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竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 九三 百合の歌を鑑賞する

2014年11月29日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 九三 百合の歌を鑑賞する

 今回は万葉集の中から百合の花にちなむ短歌を鑑賞します。なお、百合にちなむ全ての短歌を紹介しての鑑賞ではありませんので、そこは最初に御断りをしておきます。
 鑑賞に先立ち百合(ユリ)の語源を調べてみますと、語源としては風に吹かれて花が揺れる様から「揺り(ユリ)」、花が傾く様から「緩み(ユルミ)」、また、その根が鱗茎であることから「八重括根(ヤヘククリネ)」と称すことが出来ることから「ユリ」と呼ばれたのではないかとも推定されています。このように語源には各種の説がありますが、確実にこれと云うものはないようです。ただ、今日では便宜的に「揺り(ユリ)」説をもって語源と仮にしているようです。なお、漢字表記での「百合」は古代では冬場の重要な食糧源である百合根の、その鱗茎をした形状から「百合」が与えられたと解説します。
 また、山百合は日本固有種の百合で大倭神社注進状に「和名佐井草、古事記に山百合草の本名は佐韋草といふ也」とあり、奈良市率川神社の三枝祭では三つ枝の山百合を供えることから古代では百合を「三枝草(サイクサ・サキクサ)」「佐韋草(サイクサ)」と称していたのではないかとも推定しています。そして、この「サキクサ」から転じて「幸草」と表記されることもあります。
 補足参考として、この山百合は日本固有の草花の中では特徴的に花の香りが強く、濃厚な甘い香りを漂わせます。さらに多数の大きな白色の花を付けるところから「ユリの女王」とも称されています。和歌鑑賞では重要なポイントになりますが、その香りの特性から茂みの中に咲く百合の姿を直接に見ることがなくても、その強い濃厚な甘い香りで百合花の存在を感じることが出来ると云う野草です。なお、万葉時代の百合としては他に白色花の笹百合や橙色花の姫百合などがあります。
 一方、万葉歌の鑑賞では漢字で「後」を意味する古語に「ゆり」と云う言葉があります。古語ではつぎのように説明されます。
1. 格助詞:《接続》体言や体言に準ずる語に付く。〔起点〕…から。…以来。
上代語。同義語として「ゆ」「よ」「より」があるが、中古以降は「より」だけが用いられるようになる。
2. 名詞:後(のち)。今後。

 『万葉集』の鑑賞では紹介しました百合の持つ花の姿・特性や「百合(ユリ)」と「後(ユリ)」との同音異義語の言葉遊びが重要なポイントとなっています。そのため、歌の鑑賞に先だって説明を致しました。

 さて、その百合の歌の鑑賞では『万葉集』では最源流に位置する歌を最初に紹介します。それが柿本人麻呂歌集に採録された歌であると左注が付く集歌2467の歌です。およそ、この歌は人麻呂本人によるものと思われます。

巻十一より
人麻呂歌集に載る歌
集歌2467 路邊 草深百合之 後云 妹命 我知
訓読 道の辺(へ)の草(くさ)深(ふか)百合(ゆり)の後(ゆり)と云ふ妹の命(いのち)を我(われ)知らめやも

 この歌は非常に技巧的ですので鑑賞態度によっては幾通りにも鑑賞することが出来ます。例えば有名なHP「たのしい万葉集」では次のように解釈します。

訓読 道の辺(へ)の草(くさ)深(ふか)百合(ゆり)の後(のち)もと言ふ妹が命を我れ知らめやも
意訳 道端の百合(ゆり)のように、後(のち)も、というあのひとの命を私が知らないなんてことはありません

 この解釈が一般的のようで、解釈を補足しますと「あのひとの命」の「命」を「寿命」「運命」「将来」のように解釈します。その立場から「たのしい万葉集」の歌の世界では道で会った女性を口説いた男が女から「また、後もね」と甘えられ、それに対して男が「お前の将来のことの責任を取るよ」と返事をしたと解釈するようです。
 一方、HP「万葉遊楽」では次のような解釈となっています。

訓読 道も辺の草深百合の後もと言う妹が命を我知らめやも
意訳 どうして今はだめなんだ。これから後のあの女の寿命の事なんか俺は知らないぞ

 こちらの解釈は道で出合った女を口説いた男が女から「また、後でね」と体良く断られたとし、それに対して「お前の将来のことなんか、おれの知ったことではない」と悪態をついたと鑑賞しています。
 「たのしい万葉集」も「万葉遊楽」も原文「妹命」の「命」を「運命」のような意味合いで解釈することは変わりません。そして、漢詩体歌の特性として、末句の「我知」の解釈がそれぞれの立場によって違い、その結果、歌の鑑賞態度が肯定的か、否定的かに分かれています。
 ここで、原文「妹命」の「命」の文字について少し考察をします。「妹命」は一般には「妹の命(いのち)」と訓じますが、一方、この文字は「母命」のように「妹の命(みこと)」とも訓じることが出来ます。すると、その歌意は大幅に変わります。それを解釈Bの試訓と試訳とで示しています。「妹の命(みこと)」の解釈では「大切な貴女」と云う意味合いとなりますから、それに続く「我知」は「私は貴女を知っている」と解釈することになります。すると、古代の生活習慣と成熟した男女の間での約束事の下では二人には性交をする緊密な関係があると云うことになります。つまり、道で出合った恋人が相手の男性に「今夜、逢いに来て」とささやいたと解釈することが出来ることになります。
 この時、口唱した歌と文字表記した歌とでは文字の意味の取りようでは歌意の解釈が変わると云う可能性を秘めた歌と云うことにもなります。さらに解釈Bの場合、百合の持つ特性と男女の親密性から、直接に相手と対面しての会話でなく、垣根越しや塀越しで女性の持つ体臭や声・態度でその存在を感じ取って、夜の密会を約束しているとも鑑賞が可能となります。およそ、そこには若い男女の甘く濃密な時間が浮かび上がります。ここに人麻呂の歌聖たる所以があるのでしょう。
 なお、一般的な訓読みを行った解釈Aについて、弊ブログでは壬申の乱の勃発直前、人麻呂と恋人である軽の里の妻との戦乱で引き裂かれる場面を想定しています。このため、訓読みは一般的なものと変わりませんが、解釈では若干「命(いのち)」の意味合いが一般的なものとは違っています。

集歌2467 路邊 草深百合之 後云 妹命 我知
解釈A
訓読 道し辺(へ)し草(くさ)深(ふか)百合(ゆり)し後(ゆり)と云ふ妹し命(いのち)を我(われ)知らめやも
私訳 道の傍らの草深くに咲く百合の花の、その言葉のひびきではないが、後(古語で「ゆり」)でと云う愛しい貴女の運命を私は知らない。
解釈B
試訓 道の辺(へ)し草(くさ)深(ふか)百合(ゆり)し後(ゆり)と云ふ妹し命(みこと)を我(われ)は知るらむ
試訳 道の傍らの草深くに咲く百合の花の、その言葉のひびきではないが、後(古語で「ゆり」)でと云う愛しい貴女を、本当は、私はよく知っている。


 次に巻七に載る百合の集歌1257の歌を鑑賞します。この歌は人麻呂が詠う集歌2467の歌から二句ほどを引用し本歌取りしたものです。それも意味合いにおいて解釈Bの方を本歌の歌意としていると考えます。
 歌は口説かれた女から口説いた男への返歌に相当するものです。可能性として集歌2467の歌の返歌の位置にありますと女は男が「お前は百合のような女だ」と口説いた言葉を使ったと考えられますが、そうでない場合は、口説かれた女は自分自身に対し「白い大きな花を付け、そして人を誘惑するような濃厚な甘い香りがする」、そのような好い女であるとの自信があります。

巻七より
集歌1257 道邊之 草深由利乃 花咲尓 咲之柄二 妻常可云也
訓読 道し辺(へ)し草(くさ)深(ふか)百合(ゆり)の花咲(ゑ)みに咲(ゑ)みしからに妻と云うふべしや
私訳 道のほとりの草深い中に咲く百合の花が甘く濃厚な香りを漂わせて寄り添い咲くように、私が貴方にそのような態度で微笑みかけたからと云って貴方は私のことを「わが妻」と云うのですか。

 さて、先に百合の語源の一つに花が傾く様から「緩み」があるとしました。そうした時、「緩み」の言葉の語感から集歌1257の歌は男女が獣道のような人目を隠す茂みの中を通る道の辺(ほとり)に並んで座り、女が男へ体を預けてしなだれている場面で、この集歌1257の歌を詠ったものとも解釈が出来ることになります。当然、女から「妻」と云う言葉が出ていますから、既に互いの体を知っている濃密な男女関係が前提にあります。時に万葉人は、この歌に若き女性の腰の周りから漂う百合の香りが如くの体臭をも感じ取ったかもしれません。集歌2467の歌を本歌とする時、非常にエロチックなものとなります。

 さらに巻八には百合を詠うものとして集歌1500の歌と集歌1503の歌があります。共に歌の技巧を楽しむような歌で、そこには集歌2467の歌や集歌1257の歌のような恋をしている女性がもたらす体臭まで薫るような濃密な男女の恋はありません。

大伴坂上郎女謌一首
標訓 大伴坂上郎女の謌一首
集歌1500 夏野乃 繁見丹開有 姫由理乃 不所知戀者 苦物曽
訓読 夏し野の繁みに咲ける姫(ひめ)百合(ゆり)の知らえぬ恋は苦しきものぞ
私訳 夏の野の繁みの中に密やかに咲く姫百合、その言葉の響きのような私の後(ゆり=将来)はおぼつかなく、実るか、実らないかも分からずに、密やかにする恋は辛いものです。

 和歌を解説する書物には序詞を説明するときの例題として集歌1500の歌を取り上げるものがあります。例題では「夏の野の繁みに咲ける姫百合の」までが序詞であり「知らえぬ」を形容する詞とします。序詞ですから、ここまでは本題とは関係しないただ「知らえぬ」の言葉を修飾することを目的とし、口調を整えるものと云うような扱いです。
 ただし、この歌が集歌2467の歌を本歌としているとしますと、少し、鑑賞は変わります。まず、集歌1500の歌の世界は片恋ではなく、男が密やかに女の許に通う関係でのものとなります。そうした時、女は男にとって多くの恋人の中の一人のような位置付けですし、身分などのしがらみで男女関係を露わに出来ないと想像されます。それでいて歌は技巧です。
 その技巧を紹介するために句切りから紹介しますとつぎのようなものになります。
A:夏し野の繁みに咲ける姫百合の
B:後(ゆり)の知らえぬ
C:知らえぬ恋は苦しきものぞ
 まず、Aの句切り部で歌を詠う女性の風情を想像させます。相手に易々とは姿を見せないが甘い香りで存在を感じさせるような女性ですし、女性を象徴するかのように濃い橙色の姫百合の花の色合いに合わせて原文では「繁見丹開有」と「丹」の用字を使用しています。次いで、Bの句切りではその女性の将来への不安を「後の知らえぬ」と示します。愛が実るのか、どうか。そして、愛が実ったとしても、その愛と自分はどうなるのか、などと将来の不安を暗示します。最後、Cの句切りでは、今の状況を相手に訴えます。貴方の心が見えないこの恋は辛く、苦しいとします。なお、このような鑑賞では「夏の野の繁みに咲ける姫百合の」までが序詞として扱うことが出来ないかもしれません。時に掛詞の例題として扱う方が良いのかもしれません。
 このように歌は使う文字の選択や掛詞の技法を含め非常に技巧的です。従いまして、歌が相聞として成り立つならば、歌を詠う女性とそれを受ける男性は和歌の上では同等な技量を有するような人物でなければなりません。すると、年齢や技量から可能性として天平初期での大伴坂上郎女と橘諸兄との恋愛でしょうか。当時としては、もう、女性としては恋愛対象となる年齢を超えた大伴坂上郎女の大人の恋なのでしょうか。

 さらに集歌1503の歌を鑑賞しますが、約束として西本願寺本万葉集の原文の方を鑑賞します。現在の校本万葉集では、原文の末句が難訓であり、また、その末句の表記のままでは歌意が取れないとして、末句「不謌云二似」を「不欲云二似」と改訂して別な歌に創り変えています。ここでは原文のままに歌の本意に従って鑑賞します。なお、歌は文字からの洒落で遊ぶ歌ですので、末句「不謌云二似」は戯訓として鑑賞する必要があります。そのため、校本万葉集のように原文改訂をしてしまっては、まったく、鑑賞が成立しません。

紀朝臣豊河謌一首
標訓 紀朝臣(きのあそみ)豊河(とよかは)の謌一首
集歌1503 吾妹兒之 家乃垣内乃 佐由理花 由利登云者 不謌云二似
訓読 吾妹児(わぎもこ)し家の垣内(かきつ)のさ百合(ゆり)花(はな)後(ゆり)と云へるは謌(うた)云(い)はずに似る
私訳 私の愛しい貴女の家の垣の内にある百合の花、その「後(ゆり)でね」と貴女が私に云うのは、まるで、貴女が私に「謌」の字の如く「可(愛して)可(愛して)と言わない」のことと同じです。

 私訳中で紹介しましたが、末句「不謌云二似」の「謌」は「言」「可」「可」と文字を分解して洒落を楽しむことを前提とした歌です。私訳では「可」を「愛して」と訳しましたが、話し言葉での「いいわ」と訳しても良いかと考えます。
 さて、歌の洒落を紹介したところで、この集歌1503の歌もまた集歌2467の歌の解釈Bを本歌としているとしますと、歌は集歌2467の歌の裏返しの世界です。集歌1503の歌では女に対し「吾妹兒」と声を掛けますが、男は女の姿を見たことも有りませんし、恋愛関係も成立していません。屋敷の垣根越しに小者の手引きでやっと女に声を掛けただけと云う風情です。そして、歌は小百合と詠いますから現在の姫百合が醸す甘い香りでその存在を示すように垣根の内の女も何らかの仕草、体臭などで気配を感じさせていると想像させます。そのような想像での世界を技巧を凝らし宴会で詠ったと云うのがこの集歌1503の世界です。歌は本歌取りの技法で詠いますが、詠う情景はお約束の男女の出合いの風情のパロディーです。
 この歌のように文字を分解して言葉遊びで和歌を詠う世界は『万葉集』だけです。そのため、『万葉集』を原文から楽しむ人以外には見えては来ない世界なのでしょう。まず、『古今和歌集』以降の中世和歌を専門とする研究者には向かない歌です。

 最後に巻十八に載る百合をテーマにした歌を紹介します。
 これらの歌が詠われた天平感宝元年の段階では、もう、「百合」と「後」との言葉で遊ぶ和歌の世界は定型化されています。そのため、宴会を閉める潮時に「では、お開きにして、ゆりもあはむ=後も会はむ」と云う言葉を暗示するために宴会での客人である大伴家持は「百合花」を宴会の主である秦伊美吉石竹に示します。
 歌の鑑賞からしますと、このような歌の背景が判りますと、後はただ役人同士が詠う定型歌をそのままに鑑賞するだけと云うことになります。面白みはありません。そこが中年以降の大伴家持の歌がつまらないところなのかもしれません。
 なお、もう少し歌の背景を考察しますと、このように宴会などで定型和歌をもって意図を示す行為が広く行われていただろうと考えられますから、ある程度の身分の人々にとって和歌は役人生活を送る上で必要不可欠の教養となっていたと思われます。およそ、奈良時代中期には宴会でも和歌で会話を行うようなことが行われていたことを示す、良い事例と考えます。

同月九日、諸僚會少目秦伊美吉石竹之舘飲宴。於時主人造白合花縵三枚、疊置豆器、捧贈賓客。各賦此縵作三首
標訓 同月九日に、諸僚、少目(せうさくわん)秦伊美吉石竹の舘に會(つど)ひて飲宴(うたげ)す。その時に、主人(あるじ)の白合(ゆり)の花縵(はなかづら)三枚を造り、豆器(づき)に疊(かさ)ね置きて、賓客に捧げ贈る。各、此の縵を賦(ふ)して作れる三首

集歌4086 安夫良火能 比可里尓見由流 和我可豆良 佐由利能波奈能 恵麻波之伎香母
訓読 油火(あぶらひ)の光りに見ゆる吾(わ)が蘰(かづら)さ百合の花の笑(ゑ)まはしきかも
私訳 燭灯の光の中に見える私が蘰に編んだこの美しい百合の花は、咲きいとおしいことです。
右一首、守大伴宿祢家持
注訓 右の一首は、守大伴宿祢家持

集歌4087 等毛之火能 比可里尓見由流 佐由理婆奈 由利毛安波牟等 於母比曽米弖伎
訓読 燈火(ともしび)の光りに見ゆるさ百合花(ゆりはな)後(ゆり)も逢はむと思ひそめてき
私訳 燈火の光の中に見える美しい百合の花は、後(ゆり)にも眺めたいと思っております。(そのように、また、貴方を宴会にお招きしたいものです)
右一首、介内蔵伊美吉縄麻呂
注訓 右の一首は、介(すけ)内蔵(くら)伊美吉(いみき)縄麻呂(なはまろ)

集歌4088 左由理波奈 由利毛安波牟等 於毛倍許曽 伊麻能麻左可母 宇流波之美須礼
訓読 さ百合花(ゆりはな)後(ゆり)も逢はむと思へこそ今のまさかも愛(うるは)しみすれ
私訳 美しい百合の花を後(ゆり)にもまた眺めたいと思うからこそ、だから、今、この時も、百合花を美しいと愛でるのでしょう。(それと同じように、また、逢いたいと思う、その貴方を大切な人と思います)
右一首、大伴宿祢家持、和
注訓 右の一首は、大伴宿祢家持の、伊美吉縄麻呂の歌に和(こた)ふ

 最後に和歌の本歌取りの技法の定義は厳密に定められており、その和歌技法の定義からしますと本来ですと『万葉集』の歌に対しては本歌取り技法とは分類せずに「先行する和歌から明らかに二句以上を引用したことを示し、その上で、先行する和歌の歌の世界を踏まえた上で新たな歌の世界を詠う」スタイルを持った「類型歌」と分類するようです。
 ただし、『万葉集』の時代、まだまだ、『新古今和歌集』の時代とは違い先行する和歌は限定されていますから、弊ブログでは「先行する和歌から明らかに二句以上を引用したことを示し、その上で、先行する和歌の歌の世界を踏まえた上で新たな歌の世界を詠うスタイルの歌」を「本歌取りの歌」としています。まことに学問的ではありませんが、ご了承下さい。
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万葉雑記 色眼鏡 九二 韓国語と万葉集について考える

2014年11月22日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 九二 韓国語と万葉集について考える

 今回、少し、韓国語と『万葉集』について考えてみたいと思います。なぜ、このテーマを取り上げたかと云うと、ここのところ難訓歌に関係するものを取り上げていますので、資料参照のためにインターネット検索を掛けると、なぜか、難訓歌の解読を通じて、「万葉集は韓国語で書かれており、韓国語でなければ解読できない」と云う主張に遭遇します。
 その主張で取り上げられる代表的な歌を二首ほど紹介しますが、真面目に『万葉集』を原文から鑑賞すれば良いのであって、そこには無理に「近代疑似韓国語」で解釈する必要性はありません。参考として韓国語でなければ解読できないと主張する難訓部分は、集歌9の歌では「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣」であり、集歌156の歌では「已具耳矣自得見監乍」の部分だそうです。

幸于紀温泉之時、額田王作謌
標訓 紀温泉(きのゆ)に幸(いでま)しし時に、額田王の作れる歌
集歌9 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
訓読 染(そ)まりなし御備(おそな)え副(そ)えき吾(あ)が背子し致(いた)ちししけむ厳橿(いつかし)が本(もと)
私訳 一点の穢れなき白栲の布を奉幣に副えました。吾らがお慕いする君が、梓弓が立てる音の中、その奉幣をいたしました。大和の橿原宮の元宮であります、この熊野速玉大社を建てられた大王(=神武天皇)よ。

十市皇女薨時高市皇子尊御作謌三首
標訓 十市皇女の薨(みまか)りし時に高市皇子尊の御(かた)りて作(つく)らしし謌三首
集歌156 三諸之 神之神須疑 已具耳矣 自得見監乍 共不寝夜叙多
訓読 三(み)つ諸(もろ)し神し神杉(かむすぎ)過(す)ぐのみを蔀(しとみ)し見つつ共(とも)寝(ね)ぬ夜(よ)そ多(まね)
私訳 三つの甕を据えると云う三諸の三輪山、その神への口噛みの酒を据える、神山の神杉、その言葉の響きではないが、貴女が過ぎ去ってしまったのを貴女の部屋の蔀の動きを見守りながら、その貴女が恋人と共寝をしない夜が多いことです。


 先ほど「近代疑似韓国語で解釈する必要性はありません」と述べましたが、この「近代疑似韓国語」と云う言葉を使った背景には、古代韓国語(母語新羅語?)で『万葉集』を読解する場合には万葉集歌の原文表記の特性から特殊な言語読解技法を使う必要があるからです。それは、『万葉集』が漢語+音訓漢字(万葉仮名)だけで表記されているため、「韓国語でなければ読解出来ない」と主張する時、近世まで朝鮮半島で使われていた国語文章表記法である「吏読(りとう)」と云う万葉仮名と同等な音訓字表記方法でもって解読する必要があるからです。その吏読は現代韓国語ではハングルに置き変わっており、すでに使われない表記方法となっていますし、さらに近々の韓国語言語進化の過程から文中に漢語・漢字表記を使わない方向に進んでいます。また、音訓漢字とみなす文字を吏読法での発声によりハングルに翻訳したとしてもその発声の基準が古語音か、現代語音か、さらに発声から復元された言葉に対する解釈は古代韓国語と現代韓国語で同じかの問題があります。さらに扱う『万葉集』テキストでの作品作歌時期が三国時代から統一新羅国に関係しますと、その歌の言語が高句麗語、新羅語、百済語の内のどれに拠ったのかも重要な問題となります。中国文献によると三国時代に百済人が新羅人や高句麗人の通訳を行ったと記録しますから、それぞれの言語は異なっていたのであろうと推定されています。
 ここで、『日本書紀』や仏像光背・木簡資料などから推古天皇以前では漢字による音字表記は秦・漢時代の古音発音であったことが確認されています。また、朝鮮半島では天智・天武天皇の時代に活躍した記録に残る人々の名前は秦漢古音による表記であったことも日本に残る資料などから確認されています。ところが、日本では推古天皇以前に使われていたその秦漢古音表記が天智天皇から天武天皇の時代に、突然、呉音表記に切り替わります。歴史ではこれを政治・文化交流における半島経由から大陸への直接アプローチによる体制変換の結果と推定します。そして、『万葉集』は「ト」の音に「止」の文字を使わない、また「意」を「オ」の音字に使わないと云う用例に見られるように呉音表記を選択的に使って表現された作品であることが確認されています。つまり、日本では同じ音訓漢字(万葉仮名)であっても時代により発声は違うことが明らかにされていますし、同じ大和言葉であっても「なつかし」の言葉に代表されるように時代で言葉の意味は変化しています。(「慣れ親しみたい→心が惹かれる→心に残る→昔のことが思い出される」への変化、古語「ユリ」での「百合」と「後」など)
 従いまして、『万葉集』の歌が朝鮮半島の言語表記である「漢語+音訓漢字(吏読)」で表記されたものと主張する場合には、『万葉集』の歌が詠われた時代、古代朝鮮語の吏読音字は秦・漢時代の古音による発音を使わなければいけないと云う制約条件が付きます。この制約を取り除く場合、六世紀前半から後半の時期に朝鮮半島で古音から呉音への民族または支配者階級の入れ替えが起きたとしなければいけませんが、統一新羅の成立以外の歴史伝承ではそのような史実はありません。つまり、民族交代はなかったと思われます。また、韓国語において現代と古代では同じ発音で表される言葉の意味は時代変化が少ないことの証明も必要となりますが、韓国古代語の研究自体が資料不足により進まないためにそれは困難なようです。

 こうした時、李寧熙氏の集歌9の歌の「漢語+音訓漢字(吏読)」による解釈がそのような秦・漢時代の古音発音に強く影響を受けた古代朝鮮語によるものかは不明です。そのため、紹介しましたように「近代疑似韓国語」とキャプションを付けざるを得ないのです。

<李寧熙氏による韓国語読みに対してひらがな音字ルビ付けをしたもの>
吏読文 莫囂(まげ)円隣之(どんぐるりじ)大(くん)相七兄(さちえ)爪謁(じょつある)気(げ)吾瀬(おら)子之(じゃじ)射(そ)立為兼(いっすに)五(お)可新(がせ)何本(よろぼん)

吏読文 茜(ごく)草(どしょん)指(さち)武(ぼ)良(ら)前(せく)野(ぼる)逝(がね)標(びょる)野(ぼる)行(がね)野(ぼる)守者(じきしゃ)不(あに)見(ぼ)哉(じぇ)君(ぐぜ)之(が)袖(さ)布流(ぼるよ)

 さらに吏読の伝承では7世紀後半から8世紀前半の人で、新羅の大学者である薛聡(せつそう)が儒教の経典を新羅に広めるためにこの吏読を考案したとします。この薛聡による吏読考案説を採用する場合は『万葉集』において制作年代や作歌者を示す標題や左注がすべて創作ではない場合には『万葉集』に載る歌が先に詠われ、標題や左注を含めてそれが人々の間に口伝され、そして後に漢語+音訓漢字(吏読)によって表記・採録されたとの時間経過となりますし、時間軸において『古事記』・『日本書紀』に載る民謡や歌謡の説明は不能となります。
 次いでその韓国語の歴史についてインターネットに情報を求めますと、東京外国語大学大学院 総合国際学研究院 趙義成研究室が公開していますHP「趙義成の朝鮮語研究室」に載る「ビビンバ 朝鮮語を知る」から韓国語の来歴や歴史を知ることが出来ます。そこから次のような解説を見ることが出来ます。
 なお以下の解説を補足しますが、七世紀後半以降に成立した統一新羅国以前の三国時代(高句麗、新羅、百済)までにおいて朝鮮半島でどのような言語(李基文氏区分での古代語)が使われていたかは現在に至るまで学問上では不明となっています。従いまして、李寧熙氏などが主張する「韓国語でなければ読解出来ない」の「韓国語」が意味するものが、高句麗語か、新羅語か、はたまた百済語であるのかも不明です。ただ、万葉時代の朝鮮半島の言語は近世語や現代語でなかったことは明らかです。

韓国語の来歴
ルーツを探るというのは,何につけても人びとを魅きつけるものである。朝鮮語のルーツについても,昔から現在に至るまで,学術的にも民間でも,数々の話が出ては消えている。しかしながら,残念なことに,朝鮮語のルーツについてはまだはっきりしたことが分かっていない。一時期,朝鮮語は日本語とともに,アルタイ諸語(モンゴル語・チュルク語などが属する言語の一群)に属するのではないかという説があった。しかし,総合的に判断すると,朝鮮語・日本語はアルタイ諸語と関連があると断言するに十分な証拠を見いだすことが困難であるというのが,現在の言語学の定説である。
朝鮮語が「アルタイ語族」に属するという説を支える例として,例えば語頭にr音が来ないというものがある。これは日本語にもいえることだが,アルタイ語族と朝鮮語・日本語はrで始まる固有の単語がない。試しに朝鮮語・日本語の辞典を引いてみても,rで始まる単語はどれも漢語か外来語である(助詞・助動詞は接辞なので単語とみなさない。また,日本の古語辞典には「ろうたげなり」などラ行の単語があるが,これも元をただせば漢語起源である)。しかし,このような音の特徴の類似があるにもかかわらず,単語の類似性が全くない。インド=ヨーロッパ語族では,例えば英語の「father」,ドイツ語の「Vater」,ラテン語の「pater」がそれぞれ対応する単語としてあるが,朝鮮語・日本語とアルタイ語族の間にはこのような対応がない。これらの事実が,朝鮮語をアルタイ語族と見なすことのできない根拠の1つとなっている。

韓国語の歴史
日本社会の歴史は縄文時代から始まって弥生時代,古墳時代,奈良時代,平安時代…というように区分される。朝鮮語という言葉の歴史も同じように区分がなされる。日本の著名な朝鮮語学者であった故・河野六郎博士は,次のように区分している。
1. 古代朝鮮語(訓民正音創製以前;~15世紀中葉)
2. 中期朝鮮語(訓民正音創製から秀吉の朝鮮侵略まで;15世紀中葉~16世紀末)
3. 近世朝鮮語(秀吉の朝鮮侵略以降;16世紀末~)

朝鮮語の歴史区分は学者によって異なりがあるが,例えば韓国の朝鮮語学者である李基文(イ・ギムン)博士は次のような区分を提唱しており,韓国国内ではこの区分が一般的ある。
1. 古代語(統一新羅以前;~10世紀初頭)
2. 前期中世語(高麗時代;10世紀初頭~14世紀末)
3. 後期中世語(李氏朝鮮建国から秀吉の朝鮮侵略まで;14世紀末~16世紀末)
4. 近世語(秀吉の朝鮮侵略~開化期まで;16世紀末~19世紀末)
5. 現代語(開化期以降;20世紀以降)
中期朝鮮語は,ハングルが作られた時期の言葉で,この時期にはハングルで書かれた文献も豊富なため,朝鮮語史の上でも最も研究がさかんな時代である。


 もう少し、この話題で遊びます。
 李寧熙氏の、その主張によると現代に伝わる「万葉集原文表記の歌」とは韓国語で詠われた『万葉集』の日本語翻訳バージョンなのだそうです。それも平安時代のものだそうです。だから、現代において難訓歌以外の歌は現代日本語で鑑賞できると云うことのようです。そうしますと、難訓歌は平安時代に日本語へと翻訳する時にどうしても翻訳できないものが残ったと云うことなのでしょう。
 さて、和歌の作歌技法に本歌取りと云う重要な技法があります。この技法から和歌を辿りますと、『万葉集』、『古今和歌集』、『新古今和歌集』などと連続する和歌の歴史を見ることが出来ます。その代表例を次に紹介します。大伴家持の歌は「村」「竹」「風」の三字を除くと一字一音万葉仮名表記の三十一文字の短歌です。その家持の歌を吏読による郷歌とすることが、さて、可能でしょうか。

万葉集 大伴家持
原文 和我屋度能 伊佐左村竹 布久風能 於等能可蘇氣伎 許能由布敝可母
読下 吾が屋戸のいささ群竹ふく風の音のかそけきこの夕へかも

古今和歌集 藤原敏行 (推定原文:変体仮名一字一音表記)
原文 あききぬとめにはさやかにみえねともかせのおとにそおとろかれぬる
読下 秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

林下集 藤原実定
原文 あききぬとおとろかれけりまとちかくいささむらたけかせそよくよは
読下 秋来ぬとおどろかれけり窓ちかくいささ群竹かぜそよぐ夜は

新古今和歌集 藤原公継
原文 まとちかきいささむらかてかせふけはあきにおとろくなつのよのゆめ
読下 窓近きいささむら竹風ふけば秋におどろく夏の夜の夢

 現代に伝わる『万葉集』が平安時代に日本語に翻訳されたものとしますと、その翻訳は伝在する『万葉集』原文からしますと、「漢語+吏読表記の歌」を「漢語+万葉仮名表記の歌」に翻訳したことになりますし、同時に作歌者の時代に合わせて、漢詩体歌、非漢詩体歌、常体歌、一字一音万葉仮名歌の各種の表記スタイルとし、なおかつ短歌は三十一音のスタイルに作り替えたことになります。非常に難しい翻訳作業を李寧熙氏は要求しますし、新羅郷歌と和歌三十一音との比較における音字数の問題はどのように扱うのでしょうか。
 また他方、『万葉集』には柿本朝臣人麻呂歌集に載る歌を本歌取りした類型歌も存在しますから、本歌取り技法で歌を詠った人物にとって平安時代での翻訳では遅すぎることになります。万葉歌人の時代順序からすると李寧熙氏が云う翻訳は少なくとも人麻呂歌集の成立直後まで遡る必要があります。ところが、その時、大伴家持はまだ生まれていませんから、漢語+万葉仮名表記が流通する時代に大和人である家持が漢語+吏読表記の歌を詠う可能性はなくなります。

<柿本朝臣人麻呂歌集に載る歌;漢詩体歌>
集歌2498 釼刀 諸刃利 足踏 死ゞ 公依
訓読 剣太刀(つるぎたち)諸刃(もろは)し利(と)きし足踏みて死なば死なむよ君し依(よ)りては
私訳 貴方が常に身に帯びる剣や太刀の諸刃の鋭い刃に足が触れる、そのように貴方の“もの”でこの身が貫かれ、恋の営みに死ぬのなら死にましょう。貴方のお側に寄り添ったためなら。

<類型歌;常体歌>
集歌2636 剱刀 諸刃之於荷 去觸而所 殺鴨将死 戀管不有者  (殺は、煞-灬の当字)
訓読 剣太刀(つるぎたち)諸刃(もろは)し上(うへ)に行き触れにそ死にかも死なむ恋ひつつあらずは
私訳 床に置く貴方の剣太刀、そのような貴方の諸刃の上に行き触れたい。貴方の“もの”でこの身を貫かれ、その男女の営みで死ぬなら死んでしまいたい。この恋と云う「愛の営み」を続けることが出来ないならば。

 困りました。李寧熙氏の指摘に従うと、万葉歌は最初期には「漢語+吏読表記の歌」を詠い、次いでそれを「漢語+万葉仮名表記の歌」に翻訳し、それを下に次世代歌人が「漢語+万葉仮名表記の歌」を詠い、さらに誰かが「漢語+吏読表記の歌」に翻訳し直し歌集として編み、その歌集を再び平安時代になって「漢語+万葉仮名表記の歌」に翻訳し直して現在に伝わる万葉集が成立したことになります。そして、肝心な「漢語+吏読表記での万葉集原本」は痕跡も残さずに永遠に失せた書物であるようです。

 さて、先に例題などで紹介しましたように詠われた時代毎にその表記スタイルが明確に違いますが本歌取りの和歌の歴史がありますと、現在に伝わる原文表記の『万葉集』は平安時代に日本語に翻訳された歌集であるとの「論理の逃げ」は難しいのではないでしょうか。
 また、日本語言語の特性の一つとして開音節言語からの同音異義語による言葉遊びがあります。その言葉遊びが『万葉集』の歌に見ることが出来、それが『古今和歌集』では掛詞の技法へと進化します。ここにも『万葉集』から『古今和歌集』への連続性が確認出来ます。
 再掲になりますが、同音異義語を使った言葉遊びの万葉集歌を歌の表記スタイルから選抜して紹介します。なお、これらの歌を韓国語の「漢語+吏読表記」スタイルを用いたものへと訳せるものか、非常に興味あるところです。平安時代に日本語へ翻訳したとするなら、本来の原本への復元は『万葉集』が読解できる韓国人であるならば、その人物にとって韓国人としての文化的責務ではないでしょうか。

<浄御原宮時代初期:漢詩体歌>
集歌2334 沫雪 千里零敷 戀為来 食永我 見偲
訓読 沫雪(あはゆき)し千里(ちり)し降りしけ恋ひしくし日(け)長き我し見つつ偲(しの)はむ
私訳 沫雪はすべての里に降り積もれ。貴女を恋い慕って暮らしてきた、所在無い私は降り積もる雪をみて昔に白い栲の衣を着た貴女を偲びましょう。
<別解釈>
試訓 沫雪し散りし降りしけ 戀し来(き)し 故(け)なかき我し 見つつ偲(しの)はむ
試訳 沫雪よ、天から散り降っている。その言葉の響きではないが、何度も貴女を恋い慕ってやって来たが、貴女に逢うすべが無くて、私は遠くから貴女の姿を見つめ偲びましょう。

<浄御原宮時代初期:非漢詩体歌>
集歌1783 松反 四臂而有八羽 三栗 中上不来 麻呂等言八子
訓読 松(まつ)反(かへ)り萎(し)ひにあれやは三栗(みつくり)し中(なか)上(のぼ)り来(こ)ぬ麻呂といふ奴(やつこ)
私訳 松の緑葉は生え変わりますが、貴方は脚が萎えてしまったのでしょうか。任期の途中の三年目の中上がりに都に上京して来ない麻呂という奴は。
<別解釈>
試訓 待つ返り強ひにあれやは三栗し中上り来ぬ麻呂といふ奴
試訳 貴方が便りを待っていた返事です。貴方が返事を強いたのですが、任期の途中の三年目の中の上京で、貴方はまだ私のところに来ません。麻呂が言う八歳の子より。

<天平年間初期:常体歌>
湯原王亦贈謌一首
標訓 湯原王のまた贈れる謌一首
集歌640 波之家也思 不遠里乎 雲井尓也 戀管将居 月毛不經國
訓読 愛(はしけ)やし間(ま)近き里を雲井(くもゐ)にや恋ひつつ居(を)らむ月も経(へ)なくに
私訳 (便りが無くて) いとしい貴女が住む遠くもない里を、私は雲居の彼方にある里のように恋い続けています。まだ、一月と逢うことが絶えてもいないのに。
<別解釈>
試訓 はしけやし間近き里を雲井にや恋ひつつ居らむ月も経なくに
試訳 ああ、どうしようもない。出掛ければすぐにも逢える間近い貴女の家が逢うことが出来なくて、まるでそこは雲井(=宮中、禁裏のこと)かのように思えます。私は貴女を恋焦がれています。まだ、貴女の身の月の障りが終わらないので。

<天平年間中期:常体歌>
集歌3854 痩々母 生有者将在乎 波多也波多 武奈伎乎漁取跡 河尓流勿
訓読 痩(や)す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻(むなぎ)を漁(と)ると川に流るな
私訳 痩せに痩せても生きているからこそ、はたまた、滋養強壮の鰻を捕ろうとして川に流されるなよ。
<別解釈>
試訓 易す易すも生けらば有らむを波多や波多鰻を漁ると川に流るな
試訳 すごく簡単に鰻が潜んでいたら捕まえられるだろう、だが、川面は波だっているぞ。その鰻を捕ろうとして、川に流されるなよ。

<天平年間後期:一字一音万葉仮名歌>
集歌4128 久佐麻久良 多比能於伎奈等 於母保之天 波里曽多麻敝流 奴波牟物能毛賀
訓読 草枕旅の翁(おきな)と思ほして針ぞ賜へる縫はむものもが
私訳 草を枕とする苦しい旅を行く老人と思われて、針を下さった。何か、縫うものがあればよいのだが。
<別解釈>
試訓 草枕旅の置き女(な)と思ほして榛(はり)ぞ賜へる寝(ぬ)はむ者もが
試訳 草を枕とする苦しい旅の途中の貴方に宿に置く遊女と思われて、榛染めした新しい衣を頂いた。私と共寝をしたい人なのでしょう。


 今回は以前に紹介したものをまとめたようなもので紙面を稼ぎました。実に、反省する次第です。
 ただ、感じることは、正統な万葉集研究者はその教育的、研究者的責任において世に出回る与太話で歴史問題や将来の研究に影響を与えるであろう話題や問題には対しては真摯に対応し、そのような与太話を世に流す者に適切に指摘・指導・教育を行う義務を有していることを理解していないのではないかと危惧することです。
 弊ブログでも紹介しましたが、『万葉集』に関係するところにおいて、『日本後記』には平安時代初期に藤原氏や百済氏は権力と金力で氏族伝承の記録を簒奪・改竄し、歴史ある氏族の先祖や祖神を変えたり、その係属に入り込んだと記録します。そして、その結果が現在の関東での藤原氏の伝承ですし、近江での小野氏の伝承です。そのために柿本人麻呂の氏素性に小野氏説や猿女説が生まれたり、藤原不比等関東生誕説が流布します。このように虚偽は虚偽であると明確に否定しないと、千年の後、歴史を持たない者に歴史を奪われても取り返しはつきません。
 珍説では奈良時代の教養ある日本人の大多数は百済人であり、その百済人達によって『万葉集』は百済語で創られたとするようです。そして、その百済語が現在の韓国語と日本語のルーツとします。この背景があるために言語のルーツが同じ百済語で創られた『万葉集』は現代韓国語でも読めるのだそうです。ただ、こうの珍説において先に紹介した古音と呉音の関係はどのように説明するかは興味あるところです。
 もう一つ、平安時代初期、国風暗黒時代とも称された時代に『新撰万葉集』が編まれました。これは遣唐使に選抜された菅原道真が大唐に赴くときに日本の詩歌の水準(=文化水準)を紹介するために和歌秀歌を当時のアジア文化圏での文化基準である漢詩へと菅原一門によって翻訳された対訳詩歌集です。プロト的な解説では韓国知識階級は伝統的に両班などの身分制度を背景にした漢語・漢文文化体制です。そのような文化世界において、なぜ、李寧熙氏の指摘する「万葉集」が「郷歌・漢詩対訳詩歌集」の形で編纂されなかったのでしょうか。それとも、それは存在したが現在には痕跡も残さずに消えたのでしょうか。実に不思議です。

 さて、お金さえ出せば世界中に与太話を流布することはとても簡単な世の中になりました。
で、大丈夫でしょうか。
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万葉雑記 色眼鏡 九一 難訓「葉非左思所念」を解釈する

2014年11月15日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 九一 難訓「葉非左思所念」を解釈する

 今回も引き続き難訓歌を鑑賞します。取り上げます歌は巻十六の巻末に載る歌で、無名人の歌ですので、まず、有名な歌ではありません。そのため、ある種、無責任的に歌を鑑賞することが出来ます。
 さて、難訓とされるものは集歌3889の歌の末句「葉非左思所念」です。なお、この歌の鑑賞において、以前紹介した難訓歌と同じように鑑賞には条件があります。それはこの集歌3889の歌は先に置かれた集歌3887の歌からの三首一組の組歌となっており、組歌には「怕物謌三首(怕しき物の歌三首)」と云う標題が付けられ、これら三首の歌の内容を紹介していることです。つまり、鑑賞では「怕しき物」を詠っていることを理解する必要があります。逆に三首が組としてきちんと解釈出来ないのですと、その提案する解釈の前提や解読したとする集歌3887と集歌3888の歌の鑑賞は間違いである可能性が非常に高くなります。
 鑑賞にあたって最初にテーマとします原文歌三首とそれに付けられた標題を紹介しますと、次のようになっています。

怕物謌三首
集歌3887 天尓有哉神樂良能小野尓茅草苅々々波可尓鶉乎立毛
集歌3888 奥國領君之染屋形黄染乃屋形神之門涙
集歌3889 人魂乃佐青有君之但獨相有之雨夜葉非左思所念

 先ほどの紹介で標題「怕物謌」の表記を「怕しき物の歌」と一般的な訓読みを紹介しましたが、「萬葉集(新日本古典文学大系、岩波書店)」では「物に怕れし歌」と解釈し、他の評釈本とにおいて「怕しき物や事柄を詠ったもの」か、「ある物や事柄を怕れたと云う出来事を詠った」かとの微妙な解釈の相違があります。一般的な歌の解釈では標題の訓読みでは「怕しき物の歌」の方を採用し、テーマとする歌三首を次のように理解します。

<萬葉集釋注(伊藤博、集英社文庫)>より引用
題詞の「怕ろしき物の歌」とは、畏怖の対象となる物(霊・鬼)を題材とする歌をいう。天上・海上・地上それぞれの「怕ろしき物」を詠んでおり、それぞれ独立しつつも、三つ合わせて「怕ろしき物」の様態を表わそうとしたことが知られる。

 ここで、その『萬葉集釋注』に示す天上・海上・地上のそれぞれの「怕ろしき物」を詠ったそれぞれの歌と云う解釈の背景を少し説明しますと、集歌3887の歌の一節「天尓有哉神樂良能小野尓」と同じ表現とされる句が集歌420の長歌にあります。その長歌の一節「天有 左佐羅能小野之 七相菅」を「天しある 左佐羅(ささら)の小野し 七節菅(ななふすげ)」と訓じるところから「天尓有哉神樂良能小野尓」を「天(あま)にあるや神楽良(ささら)の小野に」と訓じます。そして、その意訳文では「天上にある笹の茂る小さな野原に」と云うようなものとなりますので、歌は天上の神の世界を詠ったものであろうと推測します。
 同様に一般的には第二首目となる集歌3888の歌の初句「奥國」は「おくつくに」と訓じて「沖つ国=大和神話での海の国」と解釈します。そこから歌のキーワードとなる「屋形」を「屋形舟」と見当を付け、大和神話での海上の風景に関係ある歌であろうとします。このような推定から第一首目は天上の世界を、第二首目は海の世界を詠っているとしますから、その三首一組と云う前提条件の下、第三首目となる集歌3889の歌は地上の世界を詠ったものであろうと推定します。そして、この推定と標題の「怕ろしき物」との縛りから集歌3889の歌の解釈を試みます。しかしながら、ご存じのように現在まで集歌3889の歌は末句「葉非左思所念」の難訓句を含めて歌全体の解釈が出来ないままとなっています。

 困りました。従来の組歌三首の構成推定では、歌は鑑賞が出来ないようです。つまり、従来から正しいとされてきた解読の前提条件も、そこからの解釈も正しいものではないのでしょう。
 そこで、逆の視点から考えてみます。その従来の解釈では組歌三首は天上・海上・地上それぞれの「怕ろしき物」を詠っていることになっていますが、その解釈は正しいのでしょうか。例えば、判り易い例として第二首目となる集歌3888の歌の初句「奥國」は「おくつくに」と訓じたとしても海の沖合や神話での海の国を意味する「沖つ国」ではなく、そのままに「奥つ国」と解釈することも古語としては可能です。その時、「奥つ国」は「奥つ城(おくつき)」が墓地や霊を祀る場所を意味し、「奥つ棄所(おくつすたへ)」が棺や墓所を示すように、「霊界」や「あの世の世界」を意味すると解釈が出来ます。この時、「屋形」は辞書には牛車や舟の「人が乗る屋根の付いた箱型の部分」とも解説される言葉ですが、歌が人の生死を詠うものとしますと死者を納めた棺とも解釈することが可能となります。つまり、神話での海の国とはまったく関係の無い、葬儀の場面を詠う歌と解釈が出来るのです。その時、この集歌3888の歌は葬儀=死人と向き合う場面を歌い、内容において生物が生まれもって持つ生理から催される心理的な「怕ろしき物」と云うものになるのでしょう。
 同様に第一首目の集歌3887の歌の初句「天尓有哉」を比喩としますと二句目の「神樂良能」は「ささらの」と訓じても「ささらえ壮士」や「ささら萩」の「ささら」と同じ意味合いや解釈となり、「ちいさな」とか「細小なものが群がっている様」を示すことになります。つまり、表記での「神樂良」を導き出すために初句に「天尓有哉」と置いただけとなり、なにも天上の世界を詠った歌では無くなります。ただ単に「何もいないだろう、生き物がいるはずもないだろう」と思い込むような、そのような小さな笹藪の草刈りの最中に鶉が飛び出して来た驚きを詠うものだけになります。その予期せぬ出来事への反射神経的な驚きが「怕ろしき物」と云うものになると考えます。
 さて、第三首目の歌に目を向けますと難訓は末句の「葉非左思所念」の一節だけが訓じることが出来ず、その他の句は訓じることが出来ることになっています。そこで第四句までの意訳文を見てみますと、次のようになっています。

原文 人魂乃佐青有君之但獨相有之雨夜葉非左思所念
訓読 人魂(ひとたま)のさ青(を)なる君がただ独り逢へりし雨夜(あまよ)の
<新日本古典文学大系>
人魂のまっ青な君が、ただ一人で出逢った雨夜の
<日本古典文学全集>
人魂のような真っ青な君がひとりきりで現われた雨夜の
<万葉集全訳注原文付>
人魂のまっ青な君が一人で、出逢った雨夜の
<萬葉集釋注>
人魂そのままのまっ青な顔をした君、さよう、このあいだのかのあの君が、たった一人、ふわりと現われてこの私に出くわした暗い雨の夜

 意訳文を紹介しましたが、さて、「人魂」と云う言葉は枕詞でしょうか。幣ブログでの考えでは枕詞とされる言葉の表記において『万葉集』の時代では漢字表記を工夫した多くの変化に富んだものを見ることが出来ることから、歌の言葉が枕詞なるものとして文学的に形容しても、それぞれの言葉はそれぞれに意味を持つと考えますし、まだ、平安時代後期以降の和歌の世界とは違い『万葉集』の時代では枕詞のような作歌技法は確立してはいないとしています。すると、「人魂」と云う言葉が枕詞であったとしてもそれぞれに意味を持つものとしますと、どのような意味となるのでしょうか。
 『万葉集』に「魂」の文字を求めますと巻三に「魄」の文字を持つ集歌417の歌を見つけることが出来ます。この集歌417の歌では「魄」は「親魄(ニギタマ)」と云う熟語の中での文字として使われ、その熟語「親魄」は死亡した人物ですが丁寧に祀られ世に害を為さない穏やかな霊魂のような意味合いで使われています。

河内王葬豊前國鏡山之時、手持女王作謌三首
標訓 河内王を豊前國の鏡山に葬(はふ)りし時に、手持女王の作れる歌三首
集歌417 王之 親魄相哉 豊國乃 鏡山乎 宮登定流
訓読 王(おほきみ)し親魄(にきたま)相(あ)ふや豊国(とよくに)の鏡山を宮とさだむる
私訳 河内王よ。貴方の御気に召されたのか。この豊国の鏡山を貴方の常夜の宮と定め為されました。

 すると、集歌3889の歌の「人魂」と云う言葉は「人間の霊魂」を意味すると思いますが、「人魂乃佐青有君」と表記する場合、どのように解釈するのが良いのかが問題になるのではないでしょうか。もし、「人の霊魂を持つ真っ青な顔をした君」と訳す時、この「君」とは生きている人間を示す言葉になるでしょうか。他方、「人の霊魂のような真っ青な顔をした君」と訳しますと、これは当時の「鬼」をイメージします。
 ここで「人魂乃佐青有君」が生きている人間を形容するものではないとしますと、別な想像が働きます。それは、文武天皇時代前後に到来したとされる四天王寺庚申堂に祀られる青面金剛童子の洒落ではないかと云う可能性です。
 この「人魂乃佐青有君」なる言葉が洒落で「青面金剛童子」を表すものであるとのアイディアが成り立つのですと、末句の「葉非左思所念」もまた、なんらかの洒落ではないかと云う類推が働いて来ます。そうした時、「葉非」も「茎は葉に非ず」の洒落であると解釈ができるかもしれません。 そして、この「茎」と云う洒落が導き出されますと、「茎」と「左思」から「鬱鬱潤底松」で始まる漢詩「詠史」を思い浮かべることは冒険ではないと考えます。この解釈における冒険が許されるものですと、集歌3889の歌が示す世界は「雨が降る深夜、一人、お堂に籠って暗闇の中で青面金剛童子と対面している」と云う風景になります。その時、想像するあの世や仏の世界から心に浮かぶ心理的な恐怖があると思います。つまり、この想像からの心理的な恐怖が「怕ろしき物」ではないでしょうか。
 以下に紹介した解釈を下にした訓読みと私的意訳文を紹介します。

怕物謌三首
標訓 怕(おそろ)しき物の謌三首
集歌3887 天尓有哉 神樂良能小野尓 茅草苅 々々波可尓 鶉乎立毛
訓読 天(あま)にあるや神楽良(ささら)の小野に茅草(ちがや)刈り草刈りばかに鶉(うづら)を立つも
私訳 天上にあると云われている「ササラの小野」、その言葉の響きではないが、「ササラ=小さな」笹の茂る小野にある茅草を刈り、その草を刈る途端に鶉が飛び出したような。

集歌3888 奥國 領君之 染屋形 黄染乃屋形 神之門涙
訓読 奥(おき)つ国(くに)領(うる)はく君の染め屋形(やかた)黄染(にそめ)の屋形(やかた)神の門(と)涙(なか)る
私訳 死者の国を頂戴した者が乗る染め布の屋形、黄色く染めた布の屋形、神の国への門が開くのに涙が流れる。
注意 屋形とは人が乗る箱のことで、普通は牛車の人の乗る部分を示します。ここでは棺を意味し、染屋形とは棺に布を掛けた状態を示します。

集歌3889 人魂乃 佐青有君之 但獨 相有之雨夜 葉非左思所念
訓読 人魂(ひとたま)のさ青(を)なる君しただ独り逢へりし雨夜(あまよ)茎(え)し左思そ念(も)ふ
私訳 人の心を持つと云う青面金剛童子像を、私がただ独りで寺に拝んだ雨の夜。左思が「鬱鬱」と詠いだす「詠史」の一節を思い出します。

<資料参考:詠史 其二 (左思;西晋時代の人)>
鬱鬱澗底松 鬱鬱たり 澗底の松
離離山上苗 離離たり 山上の苗
以彼径寸茎 彼の径寸の茎を以て
蔭此百尺条 此の百尺の条(えだ)を蔭す
世冑躡高位 世冑は高位を躡み
英俊沈下僚 英俊は下僚に沈む
地勢使之然 地勢 之をして然らしむ
由来非一朝 由来 一朝に非ず
金張藉旧業 金張は旧業に藉りて
七葉珥漢貂 七葉 漢貂を珥しき
馮公豈不偉 馮公 豈に偉れざらんや
白首不見招 白首 招かれざりき


 おまけとして、本来の『万葉集』は巻十六までで巻十七から巻廿の四巻は資料篇的なものではないかとの説があります。そうしたとき、集歌3889の歌は本来の『万葉集』の歌の最後に位置するものとなります。
 そうした時、集歌3889の歌に左思が詠う歌である「詠史」を引用するものとしますと、「詠史」の後半部分「金張藉旧業、七葉珥漢貂、馮公豈不偉、白首不見招」が天平時代以降の奈良時代の政治体制を皮肉るものになりますし、『古今和歌集』に載る壬生忠岑が詠う長歌の一節「人麻呂こそは嬉しけれ身は下ながら・・」とも呼応するものになります。そして、巻十六の集歌3855の歌の世界とも共通するものとなります。
 およそ、集歌3889の歌に万葉集第二次編纂時の世相と憤慨・悲嘆を託したのでしょう。

高宮王詠數種物謌二首
標訓 高宮王の數種(くさぐさ)の物を詠める謌二首
集歌3855 蓙莢尓 延於保登礼流 屎葛 絶事無 宦将為
訓読 さう莢(けふ)に延(は)ひおほとれる屎葛(まりかづら)絶ゆることなく宦仕(みやつかへ)せむ
私訳 人を寄せ付けないサイカチの巨木に蔓を延ばし絡み付いたくだらない葛(藤)よ。それでもこれからもそのくだらない葛(藤)の下僕として仕えよう。
注意 漢字では草木の「フジ」を記す時には「葛」が良字です。「藤」は女性や官妓の匂いがあるために格下の文字となります。ここでは葛は藤原を示すあからさまな隠語です。
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万葉雑記 色眼鏡 九十 難訓「邑礼左變」から愛情表現を考える

2014年11月08日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 九十 難訓「邑礼左變」から愛情表現を考える

 今回も難訓歌を取り上げてみました。テーマに「難訓『邑礼左變』から愛情表現を考える」としましたように難訓歌とされる集歌655の歌を紹介し、その歌から万葉人の愛情表現について考えてみたいと思います。テーマに「愛情表現を考える」としているのは歌が詠われた時代の男女の愛情表現や態度を理解していないとその歌の鑑賞において不適切なものになることを危惧することと、肝心な歌自体が十分に理解できないのではないかと不安に思うからです。そのため、「愛情表現を考える」として個人の考えを示すとともに、それに益して皆さんの注目を得たいが為です。
 さて、取り上げます集歌655の歌は次のような原文表記となっており、難訓とされるのは末句の「邑礼左變」です。紹介では原文を先に、次いで解釈での句切れを紹介し、その後に提案されている訓読みを示します。

集歌655の歌
原文 不念乎思常云者天地之神祇毛知寒邑礼左變
句切 不念乎 思常云者 天地之 神祇毛知寒 邑礼左變
<提案されている訓読>
1. 思はぬを 思ふと言はば 天地の 神も知らさぬ さとれてかはり
2. 思はぬを 思ふと言はば 天地の 神も知らさぬ さとやしろさへ
3. 思はぬを 思ふと言はば 天地の 神も知らさぬ さとのかみさへ
4. 思はぬを 思ふと言はば 天地の 神も知らさぬ くにこそさかへ
5. 思はぬを 思ふと言はば 天地の 神も知らさむ うたがふなゆめ

 参考として、この歌の背景を説明しますと歌は大伴坂上郎女と大伴駿河麿との間で交わされた相聞の歌問答での三首一組の歌群での一首です。それが前提ですから組み歌の中でおおよそ歌の歌意は推定が可能です。逆に相聞問答の枠からはみ出るような解釈は採用出来ないと云う制約があります。また、『萬葉集釋注』(伊藤博、集英社文庫)によりますと類型歌として次の歌二首を挙げていますので、解釈において類型歌の解釈から作歌時の発想と云う面において制約条件になると考えます。

<大伴坂上郎女と大伴駿河麿との間で交わされた相聞の歌問答>
大伴宿祢駿河麿謌三首
標訓 大伴宿祢駿河麿の謌三首
集歌653 情者 不忘物乎 儻 不見日數多 月曽經去来
訓読 情(こころ)には忘れぬものをたまさかに見ぬ日(ひ)数多(まね)きて月ぞ経(へ)にける
私訳 心の底では貴女を忘れるはずがないのですが、たまたま逢わない日々が重なって月が経ってしまった。

集歌654 相見者 月毛不經尓 戀云者 乎曽呂登吾乎 於毛保寒毳
訓読 相見ては月も経(へ)なくに恋(こひ)云へばをそろと吾を念(おも)ほさむかも
私訳 貴女に逢ってから一月も経ってないのに、貴女を恋い慕っていると云うと「気が軽い」と私のことを思われるでしょうか。

集歌655 不念乎 思常云者 天地之 神祇毛知寒 邑礼左變
訓読 念(おも)はぬを思ふと云はば天地し神祇(かみ)も知るさむ邑(さと)し礼(いや)さへ
私訳 本当に愛してもいないのに「貴女を慕っている」と云うと、天地の神々にも不実がばれるでしょう。例え、「愛している」と云うのが里の習いとしても。

<類型歌 二首>
集歌561 不念乎 思常云者 大野有 三笠社之 神思知三
訓読 念(おも)はぬを思ふと云(い)はば大野なる三笠し杜(もり)し神し知(し)らさむ
私訳 慕っていないのに「お慕いしています」と云ったなら、大野にある三笠の杜の神様がお見通しです。

集歌3100 不想乎 想常云者 真鳥住 卯名手乃杜之 神忌将御知
訓読 思はぬを思ふと云はば真鳥(まとり)住む卯名手(うなて)の杜(もり)し神(かむ)き知らさむ
私訳 恋してもいないのに恋していると云うと、鷲が棲む卯名手(雲梯)の杜に宿る神のお怒りを、きっと、思い知らされるでしょう。


 今回も歌は難訓とは扱わずに解釈の訓読みとその意訳文を先に紹介します。歴史において、この集歌655の歌が難訓となった理由は定かではありませんが、新点に訓が付けられていなかったことが一番の理由かもしれません。ただし、種明かしではありませんが、「礼」の漢字が「礼儀」や「習慣・慣習」のことを日本の古い言葉として文字通りに示すものと考え、それをその日本の古い話し言葉である「いや」と訓じれば「なんだ、それだけか」の世界です。どこにも難訓となる要素はありません。それでいて、集歌653から集歌655の組歌三首が連携します。

集歌655 不念乎 思常云者 天地之 神祇毛知寒 邑礼左變
訓読 念(おも)はぬを思ふと云はば天地し神祇(かみ)も知るさむ邑(さと)し礼(いや)さへ
私訳 本当に愛してもいないのに「慕っている」と云うと、天地の神々にも不実がばれるでしょう。例え、「愛している」と云うのが里の習いとしても。


 ここで、今回のテーマである「難訓歌から愛情表現を考える」に戻ります。
 一般的な認識に日本の男性は欧米の人々と比べて女性に対する愛情表現に乏しく、消極的であるとします。一方、今日のインターネット環境でこのような感想や意見を示しますと世界各国に居住する人々の実際の日常から、「それは違う、米国の男だって、確信が無ければ愛する女性に積極的に愛情表現などはしない」とか、「どこの国の男も、特別な目的(=性交したい)でもなければ、積極的に女性にアタックしないし、Love youなんて言わない」と反論があるようです。およそ、第二次世界大戦以降に日本に流入した映画やテレビドラマで描かれる社会・風俗を、それがそのまま、日常一般の生活と信じたことによる影響と商業ショービジネスで示される観客(多くは若い女性)が求める理想や夢を他国の現実とし、それを自国の男性に求めた結果なのでしょう。どうも、日本人男性だから女性に対する愛情表現が乏しいとか、消極的であると云うことではないようです。ある種の都市伝説でしょうか。
 そうした時、紹介しました集歌655の歌に目を転じますと、この歌に詠うように「男性から成熟した女性へには愛を告白するのが里の決まり・習わし」であるならば、万葉時代の男女の恋愛の認識において男は女に対して積極的に愛情表現や求婚をするのがルールであったと考えられます。
 プロトタイプの説明ではありませんが、ラテン系の男性が街行く女性には「美しい」とか、「きれいだ」とか、「チャーミング」だとか声を掛けるのが礼儀と思われているように、集歌655の歌、また、その類型歌である集歌561や集歌3100の歌などから推測しますと万葉時代の男どもは若い女性に出会えば、「きらきらしている」、「すがしい」、「名前を教えて」などと声を掛けるのが礼儀であったようです。そのような社会風習の前提があるからか歌の約束事として「心にもない愛の告白をしないで」とするのでしょう。
 飛鳥浄御原宮から藤原宮の時代、まだまだ、民衆レベルまで識字は及んでいなかったでしょう。すると、人々の生活の中には屋敷の奥深くで大切に育てられ、ただ、深閨からの噂だけで想像する女性に対して、付け文や和歌の色紙を贈ると云う平安時代の上級貴族的な習慣はなかったと考えます。自己が保有する庄田での田植え・その収穫作業や若菜摘み・薬狩り、また、里の神事などで姿を見せる若き女性に対して、男が己の姿を見せ付ける、声を掛ける等のアプローチを通じて交際はあったのではないでしょうか。さらに、『万葉集』に歌を残すような人物ですと衢や郷の歌垣の集会でも出会いはあったのではないかと考えます。
 その出会いにおいて最も直線的な女性へのアプローチが次の歌なのでしょう。卑野ですが、これが里の身近な若い女性に対する礼儀であったかもしれません。

集歌3440 許乃河泊尓 安佐菜安良布兒 奈礼毛安礼毛 余知乎曽母弖流 伊弖兒多婆里尓
訓読 この川に朝菜(あさな)洗ふ子汝(なれ)も吾(あれ)も同輩児(よち)をぞ持てるいで子給(たは)りに
私訳 この川にしゃがみ朝菜を洗う娘さん。お前もおれも、それぞれの分身を持っているよね。さあ、お前の(股からのぞかせている)その分身を私に使わせてくれ。

 私は昭和時代からの建設作業員です。そのため、このような集歌3440の歌の背景や状況は十分に理解出来ます。今は工事現場は工事用の塀や安全のための作業柵で囲われていますから有り得ない世界ですが、昔はそのような柵や塀もなかった時代ですので、作業の折、道路工事や水道・下水道工事での掘った穴の中から街行く女性の姿を眺め上げたものです。時として、そのスカートの中の色までも拝ませて貰いましたし、工事現場のそばを行く若い女性たちもまた、作業員たちに冷やかされるのを承知でありました。時代のせいか、近道と云う理由で少なくない若い女性が毎日朝夕の通勤帰宅時に作業員が顔を覗かしているその穴のそばを歩いてくれました。また、下町では赤子を持つ若いおかあさんたちが胸を広げて授乳する姿は見慣れた風景でもありました。昭和の時代であっても、時代の景色はあまりにも性に対して「ナマ」だったのです。
 この風景は現代人の感覚からすると卑野ですし、下品です。そのためか、逆に集歌655の歌や集歌3440の歌の世界は現代人には判りにくいかもしれません。時代と性的分野での環境の変遷に由来するのでしょうか、古代の恋愛では性交渉を前提にしているとの背景を理解すればそれほど難訓とは思えない次の歌でも難訓とされたのでしょう。

十市皇女薨時高市皇子尊御作謌三首
標訓 十市皇女の薨(みまか)りし時に高市皇子尊の御(かた)りて作(つく)らしし謌三首
集歌156 三諸之 神之神須疑 已具耳矣 自得見監乍 共不寝夜叙多
試訓 三(み)つ諸(もろ)し 神し神杉(かむすぎ) 過(す)ぐのみを 蔀(しとみ)し監(み)つつ 共し寝(ね)ぬ夜(よ)そ多(まね)
試訳 三つの甕を据えると云う三諸の三輪山、その神への口噛みの酒を据える、神山の神杉、その言葉の響きではないが、貴女が過ぎ去ってしまったのを貴女の部屋の蔀の動きを見守りながら、その貴女と共寝をしない夜が多いことです。

 この集歌156の歌も若い女性が夜は男性と共寝をするのが前提であると考えれば、閨の蔀が閉じられていれば、恋人と出会っているのだと想像が付きます。でも、時折、閉じられているはずの蔀がいっこうに閉じられていないとすると、そこに部屋の主の不在が示されます。ここで、歌は「監乍」と云う用字を使いますから、第三者的に十市皇女の様子を眺めていることになります。つまり、高市皇子は日常生活を管理している立場ですから十市皇女の保護者的な立場にあることになります。
 また、時代は母系大家族制度であったとしますから、女性に対して積極的な男性は複数の女性と恋愛関係を保っていたのでしょう。逆にそれが当時にあっては女性が男性に対して求めた理想な姿なのでしょう。だだし、それぞれの女性は「私だけに」という条件を付けたと思いますが。
 最初の映画やテレビドラマではありませんが、『万葉集』に詠われた歌もまた、当時の恋愛での理想な姿であったのかもしれません。ただし、現実の実生活では多数の恋人を持つ積極的な男とまったく恋人を持たない消極的な男との二極化をしていたのではないでしょうか。その恋人を持てない消極的な男の代表が、次のような男でしょうか、ただ、歌から推測しますと年上の女性に仲立ちをしてもらって、遠くから恋するその女性と関係は出来たようです。そこには、男女の縁を持った現代には無くなった「世話焼きおばさん」の姿が見えます。

集歌3388 筑波祢乃 祢呂尓可須美為 須宜可提尓 伊伎豆久伎美乎 為祢弖夜良佐祢
訓読 筑波嶺(つくはね)の嶺(ね)ろに霞居過ぎかてに息(いき)づく君を率(ゐ)寝(ね)て遣(や)らさね
私訳 筑波嶺の嶺に霞が居座って動かないように、あそこで居座って動かず、貴女に恋してため息をついている、あの御方を連れて来て抱かれてあげなさいよ。


 弊ブログの人気テーマである「初夜の儀を考える」で紹介しましたが、第二次世界大戦で敗戦し本格的に西洋の文化・風習が雪崩れ込む前の日本では大人が成人する若者男女に実地の性教育を行うか、生娘女を妻問う男には十分な性教育を行っておくのが風習でした。また、紹介しましたように生活の中に若い男女の仲を取り持つ世話焼きおばさんや責任ある立場の男は配下の者の婚姻などの面倒を見る風習もありました。良い、悪いは別な価値観として棚に置きますと、古来、日本では男女の交際は身近であり、日常でした。そのような日本原風景を忘れてしまうと、『万葉集』の愛情表現を伴う歌の鑑賞に手こずるのではないでしょうか。

 最後に集歌655の歌に対する有名な『万葉難訓歌の研究(間宮厚司、法政大学出版局)』の解釈を現代の標準的な解釈として紹介します。その時、三首組歌として集歌663から集歌665までの歌、また、大伴坂上郎女との相聞問答が成立するかは、みなさんの鑑賞にお任せします。

集歌655の歌
原文 不念乎思常云者天地之神祇毛知寒邑礼左變
解釈 思わぬを思ふと言はば天地の神も知らさむ国こそ境へ
歌意 あなたと私とは互いに国が別々で、離れた所に住んでいるので、あなたは私の気持ちを確かめられないかも知れないが、だからといってもし私が嘘を言ったら、それぞれの国の社に神はもちろんいるのだけれども、国の境を超越している天地の神々も当然お見通しのはずだから、心配する必要はまったくない。
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万葉雑記 色眼鏡 八八 「鳥翔成」の歌を鑑賞する

2014年11月01日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 八八 「鳥翔成」の歌を鑑賞する

 今回は大変にズルを致しました。多くをインターネット上から引用してしまいました。それを最初にお詫びいたします。
 さて、今回は巻二に載る山上憶良が詠う集歌145の歌を鑑賞致します。この山上憶良は遣唐使の秘書官的な立場で遣唐使の一員に無位無姓の立場から抜擢され、その後は律令時代の上級官僚に昇進、さらに東宮侍講を勤めたほどの人物です。その為、彼の作品の背景には四書五経、仏教や道教経典、古事記や万葉集の前身である古集・人麻呂歌集、さらに藤原京時代に生まれた神道や現御神の思想があります。現代なら知識のスーパーマンです。そのような彼の作品鑑賞ですから、手強いです。
 今回、鑑賞する集歌145の歌を紹介しますと、次のようになっています。

山上臣憶良追和謌一首
標訓 山上臣憶良の追(お)ひて和(こた)へたる謌一首
集歌145 鳥翔成 有我欲比管 見良目杼母 人社不知 松者知良武
試訓 鳥(とり)翔(かけ)りあり通(かよ)ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ
試訳 皇子の生まれ変わりの鳥が飛び翔けて行く。しっかり見たいと目を凝らして見ても、人も神も何があったかは知らない。ただ、松の木が見届けただけだ。

 なお、この歌の初句「鳥翔成」が難訓とされており、現在もまだその句の解釈に論議のある歌となっています。試訓で紹介したものは個人の考えであって、標準的なものではありません。そこで、歌の鑑賞の手始めに和歌鑑賞の分野においてインターネットでは有名なHP「千人万首」からこの歌の標準的な解説を引用いたします。

<千人万首 山上憶良>より引用
山上臣憶良の追和する歌一首
翼なすあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ(2-145)
【通釈】皇子の御魂は鳥のように空を往き来しては何度も結び松を見たであろうが、人が知らないだけで、松はそのことを知っているだろう。
【語釈】◇翼なす 原文は「鳥翔成」で、難訓。「つばさなす」の訓は賀茂真淵に拠る。「鳥のように」ほどの意か。◇あり通ひつつ (有間皇子の御霊は)何度も空を行き来しながら。
【補記】大宝元年(701)の紀伊行幸で詠まれた長意吉麻呂の結び松の歌「磐代の岸の松が枝結びけむ人は還りてまた見けむかも」に和した。「結び松」は有間皇子の故事に因む。遣唐使に任命される前後の作か。

となっています。
 一方、『万葉集』の原文引用では有名なバージニア州立大学公開の電子データでは次のようになっています。
<Manyoshu ;University of Virginia Library Electronic Text Center>より引用
[題詞]山上臣憶良追和歌一首
[原文]鳥翔成 有我欲比管 見良目杼母 人社不知 松者知良武
[訓読]鳥翔成あり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ
[仮名]あまがけり、ありがよひつつ、みらめども、ひとこそしらね、まつはしるらむ
[左注]右件歌等雖不挽柩之時所作<准>擬歌意 故以載于挽歌類焉

 このように初句「鳥翔成」については、色々な訓があります。ただ、歌の鑑賞では紀伊行幸で詠まれた有間皇子の故事に因んだ「結び松」が背景にある歌ですから、鑑賞内容について異同はありません。しかしながら作品鑑賞に焦点を当てますと、有名歌人である山上憶良の最初期の作品がきちんと訓めないことに万葉集研究家の困惑と苛立ちがあるようです。
 参考情報として、この集歌145の歌の製作年については、巻一に載る集歌34の歌と巻九に載る集歌1716の歌との関連性を考慮して、山上憶良は朱鳥四年(690)九月(『日本書紀』では持統天皇四年九月)の御幸の折、それに従う川嶋皇子に扈従して紀伊国の磐代を訪れたときに皇子の意を受けて代作した可能性があります。憶良は彼の作品群から斉明天皇六年(660)頃の生まれの人と推定されていますから、時に集歌145、集歌34と集歌1716の歌は彼が三十歳の時のものかもしれません。一方、「千人万首」では集歌146の歌の標題から推定される大宝元年(701)、彼が四十歳の時の作品説の方を採用しています。なお、本ブログでは持統天皇四年九月の持統天皇紀伊国御幸説の方を採用します。

幸于紀伊國時川嶋皇子御作謌 或云、山上臣憶良作
標訓 紀伊國に幸(いでま)しし時に、川嶋皇子の御(かた)りて作らしし謌 或は云はく「山上臣憶良の作」といへり。
集歌34 白浪乃 濱松之枝乃 手向草 幾代左右二賀 年乃經去良武
訓読 白波の浜松し枝(え)の手向(たむ)け草幾代さへにか年の経(へ)ぬらむ
私訳 白浪のうち寄せる浜辺にある松の枝に懸かる手向の幣(ぬさ)よ。あれからどれほどの世代の年月が経ったのでしょう。
一云 年者經尓計武
一(ある)は云はく、
訓読 年は経にけむ
私訳 年月を経たのだろう。
日本紀曰、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇幸紀伊國也
注訓 日本紀に曰はく「朱鳥四年庚寅の秋九月、天皇紀伊國に幸(いでま)す」といへり。

標訓 山上(やまのうへ)の歌一首
集歌1716 白那弥之 濱松之木乃 手酬草 幾世左右二箇 年薄經濫
訓読 白波し浜松し木の手(た)向(む)け草(くさ)幾世(いくよ)さへにか年は経ぬらむ
私訳 白波の寄せる浜の浜松の木に結ばれた手向けの幣よ。あれからどれほどの世代の年月が経ったのでしょうか。
右一首、或云、川嶋皇子御作謌。
注訓 右の一首は、或は云はく「川嶋皇子の御(かた)りて作(つく)れる歌なり」といへり。


 ここで、テーマとしました集歌145の歌に戻ります。
 難訓歌とされるこの歌の初句「鳥翔成」の訓みについてはインターネットで調べますと、次のような解説に出会うことが出来ました。それを紹介します。

<河童老「万葉集を読む」;『万葉集』を訓(よ)む(その222)>より引用
 なお、本歌は、1句の訓に諸説があり、未だに定訓のない、いわゆる難訓歌の一つである。写本に異同はなく、原文は次の通り。
鳥翔成 有我欲比管 見良目杼母 人社不知 松者知良武
 1句「鳥翔成」は、その文字から「鳥が翔るように」の意を持つことは容易に想像できるのだが、それを5音の句に訓むことがむつかしく、間宮厚司『万葉難訓歌の研究』によれば、16種類の訓みが提唱されていることになる。稲岡耕二『萬葉集全注』が、この句について、要点をうまく押さえながら、諸説の紹介を行い、簡潔にコメントを付けているので、少々長くなるが次に引用する。
 旧訓トリハナスであったのを、真淵の考に「羽して飛ものをつばさといふ、成は如也。今本とりはと訓しはわろし、とりはてふ言はなき也」として、ツバサナスの新訓を提出した。略解にこれを継承し、翔は翅の誤字かとも言う。攷証には、これに対してカケルナスと訓むことを記し、新考にはトトビナスの訓も見える。佐伯梅友「鳥翔成」(短歌研究昭和十八年十月)には、鶏鳴(あかとき)(一〇五)・馬酔木(あしび)(一六六)・相競(あらそふ)(一九九)・浦不楽(うらさび)(二一〇)・不怜(さびし)(二一八)・得物矢(さつや)(二三〇)・五十戸良(さとをさ)(5・八九二)・五月蠅(さばへ)(5・八九七)などと同様の義訓として扱っており、アマガケリという新訓を示している。難訓の個所の一つで、戦後の諸注でも定訓はまだ得られていない。澤瀉注釈には「ツバサナスでは翼の形を云つてるやうで言葉が足りない。カケルナスでも鳥の文字が生きなくて、拙劣な句となる」と評した上で、佐伯説のアマガケリを採用。窪田評釈にも「神霊の行動を叙する語としては、最も妥当なものであり、現に憶良の巻五(八九四)にも用いている例がある」と、アマガケリを採る。そのほか古典集成・講談社文庫なども、とくに理由を記してはいないが、この訓によっている。一方、佐佐木評釈・古典全集にはツバサナスと訓み、とくに後者には高知県長岡郡国府村(南国市)の方言に、鳥類を意味するトリツバサという語のあること、嬰児が死んだらトリツバサになると言われているという注記(土佐民俗叢書一)を付す。今までに示された訓の中では、アマガケリとツバサナスの二訓が注目されるだろう。原文に「鳥翔成」とあって同種の例は「入日成」「鶉成」のように「~ナス」と訓まれるのが一般である。山田講義に、「翔」は動詞をあらわす文字で名詞を表わす文字でないこと、下のアリガヨフに対してツバサはしっくりしないこと、鳥のことをツバサと言った例も、魚のことをヒレと言ったような例も存しないことなどを挙げて、ツバサナスとは訓みえないだろうと推定しているのは、詳細な考察でもっともだと思われるが、なお、ツバサナスの訓を完全に否定することにはならないようだ。まして古典全集の頭注に見られるようにツバサで鳥類を意味する場合があるとすれば講義の説の迫力はかなり弱められるに違いない。佐伯説のアマガケリは、魅力的な訓である。憶良の好去好来歌(5・八九四)に「天地の 大御神たち 大和の 大国御霊 久方の 天のみ空ゆ 阿麻賀気利 見渡し給ひ」と歌われているし、続日本紀神護景雲三年十月詔に「…朕必天翔給天見行之退給比…」ともあって、神霊や人の魂について用いられているので、有馬皇子之場合にもふさわしいように思われる。しかし、佐伯説のようにアマガケリと訓むべきものとすれば、なぜ憶良は続紀宣命のように「天翔」とするか、八九四歌のように仮名書きにしなかったのだろう。「鳥翔成」を義訓としても、アマガケリと訓ませるのはかなり無理を伴うように思う。佐伯説に挙げられている鶏鳴・馬酔木・不怜・五月蠅などの義訓の例は正訓字表記の困難なものであると考えられるのに、アマガケリの場合はアマ(天)にしろカケリ(翔)にしろ容易に正訓字の表記を想起させることばであって、とくに義訓として「鳥翔成」と記さねばならない理由を見出しがたいのである。旧訓以来「~ナス」と訓まれることが多かったのも、理由のあることと思われる。トトビナスとか、カケルナスとかは、句として拙劣に過ぎるだろうが、ツバサナスならばアマガケリに対して、音調の上からも遜色はあるまい。「~ナス」と訓むのが穏やかなことと、「翔」は、あるいは「翅」の誤字かも知れないことを併せて、いちおうツバサナスにより、後考を俟ちたい。

 非常に長い引用を致しました。なお、引用した文は引用の引用で成り立っていますので、そこは注意をお願いいたします。
 本来ですと初句「鳥翔成」を素人感覚に従い素直に「トリカケリ」と訓めば良いのですが、その場合、研究者には「翔」と云う字は主に動詞で使われる字ですから句末の「成」と云う字との接続が気持ち悪いようです。それが文中の「山田講義に、『翔』は動詞をあらわす文字で名詞を表わす文字でない」と云う説明になっているのでしょう。そして、句末の「成」の字を『万葉集』に調査しますと「~なり・なる」と訓むのが大半であるため、「トリ+xx+ナリ」のような形で訓むべきであるとの意見や学会の空気に支配されていると考えられます。そのため、本来なら「成」の字よりもより重要であるはずの「翔」の字の方に対し色々な訓みの解釈を持ち出しているのでしょう。俗に言う「議論の為の議論により、本末転倒」が生じていると推定します。
 ところが、現代はインターネットの時代で古典文献検索は簡単に行える時代です。「鳥翔成」を「トリカケリ」と訓めない理由の一つである「『翔』は動詞をあらわす文字で名詞を表わす文字でない」と云うものを調べてみますと、以外にそれは日本語からの漢文への思い込みなのかもしれません。律令体制での官人登用試験の項目に四書五経があり、その中の易経に次のような「翔」と云う字を持つ文章があります。

原文 象曰、豊其屋、天際翔也
訓読 象に曰く、其の屋を豊かにするとは、天際(てんさい)に翔(かけ)るなり。

 つまり、「孔子、魯人也」と同じような表現ですから漢詩体和歌において「成」を「也」と同じような助詞のようなものと考えると、律令体制が整備される過程、または、それが実行されていた藤原京から前期平城京時代の官僚にとっては大和言葉表現での「鳥翔成」の句を「トリカケリ」と訓んでも違和感のない表現なのです。ここで、『説文解字』によると「成」の文字について「成、就也」と解説します。そうしたとき、大和歌で初句を「鳥翔也」と表現するよりも「鳥翔成」と表現し、その「成」の字に「也」の訓みと「就」の意味とを合わせ持たせたと考えるのが普通ではないでしょうか。
 参考として「上代文献に於ける『野』字の訓」(濱田數義)の論文では「奴」と「努」との混用など『万葉集』における用字事例を取り上げ、濱田氏はその論文で憶良には彼特有の特殊な用字法があると指摘しています。そして、この「奴」と「努」との混用状況は「記紀」に見られるものと同様なため、憶良は『古事記』などの編纂に関与したか、多大な影響を受けているとしています。この面からしますと、『万葉集』だけからの文字用法の調査から「鳥翔也」は「トリ+xx+ナリ」のような形で訓むべきであるという態度は、作品が憶良のもの、それも最初期のものであることからしますと採用されない可能性があります。
 当然、「成」は「なり」、「也」も「なり」とは訓めるが、「鳥翔成」の表現で「成」を「也」と同等な意味合いで使ったと解釈するのは不適切だとの指摘は至極正当な非難だと思います。ただし、「鳥翔成」を義訓扱いとして「アマガケリ」や誤記説を導入の上で「ツバサナス」と訓む古風よりも、まだ、自然体と考えます。ただ、その時、研究テーマとして取り上げ易い「難訓」と云うものは生じません。論文を一つ、損することになります。
 ここでは、やはり、以上のような論点からの帰結で個人の試訓を採用したいと考えます。

集歌145 鳥翔成 有我欲比管 見良目杼母 人社不知 松者知良武
試訓 鳥(とり)翔(かけ)りあり通(かよ)ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ
試訳 皇子の生まれ変わりの鳥が飛び翔けて行く。しっかり見たいと目を凝らして見ても、人も神も何があったかは知らない。ただ、松の木が見届けただけだ。

 終わりに、<河童老「万葉集を読む」;『万葉集』を訓(よ)む(その224)>でも指摘されていますが、山上憶良の作品には『古事記』や『延喜式祝詞』などとの共通点が多々見られるとします。そてて、その『古事記』には倭建命の故事に関係して次のような文章があります。文章は「八尋白智鳥」と「翔天」とで分けられますが、文中に「鳥翔」と云う文字の組み合わせが見られるのは興味があるところです。

『古事記』 倭建命の歌竟即崩の件より
於是化八尋白智鳥翔天而向濱飛行

 和歌の分野では山上憶良は努力型の秀才タイプの人物と思います。一方、柿本人麻呂は天才肌タイプの人物ではないでしょうか。努力型の憶良に詩中に使う用字について、すべての作品に完璧を求めるのは酷な話だと考えます。『万葉集』から推定すると、今回、取り上げました集歌145の歌は山上憶良三十歳にして初めて宮中の詩歌グループへ参加した、記念する作品の位置にあります。そのためでしょうか、それとも旅先での即興のためでしょうか、使われる用字は結構、意字と音字とがバラバラに使われています。それでいて、歌のスタイルは常体歌でもありません。本作品への評価の時、人麻呂のものを基準として比較の上で表現スタイルを語るのはいかがなものかと考えます。山上憶良は類聚歌林を編み、それにより和歌の研究が進んだと考えます。そのため、筑紫文壇に参画するまでは、漢学者のような人物と考えるのが良いのではないでしょうか。なお、これも表記スタイルを下にしたものですから「訓読み万葉集」に翻訳したものでは見えない世界ではあります。
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