竹取翁と万葉集のお勉強

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「船を榜ぐ」について考える

2009年12月11日 | 万葉集 雑記
「船を榜ぐ」について考える

「船を榜ぐ」について考えてみたいと思います。漢字で「榜」を真面目に考えたとき、普段に目にする万葉集の歌の解釈が正しいか、非常に不安になります。ご存じのように普段の万葉集では、歌での漢字は万葉仮名であるとして「音」を表す記号の意味合いが強く、万葉人が選んで使った漢字の意味を重要視しません。江戸時代からの「奈良時代に使われた漢字をどのように発音したか」が重要な主眼になっています。例えば、漢字では異なる言、事、辞は、万葉仮名発音の「こと」であり、現代日本語では「言」と記します。同じように榜、滂、掉、水手は、「こぐ」であり「漕ぐ」と記します。万葉仮名でしか万葉の歌を読まない現代の万葉学者にとっては興味が薄いことですが、漢字では異なる言、事、辞は、漢字では意味が違うように万葉集の歌の中では、それぞれ意味合いが違います。では、榜、滂、掉、水手の漢字については、どうでしょうか。
さて、人麻呂の草壁皇子の挽歌のなかに、次のような一節があります。

原文 四方之人乃大船之思憑而
訓読 四方の人の大船の思ひ憑みて

また、人麻呂の泣血哀慟作歌にも、次のような一節があります。

原文 後毛将相等大船之思憑而
訓読 後も逢はむと大船の思ひ憑みて

人麻呂がこのような表現を使うためには、人麻呂時代の大船は人々の信頼が厚く、頼りがいのあるものでなくてはいけません。ここには、平安期の遣唐使船のように難破・破船が多発し、大使や副使が恐れて乗船拒否するような感覚ではありません。
では、人麻呂が思う大船とは、どんな船だったのでしょうか。それを調べてみますと、万葉集にヒントがありました。それは次の歌です。

集歌58 何所尓可 船泊為良武 安礼乃埼 榜多味行之 棚無小舟
訓読 何処(いづく)にか船(ふね)泊(は)てすらむ安礼(あれ)の崎漕ぎ廻(た)み行きし棚無し小舟(をふね)
私訳 どこの湊に船を泊めているのだろうか。安礼のを漕ぎ廻って行った棚もない小舟は。
右一首高市連黒人

この集歌58の歌の「棚無し小舟」の歌詞が、当時の大船がどんな構造であったかを示しています。この歌の歌詞からは大船は棚を持っていたことが判ります。ここから、もし、飛鳥時代と江戸時代とで造船用語に大きな変化が無いとしますと、大船は根棚(底板)や中棚(側板)を組み合わせた中国のジャンク船構造を持っていたことが推定できます。逆に「棚無し小舟」とは、丸木舟であったことになります。
説明:棚とは、「板そのもの、平らな板、平ら」を意味する

さらに、この大船は、およそ帆走したであろうことが、万葉集の歌から推定できます。

集歌1182 海人小船 帆毳張流登 見左右荷 鞆之浦廻二 浪立有所見
訓読 海人(あま)小船(をふね)帆(ほ)かも張れると見るまでに鞆の浦廻(うらみ)に浪立てり見ゆ
私訳 漁師の小船が帆を張っているのかと見ている間に、鞆の浦の岬に浪を立てて小船が走り去るのが見える。

集歌42 潮左為二 五十等兒乃嶋邊 榜船荷 妹乗良六鹿 荒嶋廻乎
訓読 潮騒(しほさゐ)に伊良虞(いらこ)の島辺(しまへ)漕ぐ船に妹乗るらむか荒き島廻(しまみ)を
私訳 潮騒の伊良虞の海岸線に沿って漕ぐ行く船に貴女は乗っているのでしょうか。浪の荒い島の海岸を。

まず、集歌1182の歌の歌詞にフェルトのような丈夫な帆を張る意味を示す「帆毳張流登(帆かも張れると)」とありますから、漁師の乗る小船でも帆走を行っています。ここから類推して、大船も、まず、帆走したと思います。それを補強すると思われるのが、集歌42の歌での「榜船荷(漕ぐ船に)」の「榜」の漢字です。
この「榜」の漢字は、古代中国では次のような意味合いがありました。

1.木、木の棒、高札
1.1木の棒を立てる  ここから杭、馬場の仕切り
1.2高札から広告、告知 ここから派生して額、表、名簿表
2.船、水夫  ここから呉榜の意味として手持ちの櫂 パドルのような櫂
3.弓弩などの弦の巻上げ用具
4.土地を掘削する棒、棒状の鋤

現在では、「榜」の漢字の意味合いは、1.2の高札、広告や名簿表の意味が強くなっているようです。一方、万葉集の船に関する「榜」の漢字は、2.船、水夫から、「船を漕ぐ」の意味を取っていると思われます。この「漕ぐ」の意味は「自転車のペダルを漕ぐ」、「ボートを漕ぐ」や「手押しポンプを漕ぐ」などからして、「道具を操って動かす」を意味します。つまり、船を漕ぐとは道具を使って船を前に進ませる動作を示しますから、その「道具」とは古代では何を意味したのでしょうか。櫂でしょうか、艪でしょうか、それとも帆でしょうか。
 私は独断と偏見で万葉集での「榜」の漢字の意味合いを、3.弓弩などの弦の巻上げ用具の意味合いもあると理解しています。もし、「榜」にロクロのような回転器具を使って弦や綱を巻き上げる動作の意味があるとしますと、これは船の横帆の桁木を綱で引き上げて展帆する行為を表すことになります。つまり、帆走です。自分で呆れ返るような、ずいぶんな強引さです。なお、万葉集では、おおむね「大船は榜ぐ」ことになっていますし、梶棹の舟は「己具」や「許藝」の用字で「こぐ」で表現するようです。
さて、日本で古代ローマのガレー船のように船舷から長い柄の櫂を出して船を漕ぐようなことがあったのでしょうか。大船は、当然、船舷が海面から高い位置にありますから、長い柄の櫂やオールでなくてはいけません。ペイロン船のようなパドルや手櫂ではありません。一方、艪ですと、大船には船舷から張り出した複数の艪座が必要ですが、そんな遣唐使船の姿を記した絵をまだ見たことはありません。さらに、遣唐使船の定員と職務から、ガレー船のような大量なオール手は乗船してはいなかったようですし、乗船した学僧や訳語が航海中にオール手として扱われた例はないようです。
さらに、出港前の準備作業を、次の歌から推測することが出来ます。

石上大夫謌一首
集歌368 大船二 真梶繁貫 大王之 御命恐 礒廻為鴨
訓読 大船に真梶(まかぢ)繁(しじ)貫(ぬ)き大王(おほきみ)の御命(みこと)恐(かしこ)み磯廻(いそみ)するかも
私訳 大船に立派な梶を貫き降ろして、大王のご命令を恭みて浪の恐ろしい磯の周りを航海することです。

 集歌368の歌の歌詞に「真梶繁貫」とありますから、出港前に大きな梶を艫の戸立(とだて)部に差し込んでいたと思われます。ここまでは、万葉集の歌から想像は出来るのですが、マストの本数、野狐帆(または弥帆)の有無については分かりませんでした。こうしますと、とぼけた人間が万葉集の歌から想像する大船とは、

1. ジャンク船のように板を組み合わせた構造をしている
2. もっぱら帆走を行なう
3. 梶は差し込み式になっていて、帆走時に差し込む

こんなイメージの船になります。
ここでは、あくまでも飛鳥時代から江戸時代にかけて、日本での基本的な木造大型船の造船用語(用語の種は弁才船の用語です)に変化がないことを前提に、古代の大船を想像しました。

さらに、日本書紀の天智天皇紀に載る次の記事を参考にしますと、単純計算で彼らが乗っていた大船は定員40人程度の大きさになります。この大きさは、平安時代の外航航路に就いていた新羅船(船長八丈=24m)に相当するような大きさです。これですと、人麻呂時代の人々が「大船の思ひ憑みて」としても肯けると思います。

原文 唐国使人郭務淙等六百人、送使沙宅孫登等一千四百人、總合二千人、乘船四十七隻
訓読 唐国の使人(つかひ)郭務淙等六百人、送使(おくるつかひ)沙宅孫登等一千四百人、總合(す)べて二千人、船四十七隻に乘りて

この世界から、逆に万葉集の世界を覗き返してみますと、万葉集の中に「大船を榜ぐ」と詠う歌は、少なくとも二十首程度は見つけることが出来ます。当時において、大船の帆を揚げての航行を見ることは日常的風景では有りませんが、特殊な風景でもない、そんな感覚が想像出来るでしょう。額田王、人麻呂、旅人、坂上郎女達の海の歌の背景には、この風景があったとしますと、さて、皆さんが思っている万葉集時代の交通機関への想像と一致するでしょうか。丸木船や粗末な小船ではありません。現在の遠洋マグロ船に等しい大きさです。参考に、電車一両の長さが20mです。
続日本紀によると、このような大船を天平宝字三年に三年以内に五百隻ものの船を建造することの詔を下していますし、次に示す万葉集の歌から想像すると琵琶湖でも大船が周航していたようです。さらに、三重県志摩と愛知県知多半島を結ぶ連絡航路もあったと思われます。また、東大寺の大仏建立時には、少なくとも600トン以上の銅地金が奈良に集められていて、その多くが山口県秋吉台付近の鉱山の生産物と推定されています。ここからは、平城京時代には東海道から瀬戸内海を抜けて九州に至る大量の物資を運ぶ海上交通網が確立されていたことが類推されます。

船関係する歌
集歌151 如是有乃 豫知勢婆 大御船 泊之登萬里人 標結麻思乎
訓読 かからくの豫(かね)て知りせば大御船(おほみふね)泊(は)てし泊(とま)りに標(しめ)結(ゆ)はましを
私訳 このようなことがあらかじめ知っていたのなら大御船が泊まっている湊に標を結って出港しないように留めましたのに。

集歌42 潮左為二 五十等兒乃嶋邊 榜船荷 妹乗良六鹿 荒嶋廻乎
訓読 潮騒に伊良虞の島辺漕ぐ船に妹乗るらむか荒き島廻を

ご承知のように、万葉集の標準的な解釈では、集歌58の歌の「棚無小舟」の歌詞が示す「棚」とは船縁の板か、丸木舟の内部の胴を補強する横板を想像することになっています。また、「榜」の漢字の意味は「櫂や櫓を漕ぐ」と理解することになっています。そのため、万葉集の歌に載る大船でも、平安後期から現代までの歌人たちには京嵐山や秩父長瀞の観光遊覧船程度の感覚となっています。
さて、その観光遊覧船程度の感覚で日並皇子尊の葬送儀礼で柿本朝臣人麻呂が

原文 四方之人乃大船之思憑而
訓読 四方の人の大船の思ひ憑みて

と詠えるかは、和歌を楽しむ歌人たちの感性に拠ります。

ここで、工業技術の面から見てみますと、木材加工の歴史からは、室町時代以前の日本には材木を縦に切るような鋸は無かったようです。このために、平らな板は、まず、丸太を斧で角材に加工し、それを割り板法という木口に板目に合わせて楔を打ち込んで角材を縦に割っていく方法で製材されていました。もし、節や板目が悪いと平らな板が取れないことになります。したがって、古代では製品の歩留まりの上からも板は貴重な物資だったのです。また、板と板との接合は手斧・槍鉋等で丁寧に磨り合わせた後に、木釘で留めたのではないかと想像されています。板は割り板ですから、比較的に厚板でしょうから接合面は斜めに磨り合わさっていたと想像しています。手斧・槍鉋等での板の加工ですが、それでいて高度な水密性が要求されるのですから、船大工は当時、最高峰の木材加工の技術者だったと思います。
このように古代において木材の加工技術からして板が高価であり入手の難しいものとしますと、官の財政支援がないと大船の建造は困難でしょう。また、大量の物資の移動が無いと木造の大船は無用の長物です。平城京時代には東大寺の大仏の存在から千トンを越える銅の生産や運搬が確認できますし防人の東国からの九州への移動がありましたが、平安期以降から戦国時代初期までは産業としての国内の鉱山業や製鉄・製銅業は衰えていますし、大量な人の移動も少なかったようです。平安期以降は中央の指導力が薄れ、各地方での自給自足の風であったのではないでしょうか。さらに時代を眺めると、中国での和銅銀貨などの発掘の成果から平城京時代は日本から唐に銅や銀の貨幣や地金を輸出していたことが推定されますが、室町時代には大量の銅銭を輸入するようになっています。室町時代の貨幣経済の発展に伴う銅貨の輸入は、日本国内の鉱山資源の枯渇に理由を求める人もいますが、そうではありません。実際の理由は、平安時代に藤原貴族の頽廃・略奪により世の中の技術者と社会資本が枯渇したのです。平城京時代の鉱工業の興隆により世界の財宝や知識が正倉院に集まる時代から、平安時代の米と魚中心の自給自足の生活への没落です。
この時代背景があるためでしょうか、万葉集の世界では海外交流・航海、海辺の風景や狩猟は一定のテーマですが、稲作自体は重要なテーマではありません。日本人は稲作中心とする国民であるとする規定からは、実に不思議です。この世界の財宝や知識が正倉院に集まる世界から米と魚中心の自給自足の生活への頽廃・没落を、華麗・優美なる平安王朝文化の時代と私たちは称します。
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中大兄 三山の歌を鑑賞する

2009年12月10日 | 万葉集 雑記
中大兄 三山の歌を鑑賞する

万葉集に中大兄が詠う「三山の歌」と云う長歌と反歌で出来た組歌があります。ただし、古くからこの組歌に対しては組歌であること自体を疑う解釈があり、現在では、この組歌の解釈は、組歌ではないことを前提に解釈されています。
さて、長歌となる集歌13の中大兄の詠う「三山の歌」に対して、万葉集の標に従って集歌14と15の歌が反歌であると素直に解釈しますと、これらの三首は舒明天皇の香具山での国見を詠う集歌2の御製歌を参照していると解釈しますと、私にはこれらの組歌の理解が容易になります。
一方、元暦校本・類聚古集・紀州本等の解釈のように、標において「中大兄 三山謌一首」と「一首」の二文字を追記して、集歌13の歌と集歌14と15の歌とには関連性を見ないとする立場では、当然、集歌13の三山の歌、集歌2の舒明天皇の御製、標で反歌と題された集歌14と15の歌には、関連性がないことになります。これは、集歌15の左注に記す紀貫之と思われる人物が、集歌15の歌が集歌13の三山の歌の反歌とは思えないとする感想に一致します。穿って、元暦校本等で「中大兄 三山謌一首」と標に「一首」の二文字を追記したのは、集歌15の歌の左注にある感想に依るのではないかとも思えます。

おっちゃんの万葉集での詩の鑑賞は、原則として西本願寺本に載るものを基準に歌を解釈していきますので、標の表記は「中大兄 三山謌」としてそれぞれの長歌・反歌が関連し、また、集歌2の舒明天皇の御製とも関連があるとして見て行きます。

中大兄 三山謌
標訓 中大兄 三山の歌
集歌13 高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉
訓読 香具山は 畝傍(うねび)を雄々(をほ)しと 耳成(みみなし)と 相争ひき 神代より 如(かく)にあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ 現世(うつせみ)も 妻を 争ふらしき
私訳 香具山は畝傍山を男らしい立派な山であると耳成山と相争ったとのことだ。神代よりこのようなことらしい。昔もそのようであったので、現在もそのように妻の座を争っているのだろう。

反謌
集歌14 高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美國波良
訓読 香具山(かぐやま)と耳成山(みみなしやま)と相(あひ)し時立見に来(き)らしいなみ国原(くにはら)
私訳 香具山と耳成山が対面したときに、その様子を立て見にしに来た。この稲穂の美しい大和の平原よ。

集歌15 渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比祢之 今夜乃月夜 清明己曽
訓読 渡津海(わたつみ)の豊旗雲(とよはたくも)に入日(いりひ)みし今夜(こよひ)の月夜(つくよ)清(さや)明(あけ)くこそ
私訳 船を渡すような入江の水面に豊かに棚引く雲に夕陽を見た。今夜の月夜は清らかに明るいだろう。
右一首謌、今案不似反謌也。但、舊本以此謌載於反謌。故今猶載此次。亦紀曰、天豊財重日足姫天皇先四年乙巳立天皇為皇太子。
注訓 右の一首の歌は、今案ふるに反歌に似ず。但、旧本にこの歌を以ちて反歌に載す。故に今なほ此の次に載す。また紀に曰はく「天豊財重日足姫天皇の先の四年乙巳に天皇を立てて皇太子となす」といへり。

参照の舒明天皇の御製の歌を以下に紹介します。

天皇登香具山望國之時御製謌
標訓 天皇の、香具山に登りて望國(くにみ)したまひし時の御製歌
集歌2 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜可國曽 蜻嶋 八間跡能國者
訓読 大和には 群山(むらやま)あれど 取り装(よ)ろふ 天の香具山 騰(のぼ)り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)は 煙立ち立つ 海原(うなはら)は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は
私訳 大和には多くの山々があるが、美しく装う天の香具山に登り立って国見をすると、国の平原には人々の暮らしの煙があちこちに立ち登り、穏やかな海原にはあちこちに鴎が飛び交う。立派な国です。雌雄の蜻蛉が交ふような山波に囲まれた大和の国は。

 万葉集の歌が好きな御方は、およそ、集歌14の歌は播州印南野の風景を詠ったものであり、集歌15の歌は斉明天皇・葛城皇太子の朝鮮出兵の一環である九州への航海での播磨から讃岐への渡海の一風景を詠ったものと解釈されていると思います。つまり、これらの解釈は元暦校本等の解釈に沿ったもので、集歌14や15の歌が集歌13の三山の歌の反歌とはならないとして「中大兄 三山謌一首」との解釈にあるからでしょう。現代の常識的には、大和の香具山からは海原は見えないから、集歌15の歌での「渡津海の豊旗雲に」の風景は大和の国ではないとの断定から、斉明天皇・葛城皇太子の朝鮮出兵での播磨灘の一場面としています。そのために、集歌13の三山の歌と集歌15の歌との間には、関連性が無いことになります。そして、集歌15の歌が播磨灘の歌であるならば、集歌14の歌での「伊奈美國波良」は、「否なみ国原」や「稲美国原」ではなくて、播州の「印南国原」となります。

 ここで、集歌2の舒明天皇の御製歌の世界が、万葉集の歌が詠われた時に大和の人々の間にあるのなら、集歌15の歌での「渡津海の豊旗雲」の風景は香具山や明日香から眺めた大和の風景となり、播磨灘の景色である必要はなくなります。すると、集歌13の三山の歌と集歌15の歌とが明日香から眺めた大和の風景ですと、集歌14の歌もまた大和の風景に成らざるを得ません。つまり、集歌2の舒明天皇の御製歌の世界が存在するならば、長歌の集歌13の三山の歌とその反歌となる集歌14と15の歌とは関連を持ち、集歌2の御製歌の世界と同じ「明日香の大和の風景」を元に詠っていることになります。そこから帰結的に、集歌14の歌は集歌2の舒明天皇の御製歌の国見の国原に対応する稲穂の美しい立見の国原の誉め歌であり、集歌15の歌は海原の誉め歌に近いものになります。集歌2の舒明天皇の御製歌の世界を虚構とみるか、自然風景と見るかで、万葉集巻一全体の解釈は大きく違います。大口になりますが、普段に目にする万葉集の解説は、集歌1の雄略天皇の御製と集歌2の舒明天皇の御製を理解してはいないと判断しています。それで、集歌13の三山の歌も理解不能に陥っているのです。

 さて、日本書紀の天智天皇紀を見てみると次のような記事があります。

天智天皇六年(667)の記事
春二月壬辰朔戊午。合葬天豊財重日足姫天皇与間人皇女於小市岡上陵。是日、以皇孫大田皇女葬於陵前之墓。高麗・百済・新羅、皆奉哀於御路。
訓読 春二月の壬辰の朔戊午。天豊財重日足姫天皇と間人皇女とを小市岡(をちのをかの)上陵(うへのみささぎ)に合せ葬(かく)せり。是の日に、皇孫(みまご)大田皇女を陵(みささぎ)の前の墓に葬す。高麗・百済・新羅、皆御路(おほち)に哀(みね)奉る。

現在の専門家の「白村江の戦い」の評価に対しては、まっとうな社会人の持つ常識的な戦史や戦術からの視線と常識からは、大いに疑問はありますが、この天智天皇六年の記事からは、白村江の戦いが過去となった天智六年の段階では唐領高麗・百済の代表と独立国新羅の代表とが、大和国の明日香で国運を賭けて大和との同盟を結べく、その外交を繰り広げていたことを推測することが出来ます。そして、歴史は唐領高麗・百済に肩入れしていた天智・大友朝が倒れ、朝鮮半島不介入政策を貫いた天武・持統朝の時代に、独立国新羅が朝鮮半島の統一を果たしたことを伝えます。
こうしたとき、集歌13の歌は、朝鮮半島での覇権を賭けて唐の意向を受けた百済とそれに対抗する新羅とが大和の国を取り合っていたとする解釈は出来ないでしょうか。つまり、香具山を百済国、耳成山を新羅国、そして畝傍山を大和国と見立てることは出来ないでしょうか。

集歌13 高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉
訓読 香具山(百済)は 畝傍(うねび)(大和)を雄々(をほ)しと 耳成(みみなし)(新羅)と 相争ひき 神代より 如(かく)にあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ 現世(うつせみ)も 妻(の座)を 争ふらしき
私訳 香具山(百済)は畝傍山のように大和の国を男らしい立派な国であると耳成山(新羅)と相争っている。神代も、このような相手の男性の奪い合いがあったとのことだ。昔もそのようであったので、現在も百済と新羅が、そのように同盟国としての妻の座を争っているのだろう。

集歌14 高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美國波良
訓読 香具山(百済)と耳成山(新羅)と相(あひ)し時立見に来(き)らしいなみ国原(くにはら)
私訳 香具山である百済と耳成山である新羅が対面したときに、その様子を立ちて見に来た。稲穂の美しい大和の平原よ。

そして、翌年の天智天皇七年(668)九月に斉明二年(656)以来となる十二年ぶりの新羅からの朝貢の使節団が大和を訪問しています。天智天皇六年の新羅の使節団と大和朝廷との間で何らかの、協議の合意があったと思われます。もし、そうであるならば、朝鮮半島への渡海と二国間の合意の形成の意味合いを込めて「渡津海の豊旗雲」と詠っても不思議ではないのではないでしょうか。

集歌15 渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比祢之 今夜乃月夜 清明己曽
訓読 渡津海(わたつみ)の豊旗雲(とよはたくも)に入日(いりひ)みし今夜(こよひ)の月夜(つくよ)清(さや)明(あけ)くこそ
私訳 船を渡すような入江の水面に豊かに棚引く雲に夕陽を見た。今夜の月夜は清らかに明るいだろう。
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花鳥の使ひの歌七首

2009年12月08日 | 万葉集 雑記
花鳥の使ひの歌七首

天平宝字二年(758)二月に万葉集後編「宇梅乃波奈」が完成したとしますと、政治情勢からその万葉集の中でそれと判るように橘諸兄とその子の橘奈良麻呂、また丹比一族や大伴一族の関係者を、歌を詠って悼むことは出来ません。擬(なぞら)えて詠うだけです。
狭野弟上娘子への贈答歌五十六首が、擬えて丹比国人への万葉集後編「宇梅乃波奈」の編纂を引き受けた時の編纂の思いとしますと、花鳥の使ひの歌七首はその万葉集後編「宇梅乃波奈」の編纂がなった後に「寄花鳥陳思」と記すように花と鳥に何かを擬えて想いを詠う歌です。その時、擬ふ花は橘の花で、鳥は過去の時代を乞う霍公鳥(ほととぎす)です。
先の「長屋王の変」のときに大伴旅人と藤原房前の擬える相手が長屋王一族や元正上皇であるならば、「橘奈良麻呂の変」のときに花鳥の使ひの歌七首の擬える相手は橘一族と孝謙上皇ではないでしょうか。そして、万葉集です。
そんな想いで歌を私訳しています。私訳は標準的なもので、呆訳は呆れるような特異な訳です。

集歌3779 和我夜度乃 波奈多知婆奈波 伊多都良尓 知利可須具良牟 見流比等奈思尓
訓読 吾(わ)が屋戸の花橘はいたづらに散りか過ぐらむ見る人なしに
私訳 我が家の花橘は空しく散りすぎて逝くのだろうか。見る人もなくて。
呆訳 私が尊敬する万葉集と橘家の人々は空しく散っていくのだろうか、思い出す人もいなくて。

集歌3780 古非之奈婆 古非毛之祢等也 保等登藝須 毛能毛布等伎尓 伎奈吉等余牟流
訓読 恋死なば恋ひも死ねとや霍公鳥物思ふ時に来鳴き響(とよ)むる
私訳 恋が死ぬのなら慕う心も死ねと云うのか、霍公鳥は物思いするときに来鳴きてその鳴き声を響かせる
呆訳 和歌が死ぬのなら和歌を慕う気持ちも死ねと云うのか。過去を乞う霍公鳥は私が和歌を思って物思いにふけるときに、その過ぎ去った過去を求める鳴き声を響かせる。

集歌3781 多婢尓之弖 毛能毛布等吉尓 保等登藝須 毛等奈那難吉曽 安我古非麻左流
訓読 たひにして物思ふ時に霍公鳥もとなな鳴きそ吾(あ)が恋まさる
私訳 たひにして物思いするときに、霍公鳥よ、本なしに鳴くな。私の恋う気持ちがましてくる。
呆訳 多くの歌の牌の万葉集を思って物思いするときに、霍公鳥よ、頼りなくに過去を乞うて鳴くな。私の和歌を慕う気持ちが増してくる。
説明 旅の「たひ」の場合、万葉仮名では主に多比か多妣の用字を使います。それが多婢の用字です。私は「多牌」の字が欲しかったのだと想っています。また、集歌3781と集歌3783との歌の設定は、自宅の風景が目にあります。旅の宿ではありません。それに左注に「寄花鳥陳思」とあるように、娘女への贈答にはなっていません。

集歌3782 安麻其毛理 毛能母布等伎尓 保等登藝須 和我須武佐刀尓 伎奈伎等余母須
訓読 雨隠(あまごも)り物思ふ時に霍公鳥我が住む里に来鳴き響(とよ)もす
私訳 雨で家にこもって物思いするときに、霍公鳥が私の住む里に来鳴きてその鳴き声を響かせる。
呆訳 雨の日に家にこもって物思いするときに、霍公鳥が私の住む里に来鳴きて、その過去の時代を乞う鳴き声を私の心の中に響かせる。

集歌3783 多婢尓之弖 伊毛尓古布礼婆 保登等伎須 和我須武佐刀尓 許欲奈伎和多流
訓読 たひにして妹に恋ふれば霍公鳥我が住む里にこよ鳴き渡る
私訳 たひにあってあの人を恋しく思うと、霍公鳥が私の住む里にやって来て鳴き渡っていく。
呆訳 多くの歌の牌を編纂した万葉集を恋しく思うと、あの人が霍公鳥の姿に身を変えて私の住む里にやって来て過去を乞うて鳴き渡っていく。

集歌3784 許己呂奈伎 登里尓曽安利家流 保登等藝須 毛能毛布等伎尓 奈久倍吉毛能可
訓読 心なき鳥にぞありける霍公鳥物思ふ時に鳴くべきものか
私訳 無常な鳥だよなあ、霍公鳥は。私が物思いするときに鳴くだけだろうか。

集歌3785 保登等藝須 安比太之麻思於家 奈我奈氣婆 安我毛布許己呂 伊多母須敝奈之
訓読 霍公鳥間(あひだ)しまし置け汝(な)が鳴けば吾(あ)が思(も)ふ心いたも術(すべ)なし
私訳 霍公鳥よ、しばらく鳴くのに間を置け。お前が鳴くと私が昔の人々を物思う心はどうしようもなくなってします。
右七首、中臣朝臣宅守寄花鳥陳思作歌
注訓 右の七首は、中臣朝臣宅守の花鳥に寄せ思(おもひ)を陳(の)べて作れる歌

古今和歌集の両序で紀貫之は、この「色好む家」の「寄花鳥陳思作歌」をもって和歌は時代に埋もれて逝ったとしています。歴史では、橘奈良麻呂の変(757)以降も大伴家持は二十年余りも生き続けますが、天平宝字三年(759)正月以降から彼が死ぬ延暦四年(785)まで、その間の家持の詠う和歌は万葉集にも古今和歌集にも取られていません。また、他の大中臣清麿や大原今城たちもまた沈黙を守ります。さて、和歌と竹取の翁が歌い上げた天平勝宝の時代の和歌を愛し、それを詠い挙げる心はどこへ行ったのでしょうか。
史書から、万葉集後編「宇梅乃波奈」の誕生に関わると思われる大原今城の夜叉孫にあたる大原全子が嵯峨天皇の側に入り生まれた子が源の融で、この源融は嵯峨源氏一門の祖です。ここらから、大伴家持に関わる歌集の伝承に対する普段の人の推論の例とは違い、天平宝字以降の和歌の歌々や大中臣清麿や大原今城たちの詠う歌は古今和歌集を編纂した紀貫之たちへ確かに伝わったはずですが、古今和歌集には彼らのその後の歌は一首も採られていません。紀貫之たちにとって、称徳天皇から平城天皇までの和歌は、旧歌でも古今和歌でも、そのいずれでもないのでしょうか。



つまらない粗文にお付き合いいただきありがとうございました。

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中臣宅守の狭野弟上娘子への贈答の歌  後編

2009年12月06日 | 万葉集 雑記
中臣宅守の狭野弟上娘子への贈答の歌 後編


集歌3745 伊能知安良婆 安布許登母安良牟 和我由恵尓 波太奈於毛比曽 伊能知多尓敝波
訓読 命(いのち)あらば逢ふこともあらむ吾(あ)がゆゑにはだな思ひそ命だに経(へ)ば
私訳 生きていれば、また(万葉集と)見ることもあるでしょう。私の万葉集の編纂の状況のためにそんなにひどく思い込めないで、貴方の命さへ永らえれば。

集歌3746 比等能宇々流 田者宇恵麻佐受 伊麻佐良尓 久尓和可礼之弖 安礼波伊可尓勢武
訓読 人の植(う)うる田は植ゑまさず今さらに国別れして吾(あ)れはいかにせむ
私訳 いつもなら貴方が植える田は今は誰も田植えをされないように、貴方が編纂すべき万葉集を編纂する人もいなくて、今は他国と住む場所を別れて、私はどうしたらよいのでしょう。

集歌3747 和我屋度能 麻都能葉見都々 安礼麻多無 波夜可反里麻世 古非之奈奴刀尓
訓読 吾(あ)が宿の松の葉見つつ吾(あ)れ待たむ早帰りませ恋ひ死なぬとに
私訳 私の家の変わることのない松の葉を見ながら私は貴方を待ちましょう、早くお帰り下さい、貴方が万葉集に恋して恋死をしないうちに。

集歌3748 比等久尓波 須美安之等曽伊布 須牟也氣久 波也可反里万世 古非之奈奴刀尓
訓読 他国(ひとくに)は住み悪(あ)しとぞ言ふ速(すむや)けく早帰りませ恋ひ死なぬとに
私訳 地方の他の国は住みにくいと云います、早くお帰り下さい、貴方が万葉集に恋して恋死をしないうちに。

集歌3749 比等久尓々 伎美乎伊麻勢弖 伊都麻弖可 安我故非乎良牟 等伎乃之良奈久
訓読 他国(ひとくに)に君をいませていつまでか吾(あ)が恋ひ居らむ時の知らなく
私訳 地方の他の国に貴方を住まわせて、いつまででしょうか、私は貴方を慕っています。再び会える時は判りませんが。

集歌3750 安米都知乃 曽許比能宇良尓 安我其等久 伎美尓故布良牟 比等波左祢安良自
訓読 天地の底(そこ)ひのうらに吾(あ)がごとく君に恋ふらむ人は実(さね)あらじ
私訳 天地の底のその裏まで、そんな果てしない世界中に私のように貴方を尊敬して慕っている人はけっしていません。

集歌3751 之呂多倍能 安我之多其呂母 宇思奈波受 毛弖礼和我世故 多太尓安布麻弖尓
訓読 白栲の吾(あ)が下衣(したころも)失はず持てれ吾(わ)が背子直(ただ)に逢ふまでに
私訳 白栲の私の万葉集の草稿を失わないで持っていて下さい、私の尊敬する貴方、直接にお逢いするまで。

集歌3752 波流乃日能 宇良我奈之伎尓 於久礼為弖 君尓古非都々 宇都之家米也母
訓読 春の日のうら悲しきに後れ居(ゐ)て君に恋ひつつうつしけめやも
私訳 春の日の物悲しさに気持ちが沈んでいると、貴方を恋しく思って生きている実感がありません

集歌3753 安波牟日能 可多美尓世与等 多和也女能 於毛比美太礼弖 奴敝流許呂母曽
訓読 逢はむ日の形見にせよと手弱女(たおやめ)の思ひ乱(みだ)れて縫へる衣(ころも)ぞ
私訳 貴方に再び逢う日までの形見にして下さいと、力不足の私が思い乱れて編纂した万葉集の草稿です。
右九首、娘子
注訓 右は九首、娘子
私訳 右の九首は、娘子への贈答歌

集歌3754 過所奈之尓 世伎等婢古由流 保等登藝須 多我子尓毛 夜麻受可欲波牟
訓読 過所(くわそ)なしに堰飛び越ゆる霍公鳥(ほととぎす)髣髴(おほ)しが子にも止まず通はむ
私訳 遣り過ごすことなく、身分や場所を越えての弓削皇子と額田王との吉野の相聞歌や人麻呂の吉備津采女死時の歌にも、そんな万葉集に絶えることなく心を通わせます。
参考 飛び越ゆる霍公鳥 集歌111 弓削皇子と額田王との吉野の相聞歌
髣髴しが子 集歌217 人麻呂の吉備津采女死時の歌

集歌3755 宇流波之等 安我毛布伊毛乎 山川乎 奈可尓敝奈里弖 夜須家久毛奈之
訓読 愛(うるは)しと吾(あ)が思ふ妹を山川を中(なか)に隔(へな)りて安けくもなし
私訳 愛しいと私が思う貴方(万葉集)を山や川を間に挟んで京から遠く隔たっていると、気が休まりません。

集歌3756 牟可比為弖 一日毛於知受 見之可杼母 伊等波奴伊毛乎 都奇和多流麻弖
訓読 向ひ居て一日(ひとひ)もおちず見しかども厭(いと)はぬ妹を月わたるまで
私訳 向かい合って一日も欠かさずに見ていても厭になることがない貴方(万葉集)を、幾月も渡ってしまうまで見ることが出来なくなって。

集歌3757 安我未許曽 世伎夜麻故要弖 許己尓安良米 許己呂波伊毛尓 与里尓之母能乎
訓読 吾(あ)が身こそ関山越えてここにあらめ心は妹に寄りにしものを
私訳 私の体だけは貴方(万葉集)から離れて関所や山を越えてここにあるが、私の気持ちは貴方(万葉集)に寄り添っているのだけど。

集歌3758 佐須太氣能 大宮人者 伊麻毛可母 比等奈夫理能未 許能美多流良武
訓読 さす竹(たき)の大宮人は今もかも人なふりのみ好みたるらむ
私訳 力強く成長する竹のように発展する京の高貴な人達は、今でも漢詩や仏典の流行だけを好んでいるのでしょうか。

集歌3759 多知可敝里 奈氣杼毛安礼波 之流思奈美 於毛比和夫礼弖 奴流欲之曽於保伎
訓読 たちかへり泣けども吾(あ)れは験(しるし)なみ思ひわぶれて寝(ぬ)る夜しぞ多き
私訳 繰り返し泣いているけど私には貴方(万葉集)を見ることの出来る実感がなくて、思い悲しんで寝る夜が多いことです。

集歌3760 左奴流欲波 於保久安礼杼母 毛能毛波受 夜須久奴流欲波 佐祢奈伎母能乎
訓読 さ寝(ぬ)る夜は多くあれども物(もの)思(も)はず安く寝(ぬ)る夜は実(さね)なきものを
私訳 寝る夜は幾夜もありますが、物思いをせずに気持ちよく寝る夜はまったくありません。

集歌3761 与能奈可能 都年能己等和利 可久左麻尓 奈里伎尓家良之 須恵之多祢可良
訓読 世の中の常(つね)の道理(ことわり)かくさまになり来(き)にけらし据(すゑ)し多(ま)ねから
私訳 世の中の普通の人の感情の自然な道理は、このような姿になってくるらしい。貴方(万葉集)に心を預ける回数が多くなったから。

集歌3762 和伎毛故尓 安布左可山乎 故要弖伎弖 奈伎都々乎礼杼 安布余思毛奈之
訓読 吾妹子に逢(あ)ふ坂山(さかやま)を越えて来て泣きつつ居れど逢ふよしもなし
私訳 愛しい人に逢うと云うその会う坂や山を越えて来て、ここで寂しく泣き暮らしているが、貴方(万葉集)を見る手段がありません。

集歌3763 多婢等伊倍婆 許登尓曽夜須伎 須敝毛奈久 々流思伎多婢毛 許等尓麻左米也母
訓読 旅と云へば事にぞやすき術(すべ)もなく苦しき旅も事にまさめやも
私訳 今のここでの生活は旅のようなものと云へば物事は簡単ですが、抗うことの出来ない苦しい流刑での生活も万葉集を見ることが出来ないこの苦しみに勝るでしょうか。

集歌3764 山川乎 奈可尓敝奈里弖 等保久登母 許己呂乎知可久 於毛保世和伎母
訓読 山川を中(なか)にへなりて遠くとも心を近く思ほせ吾妹(わぎも)
私訳 山や川を間に挟んで隔たって京から遠くにいますが、私の気持ちは近くにあると想ってください、私の尊敬する貴方(万葉集)。

集歌3765 麻蘇可我美 可氣弖之奴敝等 麻都里太須 可多美乃母能乎 比等尓之賣須奈
訓読 真澄鏡(まそかがみ)懸(か)けて偲(しぬ)へと奉(まつ)り出す形見のものを人に示(しめ)すな
私訳 祈願すると見たいものを見せると云う、その真澄鏡に「懸けて偲んで下さい」と贈呈する形見のもの(和歌)を他の人に見せないで下さい。

集歌3766 宇流波之等 於毛比之於毛波婆 之多婢毛尓 由比都氣毛知弖 夜麻受之努波世
訓読 愛(うるは)しと思ひし思はば下紐に結ひつけ持ちてやまず偲(しの)はせ
私訳 「和歌が愛しいと思う」と思ったならば、贈る形見のもの(和歌)を下紐で結び付けて常に身に付けるように絶えることなく思い出してください。
右十三首、中臣朝臣宅守
注訓 右は十三首、中臣朝臣宅守
私訳 右の十三首は、中臣朝臣宅守への贈答歌

集歌3767 多麻之比波 安之多由布敝尓 多麻布礼杼 安我牟祢伊多之 古非能之氣吉尓
訓読 魂(たましひ)は朝夕(あしたゆふへ)に給(たま)わるふれど吾(あ)が胸痛(いた)し恋の繁(しき)きに
私訳 貴方の万葉集の編纂の精神を朝に夕べに心を通わせて頂いていますが、私の気持ちは心痛いのです、貴方を慕う気持ちが激しくて。

集歌3768 己能許呂波 君乎於毛布等 須敝毛奈伎 古非能未之都々 祢能未之曽奈久
訓読 このころは君を思ふと術(すべ)もなき恋のみしつつ哭(ね)のみしぞ泣く
私訳 近頃は貴方のことを思うと、どうしようもありません。尊敬の念を持って万葉集の編纂の難しさを怨みながら泣いています。

集歌3769 奴婆多麻乃 欲流見之君乎 安久流安之多 安波受麻尓之弖 伊麻曽久夜思吉
訓読 ぬばたまの夜(よる)見し君を明くる朝(あした)逢はずまにして今ぞ悔しき
私訳 暗闇の夜の夢に見る貴方を、夜が明ける日中は遠く離れて住んでいるためにお目にかかれないままにして、今はそれが残念です。

集歌3770 安治麻野尓 屋杼礼流君我 可反里許武 等伎能牟可倍乎 伊都等可麻多武
訓読 あぢ真野に宿れる君が帰り来む時の迎へをいつとか待たむ
私訳 配流地のあぢの群れが鳴き騒ぐ原野に宿泊されている貴方が帰ってくる時のお迎えは何時かと待っています。
注意 普段の解説は「安治麻野」を味真野と訓読みして越前市味真野を示しますが、万葉集では「あぢ」はアジ鴨を指します。私は「あぢ真野」を一般名称としてアジ鴨の棲む原野としています。

集歌3771 宮人能 夜須伊毛祢受弖 家布々々等 麻都良武毛能乎 美要奴君可聞
訓読 宮人の安寝(やすい)も寝(ね)ずて今日(けふ)今日と待つらむものを見えぬ君かも
私訳 私は宮人たちがぐっすり寝る夜も安眠できずに、貴方が帰ってくるのは今日か今日かと待っているのに、お見えにならない貴方です。

集歌3772 可敝里家流 比等伎多礼里等 伊比之可婆 保等保登之尓吉 君香登於毛比弖
訓読 帰りける人(ひと)来(き)たれりと言ひしかばほとほと死にき君かと思ひて
私訳 帰って来る人が来たと云ったので、ほとんど死にそうになりました。貴方かと思って。

集歌3773 君我牟多 由可麻之毛能乎 於奈自許等 於久礼弖乎礼杼 与伎許等毛奈之
訓読 君が共(むた)行かましものを同じこと後(おく)れて居(を)れど良(よ)きこともなし
私訳 貴方と一緒に行けばよかったものを、居残っていても同じこと、ここに残っていても良いことはなにもありません。

集歌3774 和我世故我 可反里吉麻佐武 等伎能多米 伊能知能己佐牟 和須礼多麻布奈
訓読 吾(あ)が背子が帰り来(き)まさむ時のため命残さむ忘れたまふな
私訳 私の大切な貴方が帰って来られる時のために命(私が創る万葉集)を残しましょう、和歌をお忘れにならないで下さい。
右八首、娘子
注訓 右は八首、娘子
私訳 右の八首は、娘子への贈答歌

集歌3775 安良多麻能 等之能乎奈我久 安波射礼杼 家之伎己許呂乎 安我毛波奈久尓
訓読 あらたまの年の緒長く逢はざれど異(け)しき心を吾(あ)が思はなくに
私訳 年が改まる長い年月を貴方が創る万葉集を見ていないけれど、和歌から漢詩への浮気心を私は思ってもいません。

集歌3776 家布毛可母 美也故奈里世婆 見麻久保里 尓之能御馬屋乃 刀尓多弖良麻之
訓読 今日もかも都なりせば見まく欲(ほ)り西の御厩(みまや)の外(と)に立てらまし
私訳 今日もまた、もし、都にいたならばと貴方の創る万葉集を見てみたいと思い、京への西の馬屋の外に立っています。
右二首、中臣朝臣宅守
注訓 右は二首、中臣朝臣宅守
私訳 右の二首は、中臣朝臣宅守への贈答歌

集歌3777 伎能布家布 伎美尓安波受弖 須流須敝能 多度伎乎之良尓 祢能未之曽奈久
訓読 昨日(きのふ)今日(けふ)君に逢はずてする術(すべ)のたどきを知らに哭(ね)のみしぞ泣く
私訳 昨日も今日も貴方に逢うことなく行う万葉集の編纂ですが、その編纂する方法が判らなくて怨みながら泣いています。

集歌3778 之路多倍乃 阿我許呂毛弖乎 登里母知弖 伊波敝和我勢古 多太尓安布末弖尓
訓読 白栲の吾(あ)が衣手を取り持ちて斎(いは)へ吾(わ)が背子直(ただ)に逢ふまでに
私訳 神に祈って白栲の私の衣の中の手による草稿を取り持って、その完成を祈って下さい。私の尊敬する貴方、直接にお目にかかるまで。
右二首、娘子
注訓 右は二首、娘子
私訳 右の二首は、娘子への贈答歌

どうでしたか、都で引き継いだ万葉集後編「宇梅乃波奈」の編纂に苦戦する中臣宅守と伊豆国に流された丹比国人との便りになったでしょうか。これは呆れた私訳ですので、正統な意訳とはまったく違う空想の世界です。アハハ、そうかい。と御笑納下さい。
なお、橘奈良麻呂の変で失権していた孝謙天皇は天平宝字八年(764)に恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱を平定して称徳天皇として復権しますが、そのときに伊豆国に流された丹比国人が都に戻ってきた記事やその後に彼が詠ったとした和歌は記録や万葉集には見えません。既に、丹比国人は暗殺されたか、病死していたのでしょう。
そして、万葉集の続編や万葉集全体の構成が、再び、整えられることは無かったようです。
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中臣宅守の狭野弟上娘子への贈答の歌 上編

2009年12月03日 | 万葉集 雑記
中臣宅守の狭野弟上娘子への贈答の歌 上編

歌を紹介する前に、この中臣宅守の履歴を紹介すると、宅守は藤原鎌足の養子の中臣意美麻呂の孫、中臣東人の子に当たり、親族の叔父に右大臣中臣清麻呂がいます。万葉集の普段の解説では、中臣宅守は天平十一年(739)三月頃に皇后の病気治癒を願う物忌みの時期に犯した姦淫の罪で罰を受け、越前国への近国流刑を受けたとみなされています。翌十二年六月の大赦では同じ姦淫の罪で遠流刑を受けた石上朝臣乙麻呂と同様に特別に詔があって大赦の放免リストから外されていますが、天平十三年九月の恭仁京(くにのみや)遷都に伴う大赦で、やっと許されて京に戻ってきたようです。その後に、天平宝字七年(763)正月に従六位上から従五位下に昇任し、神祇大副の官位相当の大夫の格の身分となっています。その後は、中臣氏系図によると天平宝字八年(764)の恵美押勝の乱に連座して、除名されたことになっているようです。一方、本家の大中臣系図では最終官位が天平宝字七年の従五位下から二階級ほど順調に昇階して、孝謙天皇の侍従で正五位下への叙任となっているようです。ここに、すこし、伝承に乱れがあるようです。つまり、歴史的には判ったような、判らないような人物です。しかし、和歌の歴史では中臣宅守は重要な位置を占めていて、後の伊勢物語に通じる位置にあります。
万葉集の中臣宅守は、万葉集巻十五に載る狭野弟上娘女との贈答歌六十三首におよぶ膨大な相聞歌で有名な人物です。そして、普段の解説では、古今和歌集の仮名序の一節の「いろごのみのいへにむもれきの人しれぬこととなりて」を「色好みの家に、埋れ木の人知れぬこととなりて、」と読み下して、中臣宅守と贈答歌六十三首を解釈するのが正統な和歌の解釈の基本です。ここでは、古今和歌集の仮名序を「色好みの家に埋れ、貴の人知れぬこととなりて、」と読み下して、中臣宅守本人と歌の標の「中臣朝臣宅守与狭野弟上娘女贈答歌」を解釈します。似ているようですが、まったく解釈する世界が違います。そこは、スコップ持ちのおっちゃんの独特の解釈の世界です。
ここで、中臣宅守を紹介するために「長屋王の変」の天平元年から「橘奈良麻呂の変」のあった天平宝字元年へ時代を下らせます。天平宝字元年(757)七月に遠江国守であった丹比国人は「橘奈良麻呂の変」に連座して、罪人となり伊豆国への遠流の刑に処されます。そして、万葉集後編「宇梅乃波奈」は保護者である孝謙天皇とその編纂責任者である丹比国人を欠き、その編纂は頓挫したことになります。
さて、万葉集の巻十五は遣新羅使の歌日記と中臣朝臣宅守の贈答歌の歌日記だけの構成ですが、その編纂は他の巻とは違い異質の構成となっています。後半の中臣宅守の贈答歌五十六首と花鳥の歌七首の都合六十三首は集歌3723の歌から始まるのですが、遣新羅使の歌とその贈答歌六十三首の歌との区分や繋ぎが不自然な形となっています。そして、一番困ったことに万葉集の標の「中臣朝臣宅守与狭野弟上娘女贈答歌」の表記と巻十五の巻頭にある目録の「中臣朝臣宅守、娶蔵部女嬬狭野弟上娘女之時、勅断流罪、配越前國也。於是夫婦相嘆易別難會、各陳慟情贈答歌六十三首」の表記とで、それぞれに意味が違います。私は、漢文において「与」と「與」との漢字の書き分けがあったのではないかとして、「与」を「与える」と読んで標の「中臣朝臣宅守与狭野弟上娘女贈答歌」を「中臣朝臣宅守の狭野弟上娘女に与へたる答へ贈れる歌」と訓読みしています。また、万葉集の六十三首の最後に位置する「中臣朝臣宅守寄花鳥陳思作歌七首」は、先の歌と違い「中臣朝臣宅守」や「娘子」の歌のような相聞の関係にありません。独立した中臣朝臣宅守の「花鳥に寄せて思いを陳べて作れる歌」なのです。
なお、続日本紀によると、天平十一年(740)三月に石上乙麻呂と久米連若売との恋愛事件があり石上乙麻呂は土佐国、久米連若売は下総国にそれぞれ遠流になっています。そして、翌年の天平十二年六月に大赦があったのですが、特別に大赦のメンバーに入れない人のリストに遠流の石上乙麻呂と近流の中臣宅守の名があります。一方、当時の流刑は連座制による家族単位での流刑ですから妻子同伴が原則です。成人した子弟は連座での流刑の随伴の選択が許されていましたが、同居する妻妾は連座が適用されます。つまり、巻十五の巻頭にある目録の「娶蔵部女嬬狭野弟上娘女之時、勅断流罪、配越前國也。於是夫婦相嘆易別難會」の表記は、律令上では有り得ません。女嬬狭野弟上娘女が中臣宅守と公式の夫婦関係にないならば、官人と官女との淫行ですから両者は流刑の罪に相当し、狭野弟上娘女が京に留まる事はありえません。二人が夫婦関係にあるならば、身分の低い女嬬の狭野弟上娘女は中臣宅守の越前国への流刑に同伴しなければいけません。つまり、狭野弟上娘女が京に留まって中臣宅守との歌の交換を行う可能性は、大宝律令の制度ではありません。
こうしてみますと、万葉集の編纂を総括する丹比国人が創ったと思われる万葉集の歌々を紹介する「竹取翁の歌」に、この「中臣朝臣宅守与狭野弟上娘女贈答歌」の中の集歌3765の歌が紹介されていますから、「中臣朝臣宅守与狭野弟上娘女贈答歌」五十六首は、奈良の京と伊豆国三島と間を書簡交換して、作成された万葉集後編「宇梅乃波奈」の最終編纂の状況を後年に知らせるようなものであったのかもしれません。

集歌3765 麻蘇可我美 可氣弖之奴敝等 麻都里太須 可多美乃母能乎 比等尓之賣須奈
訓読 真澄鏡(まそかがみ)懸(か)けて偲(しぬ)へと奉(まつ)り出す形見のものを人に示(しめ)すな

なお、普段の解説の根拠となる万葉集の目録の題は「中臣朝臣宅守と狭野弟上娘女との相互の贈答の歌」の意味合いとなっています。つまり、越前国へ近流の刑に処された「中臣宅守」と京に残る「狭野弟上娘子」との間の歌の交換です。ただ、古くから目録の題の内容が律令制度に拠らないだけでなく、贈答歌六十三首を連続した一つの相互の贈答歌とすると辻褄の合わないこともありますから一首毎に単独に鑑賞します。特に北陸の冬の歌が一首もないことから、北陸の四カ月近くに渡る冬の深雪の状況を心配しないことになっています。

ここで唐突ですが、全万葉集の歌の中で四首しかない「狭野」の歌の、その中で「狭野」の言葉から始まる二首を紹介します。「狭野方波」は普段の読みは「さのかたは」ですが、古語として「せのかたは」とも読むことが出来ます。そのとき、「狭野方波」は「背の方は」と訓読みすることが出来ますし、「背の方は」と読みますと、次のような突飛な意訳を行うことが可能になります。

参考歌
集歌1928 狭野方波 實尓雖不成 花耳 開而所見社 戀之名草尓
訓読 背の方は実に成らずも花のみに咲きて見えこそ恋のなぐさに
私訳 尊敬する貴方の万葉集後編「宇梅之波奈」が完成しなくても、その和歌の歌々を見せてほしい、和歌への渇望の慰めに。

集歌1929 狭野方波 實尓成西乎 今更 春雨零而 花将咲八方
訓読 背の方は実に成りにしを今さらに春雨降りて花咲かめやも
私訳 尊敬する貴方の万葉集後編「宇梅之波奈」が完成しましたが、今後に春雨が降って花が開くように和歌の花が開くことはあるのでしょうか。

同じように集歌3723の歌の標の「中臣朝臣宅守与狭野弟上娘女贈答歌」の「狭野弟上」は「せのおとのかみ」と読むことも可能です。つまり、「背の弟の上」とも訓読みすることが出来ます。集歌1928と集歌1929とに関連させて、万葉集編纂者の「背の弟の上」の意味に取ることは冒険ですが、「花鳥の使い」の相手の名前として可能ではないでしょうか。
そして、私は大伴旅人と藤原房前との歴史から、贈答歌六十三首とは、「橘奈良麻呂の変」に際して、中臣朝臣宅守と娘女との相聞五十六首は流刑で伊豆国三島に居る丹比国人と都からの往復書簡の歌五十六首と、亡き橘諸兄に対して贈った「寄花鳥陳思作歌」の七首と思っています。なお、「狭野弟上」は西本願寺本の表記で、一部の伝本では「狭野茅上」と「弟」から「茅」へ、その表記が変わっています。もし、「茅」が正しいものですと、「狭野弟上」を「背の弟の上」とする読みは成り立たなくなり、説明は妄想に成り下がります。
ここでは、解説の替わりに私の解釈と想いを込めた私訳を紹介して、説明とします。


歌を紹介する前に、この中臣宅守の履歴を紹介すると、宅守は藤原鎌足の養子の中臣意美麻呂の孫、中臣東人の子に当たり、親族の叔父に右大臣中臣清麻呂がいます。万葉集の普段の解説では、中臣宅守は天平十一年(739)三月頃に皇后の病気治癒を願う物忌みの時期に犯した姦淫の罪で罰を受け、越前国への近国流刑を受けたとみなされています。翌十二年六月の大赦では同じ姦淫の罪で遠流刑を受けた石上朝臣乙麻呂と同様に特別に詔があって大赦の放免リストから外されていますが、天平十三年九月の恭仁京(くにのみや)遷都に伴う大赦で、やっと許されて京に戻ってきたようです。その後に、天平宝字七年(763)正月に従六位上から従五位下に昇任し、神祇大副の官位相当の大夫の格の身分となっています。その後は、中臣氏系図によると天平宝字八年(764)の恵美押勝の乱に連座して、除名されたことになっているようです。一方、本家の大中臣系図では最終官位が天平宝字七年の従五位下から二階級ほど順調に昇階して、孝謙天皇の侍従で正五位下への叙任となっているようです。ここに、すこし、伝承に乱れがあるようです。つまり、歴史的には判ったような、判らないような人物です。しかし、和歌の歴史では中臣宅守は重要な位置を占めていて、後の伊勢物語に通じる位置にあります。
万葉集の中臣宅守は、万葉集巻十五に載る狭野弟上娘女との贈答歌六十三首におよぶ膨大な相聞歌で有名な人物です。そして、普段の解説では、古今和歌集の仮名序の一節の「いろごのみのいへにむもれきの人しれぬこととなりて」を「色好みの家に、埋れ木の人知れぬこととなりて、」と読み下して、中臣宅守と贈答歌六十三首を解釈するのが正統な和歌の解釈の基本です。ここでは、古今和歌集の仮名序を「色好みの家に埋れ、貴の人知れぬこととなりて、」と読み下して、中臣宅守本人と歌の標の「中臣朝臣宅守与狭野弟上娘女贈答歌」を解釈します。似ているようですが、まったく解釈する世界が違います。そこは、スコップ持ちのおっちゃんの独特の解釈の世界です。
ここで、中臣宅守を紹介するために「長屋王の変」の天平元年から「橘奈良麻呂の変」のあった天平宝字元年へ時代を下らせます。天平宝字元年(757)七月に遠江国守であった丹比国人は「橘奈良麻呂の変」に連座して、罪人となり伊豆国への遠流の刑に処されます。そして、万葉集後編「宇梅乃波奈」は保護者である孝謙天皇とその編纂責任者である丹比国人を欠き、その編纂は頓挫したことになります。
さて、万葉集の巻十五は遣新羅使の歌日記と中臣朝臣宅守の贈答歌の歌日記だけの構成ですが、その編纂は他の巻とは違い異質の構成となっています。後半の中臣宅守の贈答歌五十六首と花鳥の歌七首の都合六十三首は集歌3723の歌から始まるのですが、遣新羅使の歌とその贈答歌六十三首の歌との区分や繋ぎが不自然な形となっています。そして、一番困ったことに万葉集の標の「中臣朝臣宅守与狭野弟上娘女贈答歌」の表記と巻十五の巻頭にある目録の「中臣朝臣宅守、娶蔵部女嬬狭野弟上娘女之時、勅断流罪、配越前國也。於是夫婦相嘆易別難會、各陳慟情贈答歌六十三首」の表記とで、それぞれに意味が違います。私は、漢文において「与」と「與」との漢字の書き分けがあったのではないかとして、「与」を「与える」と読んで標の「中臣朝臣宅守与狭野弟上娘女贈答歌」を「中臣朝臣宅守の狭野弟上娘女に与へたる答へ贈れる歌」と訓読みしています。また、万葉集の六十三首の最後に位置する「中臣朝臣宅守寄花鳥陳思作歌七首」は、先の歌と違い「中臣朝臣宅守」や「娘子」の歌のような相聞の関係にありません。独立した中臣朝臣宅守の「花鳥に寄せて思いを陳べて作れる歌」なのです。
なお、続日本紀によると、天平十一年(740)三月に石上乙麻呂と久米連若売との恋愛事件があり石上乙麻呂は土佐国、久米連若売は下総国にそれぞれ遠流になっています。そして、翌年の天平十二年六月に大赦があったのですが、特別に大赦のメンバーに入れない人のリストに遠流の石上乙麻呂と近流の中臣宅守の名があります。一方、当時の流刑は連座制による家族単位での流刑ですから妻子同伴が原則です。成人した子弟は連座での流刑の随伴の選択が許されていましたが、同居する妻妾は連座が適用されます。つまり、巻十五の巻頭にある目録の「娶蔵部女嬬狭野弟上娘女之時、勅断流罪、配越前國也。於是夫婦相嘆易別難會」の表記は、律令上では有り得ません。女嬬狭野弟上娘女が中臣宅守と公式の夫婦関係にないならば、官人と官女との淫行ですから両者は流刑の罪に相当し、狭野弟上娘女が京に留まる事はありえません。二人が夫婦関係にあるならば、身分の低い女嬬の狭野弟上娘女は中臣宅守の越前国への流刑に同伴しなければいけません。つまり、狭野弟上娘女が京に留まって中臣宅守との歌の交換を行う可能性は、大宝律令の制度ではありません。
こうしてみますと、万葉集の編纂を総括する丹比国人が創ったと思われる万葉集の歌々を紹介する「竹取翁の歌」に、この「中臣朝臣宅守与狭野弟上娘女贈答歌」の中の集歌3765の歌が紹介されていますから、「中臣朝臣宅守与狭野弟上娘女贈答歌」五十六首は、奈良の京と伊豆国三島と間を書簡交換して、作成された万葉集後編「宇梅乃波奈」の最終編纂の状況を後年に知らせるようなものであったのかもしれません。

集歌3765 麻蘇可我美 可氣弖之奴敝等 麻都里太須 可多美乃母能乎 比等尓之賣須奈
訓読 真澄鏡(まそかがみ)懸(か)けて偲(しぬ)へと奉(まつ)り出す形見のものを人に示(しめ)すな

なお、普段の解説の根拠となる万葉集の目録の題は「中臣朝臣宅守と狭野弟上娘女との相互の贈答の歌」の意味合いとなっています。つまり、越前国へ近流の刑に処された「中臣宅守」と京に残る「狭野弟上娘子」との間の歌の交換です。ただ、古くから目録の題の内容が律令制度に拠らないだけでなく、贈答歌六十三首を連続した一つの相互の贈答歌とすると辻褄の合わないこともありますから一首毎に単独に鑑賞します。特に北陸の冬の歌が一首もないことから、北陸の四カ月近くに渡る冬の深雪の状況を心配しないことになっています。

ここで唐突ですが、全万葉集の歌の中で四首しかない「狭野」の歌の、その中で「狭野」の言葉から始まる二首を紹介します。「狭野方波」は普段の読みは「さのかたは」ですが、古語として「せのかたは」とも読むことが出来ます。そのとき、「狭野方波」は「背の方は」と訓読みすることが出来ますし、「背の方は」と読みますと、次のような突飛な意訳を行うことが可能になります。

参考歌
集歌1928 狭野方波 實尓雖不成 花耳 開而所見社 戀之名草尓
訓読 背の方は実に成らずも花のみに咲きて見えこそ恋のなぐさに
私訳 尊敬する貴方の万葉集後編「宇梅之波奈」が完成しなくても、その和歌の歌々を見せてほしい、和歌への渇望の慰めに。

集歌1929 狭野方波 實尓成西乎 今更 春雨零而 花将咲八方
訓読 背の方は実に成りにしを今さらに春雨降りて花咲かめやも
私訳 尊敬する貴方の万葉集後編「宇梅之波奈」が完成しましたが、今後に春雨が降って花が開くように和歌の花が開くことはあるのでしょうか。

同じように集歌3723の歌の標の「中臣朝臣宅守与狭野弟上娘女贈答歌」の「狭野弟上」は「せのおとのかみ」と読むことも可能です。つまり、「背の弟の上」とも訓読みすることが出来ます。集歌1928と集歌1929とに関連させて、万葉集編纂者の「背の弟の上」の意味に取ることは冒険ですが、「花鳥の使い」の相手の名前として可能ではないでしょうか。
そして、私は大伴旅人と藤原房前との歴史から、贈答歌六十三首とは、「橘奈良麻呂の変」に際して、中臣朝臣宅守と娘女との相聞五十六首は流刑で伊豆国三島に居る丹比国人と都からの往復書簡の歌五十六首と、亡き橘諸兄に対して贈った「寄花鳥陳思作歌」の七首と思っています。なお、「狭野弟上」は西本願寺本の表記で、一部の伝本では「狭野茅上」と「弟」から「茅」へ、その表記が変わっています。もし、「茅」が正しいものですと、「狭野弟上」を「背の弟の上」とする読みは成り立たなくなり、説明は妄想に成り下がります。
ここでは、解説の替わりに私の解釈と想いを込めた私訳を紹介して、説明とします。
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