竹取翁と万葉集のお勉強

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柿本朝臣人麻呂の歌並びに人麻呂歌集の歌 16

2013年03月31日 | 柿本朝臣人麻呂歌集及び万葉集に載る歌集
柿本朝臣人麻呂の歌並びに人麻呂歌集の歌

詠花
標訓 花を詠める
集歌2094 竿志鹿之 心相念 秋芽子之 鐘礼零丹 落僧惜毛
訓読 さ雄鹿し心(うら)相(あひ)思(も)ふし秋萩し時雨し降るに散らくし惜しも
私訳 雄鹿が雌鹿を心に想う季節の秋萩に時雨が降って、散っていくのが惜しいことです。

集歌2095 夕去 野邊秋芽子 末若 露枯 金待難
訓読 夕されば野辺し秋萩末(うら)若み露にそ枯るる秋待ちかてに
私訳 夕方になると野辺の秋萩の枝先の小さい葉が露によって色付き枯れる。秋が待ちきれないように。
右二首、柿本朝臣人麿之謌集出。
注訓 右の二首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。

詠黄葉
標訓 黄葉を詠める
集歌2178 妻隠 矢野神山 露霜尓 ゞ寶比始 散巻惜
訓読 妻隠る矢野し神山露霜に色付(にほひ)そめたり散らまく惜しも
私訳 妻を隠すと云う名張の里の矢野の神山が、露霜によって色付いたよ。散ってしまうのが惜しいことです。

集歌2179 朝露尓 染始 秋山尓 鐘礼莫零 在渡金
訓読 朝露ににほひそめたる秋山に時雨な降りそあり渡るがね
私訳 朝露に色付き始めた秋山に、時雨よ降るな。黄葉が進んで行く。
右二首、柿本朝臣人麿之謌集出。
注訓 右の二首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。

詠雨
標訓 雨を詠めり
集歌2234 一日 千重敷布 我戀 妹當 為暮零礼見
訓読 一(ひと)し日(ひ)し千重(ちへ)しくしくし我が恋ふる妹しあたりし時雨(しぐれ)降れ見む
私訳 一日中、何度も何度もしきりに私が恋い慕う貴女の家の付近に時雨が降るのが見える。
右一首、柿本朝臣人磨之謌集出。
注訓 右の一首は、柿本朝臣人磨の歌集に出づ。

秋相聞
標 秋の相聞
集歌2239 金山 舌日下 鳴鳥 音聞 何嘆
訓読 秋山し下日(したひ)し下(した)し鳴く鳥し声だに聞かば何か嘆かむ
私訳 秋の山の夕日の下に鳴く鳥のように、せめて貴女の声だけでも聞けたら、どうして嘆くでしょう。

集歌2240 誰彼 我莫問 九月 露沾乍 君待吾
訓読 誰(たれ)し彼(か)し我(われ)しな問ひそ九月(ながつき)し露し濡れつつ君待つ吾そ
私訳 誰だろうあの人は、といって私を尋ねないで。九月の夜露に濡れながら、あの人を待っている私を。

集歌2241 秋夜 霧發渡 凡ゞ 夢見 妹形牟
訓読 秋し夜し霧立ちわたりおほほしく夢にし見つる妹し姿を
私訳 秋の夜霧が立ち渡って景色がおぼろになるように、ぼんやりだが夢の中に見た。愛しい恋人の姿を。

集歌2242 秋野 尾花末 生靡 心妹 依鴨
訓読 秋し野し尾花し末(うら)し生ひ靡き心し妹し寄りにけるかも
私訳 秋の野の尾花の穂先が鞘から伸びて開き靡くように、私の心は愛しい恋人に靡き寄ってしまったようだ。

集歌2243 秋山 霜零覆 木葉落 歳唯行 我忘八
訓読 秋山し霜降り覆ひ木し葉散り年し行くともわれ忘れめや
私訳 秋の山に霜が降り木々を覆い、木の葉も散りさって、この年も過ぎ行くとしても、私が貴女を忘れることがあるでしょうか。
右、柿本朝臣人麿之謌集出。
注訓 右は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。

冬雜謌
標訓 冬の雑歌
集歌2312 我袖尓 雹手走 巻隠 不消有 妹為見
訓読 わが袖に霰たばしる巻き隠し消たずてあらむ妹し見むため
私訳 私の袖に霰が降りかかる。その霰を袖に巻き包んで消えないようにしましょう。恋人に見せるために。

集歌2313 足曳之 山鴨高 巻向之 木志乃子松二 三雪落来
訓読 あしひきし山かも高き巻向し岸の小松にみ雪降り来る
私訳 足を引きずるような険しい山なのでしょう。峰高い巻向山の川岸の小松に雪が降ってきた。

集歌2314 巻向之 檜原毛未 雲居者 子松之末由 沫雪流
訓読 巻向(まきむく)し檜原(ひはら)もいまだ雲居ねば小松し末(うれ)ゆ沫雪流る
私訳 巻向の檜原にもいまだに雪雲が懸かり居ると、垂れた小松の枝先から沫雪が積もり流れ落ちる。

集歌2315 足引 山道不知 白杜杙 枝母等乎ゞ尓 雪落者
訓読 あしひきし山道も知らず白橿し枝もとををに雪し降れれば
私訳 足を引きずるような険しい山道も判らない。白樫の枝も撓めて雪が降ると。
或云、枝毛多和ゞゞ
或は云はく、
訓読 枝もたわたわ
私訳 枝もたわわにして
右柿本朝臣人麿之謌集出也。但一首(或本云、三方沙弥作)
注訓 右は柿本朝臣人麿の歌集に出づ。ただし一首。(或る本に、三方沙弥の作といへり)

冬相聞
標訓 冬の相聞
集歌2333 零雪 虚空可消 雖戀 相依無 月経在
訓読 降る雪し虚空(そら)し消(け)ぬべく恋ふれども逢ふよし無(な)みし月し経(へ)にける
私訳 降る雪が途中で空に消えるように、ひたすら貴女を慕っているのですが、このように空しく逢う機会が無いままに月日が経ってしまった。

集歌2334 沫雪 千里零敷 戀為来 食永我 見偲
訓読 沫雪(あはゆき)し千里(ちり)し降りしけ恋ひしくし日(け)長き我し見つつ偲(しの)はむ
私訳 沫雪はすべての里に降り積もれ、貴女を恋い慕ってきた、所在無い私は降り積もる雪をみて昔に白い栲の衣を着た貴女を偲びましょう。
右、柿本朝臣人麿之謌集出。
注訓 右は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
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万葉雑記 色眼鏡 その廿ニ 貪窮問答謌の短歌を鑑賞する

2013年03月30日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 その廿ニ 貪窮問答謌の短歌を鑑賞する

 最初にお詫びいたします。今回はある種の読書感想文のようなものです。ただ、ご承知のように素人の思い入れを持って例の癖のある立場で行っていますから、この感想文に悪意の悪臭が漂うことをご容赦下さい。

 さて、笠間書院発行のコレクション日本歌人選に山上憶良の巻があります。このコレクション日本歌人選は古代から近代に亘る日本の主要な歌人六十人を紹介するために編集された歌人紹介本で、平成廿三年二月から順次配本が始まっています。編集順位は第一位が柿本人麻呂で、第二位がこの山上憶良です。ただ、第三位が小野小町、第四位が在原業平ですから、編集が時代順に並んでいる訳でもありません。その歌人選択と編集順位には和歌文学会から選抜された編集委員の日本の歌人に対するある種の思い入れや考えが根底にあるものと想像されます。従いまして、コレクション日本歌人選の山上憶良の巻(以下、“コレクション山上憶良”)は配本開始の時期や編集順位から推測して、後年に残すべき最新の山上憶良に対する鑑賞態度や解釈が集約されていると考えます。
 ところで、コレクション山上憶良を一冊全てを紹介して、読書感想をする訳にも行きません。そこでズルですが、特定の歌一首を抜き出して、それに対して感想を述べさせていただきます。この態度で選んだ歌が次の貪窮問答謌の短歌です。

コレクション山上憶良
世間(よのなか)を憂(う)しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
現代語訳
この世間に生きることは、辛く恥ずかしいと思うのだが、ここから飛び立つことなど出来ない。鳥ではないのだから。

 この歌の説明にコレクション山上憶良では次のように紹介しています。

「貪窮問答謌の歌の反歌。『憂し』は、辛く苦しいこと。この世の中は、辛いことや苦しみの多いところだというのは、誰しも子どものころから経験することであり、それが生きることなのだということも教わった。
しかし、この世に生きることが、『やさし』、すなわち恥だというのは、必ずしも分かり易いことではない。どうして、憶良は生きることを恥ずかしいことだというのか。これは、この世に貪窮者として生まれたことを指すのであろう。長歌に『わくばらに、人とはある』とあったのは、人として生まれたことへの喜びであった。にもかかわらず、なぜかくも貧しいのかという。貧しい生まれが、『やさし』という言葉で表されているのである」

 正直の感想ですが、コレクション山上憶良は貪窮問答謌の反歌の位置にあるこの歌に、「やさし」と云う言葉が使われた理由が十分に咀嚼されていないと思います。古代ですから、おおざっぱに身分=経済環境です。つまり、憶良の生まれながらの身分=所属階級が「やさし(=恥)」なのでしょうか。それで以って「世間をやさしと思へども」の答えになるのでしょうか。憶良がこの歌を詠った時、従五位下筑前国守の立場ですから、彼より身分が上の臣民は当時の日本全国に百人も居ません。それほどの高官に上り詰めていました。それでもそれが「やさし(=恥)」なのでしょうか。では、どれほどの高官であれば良いのでしょうか。その当たりの理解が出来ないため、どうも、今一つ、コレクション山上憶良の解説がぴんと来ません。
 そこで、歌の解釈態度が明確な万葉集釋注から伊藤博氏の解釈と解説を紹介します。

世の中を厭(う)しと恥(やさ)しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
現代語訳
この世の中、こんな所はいやな所、身も細るような所と思う次第でありますが、捨ててどこかへ飛び去るわけにもゆきません。私ども人間は、所詮鳥ではありませんので。

「これは、一般に、極貧者の心情をさらにまとめた歌であるとされている。しかし、おそらくそうではないであろう。『この時はいかにしつつか、汝が世は渡る』と問われたのに対し、『かくばかりすべなきものか 世の中の道』と答えて、問答は完結している。答えは『すべなし』という未解決の暗澹たる状況で終わった。それゆえに、詩として、この窮状は除去しなければならぬ人間苦であることが、鮮明に訴えられる。
短歌一首は、この貧者と極貧者の問答に対して、憶良自身の感想を披瀝したものと考えられる。二人のこの問答を聞くと、『世の中は厭しと恥し』と、そういう風にしみじみと思われるのですけれども、そうはいっても、この現実から逃れることができません。われわれは人間ですから。そういう思いを強く抱かざるを得ません――という立場にあるのがこの短歌なのだと思う。」

 歌の言葉の説明で、古語の「やさし」には「辛い・耐えがたいの意味と、恥ずかしいの意味」があるとされています。この釋注では「やさし」を「恥し」として解釈して「身も細るような所」と現代語訳としています。これですと、確かに「世間をやさしと思へども」の解釈の答えになります。「やさし」を「貧しい生まれ」とする解釈に比べると、非常に判り易いと思います。
 しかし、「歌は貧者と極貧者との問答である」と云う視線に立った時、貧者とは憶良の事なのでしょうか。それともその埒外の第三者なのでしょうか。長歌からすれば、やはり、従五位下筑前国守である憶良が貧者となるのでしょう。万葉集の歌を万葉調に長歌・短歌を組で鑑賞すると、新古今調での歌の鑑賞のようには単純・明快ではないようです。インターネット調べで「奈良時代の役人の年間給与は、正五位ならば3000万円、正六位だと700万円」と云う記事があります。五位以上では処遇が大変に優遇されていましたから、従五位下筑前国守ですと年収2000万円以上はあったのではないでしょうか。それでもやはり出版を主務とする文学者の感覚からするとこの程度の年収レベルでは貧者に相当するのでしょうか。ちょうど、斎藤茂吉や太宰治が森鴎外や夏目漱石を遠くから眺めているような感覚でしょうか。

 さて、ちくまプリマー新書発行の「百姓たちの江戸時代(渡辺尚志)」と云う本があります。この本で使われる資料の多くは信濃国諏訪郡瀬沢村の数年に一度の割合で村役人を務めた坂本家の残したものを使っていて、著作者はこの坂本家は中流の上クラスの農民と推定しています。また、この坂本家は甲州街道沿いの中級以上の農家の副業として、屋敷を利用して旅人の宿泊受け入れや物品販売も行っていました。
 ここで江戸時代の食生活について見てみると、この「百姓たちの江戸時代」の記述には、公式の年貢ベースを基準として標準的な反等の収穫量と日本全国の人口から推計して、余剰米を破棄しないと仮定すると、米が取れる農村の農民は一人当たり年間0.34石(51kg)の米を消費可能であったとしています。実際には公式報告以外の米を貯蔵・自家消費していたことや江戸時代に残された記録などから米が取れる農村の農民は一人当たり年間1石の米を消費していたと推定しています。一方、食生活での年間穀物消費量は一人当たり年間1.5石と計算されていますので、米は雑穀とともに食されていたと考えられていて、「日常的には米と麦・雑穀を混ぜて炊いた『かてめし』や粥・雑炊を食べ、婚礼などの晴れの日には米だけの飯を食べたのです」(43p)と記述しています。なお、この坂本家の記録でも主食類の購入記録がほとんどなく不明ですので、推定で自家消費が中心であったとするだけです。そのためでしょうか、江戸や大坂の商人・職人が米を購入していた記録が大量に残るのとは違うため、農民は米を食べられなかったと云う都市伝説が生まれたと思われます。つまり、米を生産している農家が、米への出費を行っていない=米を食べていなかった=食べられなかったと推定している訳です。
 また、貨幣経済となっている江戸時代ですが、衣類についても旅人の宿泊受け入れや物品販売を行う坂本家でも糸を購入して自家で機織りをしたり、日常ではハギレを購入し継ぎ当てをして古着を着用していたりとしています。ここもまた、都市の商人や職人と生活態度が違います。しかしながら、この坂本家が貧しかったかと云うと違います。毎年泊りがけの旅行として諏訪本宮に参詣を行い、時に遥か伊勢神宮にも参詣するなど、特別なものへの支出をする経済基盤がありました。およそ、日常では支出を押さえ、晴れの時に支出をするメリハリある経済活動をしていたようです。
 ここで、毎回、ご来場の人には「またか」の話題ですが、この「百姓たちの江戸時代」の日常の生活から食事の基本である米の調理方法に話題を移します。
 米の調理方法で炊くと蒸すがあります。この違いが奈良時代での姫飯と強飯との違いです。現在の「米飯」と「おこわ」との違いです。この姫飯に雑穀、野菜、魚介類などを混ぜて調理したものが「かてめし」や「雑炊」と称されるもので、これを一般の人々は日常的に食べていました。一方、儀式などの特別の「晴れの日」のものが強飯です。
 米の調理で調理器具の面から云うと姫飯が鍋を、強飯が甑を使います。つまり、米を鍋で調理するのが日常で、甑や蒸籠で調理するのが特別な晴れの日です。およそ、奈良時代などでは貴族階級の食卓でもない限り、庶民にとって甑などの用具は特別な日以外は使わない調理器具です。ちょうど、旧家が餅つきの臼と杵は持ってはいるが特別な日以外は納屋などに保管してあるのと同じ風景です。ただ、甑は甑用の炉が必要ですから、その据え付けの甑炉を納屋に仕舞って置くようなことは出来ません。使わないが、土間の特別な場所に据え付けられています。

 今一度、貪窮問答謌に戻ってみたいと思います。その長歌に次のような一節があります。

原文 可麻度柔播 火氣布伎多弖受 許之伎尓波 久毛能須可伎弖 飯炊 事毛和須礼提
読下 竃(かまど)には 火気(ほけ)吹き立てず 甑(こしき)には 蜘蛛(くも)の巣かきて 飯(いひ)炊(かし)く ことも忘れて

 この一節の「久毛能須可伎弖」について、コレクション山上憶良では「蜘蛛の巣懸きて」と解釈し、釋注では「蜘蛛の巣かきて」としています。なお、釋注の現代語訳では「蜘蛛が巣を懸けて」としていますから、コレクション山上憶良と釋注とは同じ「巣を懸ける」と云う解釈です。ただし、甑と云う道具が人々にとってそれが日常品なのか、非日常品なのかと云う視点から見た時、いつもは使わずに仕舞ってある道具の場合ですと、「蜘蛛の巣かきて」の言葉の意味が「仕舞ってある甑に張った蜘蛛の巣を掻き取って」と意味合いでの「蜘蛛の巣掻きて」と云う読み下しも可能になります。
 ここで、貪窮問答謌を当時の食習慣から甑で蒸かした晴れの日の特別食である強飯を早朝から食べる人は誰なのかと云う視点から考えた時、それは小屋で寝ている人々ではなく、その時、筑前国守である山上憶良であったことが判ります。なお、漢字の「炊」は「爨(かしぐ)」の略字としますと、「煮炊き」での「煮る」だけでなく「蒸す」などの行為も含まれますので、歌の「飯炊」の言葉が、直接、「姫飯を調理する」を意味するものではありません。
 一般には貪窮問答謌でのこの一節から食事もままならない悲惨な農民の生活を想像するようですが、日本人として日本の社会風習や食生活を知る立場からは「竃には 火気吹き立てず 甑には 蜘蛛の巣かきて 飯炊く ことも忘れて」の一節からは、そのような日々の食事を欠く姿を見出すことは出来ません。早朝の場面を切り出したこの一節は「晴れの日の行事で食する強飯を蒸し上げる特別の竈に火も起こさず、それを蒸す甑の蜘蛛巣を取り払って調理することを忘れている」とだけ云っているだけです。
 また、衣類について見ても奈良時代の記録かすると東大寺で写経を行う書記でも貸与された制服は一着のみで、それを洗濯するために書記は三日間の休みを願い出て、許可されています。およそ、当時の衣類の経済価値は現在とは比べ物にならないほど高かったと思われます。貪窮問答謌で農民が着ているものが海草のように破れて垂れ下がっていると詠っていても、それが困窮の極みかと云うと、そうではないでしょう。先の江戸時代の坂本家の例でも、数年に一回は坂本家の当主は村役人を務めますから役務の時には羽織袴に足袋を購入して着用していますが、一方では、日常では古着を継ぎ当てして着ています。従いまして、何がその当時の生活水準であるかを示さなければ、貪窮問答謌での「綿もなき 布肩衣の 海松の如 わわけさがれる 襤褸のみ 肩にうち掛け」の一節が困窮を示すか、どうか、その判断は難しいと思います。言葉の「襤褸(かがふ)」とは一般には「ボロ」と訳されていますが、漢字本来では「使い古しの布」や「継ぎはぎされた、むさくるしい衣服」を意味します。古い歌謡曲にある一節、「襤褸(ボロ)は着てても、心は錦」の「襤褸(ボロ)」とは「継ぎはぎされた、むさくるしい衣服」の意味です。個人の過去ですが、自身、そんなに貧しいとは思いませんでしたが、町の高校入学まではお下がりの継ぎ当てされた服を着ていました。ですから、綿の入った継ぎのない着物を着られないのが困窮かと云うと、全く違うと思います。それは高度成長までの日本の日常の風景と思います。
 こうしますと、貪窮問答謌の歌の世界に困窮状態を見出すことが出来るのかと云うと、それは無理です。確かに、現代人、特に大学の研究室や高級料亭での歌会等に参加する人から眺めれば、継ぎ当て服や雑炊は極貧なのでしょう。ただ一方では、庶民レベルの者にはそれは東京オリンピック以前の日本の平凡な日常風景です。少し悔しいのですが、それを庶民感覚では極貧とは云わないと思います。

 もう少し、別な視線からこの歌を鑑賞したいと思います。
 この貪窮問答謌の長歌と短歌の最後に「山上憶良頓首謹上」とあります。さて、この歌は、いったい、誰に贈呈するために作歌されたのでしょうか。貪窮問答謌の作成年代については「山上憶良頓首謹上」の詞に役職の肩書が無いことから筑前国守の任を解かれ帰京した後の歌と云う考え方と、巻五の編纂での作品順序から天平三年暮れから四年早春頃、大宰府時代の作品ではないかと云う考え方があります。ここで、巻五への掲載順序と「山上憶良頓首謹上」と記し肩書の無い所から、歌が天平四年早春、憶良が筑前国守の任を解かれ帰京する以前の筑前国在任時代の作品としますと、歌の贈り先の候補に観音寺の別当である沙弥満誓(俗名、笠朝臣麻呂)の可能性があります。釋注では歌の贈り先に丹比広成を想定していますが、題名や内容から相手は仏教僧侶ではないかと考えます。そこでの旅人と共に交流のあった沙弥満誓です。
 この歌を贈った相手が仏教僧侶とし、仏教的観点から歌を詠ったとしますと、歌の題名である「貪窮問答」の読みが重要な要点となります。その読みが「貧に窮する」の「ヒンキュウ」なのか、または「貪(むさぼ)り窮(つく)す」の「ドングウ」なのかで、意味合いは大きく変わってきます。もし、その読みが「ヒンキュウ」なら社会的観点ですし、「ドングウ」ですと仏教的観点です。一般には「貪窮」の言葉は「ヒンキュウ」と読み、農民の暮らしの困窮状態を詠うものと解釈します。ただし、西本願寺本万葉集の「貪窮問答」の「貪」の字は、一般の解釈とは違い、その原文の字は「貧(ヒン)」ではなく「貪(ドン)」です。
 一方、もし、「ドングウ」と読みますと、仏法の八大辛苦の一つである「求不得苦(グフトクク)」での「貪窮(ドングウ)」と云う煩悩問答になります。そして、この歌を詠った時点で憶良が精神的に在家信者であったとしますと、本来、仏教的立場では仏門の人物は僧侶や特定の仏教信者のためだけに特別に調理された食事は食べてはいけないことになりますし、求めてもいけません。戒律上、特定の人の為に特に調理された食事を摂ることは「盗」に当たるそうですし、その特別の食事を摂りたい願う心は「求不得苦」の煩悩に当たるそうです。
 こうした理解で「竃には 火気吹き立てず 甑には 蜘蛛の巣かきて 飯炊く ことも忘れて」の一節に戻りますと、この時、憶良は寒い早朝に里長が農民たちを駆り立てて甑で特別な朝食を作る騒動を暖かい寝床で聞いていることになります。憶良が筑前国守であれば国守に奉仕する人々の働きは当然の責務ですし、憶良にはそれを行わす義務があります。ただし、在家信者である憶良とすると、戒律上、それら人々の働きは悩ましい問題です。
 当時、国は筑前の農民たちを駆り立て仏教布教のために大宰府に観音寺を建立中でした。本来、仏教の精神ですと寺院は喜捨や知識(又は、智識)により建立されるべきものですが、当時、国家権力で建立されて行きました。仏教僧侶は、戒律上、乞食(こつじき)で食を得、喜捨で住居と衣類を得るものとされ、僧侶のために特別に誂えたものを受け取ることは出来ません。つまり、民が襤褸を着ていれば、僧侶はそれ以下でなければなりません。それが、憶良たちが生きていた時代の戒律を重んじる根本仏教の姿です。
 ところが天平時代以降、本来あるべき姿の仏教から大きく転換して、国家官僚の一員として人民を支配するようになります。僧侶が国家官僚の一員であるがゆえに食事や衣装の豪奢さ、また建立される寺院の大きさで、その権力の大きさを示すようになります。奈良時代末期から平安時代初期に作成された日本国現報善悪異記から推測して、この時点で、既に僧侶である筆者の景戒の僧侶一般に対する理解は民衆よりも上にある特権階級となっています。一例として、中巻第一章の説話に布施の食事の順番を待つ者どもを押しのけて食事を貰おうとした僧侶を無礼として懲罰した長屋王は、衆集の立場のくせに僧侶を懲罰したとして天罰が下って天平元年二月に聖武天皇によって成敗されたと記しています。ただ、根本仏教での僧侶が食を求めるのは乞食が本来であるという戒律からは、景戒のする解釈は増長であり、破戒です。ですが、それが日本仏教なのでしょう。まず、仏教の解釈の立場が、大きく違うことの認識が必要です。
 奈良時代初期、最新の仏教経典は憶良たち、遣唐使の一行が日本に招来し、それを自在に読み理解したのもまた、憶良や満誓たち、学問でのエリート集団の人々です。旅人、憶良や満誓たちが、経典から正しく根本仏教の精神を読み解き、それを生活に実践をする時、所謂、国により潅頂された国僧たちが高級官僚として人民から財物を召し上げ、身を飾り、美食を求めているのとの対比は不思議な世界だと思います。その時、憶良や満誓たちはこの世の有り様やそのような制度が「辛く、気恥かしい」と感じたかもしれません。
 なお、明治時代まで天皇の葬送の儀礼では詠われていたように倭健命は死んで白い千鳥となって飛んで逝きました。このように古典世界では鳥の旅立ちに死者の魂の旅立ちを重ね合わせる場合があったようです。

集歌893 世間乎 宇之等夜佐之等 於母倍杼 飛立可祢都 鳥尓之安良祢婆
訓読 世間(よのなか)を憂(う)しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
私訳 この世の中を辛いことや気恥ずかしいことばかりと思っていても、この世から飛び去ることが出来ない。私はまだ死者の魂と云う千鳥のような鳥ではないので。


 感想文が自説の紹介になったようです。実に恥ずかしいことです。
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今日のみそひと歌 金曜日

2013年03月29日 | 万葉 みそひと謌
今日のみそひと歌 金曜日

集歌3735 於毛波受母 麻許等安里衣牟也 左奴流欲能 伊米尓毛伊母我 美延射良奈久尓
訓読 思はずもまことあり得(え)むやさ寝(ぬ)る夜の夢(いめ)にも妹が見えざらなくに
私訳 思いがけずにこのようなことが起こるのでしょうか、寝る夜の夢にも万葉集のことが出てこないことはないのに。

集歌3736 等保久安礼婆 一日一夜毛 於母波受弖 安流良牟母能等 於毛保之賣須奈
訓読 遠くあれば一日(ひとひ)一夜(ひとよ)も思はずてあるらむものと思ほしめすな
私訳 都の続万葉集の編纂から遠く離れているので、私が続万葉集のことを一日一夜もずっと想っていないだろうと想わないでください。

集歌3737 比等余里波 伊毛曽母安之伎 故非毛奈久 安良末思毛能乎 於毛波之米都追
訓読 他人(ひと)よりは妹ぞも悪(あ)しき恋もなくあらましものを思はしめつつ
私訳 他の人より続万葉集が憎い、「続万葉集への恋慕が無いならば気が休まるのに」と私に思わせ続けています。

集歌3738 於毛比都追 奴礼婆可毛等奈 奴婆多麻能 比等欲毛意知受 伊米尓之見由流
訓読 思ひつつ寝(ぬ)ればかもとなぬばたまの一夜(ひとよ)もおちず夢にし見ゆる
私訳 続万葉集を恋しく思って寝ると、漆黒の一夜が一日も欠けることがないようにその続万葉集が夢の中に出てきます。

集歌3739 可久婆可里 古非牟等可祢弖 之良末世婆 伊毛乎婆美受曽 安流倍久安里家留
訓読 かくばかり恋ひむとかねて知らませば妹をば見ずぞあるべくありける
私訳 このように恋しいと最初から判っていたならば、万葉集だけは見ずにいるべきでした。
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今日のみそひと歌 木曜日

2013年03月28日 | 万葉 みそひと謌
今日のみそひと歌 木曜日

集歌2813 吾背子之 袖反夜之 夢有之 真毛君尓 如相有
訓読 吾(あ)が背子(せこ)し袖返す夜し夢(いめ)ならしまことも君に逢ひたるごとし
私訳 私の愛しい貴方が白い栲の夜着の袖を折り返した夜の夢なのでしょう。まるで、夢の貴方は、実際にお逢いしたようでした。

集歌2814 吾戀者 名草目金津 真氣長 夢不所見而 羊之經去礼者
訓読 吾(わ)が恋は慰めかねつま日(け)長く夢(いめ)し見えずに遥けし経(へ)ぬれば
私訳 私の恋心は慰めることができません。本当に日々長く貴女が夢に見えなくて、遥かに時が経ってしまうと。

集歌2815 真氣永 夢毛不所見 雖絶 吾之片戀者 止時毛不有
訓読 ま日(け)長く夢(いめ)しも見えず絶えぬとも吾(あ)し片恋は止(や)む時もあらじ
私訳 本当に日々長く夢にも見えず、例え、二人の仲が絶えたとしても、私の片思いは止むことがありません。

集歌2816 浦觸而 物莫念 天雲之 絶多不心 吾念莫國
訓読 うらぶれに物な思ひそ天雲したゆたふ心吾(あ)が思はなくに
私訳 心しなだれて物思いをしないでください。大空の雲のような、うわつき漂う気持ちを私は貴方には思ってもいません。

集歌2817 浦觸而 物者不念 水無瀬川 有而毛水者 逝云物乎
訓読 うらぶれに物は思はじ水無瀬(みなせ)川(かは)ありにも水は逝(ゆ)くといふものを
私訳 心しなだれて物思いをしません。水が無いと云う水無瀬川があっても、その川の水は流れて行くと云うではないでしょうか。

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今日のみそひと歌 水曜日

2013年03月27日 | 万葉 みそひと謌
今日のみそひと歌 水曜日


集歌1963 如是許 雨之零尓 霍公鳥 宇之花山尓 猶香将鳴
訓読 かくばかり雨し降らくに霍公鳥(ほととぎす)卯し花山になほか鳴くらむ
私訳 (人の訪れを邪魔する)これほどに雨が降っているのに、ホトトギスが卯の花(有の花)の咲く山のあたりで、さらに(「カツコヒ、カツコヒ」と貴方を恋しく)鳴いているでしょう。

集歌1964 黙然毛将有 時母鳴奈武 日晩乃 物念時尓 鳴管本名
訓読 黙然(もだ)もあらむ時も鳴かなむ晩蝉(ひぐらし)の物思ふ時に鳴きつつもとな
私訳 苦情を云わずにすむときには鳴いてほしい。晩蝉が物思いに耽るとき鳴き続けて心がせわしない。

集歌1965 思子之 衣将摺尓 々保比与 嶋之榛原 秋不立友
訓読 思ふ子し衣(ころも)摺(す)らむににほひこそ島し榛原(はりはら)秋立たずとも
私訳 想いを寄せる貴方の衣を摺り染めするから、色鮮やかに染まってほしい。島の榛原の木々に秋がまだやって来なくても。

集歌1966 風散 花橘叨 袖受而 為君御跡 思鶴鴨
訓読 風し散る花橘と袖し受けに君し御跡(みあと)と思(しの)ひつるかも
私訳 風に散る花橘の花びらなのだと、それを袖に受け止めるので、貴方のことをと私は思い浮かべるでしょう。

集歌1967 香細寸 花橘乎 玉貫 将送妹者 三礼而毛有香
訓読 かぐはしき花橘を玉貫(ぬ)きし送(おく)らむ妹はみつれにもあるか
私訳 芳しい花橘の花びらを薬玉に貫いて贈ってくれるはずの愛しい貴女は、病気なのでしょうか。(今年は贈ってきません)

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