やまと)の音を以って詞語(ことば)を辨(わか)ち、丹(あか)き點(てん)を以って輕重を明からにし、およそ抄三十卷、勒して三卷と為す。
それ天常立命、倭(やまと)の語(ことば)に云はく「阿麻乃止己太知乃美己止(あまのとこたちのみこと)」より、畏根命、倭(やまと)の語(ことば)に曰はく「加之古禰乃美己止(かしこみのみこと)」まで、八千萬億歳、日本(やまと)の一書(あるしょ)に此の句あり。但し、史官の疑(うたがい)を渉(わ)たすことなし。これ古記にして、なお緊切(きんせつ)あらず、緊は、切なり。
伊諾命、天神、これ即ち陽神なり。倭(やまと)の語(ことば)に云はく「伊左奈支乃美己止(いさなきのみこと)」より、彦瀲尊、天孫彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)の第一男。倭(やまと)の語(ことば)に云はく「比古那支佐乃美己止(ひこなきさのみこと)」まで、官に不備、歳次を記さず。
但し、神倭天皇の庚申年より、彦瀲(ひこなぎの)尊(みこと)の第四男、諱は狹野(さのの)尊(みこと)なり。庚申は、天皇の生年、冷然聖主嵯峨弘仁十年まで、一千五百五十七歳の御宇五十二帝の庶(もろもろ)。後の賢き君子*注7、情々を留め、これを察(み)ると云ふ。

注1:倭漢惣歴帝譜図のこと。日本後紀 大同四年二月五日の平城天皇の詔、参照。
注2:桓武天皇を示す。天応元年の菅原宿禰以降、一連の改姓(かいせい)・改姓(かいかばね)を示す。
注3:日本後紀 延暦十八年十二月二十九日の桓武天皇の詔。
注4:日本後紀 弘仁五年八月四日の条。これ以前に完成。
注5:日本後紀 大同四年二月五日の平城天皇の詔、参照。
注6:「冷然聖主」では意味が不明として「今然聖主」とするものもありますが、これは嵯峨天皇が譲位して冷然院に住まわれたことからの尊称です。
注7:日本後紀 天長三年三月一日の藤原緒嗣の上表から淳和天皇と続日本後紀 承和十年六月一日の仁明天皇の詔から淳和天皇と仁明天皇のお二人を示す。


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万葉集巻十四を鑑賞する  集歌3500から集歌3519まで

2011年09月24日 | 万葉集巻十四を鑑賞する
万葉集巻十四を鑑賞する


集歌3500 牟良佐伎波 根乎可母乎布流 比等乃兒能 宇良我奈之家乎 祢乎遠敝奈久尓
訓読 紫草(むらさき)は根をかも竟(を)ふる人の子の心(うら)愛(かな)しけを寝(ね)を竟(を)へなくに

私訳 紫草は根っこまでも竟(を)する=使い切る。その言葉のひびきではないが、根っから男(を)ふる=男らしい人が、あの娘の切ないくらいにかわいい子を、まだ共寝をやりつくしていないだろうに。


集歌3501 安波乎呂能 乎呂田尓於波流 多波美豆良 比可婆奴流奴留 安乎許等奈多延
訓読 安波峰(あはを)ろの峰(を)ろ田に生(お)はるたはみ蔓(つら)引かばぬるぬる吾(あ)を言(こと)な絶え

私訳 安波の峰の、その嶺の田に生えるたはみ蔓、引っ張るとぬるぬる蔓が続くように、引き寄せたら素直に靡き寄って、私との仲を絶やさないようにしてくれ。


集歌3502 和我目豆麻 比等波左久礼杼 安佐我保能 等思佐倍己其登 和波佐可流我倍
訓読 吾(わ)が愛妻(めつま)人は離(さ)くれど朝顔のとしさへこごと吾(わ)は離(さ)るがへ

私訳 私のかわいい妻、人は仲を裂くけど、朝顔が毎年ここに生えるように、私はお前のそばから離れられないよ。

注意 歌での朝顔は、現在の知識として一般に桔梗(キキョウ)を示すようです。ただし、植物学的にはヒルガオ科イポメア属の多年草で午後遅くまで花が咲くノアサガオの可能性があります。


集歌3503 安齊可我多 志保悲乃由多尓 於毛敝良婆 宇家良我波奈乃 伊呂尓弖米也母
訓読 安齊可(あせか)潟(かた)潮干のゆたに思へらばうけらが花の色に出(で)めやも

私訳 安齊可潟の潮干のように心豊かに想っていたら、うけらの花の色のようにはっきりと顔色に出すことがあるでしょうか。


集歌3504 波流敝左久 布治能宇良葉乃 宇良夜須尓 左奴流夜曽奈伎 兒呂乎之毛倍婆
訓読 春へ咲く藤(ふぢ)の末葉(うらは)の心(うら)安(やす)にさ寝る夜ぞなき子ろをし思(も)へば

私訳 春に咲く藤の末葉(うらは)、その言葉のひびきではないが、心安(うらやす=こころ安らかに)眠る夜はない。あの娘のことを恋い焦がれていると。


集歌3505 宇知比佐都 美夜能瀬河泊能 可保婆奈能 孤悲天香眠良武 曽母許余比毛
試訓 うち日(ひ)さつ宮能瀬川の貌花(かおはな)の恋ひてか寝(ぬ)らむそも今夜(こよひ)も

試訳 日が射し照らす宮、その言葉のひびきではないが、宮能瀬川に生える貌花のような美しい貴女の顔(かんばせ)を恋焦がれて夜を過ごす。また、今夜も。

注意 原文の「曽母許余比毛」は、一般に「伎」の字を追加して「伎曽母許余比毛」として「昨夜(きそ)も今夜(こよひ)も」と訓みます。当然、字を追加しますから歌意は変わります。なお、歌の貌花とはヒルガオとされています。

一般での解釈
訓読 うち日(ひ)さつ宮能瀬川の貌花(かおはな)の恋ひてか寝(ぬ)らむ昨夜(きそ)も今夜(こよひ)も

意訳 光り輝く宮の瀬川ぞいの昼顔が、夜は花を閉じて眠るように、あの子は私を恋いつつ眠っているだろうか。昨夜も、今夜も。


集歌3506 尓比牟路能 許騰伎尓伊多礼婆 波太須酒伎 穂尓弖之伎美我 見延奴己能許呂
試訓 新室(にひむろ)の子時(ことき)に至ればはだ薄(すすき)穂(ほ)に出(で)し君が見えぬこのころ

試訳 未通娘が成女になる儀式をする新室を立てる娘子の時期になると、薄の穂が出る、その言葉のひびきではないが、秀でたあの御方の姿が(新室に籠っているので)お目にできないこのころです。

注意 原文の「許騰伎尓伊多礼婆」は、一般に「蚕時(ことき)に至れば」と訓みます。ここでは巻十一の旋頭歌にちなんで訓みました。歌は腰巻祝いで未通娘と腰結役の男が部屋に籠って成女式を行っている風景と想定しています。実験です。

参考歌 二首
集歌2351 新室 壁草苅迩 御座給根 草如 依逢未通女者 公随
訓読 新室の壁草刈りしに坐し給はね 草の如寄り合ふ未通女(をとめ)は公(きみ)がまにまに

私訳 新室の壁を葺く草刈りに御出で下さい 刈った草を束ね寄り合うように寄り添う未通女は貴方の御気にますままに


集歌2352 新室 踏静子之 手玉鳴裳 玉如 所照公乎 内等白世
訓読 新室を踏む静(しづ)む子が手玉(ただま)鳴らすも 玉の如照らせる公(きみ)を内にと申せ

私訳 新室を足踏み鎮める娘子が手玉を鳴らす 玉のように美しく周囲を照らすような立派な貴方を新室の中に御入り下さいと申し上げろ。



集歌3507 多尓世婆美 弥羊尓波比多流 多麻可豆良 多延武能己許呂 和我母波奈久尓
訓読 谷狭(せば)みやよに延(は)ひたる玉葛(たまかづら)絶えむの心吾(わ)が思(も)はなくに

私訳 谷が狭いので、谷いっぱいに生え延びた玉葛、その蔓が切れないように二人の気持は切れて絶えるとは私は決して思わない。

注意 原文の「弥羊尓波比多流」は、一般に「弥年尓波比多流」の誤記として「嶺に延ひたる」と訓みます。ここでは原文のままに訓んでいます。「やよに」は感動語として扱っています。


集歌3508 芝付乃 御宇良佐伎奈流 根都古具佐 安比見受安良婆 安礼古非米夜母
訓読 芝付(しばつき)の御宇良(みうら)崎(さき)なるねつこ草(ぐさ)相見ずあらば吾(あれ)恋ひめやも

私訳 芝付の御宇良の崎に生えるねつこ草。その言葉のひびきの“私と寝つ子”ではないが、お前と共寝をしなければ、私はこんなに恋焦がれたりはしない。

注意 ねつこ草は一般に今日の翁草とされていますが、捩じ花ではないかとする説もあります。


集歌3509 多久夫須麻 之良夜麻可是能 宿奈敝杼母 古呂賀於曽伎能 安路許曽要志母
訓読 栲(たく)衾(ふすま)之良山(しらやま)風の寝(ね)なへども子ろが襲着(おそき)の有(あ)ろこそ良(え)しも

私訳 栲の衾のような白い之良山からの風が寒く寝られないように、今は共寝も出来ないけれど、私の妻の襲着(上着)があるのは嬉しいことだ。


集歌3510 美蘇良由久 君尓母尓毛我母奈 家布由伎弖 伊母尓許等杼比 安須可敝里許武
訓読 み空行く国にもがもな今日行きて妹に事問(ことと)ひ明日帰り来(こ)む

私訳 大空を雲が流れ行く故郷だったらなあ。今日出かけて行って愛しい貴女に日頃の様子を聞き、明日には帰って来られるのに。


集歌3511 安乎祢呂尓 多奈婢久君母能 伊佐欲比尓 物能乎曽於毛布 等思乃許能己呂
訓読 青嶺(あをね)ろにたなびく雲のいさよひに物をぞ思ふ年のこのころ

私訳 青嶺。その“吾を寝ろ”との言葉のひびきではないが、彼方で青く見える山波に棚引く雲がぐずぐずと漂っているように、なにか“私を抱きなさい”と云うことに躊躇してしまう。特にこの年の今頃では。


集歌3512 比登祢呂尓 伊波流毛能可良 安乎祢呂尓 伊佐欲布久母能 余曽里都麻波母
訓読 一嶺(ひとね)ろに云はるものから青嶺(あをね)ろにいさよふ雲の寄(よ)そり妻(つま)はも

私訳 一嶺。その“人寝ろ”との言葉のひびきではないが、一つの嶺と云われている彼方で青く見える山波にぐずぐずと漂っている雲が靡き寄るように、誰かと共寝をしろではないが、私と共寝をしてほしいと思いを寄せる愛しい貴女です。


集歌3513 由布佐礼婆 美夜麻乎左良奴 尓努具母能 安是可多要牟等 伊比之兒呂婆母
訓読 夕さればみ山を去らぬ布雲(にのくも)の何(あぜ)か絶えむと云ひし子ろばも

私訳 夕方になると決まって山から流れ去らない布雲のように、どうして、仲が絶えることがあるでしょうかと云った愛しいあの娘です。


集歌3514 多可伎祢尓 久毛能都久能須 和礼左倍尓 伎美尓都吉奈那 多可祢等毛比弖
訓読 高き嶺(ね)に雲の着(つ)くのす吾(われ)さへに君に着(つ)きなな高嶺(たかね)と思ひて

私訳 高い嶺に雲がまとい着くように、私だって貴方にまとい着きたい。立派な高嶺(=御方)と慕って。


集歌3515 阿我於毛乃 和須礼牟之太波 久尓波布利 祢尓多都久毛乎 見都追之努波西
試訓 吾(あ)が面(おも)の忘れむ時(しだ)は国祝(はふ)り嶺(ね)に立つ雲を見つつ偲(しの)はせ

試訳 私の面影を忘れそうな時は、その国を祝う嶺に立つ雲(=霊魂や気を意味する)を眺めて私を思い出し懐かしんでください。

注意 原文の「久尓波布利」を、集歌1517の歌などから試みに「国+祝(はふ)り」と訓んでいます。

参考歌
集歌1517 味酒 三輪乃祝之 山照 秋乃黄葉 散莫惜毛
訓読 味酒(うまさけ)三輪の祝(はふり)の山照らす秋の黄葉(もみち)の散らまく惜しも

私訳 古くから美味い酒を噛む三輪の祝(ほふり)が祝う山、その山を照らし彩る秋の黄葉に染まる紅葉(もみじ)が散ってしまうのが残念です。


集歌3516 對馬能祢波 之多具毛安良南敷 可牟能祢尓 多奈婢久君毛乎 見都追思努婆毛
訓読 対馬(つしま)の嶺(ね)は下雲あらなふ神の嶺(ね)にたなびく雲を見つつ偲(しの)はも

私訳 対馬の嶺には裾野を漂う雲はないだろう。神の宿る嶺に棚引く雲(=霊魂や気を意味する)を眺めてお前を思い出し懐かしもう。


集歌3517 思良久毛能 多要尓之伊毛乎 阿是西呂等 許己呂尓能里弖 許己婆可那之家
訓読 白雲の絶えにし妹を何(あぜ)せろと心に乗りて許多(ここば)愛(かな)しけ

私訳 白雲の千切れ絶えるように、縁が千切れ途絶えた貴女が、どうしたのだろうか、貴女の面影が心に乗りかかって、みやみやたらに恋しいことです。


集歌3518 伊波能倍尓 伊可賀流久毛能 可努麻豆久 比等曽於多波布 伊射祢之賣刀良
訓読 石(いは)の上(へ)にい懸(かか)る雲の予(か)ぬま付(つ)く人とお給(たは)ふいざ寝(ね)しめ刀良

私訳 巌のあたりにいつも懸かる雲のように、先々のことをしっかり考える人間だとお褒めになる。さあ、そんなしっかりした私に、お前を抱かせてくれ。刀良よ。

注意 集歌3409の歌と同じ様に、可努麻豆久の「かぬまづく」は「予ぬ+ま+付く」、於多波布の「おたはふ」は「お+給ふ」と解釈しました。


集歌3519 奈我波伴尓 己良例安波由久 安乎久毛能 伊弖来和伎母兒 安必見而由可武
訓読 汝(な)が母に嘖(こ)られ吾(あ)は行く青雲(あおくも)の出(い)で来(こ)吾妹子相見て行かむ

私訳 お前の母親に怒鳴られて私は去って行く。青雲のように家から出てお出でよ。私の愛しいお前。互いに逢ってから去って行きたい。

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