竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

今日のみそひと歌 水曜日

2012年10月31日 | 万葉 みそひと謌
今日のみそひと歌 水曜日

集歌1857 毎年 梅者開友 空蝉之 人君羊蹄 春無有来
訓読 毎年(としのは)し梅は咲けども現世(うつせみ)し人し君著(いち)し春なかりけり
私訳 毎年のように梅の花は咲いたのだけど、この世に生きた人である貴方には、これぞ春と云うような、はっきりとした人生の春の季節はありませんでした。

集歌1858 打細尓 鳥者雖喫 縄延 守巻欲寸 梅花鴨
訓読 うつたへに鳥は喫(は)まねど縄(なは)延(は)へて守(も)らまく欲(ほ)しき梅し花かも
私訳 必ずしも鳥がくちばしで突く訳でもないが、縄を張り巡らせて守りたくなるように美しく咲いた梅の花です。

集歌1859 馬並而 高山乎 白妙丹 令艶色有者 梅花鴨
訓読 馬並(な)めし天香具山(あまかぐやま)を白栲ににほはしたるは梅し花かも
私訳 馬を並べて行った、天の香具山を白い栲のように彩っているのは、梅の花でしょうか。

集歌1860 花咲而 實者不成登裳 長氣 所念鴨 山振之花
訓読 花咲きて実は成らねども長き日(け)し念(おも)ほゆるかも山吹し花
私訳 花は咲いても実は成らないけれど、花咲く時を待つ長い日々に、その日をずっと心待ちにしています。ヤマブキの花よ。

集歌1861 能登河之 水底并尓 光及尓 三笠乃山者 咲来鴨
訓読 能登川(のとかは)し水底(みなそこ)さへに照るまでに三笠の山は咲きにけるかも
私訳 能登川の水底までも照り輝かさせるほどに三笠の山の桜は咲きました。

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今日のみそひと謌 火曜日

2012年10月30日 | 万葉 みそひと謌
今日のみそひと謌 火曜日

集歌967 日本道乃 吉備乃兒嶋乎 過而行者 筑紫乃子嶋 所念香聞
訓読 大和道(やまとぢ)の吉備(きび)の児島(こじま)を過ぎて行かば筑紫(つくし)の子島(こじま)そ念(も)ゆむかも
私訳 大和への道筋の吉備の児島を過ぎて行くと、この筑紫の那の小島の地を思い出すことでしょう。

集歌968 大夫跡 念在吾哉 水莖之 水城之上尓 泣将拭
訓読 大夫(ますらを)と念(おも)へる吾や水茎(みなくき)し水城(みづき)し上(うへ)に涙(なみだ)拭(のこ)はむ
私訳 立派な男の中の男と思っている私ですが、それでも別れに際して大宰府見納めの水茎の水城の上で涙を拭ってしまいます。

集歌969 須臾 去而見鹿 神名火乃 淵者淺而 瀬二香成良武
訓読 須臾(しましく)も去(い)きて見てしか神名火(かむなび)の淵(ふち)は浅(あ)さびて瀬にかなるらむ
私訳 ちょとだけでも行って見てみたいものだ。あの神名火山の辺の淵は、もう、浅瀬のような瀬になっているだろうか。

集歌970 指進乃 粟栖乃小野之 芽花 将落時尓之 行而手向六
訓読 指進(さしづみ)の栗栖(くるす)の小野(をの)し萩し花落(おつ)らむ時にし行きて手向(たむけ)けむ
私訳 指進の栗栖の小野に萩の花が盛りを過ぎて散る頃に、神名火山の辺の淵を見にいって神名火山に手向けをしよう。

集歌972 千萬乃 軍奈利友 言擧不為 取而可来 男常曽念
訓読 千万(ちよろづ)の軍(いくさ)なりとも言(こと)挙(あ)げせず取りて来ぬべき男(をのこ)とぞ念(おも)ふ
私訳 千万の敵軍であるとして、改めて神に誓約するような儀式をしなくとも敵を平定してくるはずの男子であると、貴方のことを思います。

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今日のみそひと歌 月曜日

2012年10月29日 | 万葉 みそひと謌
今日のみそひと歌 月曜日

集歌37 雖見飽奴 吉野乃河之 常滑乃 絶事無久 復還見牟
訓読 見れど飽かぬ吉野の河し常滑の絶ゆることなくまた還り見む
私訳 何度見ても見飽きることの無い、その吉野の河の常滑の岩が絶えることのないように、私は何度も何度もここにやって来て、この景色を眺めましょう。

集歌39 山川毛 因而奉流 神長柄 多藝津河内尓 船出為加母
訓読 山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも
私訳 山や川の神々も天皇に依り来てご奉仕する、その現御神であられる天皇が流れの激しい川の中に船出なされるようです。

集歌40 鳴呼之浦尓 船乗為良武 感嬬等之 珠裳乃須十二 四寶三都良武香 (感は女+感の当字)
試訓 鳴呼見(あみ)し浦に船乗りすらむ官女(おとめ)らし珠裳の裾に潮(しほ)満つらむか
試訳 あみの浦で遊覧の船乗りをしているでしょう官女の人たちの美しい裳の裾に、潮の飛沫がかかってすっかり濡れているでしょうか。

集歌41 釵著 手節乃埼二 今今毛可母 大宮人之 玉藻苅良哉
試訓 くしろ著(つ)く手節(たふせ)の崎に今今(いま)もかも大宮人し玉藻刈るらむ
試訳 美しいくしろを手首に着ける、その言葉のひびきのような手節の岬で、ただ今も、あの大宮人の麻續王が足を滑らせて玉藻を刈ったように、慣れない磯の岩に足を滑らせて玉藻を刈っているのでしょうか。

集歌42 潮左為二 五十等兒乃嶋邊 榜船荷 妹乗良六鹿 荒嶋廻乎
試訓 潮騒(しほさゐ)に伊良虞(いらご)の島辺(しまへ)漕ぐ船に妹乗るらむか荒き島廻(しまみ)を
試訳 潮騒の中で伊良湖水道の島の海岸を漕ぐ船に私の恋人は乗っているのでしょうか。あの波の荒い島のまわりを。

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万葉雑記 色眼鏡 その八 万葉集の姿

2012年10月28日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 その八 万葉集の姿


 今回は万葉集の書記について、素人考えを紹介したいと思います。(この度は、怠け者の癖のため、原文紹介のみで訓読みや意訳文は示していません。ご迷惑をお掛けします)
 背景には、万葉集の歌の解説に目録や標に記す内容を以って、歌をそれに合わせるようなスタンスで解説するものがあることについて、少し違和感を持ったためです。個人の考えとして、歌が主体で、歌の解釈で目録や標に記す内容と矛盾する場合は、歌の方が正しいとします。

 さて、万葉集の書記方法について、青山大学小川靖彦教授が開くブログ「万葉と古代の巻物」によると、万葉集原本は一行十六文字で書かれていたのではないかと推定されています。万葉集が編纂された時代、句読点と云う表記技法は使われていません。このため、書記では文章に関わらず、間隔をあけることなく一行十六文字になるまで文字を連続して書いていくことになります。ちなみに先日紹介した土左日記は、原則一行十四文字で書記されています。参考に土左日記の一頁目を示します。

乎止己毛数止以不日記止以不物 をとこもすといふ日記といふ物
遠ゝ武那毛之天心美无止天数留 をゝむなもして心みむとてする
奈利曽礼乃止之ゝ波数乃波川可 なりそれのとしゝはすのはつか
安末利比止比乃日乃以奴能時爾 あまりひとひの日のいぬの時に
加止天数曽乃与之以散ゝ可爾物 かとてすそのよしいさゝかに物
爾可支川久安留人安可多乃与止 にかきつくある人あかたのよと
世以川止世波天ゝ礼以乃己止ゝ毛 せいつとせはてゝれいのことゝも
美那之遠部天計由那止ゝ利天数无 みなしをへてけゆなとゝりてすむ
多知与利以天ゝ舟爾乃留部支 たちよりいてゝ舟にのるへき

 また、万葉集の標に記述される天皇の諱について、現在に伝わる万葉集の書写本では和風諡号と漢風諡号とが記載されています。その和風諡号について、古事記や日本書紀では和風諡号で時代が紹介されていることから、養老四年(720)に日本書紀が成立した以前に朝廷として天皇の和風諡号に対する統一見解が整備されていたと考えます。
 一方、漢風諡号については、フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)には次のような記載があります。(下記、文章の年歴表現方法を一部修正しています)

八世紀半ばに成立した『釈日本紀』に引用された「私記」に、「師説」として初代神武以下の諡号は淡海三船の撰とある。そのため、神武天皇から41代持統天皇まで(当時天皇に数えられていなかった大友皇子=39代弘文天皇を除く)、及び43代元明・44代元正天皇の諡号は、淡海三船によって天平宝字六年(762)~同八年(764)に一括撰進されたと想像されているが、天平勝宝三年(752)の『懐風藻』には「文武天皇」(42代)と見えており、また天平宝字二年(758)に「聖武天皇」(45代)に「勝宝感神聖武皇帝」、孝謙天皇(46・48代)に「宝字称徳孝謙皇帝」を諡した事例があるなど、別の基準もあったことがわかっている。

 漢風諡号について、個人の考えですが、光明皇太后と藤原恵美押勝(藤原仲麻呂)の時代、第一次「続日本紀」編纂がなされたと推定し、その天平宝字年間に漢風諡号が選定されたと考えます。なお、上記の文章で示す「懐風藻」に関わる箇所は、懐風藻の序文と本文とに矛盾が存在することから伝本と原本とが同じものかは評価出来ません。改竄・改訂の可能性があるため、上記、ウィキペディアの文章を保留します。考えですが、原万葉集の編纂(主に巻一や巻二)は、漢風諡号の選定に先行すると推定します。

 さて、紹介した状況を前提に、万葉集の歌番号七と歌番号八の歌の表記について見てみたいと思います。一行十六文字の原則を守ると、原万葉集の表記は次のようなものになると推定します。

明日香川原宮御宇天皇代
天豊財重日足姫天皇
額田王謌 未詳
金野乃美草苅葺屋杼礼里之兎道乃宮
子能借五百磯所念
右檢山上憶良大夫類聚歌林曰一書戊
申年幸比良宮大御謌但紀曰五年春正
月己卯朔辛巳天皇至自紀温湯三月戊
寅朔天皇幸吉野宮而肆宴焉
庚辰日天皇幸近江之平浦

後岡本宮御宇天皇代
天豊財重日足姫天皇後即位後岡本宮
額田王謌
熟田津尓船乗世武登月待者潮毛可奈
比沼今者許藝乞菜
右檢山上憶良大夫類聚歌林曰飛鳥岡
本宮御宇天皇元年己丑九年丁酋十二
月己巳朔壬午天皇大后幸于伊豫湯宮
後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁
酉朔丙寅御船西征始就于海路庚戌御
船泊于伊豫熟田津石湯行宮天皇御覧
昔日猶存之物當時忽起感愛之情所以
因製謌詠為之哀傷也即此謌者天皇御
製焉但額田王謌者別有四首

 和歌集の編纂において、編纂者が「未詳」とか「右・・・」と云った解説を最初から付けるとは考えられません。編集者が、その歌が何時、何処で詠われたかに関心があるのなら、左注の「右・・・」の解説を付けるのではなく、標でそれを特定して記載すれば良いはずです。万葉集歌番号七や歌番号八の歌では、「未詳」とか「右・・・」と云った解説は、万葉集が編纂された当初にはなかったと推測します。また、歌番号八の歌の「後即位後岡本宮」の注記は「天豊財重日足姫天皇」が重複することに対する後年の講釈と考えます。同じように漢風諡号も和風諡号との重複になり不要なものです。これもまた、後年の講釈と考えます。
 ここまでの話を前提に万葉集歌番号廿四までの、その歌の初期の形を考えてみます。すると、その表記は次のようになると考えられます。ずいぶん、現在に出版されるものと、印象が変わってきます。

(歌番号1)
泊瀬朝倉宮御宇天皇代
太泊瀬稚武天皇
天皇御製謌
籠毛與美籠母乳布久思毛與美夫君志
持此岳尓菜採須兒家吉閑名告沙根
虚見津山跡乃國者押奈戸手吾許曽居
師告名倍手吾己曽座我許者背齒告目
家呼毛名雄母

(歌番号2)
高市岡本宮御宇天皇代
息長足日廣額天皇
天皇登香具山望國之時御製謌
山常庭村山有等取與呂布天乃香具山
騰立國見乎為者國原波煙立龍海原波
加萬目立多都怜可國曽蜻嶋八間跡能
國者

(歌番号3、4)
天皇遊獦内野之時中皇命使間人連老
獻謌
八隅知之我大王乃朝庭取撫賜夕庭伊
縁立之御執乃梓弓之奈加弭乃音為奈
利朝獦尓今立須良思暮獦尓今他田渚
良之御執梓能弓之奈加弭乃音為奈里
反謌
玉尅春内乃大野尓馬數而朝布麻須等
六其草深野

(歌番号5,6)
幸讃岐國安益郡之時軍王見山作謌
霞立長春日乃晩家流和豆肝之良受村
肝乃心乎痛見奴要子鳥卜歎居者珠手
次懸乃宜久遠神吾大王乃行幸能山越
風乃獨居吾衣手尓朝夕尓還比奴礼婆
大夫登念有我母草枕客尓之有者思遣
鶴寸乎白土網能浦之海處女等之焼塩
乃念曽所焼吾下情
反謌
山越乃風乎時自見寐不落家在妹乎懸
而小竹櫃

(歌番号7)
明日香川原宮御宇天皇代
天豊財重日足姫天皇
額田王謌
金野乃美草苅葺屋杼礼里之兎道乃宮
子能借五百磯所念

(歌番号8)
後岡本宮御宇天皇代
天豊財重日足姫天皇
額田王謌
熟田津尓船乗世武登月待者潮毛可奈
比沼今者許藝乞菜

(歌番号9)
幸于紀温泉之時額田王作謌
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣吾瀬子之
射立為兼五可新何本

(歌番号10、11、12)
中皇命徃于紀温泉之時御謌
君之齒母吾代毛所知哉磐代乃岡之草
根乎去来結手名
吾勢子波借廬作良須草無者小松下乃
草乎苅核
吾欲之野嶋波見世追底深伎阿胡根能
浦乃珠曽不拾

(歌番号13、14、15)
中大兄近江宮御宇天皇三山謌一首
高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競
伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有
許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉
反謌
高山与耳梨山与相之時立見尓来之伊
奈美國波良
渡津海乃豊旗雲尓伊理比祢之今夜乃
月夜清明己曽

(歌番号16)
近江大津宮御宇天皇代
天命開別天皇
天皇詔内大臣藤原朝臣競憐春山萬花之
艶秋山千葉之彩時額田王以謌判之謌
冬木成春去来者不喧有之鳥毛来鳴奴
不開有之花毛佐家礼抒山乎茂入而毛
不取草深執手母不見秋山乃木葉乎見
而者黄葉乎婆取而曽思努布青乎者置
而曽歎久曽許之恨之秋山吾者

(歌番号17、18、19)
額田王下近江國時謌井戸王即和謌
味酒三輪乃山青丹吉奈良能山乃山際
伊隠萬代道隈伊積流萬代尓委曲毛見
管行武雄數々毛見放武八萬雄情無雲
乃隠障倍之也
反謌
三輪山乎然毛隠賀雲谷裳情有南畝可
苦佐布倍思哉
綜麻形乃林始乃狭野榛能衣尓著成目
尓都久和我勢

(歌番号20、21)
天皇遊狩蒲生野時額田王作謌
茜草指武良前野逝標野行野守者不見
哉君之袖布流
皇太子答御謌明日香宮御宇天皇
紫草能尓保敝類妹乎尓苦久有者人嬬
故尓吾戀目八方

(歌番号22)
明日香清御原宮天皇代
天渟中原瀛真人天皇
十市皇女参赴於伊勢神宮時見波多横
山巌吹黄刀自作謌
河上乃湯津盤村二草武左受常丹毛冀
名常處女煮手

(歌番号23、24)
麻續王流於伊勢國伊良虞嶋之時
人哀傷作謌
打麻乎麻續王白水郎有哉射等籠荷四
間乃珠藻苅麻須
麻續王聞之感傷和謌
空蝉之命乎惜美浪尓所濕伊良虞能嶋
之玉藻苅食

 このように並べてみますと、当たり前ですが編纂には規則性があることが判ります。歌番号9を例にとりますと、次のようになります。省略もありますが、他の歌についても、ほぼ、このような規則性を見ることが可能です。

王宮の所在時期 後岡本宮御宇天皇代
天皇の統治時期 天豊財重日足姫天皇
作歌された時期 幸于紀温泉之時
作歌した人物 額田王作謌

 こうした時、歌番号13と歌番号21は、ここで提案する規則性に従っていません。つまり、歌番号13「中大兄近江宮御宇天皇三山謌一首」と、歌番号21「皇太子答御謌明日香宮御宇天皇」との表記は、場合により後年に手が入れられている可能性があります。つまり、本来は次のような表記であった可能性があります。
歌番号13 中大兄三山謌
歌番号21 皇太子答御謌

 提案する規則性が成立するものですと、万葉集を鑑賞する時、奈良時代末期以降のある時期に校注された講釈に従うことなく、中大兄は「後岡本宮御宇天皇代、天豊財重日足姫天皇の時代の中大兄」たる人物として、また、皇太子は「近江大津宮御宇天皇代、天命開別天皇の時代の皇太子」たる人物として理解する必要があります。
 こうした時、後年に推定したように中大兄を近江宮御宇天皇(=天智天皇)と認識するのですと、なぜ、天智天皇の本来の呼称である「葛城皇子」の称号を使わなかったのか不思議に感じます。日本書紀には舒明天皇と皇后宝皇女との御子は「葛城皇子」と「大海皇子」と記述してあります。また、現在の弘文天皇即位説を取る人々の立場からすれば、皇太子と東宮太皇弟とを区別する主張も可能です。天智天皇の生前に東宮太皇弟が身を引けば、天皇の長男たる皇太子が皇位継承者第一位となります。つまり、その立場では歌番号20と21とは本来は額田王と皇太子(=大友皇子)との相聞関係であったと解釈することが可能です。そしてそれが、壬申の乱以降に太皇弟=皇太子と見做し、額田王と大海人皇子との相聞関係へと変化したと主張することも案としては成立すると考えます。
 当然、中大兄や皇太子などの言葉は固有名詞ではありません。生年順や地位を表す敬称です。そのため、万葉集の校注者は、彼の研究の下、中大兄を近江宮御宇天皇(=天智天皇)、皇太子を明日香宮御宇天皇(=天武天皇)に比定した訳です。ただ、万葉集の編纂者は明日香宮御宇天皇が二人以上いらっしゃいますことを知っていますから、天武天皇を天渟中原瀛真人天皇と表記します。

 では、校注以前の原万葉集編纂時代の認識は、どのようなものであったのでしょうか。青山大学の小川靖彦教授が万葉集巻本の装丁や表示方法を探ることから原万葉集の姿に迫られているように、校訂・校注以前の原万葉集の全容を明らかにすることは、今なお、困難のようです。さらに、万葉集歌が詠われ、編纂された当時の歴史を考える時、壬申の乱、長屋王の変、橘奈良麻呂の変、藤原仲麻呂の乱、光仁天皇即位、桓武天皇即位、藤原薬子の変など多くの皇統の激変や政変を経たため、伝えられる歴史書が実際に起きた事象とその正史とが一致するとの保証はありません。従いまして、中大兄=天智天皇や皇太子=大海人皇子との断定は難しいのではないかと考えます。そうした時、思い入れを外して、原万葉集に近い形で歌を鑑賞する必要があるのではないかと提案いたします。
 次の表記だけで、額田王と大海人皇子との愛の相聞歌と断定が、さて、出来るでしょうか。

近江大津宮御宇天皇代
天命開別天皇
天皇遊狩蒲生野時
額田王作謌
茜草指武良前野逝標野行野守者不見
哉君之袖布流
皇太子答御謌
紫草能尓保敝類妹乎尓苦久有者人嬬
故尓吾戀目八方

 およそ、原万葉集の姿を推測する時、目録・標・左注などを絶対視して、その歌を論じることは非常に危険と考えます。特に目録は万葉集の編纂とは関係なく、後に付けられたものであると指摘されていますから、目録の言葉を以って奈良時代以前の歌の背景などを語るのは危険です。原文の姿がどこまで採用・復元できるかを吟味し、さらに原文の漢字表記の異同をも検討して、初めて、万葉集の歌の鑑賞が可能になるのではないでしょうか。
 この視線で、万葉集巻十五の遣新羅使の歌を鑑賞して見てください。目録・標・左注に因らずに、歌だけから判明する季節と場所とを鑑賞し、続日本紀に記される天平八年の遣新羅使の日程と比較参照して見て下さい。参考に天平八年の遣新羅大使である阿倍朝臣継麻呂が出発の拝朝をしたのが天平八年四月十七日(新暦六月四日)です。そして、その生存者の最初の一行である壬生使主宇太麻呂たちが入京したのは天平九年正月二十七日(新暦三月六日)です。きっと、不思議な結果に驚かれると思います。

 なお、平安末期から鎌倉時代の“解釈万葉集”の歌を鑑賞する立場であるなら、その場合は、後年に万葉集の校本者や校訂者が作成した目録・標・左注など含めた万葉集である「校本万葉集」を鑑賞する必要があると思います。その場合、新古今集風に音読みからの情景をお楽しみください。
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今日のみそひと歌 金曜日

2012年10月26日 | 万葉 みそひと謌
今日のみそひと歌 金曜日

集歌 3620 故悲思氣美 奈具左米可祢弖 比具良之能 奈久之麻可氣尓 伊保利須流可母
訓読 恋繁み慰めかねてひぐらしの鳴く島蔭(しまかげ)に廬(いほ)りするかも
私訳 貴女を想う恋心の激しさを抑えきることが出来ず、ひぐらしの鳴く島蔭に宿りするでしょう。

集歌 3621 和我伊能知乎 奈我刀能之麻能 小松原 伊久与乎倍弖加 可武佐備和多流
訓読 吾(あ)が命を長門の島の小松原(こまつはら)幾代(いくよ)を経てか神さびわたる
私訳 わが命は長くあって欲しいと思う。長門の島の小松原は、どれほどの年月でこれほど神々しくなったのか。

集歌 3622 月余美乃 比可里乎伎欲美 由布奈藝尓 加古能己恵欲妣 宇良末許具可聞
訓読 月読(つくよ)みの光りを清み夕なぎに水手(かこ)の声呼び浦廻(うらま)漕ぐかも
私訳 月の光が清らかだ。その月明かりの中、夕凪の中に水手が声を合わせて湊の付近を漕いでいるようだ。

集歌 3623 山乃波尓 月可多夫氣婆 伊射里須流 安麻能等毛之備 於伎尓奈都佐布
訓読 山の端(は)に月傾けば漁りする海人(あま)の燈火(ともしび)沖になづさふ
私訳 山の端に月が傾くと、夕闇の中、漁をする海人の灯火が沖の波間に見え隠れする。

集歌 3624 和礼乃未夜 欲布祢波許具登 於毛敝礼婆 於伎敝能可多尓 可治能於等須奈里
訓読 吾(あ)れのみや夜船は漕ぐと思へれば沖辺(おきへ)の方に楫の音すなり
私訳 我々だけが夜に船を漕ぐと思っていたら、沖合に船を漕ぐ楫の音がした。

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