竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

今日のみそひと歌 水曜日

2013年07月31日 | 万葉 みそひと謌
今日のみそひと歌 水曜日

集歌2053 天漢 八十瀬霧合 男星之 時待船 今滂良之
訓読 天つ川八十瀬(やそせ)霧(き)らへり男星(ひこほし)し時待つ舟し今し滂(こ)ぐらし
私訳 天の川のたくさんの瀬が霧に包まれている。彦星が織姫と出会う時を待ち焦がれていた舟は、今から漕ぎ出すようだ。

集歌2054 風吹而 河浪起 引船丹 度裳来 夜不降間尓
訓読 風吹きに川波立ちぬ引船(ひきふね)に渡りも来ませ夜し更(ふ)けぬ間(ま)に
私訳 風が吹いて来るから川浪が立って来た。舟を引く綱も引いてでも渡って来て下さい。夜の更けない間に。

集歌2055 天河 遠度者 無友 公之舟出者 年尓社候
訓読 天つ川遠き渡りはなけれども君し舟出(ふねで)は年にこそ待て
私訳 天の川は遠い川渡りではないのですが、愛しい恋人の舟出を一年かけて待ちなさい。

集歌2056 天河 打橋度 妹之家道 不止通 時不待友
訓読 天つ川打橋渡し妹し家道(いへぢ)やまず通(かよ)はむ時待たずとも
私訳 天の川に杭を打った立派な打橋を渡しなさい。愛しい恋人の家への道を絶えることなく通おう。一年に一度の時を待たなくとも。

集歌2057 月累 吾思妹 會夜者 今之七夕 續巨勢奴鴨
訓読 月重ね吾(あ)が思ふ妹し逢へる夜は今し七夜(ななよ)し継ぎこせぬかも
私訳 月を重ねて私が恋い慕う愛しい貴女に逢える夜は、今から七夕の名のように七夜続かないでしょうか。

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今日のみそひと謌 火曜日

2013年07月30日 | 万葉 みそひと謌
今日のみそひと謌 火曜日

集歌1171 大御舟 竟而佐守布 高嶋之 三尾勝野之 奈伎左思所念
訓読 大御舟(おほみふね)竟(を)へにさもらふ高島し三尾し勝野(かちの)し渚(なぎさ)しそ念(も)ゆ
私訳 天皇の御舟を渡し申し上げた高島の三尾の勝野の渚を思い出します。

集歌1172 何處可 舟乗為家牟 高嶋之 香取乃浦従 己藝出来船
訓読 いづくにか舟乗りしけむ高島し香取(かとり)の浦ゆ榜(こ)ぎ出(で)来(く)る船
私訳 どこから舟に乗ったのだろうか。高島の香取の浦から操って出て来る船よ。

集歌1173 斐太人之 真木流云 尓布乃河 事者雖通 船會不通
訓読 飛騨(ひた)人(ひと)し真木(まき)流すといふ丹生(にふ)の川事(こと)は通(かよ)へど船ぞ通はぬ
私訳 飛騨の人が立派な木を流すと云う丹生の川よ、願い事は通うが、船は通えない。

集歌1174 霰零 鹿嶋之埼乎 浪高 過而夜将行 戀敷物乎
訓読 霰降り鹿島し崎を浪高み過ぎにや行かむ恋しきものを
私訳 霰が降って、鹿島の岬を波が高いとして通り過ぎて行くべきか、心が惹かれるのに。

集歌1176 夏麻引 海上滷乃奥津洲尓 鳥簀竹跡 君者音文不為
訓読 夏(なつ)麻(そ)引く海上(うなかみ)潟(かた)の沖つ洲(す)に鳥はすだけど君は音(おと)もせず
私訳 夏の麻を引き抜き績(う)む、その言葉のひびきのような、海上潟の沖の洲に鳥は集まり騒ぐけども、貴方は使者も手紙も寄越さない。


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今日のみそひと歌 月曜日

2013年07月29日 | 万葉 みそひと謌
今日のみそひと歌 月曜日

集歌256 飼飯海乃 庭好有之 苅薦乃 乱出所見 海人釣船
訓読 飼飯海(けひうみ)の庭好くあらし刈薦の乱れ出づそ見海人の釣船
私訳 飼飯の海の海上は穏やからしい。刈る薦の茎のように散り散りになって出漁しているのを見た、その海人の釣船よ。

武庫乃海舳尓波有之 伊射里為流 海部乃釣船 浪上従所見
訓読 武庫の海舳(へ)にはあるらしいざりする海人の釣船波し上ゆそ見ゆ
私訳 武庫の海よ。舳にあるのだろうか。その漁火を焚く海人の釣船がうねりの波の上に出たときに見える。

集歌258 人不榜 有雲知之 潜為 鴦与高部共 船上住
訓読 人漕がずあらくも著(しる)し潜(かづ)きする鴦(をし)とたかべと船し上(へ)に住む
私訳 誰もこの舟を漕がないのははっきりとして明らかです。水に潜る鴦とたかべが舟の上に住み着いています。

集歌259 何時間毛 神左備祁留鹿 香山之鉾椙之本尓 薜生左右二
訓読 いつし間(ま)も神さびけるか香具山し桙(ほこ)杉(すぎ)し本(もと)に苔(こけ)生(む)すさへに
私訳 いつの間に、これほど時が過ぎてしまったのか。香具山に鉾のようにそびえている杉の根元に苔が生えてしまうほどに。

集歌262 矢釣山 木立不見 落乱 雪驪 朝楽毛
訓読 矢釣山木立し見えず降りまがふ雪し驪(うるは)し朝(あした)楽(たのし)も
私訳 矢釣山の木立も見えないほど降り乱れる雪が彼方の黒雲から降り来る美しい朝も風流なものです。

集歌263 馬莫疾 打莫行 氣並而 見弖毛和我帰 志賀尓安良七國
試訓 馬(むま)な疾(と)く打ちてな行きそ息(け)ならべに見てもわが行く志賀にあらなくに
試訳 馬よ急ぐな。鞭打って行くな。気持ちを整え落ち着かせても、私が行くべき志賀ではないのだから。

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万葉集の目録の歌

2013年07月28日 | 原万葉集「奈弖之故」と「宇梅乃波奈」
万葉集の目録の歌

 どうも、私の理解では古今和歌集の歌番1002の歌とは万葉集の目録の歌のようです。すると、紀貫之はもじり歌となる歌番1002の歌を独創で作り上げたのでしょうか。私はそうではないと考えました。そして、辿り着いたのが竹取翁の歌です。説明は後で行ないますが、この竹取翁の歌は、万葉集を編纂した丹比国人、その本人が撰び編んだ原万葉集を代表する歌々を示すために詠った、丹比国人による万葉集の「目録の歌」と思っています。ちょうど、古今和歌集の歌番1002の歌と同じ目的ですが、最初に詠われたのは「竹取翁の目録の歌」の方です。
 唐突ですが、ここで、万葉集の歌番3791の歌の竹取翁の歌の私の考える試訓を以下に紹介します。多少、皆さんが目にする「訓読み」とは違いますが、相違する読みを行なったところもまた、万葉集での基本的な語字の読みに従っています。私が勝手に語字の読みを創作した「創訳」ではありません。相違する読みは、歌の解釈に基づく相違とご理解下さい。
 一例として、「垂乳為母所懐褨襁」の「母」の語字について、万葉集では「母之」と記すと物事や人物を表す漢語の文字と考えて「はは」と読みますが、「為母」、「母無」や「母乳」と記すと音を表す文字として「も」と読むのが通例です。そこで、私は音を表す文字として「も」と読み、「垂乳為母 所懐 褨襁」の句は「たらちせも そ懐(なつか)し 褨(すき)を襁(か)け」と訓読みしています。「おっぱいがとても懐かしい時には、たすき懸けした幅広い布の中で脇に抱えられていた」と解釈しています。この風景が、人麻呂の泣血哀慟の歌の「男(をとこ)じもの 脇ばさみ持ち」の風景です。ちょうど、歌が詠う赤子の時にはおんぶひも、幼児の時にはちゃんちゃんこ、育って花嫁衣裳を着る風景の「着る」の動作で統一した姿です。歌中の「結幡之」の句を「ゆひはたの」と読み「絞り染めの」とする理解ではありません。「結幡之」の句は「けつはんの」と読み、家同士が認めた婚姻と理解すべきでしょう。私はこのような解釈を下に集歌3791の歌を読んでいます。
 すると面白いことが判ります。当たり前のことですが、万葉集を編纂した丹比国人が撰んだ万葉集を代表するとした歌々は長歌・短歌・漢文章など幅広く取り上げています。一方、紀貫之の撰んだ万葉集を代表するとして歌は高橋連虫麿の富士山の歌を除くとすべてが短歌です。ここに奈良時代の歌人と平安時代の歌人の和歌に対する感性や捉えかたの違いが明確に現れています。
 およそ、紀貫之は歌の基準を公の儀式での奉呈歌や自然の美を含むものを上位にし、人の感情(万葉集では男女の性愛の色が濃い)を中心とする相聞歌(古今では恋歌)を下位に置いた雰囲気があります。また、丹比国人が代表作として取らなかった歌々を平安歌人の意地とプライドで発掘し、拾い上げた感もあります。
 私は、紀貫之は集歌3791の歌を十分に理解した上で、古今和歌集の両序に載る歌論を下に古今和歌集の歌番1002の歌を詠ったと思っています。丹比国人が撰ぶ万葉集の代表作が集歌3791の歌で読みこまれた三十五首に九人の娘女が歌った九首の計四十四首に対して、その四十四首の数字を意識しての紀貫之が択んだ二十二首だと思います。
 すこし、謎めいた数字を挙げましたが、これは弊ブログ「竹取翁の歌を鑑賞する」を参照下さい。

竹取翁の歌から長歌
集歌3791 緑子之 若子蚊見庭 垂乳為母 所懐 褨襁 平生蚊見庭 結經方衣 水津裏丹縫服 頚著之 童子蚊見庭 結幡之 袂著衣 服我矣 丹因 子等何四千庭 三名之綿 蚊黒為髪尾 信櫛持 於是蚊寸垂 取束 擧而裳纒見 解乱 童兒丹成見 羅丹津蚊經 色丹名著来 紫之 大綾之衣 墨江之 遠里小野之 真榛持 丹穂之為衣丹 狛錦 紐丹縫著 刺部重部 波累服 打十八為 麻續兒等 蟻衣之 寶之子等蚊 打栲者 經而織布 日曝之 朝手作尾 信巾裳成 者之寸丹取 為支屋所經 稲寸丁女蚊 妻問迹 我丹所来為 彼方之 二綾裏沓 飛鳥 飛鳥壮蚊 霖禁 縫為黒沓 刺佩而 庭立住 退莫立 禁尾迹女蚊 髣髴聞而 我丹所来為 水縹 絹帶尾 引帶成 韓帶丹取為 海神之 殿盖丹 飛翔 為軽如来 腰細丹 取餝氷 真十鏡 取雙懸而 己蚊杲 還氷見乍 春避而 野邊尾廻者 面白見 我矣思經蚊 狭野津鳥 来鳴翔經 秋僻而 山邊尾徃者 名津蚊為迹 我矣思經蚊 天雲裳 行田菜引 還立 路尾所来者 打氷刺 宮尾見名 刺竹之 舎人壮裳 忍經等氷 還等氷見乍 誰子其迹哉 所思而在 如是 所為故為 古部 狭々寸為我哉 端寸八為 今日八方子等丹 五十狭邇迹哉 所思而在 如是 所為故為 古部之 賢人藻 後之世之 堅監将為迹 老人矣 送為車 持還来 持還来

試みの私訓
緑子(みどりこ)し 若子(わくご)し時(かみ)には たらちせも そ懐(なつか)し 褨(すき)し襁(か)け(01) 平生(ひらお)時(かみ)には 木綿(ゆふ)し肩衣(かたきぬ) ひつらに縫ひ着(02) 頚(うな)つきし 童(わらは)時(かみ)には 結幡(けつはん)の 袖つけ衣(ころも) 着し我れを(03) 丹(に)よれる 子らが同年輩(よち)には 蜷(みな)の腸(わた) か黒し髪を ま櫛持ち(04) ここにかき垂れ 取り束(たか)ね 上げても巻きみ 解き乱り 童児に為(な)しみ(05) 薄絹(うすもの)似つかふ 色に相応(なつか)しき 紫し 大綾(おほあや)し衣(きぬ)(06) 住江し 遠里小野し ま榛(はり)持ち にほほし衣(きぬ)に(07) 高麗錦 紐に縫ひつけ(08) 刺(さ)さへ重(かさ)なへ 浪累(し)き(09) 賭博為し 麻続(をみ)し子ら(10) あり衣し 宝(たから)し子らか 未必(うつたへ)は(11) 延(は)へに織る布(ぬの) 日晒(ひさら)しし 麻手(あさて)作りを(12) 食薦(しきむも)なす 脛裳(はばき)に取らし(13) 醜屋(しきや)に経(ふ)る(14) 否(いな)き娘子(をとめ)か 妻問ふに(15) 我れにそ来なせ 彼方(をちかた)し 挿鞋(ふたあやうらくつ)(16) 飛ぶ鳥し 明日香壮士(をとこ)か 眺め禁(い)み(17) 烏皮履(くりかわのくつ) 差(さ)し佩(は)きに(18) 庭たたすみ 甚(いた)な立ち(19) 禁(いさ)め娘子(をとめ)か 髣髴(ほの)聞きに(20) 我れにそ来なせ 水縹(みなはだ)し 絹し帯を 引き帯(び)なし 韓(から)を帶に取らし(21) 海若(わたつみ)し 殿(あらか)し盖(うへ)に(22) 飛び翔ける すがるしごとき 腰細(こしほそ)に 取り装ほひ(23) 真十鏡(まそかがみ) 取り並(な)め懸けて 己(おの)か欲(ほ)し 返へらひ見つつ(24) 春さりに 野辺を廻(めぐ)れば おもしろみ(25) 我れを思へか 背の千鳥(つとり) 来鳴き翔らふ(26) 秋さりて 山辺を行けば 懐かしと 我れを思へか(27) 天雲も 行き棚引く(28) 還へり立ち 道をそ来れば(29) 打日刺す 宮女(みやをみな)(30) さす竹し 舎人(とねり)壮士(をとこ)も 忍ぶらひ(31) 返らひ見つつ 誰が子ぞとや 思はえにある(32) かくのごと 為(せ)し故(ゆへ)し 古(いにしへ)し 狭幸(ささき)し我れや 愛(は)しきやし(33) 今日(けふ)やも子らに 不知(いさ)にとや 思はえてある(34) かくしごと 為(せ)し故(ゆへ)し 古(いにしへ)し 賢(さか)しき人も(35) 後し世し 語らむせむと 老人(おひひと)を 送りし車 持ち帰りけり 持ち帰りけり

 この集歌3791の竹取翁の長歌の訓読みを説明の前に、どうして、このような解釈になったのかをかいつまんで説明しますと、次のような考えを元にしています。

あり衣し 宝(たから)し子らか 未必(うつたへ)は(11)
私訳 美しい衣を纏った宝のように大切で触れてはいけない人だからか いや、かならずしも

大納言兼大将軍大伴卿謌一首
集歌0517 神樹尓毛 手者觸云乎 打細丹 人妻跡云者 不觸物可聞
訓読 神樹(かむき)にも手は触(ふ)るといふを未必(うつたへ)に人妻といへば触れぬものかも

 緑児、童児や若子でもない「宝之子」の「子」は若い女性と想像されます。つまり、「あり衣し 宝し子らか」の句を「美しい衣を纏った宝のように大切で触れてはいけない人だからか」と解釈し、さらに「うつたへ」と云う言葉が重要です。そのキーとなる言葉と歌の世界とが共通するものを万葉集の歌の中から探しました。その結果が集歌517の歌です。
 この竹取翁の歌の鑑賞では「うつたへ」と云うキーフレーズを考えた時、「宝し子」から次の山上憶良の歌を思い起こしてはいけないようです。憶良の歌での「子」とは、等しく民衆を救済する釈迦ですら特別に自分の子供を愛しむ、そのような金銀財宝とは比べようもない大切な自分の子供です。「宝のような人」のような見比べた上での比喩の対象とする意味合いとは少し違うようです。

集歌803 銀母 金母玉母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良 古尓斯迦米夜母
訓読 銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに 勝(まさ)れる宝(たから) 子に及(し)かめやも

 また、集歌504と集歌3481との歌は万葉集ではその表記が若干違いますが同じ歌として扱われていますから、万葉の時代での「あり衣」と「玉衣」とは同じ言葉として捉えていたと思われます。ここから、あり衣を美しい玉のような輝きを持った衣と読むことが出来るとしています。

集歌504 珠衣乃 狭藍左謂沈 家妹尓 物不語来而 思金津裳
訓読 玉衣(たまきぬ)のさゐさゐしづみ家し妹に物言はず来に思ひかねつも

集歌3481 安利伎奴乃 佐恵々々之豆美 伊敝能伊母尓 毛乃伊波受伎尓弖 於毛比具流之母
訓読 あり衣(きぬ)のさゑさゑしづみ家の妹に物言はず来にて思ひ苦しも

 このような歌への解釈を行うことから竹取翁の歌の長歌に対して試みの私訓を行っています。
 紀貫之が古今和歌集の編纂に対し、その編纂事業の参照資料の基礎となった万葉集の整備が完了した時に貫之は万葉集の歌を埋め込んだ歌番1002の古歌の目録の歌を詠い、さらに古今和歌集の編纂完了と奉呈に際しては仮名序の中に古今集の歌を紹介するもじりを施しました。この風景に対して丹比国人は竹取翁の歌の中に万葉集を代表する歌々を隠すもじりを施しました。時代の先後はありますが、古今和歌集の編纂の過程で紀貫之は歌番1002の歌に編纂過程で整備した万葉集の歌を埋め込み、丹比国人は竹取翁の歌の中に万葉集を代表する歌を埋め込みました。この状況を類推すると、丹比国人に万葉集編纂責任者と云う姿が見出せるのではないでしょうか。
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万葉雑記 色眼鏡 卅七 万葉仮名歌の進化を楽しむ

2013年07月27日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 卅七 万葉仮名歌の進化を楽しむ

 今回は表記方法において平仮名の和歌に分類される歌を中心に鑑賞して行きます。ただし、平仮名和歌ですから、普段に目にする漢字ひらかな交じりの和歌ではありません。つまり、平仮名和歌とは、つぎのようなものです。

万葉集巻二十 大伴家持の歌より、
集歌4305 許乃久礼能 之氣伎乎乃倍乎 保等登藝須 奈伎弖故由奈理 伊麻之久良之母
訓読 木(こ)の暗(くれ)の茂き峯(を)の上(へ)を霍公鳥(ほととぎす)鳴きて越ゆなり今し来らしも
私訳 木の枝下を暗くするように木々が立派に茂る峰の頂をホトトギスが鳴きながら飛び越えていく。今、ホトトギスが鳴く、その季節が来たようだ。

 例題として万葉集に載る歌を紹介しましたが、標準的に歌の表記方法について説明する時、平仮名の和歌として有名なのは古今和歌集の歌々です。私たちが目にする一般市販の歌集解説書では、「万葉仮名という漢字だけで書かれた万葉集に対して、純和風の平仮名だけで書かれた古今和歌集」とその歌の表記の特徴を対比して説明されていると思います。今回は、そのような原資料の点検を省略し、使う資料は不確かな伝聞の、さらなる又聞きであるような解説や説明は、一度、棚上げにして、本来の原文表記を材料として鑑賞していきます。
 平仮名には、万葉仮名、変体仮名、現代のひらかな(明治三十三年小学令施行規則に載る仮名)が同じ仲間に入ると思います。それぞれは平仮名の進化過程での分類で、文字表現においてその文字の画数は大きく違っていても、それぞれの文字は一字で一音、和語の音のみを表し、表記される文字自体は万葉仮名や変体仮名であっても表意文字としての力を持ちません。それで同じ仲間に入ると考えています。なお、ここでは学問的な定義は行いませんし紹介もしません。ここでの決まりこととして同じ仲間と云うことでご了承ください。
 さて、万葉集に載る歌で平仮名だけ、つまり、一字一音の万葉仮名で本格的に和歌が詠われたのを確認ができるのは巻五に載る梅花の歌三二首の宴のものからです。考古学的には木簡に残る「難波津の歌」などから、ずっと、以前から一字一音での万葉仮名で歌は記録されていたと思われますが、作歌を行う時に意図して一字一音の万葉仮名で歌を創り、詠ったのは梅花の歌三二首の宴からと考えられます。それ以前のものが遺物や伝来物として存在するのは口唱で知られる歌を文字として書き取ったと云う結果としてのものと考えます。作歌態度からのものではありません。
 色々と能書きを垂れ流しましたが、次に有名な歌人が作歌した平仮名歌を紹介します。万葉集から二人、古今和歌集から一人です。

大伴旅人 万葉集巻五 集歌822
和何則能尓宇米能波奈知流比佐可多能阿米欲里由吉能那何列久流加母 (原文表記)
わかそのにうめのはなちるひさかたのあめよりゆきのなかれくるかも (ひらかな読み)
吾が苑に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも (訓読万葉集)

大伴家持 万葉集巻二十 集歌4297
乎美奈弊之安伎波疑之努藝左乎之可能都由和氣奈加牟多加麻刀能野曽 (原文表記)
をみなへしあきはきしぬきさをしかのつゆわけなかむたかまとののそ (ひらかな読み)
をみなへし秋萩しのぎさを鹿の露別け鳴かむ高円の野ぞ (訓読万葉集)

紀貫之 古今和歌集 歌番2
曽天悲知弖武春比之美川乃己保礼留遠波留可太遣不乃可世也止久良武 (原文表記)
そてひちてむすひしみつのこほれるをはるかたけふのかせやとくらむ (ひらかな読み)
袖ひぢてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ (藤原定家自筆伊達家本より)

 今回のテーマはこの三人の歌を紹介して、本来の趣旨は終わりです。平仮名歌ですから、それを紹介したところで、終わりです。また、表記方法において、三人の作品には相違はありません。それで、原文とその現代語訳を紹介すれば、終わりと云うことになります。
 ただし、紹介するものに違和感を持たれる御方がいらっしゃると思います。その違和感の背景を紹介しますと、現代の古典文学の研究は鎌倉時代初期に藤原定家が翻訳したものをテキストとして使用するのが基準で、万葉集だけが鎌倉時代中期に仙覚が残した西本願寺本万葉集を底本とした校本万葉集をテキストとして使用します。また、江戸から明治時代では万葉集もまた訓読みされた訓読万葉集(有名なところでは鹿持雅澄の万葉集古義)をテキストとして使用するため、訓読万葉集と古今和歌集との相違を理解するのは困難でしょう。元々、それらのテキストは漢字ひらかな交じりの表記スタイルに統一することを目的に原文から翻訳したものですから、表記スタイルにおいては相違があってはいけないのです。
 一方、今日の原本の姿を復元しようとする研究は、ここで示したような原文表記の姿を示します。この原文表記の姿を見て、深刻な問題と思われるか、それとも、それがどうしたと思われるかは立場です。ただ、単純に表記方法からの古今和歌集を特徴的に「平仮名の和風の和歌」と説明するものは詐欺的な真っ赤なウソであることは明白です。万葉集の平仮名和歌と古今和歌集の歌とには表記方法において相違は存在しません。およそ、和歌の表記方法について平仮名と云う音字表記に絞れば万葉集から古今和歌集への進化はありません。一方、表記方法を楷書や崩し草仮名連綿と云う書体(書風)に絞れば進化や変化はあります。ただ、それが貫之時代にはどうであったかは日本語や書道の歴史では資料が不足するために不明という扱いとなっています。

 <以下、おまけです>
 書筆における書体について考えますと、万葉集は楷書だったと思われますが、古今和歌集については不明です。古今和歌集より少し前に作成された新撰万葉集の和歌が楷書で書筆されてあることから楷書のスタイルを否定できません。一方、古今和歌集の奉呈と同時代か、やや下るとされる秋萩帖の書体は変体仮名での崩しの連綿体ですので、古今和歌集が崩しの連綿体で書筆された可能性もあります。ただし、十世紀初頭に変体仮名での崩しの連綿体が、奉呈される歌集を書筆することにおいて公に認められた書体であったかは確証がありません。歴史的資料として崩し連綿体に先行する書体である草仮名の文章として有名な「有年申文」は貞観九年(867)のものですから、古今和歌集奉呈の延喜五年(905)までに平仮名表記法がどれほど進化を遂げたのでしょうか。自己流の崩しでは文字は読めません。文字が文字としてあるためには崩しにも共通の認識とルールが必要です。ここらあたりの研究は残される資料が不足しているため非常に困難なようです。
 なお、石川九楊氏が「万葉仮名でよむ『万葉集』」(岩波書店)で論を展開される時、古今和歌集の古写本である秋萩帖、寸松庵色紙、高野切の書筆の文字に、崩しの文字ですが、変体仮名の文字を確実に捕えられています。書筆スタイルが楷書と崩しの連綿との相違があっても歌を認識する時、そこには万葉仮名(または変体仮名)と云う漢字の文字があります。つまり、歌を表記すると云う作業では、本質においては同じではないでしょうか。
 しかしながら、紀貫之は古今和歌集の仮名序の文を閉じるにあたって「歌の様をも知り ことの心を得たらむ人は 大空の月を見るがごとくにいにしへを仰ぎて 今をこひざらめかも」と述べ、古今和歌集と万葉集とを比べれば、きっと、古今の方が好いと云うであろうと述べています。
 では、何が違うのでしょうか。大伴旅人と紀貫之の両者は、この一字一音の万葉仮名(変体仮名)だけで歌を詠うことについて歌論を書いていますから、それを鑑賞してみたいと思います。
 最初に大伴旅人の和歌に対する歌論です。

天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾盖、夕岫結霧、鳥封穀而迷林。庭舞新蝶、空歸故鴈。於是盖天坐地、促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以濾情。詩紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。

序訓 天平二年正月十三日に、帥の老の宅に萃(あつ)まりて、宴會を申く。時、初春の令月(れいげつ)にして、氣淑(よ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かをら)す。加以(しかのみにあらず)、曙の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて盖(きぬがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥は穀(うすもの)に封(こ)められて林に迷ふ。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故鴈歸る。於是、天を盖(きにがさ)とし地を坐とし、膝を促け觴(さかずき)を飛ばす。言を一室の裏(うち)に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然と自ら放(ほしきさま)にし、快然と自ら足る。若し翰苑(かんゑん)に非ずは、何を以ちて情を壚(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古(いにしへ)と今とそれ何そ異ならむ。宜しく園の梅を賦(ふ)して聊(いささ)かに短詠を成すべし。

私訳 天平二年正月十三日に、大宰の帥の旅人の宅に集まって、宴会を開いた。時期は、初春のよき月夜で、空気は澄んで風は和ぎ、梅は美女が鏡の前で白粉で装うように花を開き、梅の香りは身を飾った衣に香を薫ませたような匂いを漂わせている。それだけでなく、曙に染まる嶺に雲が移り行き、松はその枝に羅を掛け、またその枝葉を笠のように傾け、夕べの谷あいには霧が立ち込め、鳥は薄霧に遮られて林の中で迷い鳴く。庭には新蝶が舞ひ、空には故鴈が北に帰る。ここに、天を立派な覆いとし大地を座敷とし、お互いの膝を近づけ酒を酌み交わす。心を通わせて、他人行儀の声を掛け合う言葉を部屋の片隅に忘れ、正しく整えた衿を大自然に向かってくつろげて広げる。淡々と心の趣くままに振る舞い、快くおのおのが満ち足りている。これを書に表すことが出来ないのなら、どのようにこの感情を表すことが出来るだろう。漢詩に落梅の詩篇がある。感情を表すのに漢詩が作られた昔と和歌の今とで何が違うだろう。よろしく庭の梅を詠んで、いささかの大和歌を作ろうではないか。

 旅人は「淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以濾情」と述べています。およそ、心の写生です。その時、心の想いを表現するにあたり文字化での技術的な障害を取り払ったものが、一字一音の万葉仮名による表記法です。人麻呂調とでも云うような漢語と万葉仮名とを使用した表意文字の力を最大限に利用して表現するものではありません。
 一方、紀貫之は古今和歌集の仮名序で和歌について次のように歌論を展開しています。(標準的な仮名序の文では含まれる、後年に定家が書き入れと思われる解説文はその仮名序の文から抜いてあります)

やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける 世の中にある人 事 業しげきものなれば心に思ふことを見るもの聞くものにつけて言ひいだせるなり
花に鳴くうぐひす 水に住むかはづの声を聞けば生きとし生けるもの いづれか歌をよまざりける
力をも入れずして天地を動かし目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ男女のなかをもやはらげ猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり
この歌 天地の開け始まりける時よりいできにけり
しかあれども 世に伝はることは久方の天にしては下照姫に始まり
あらがねの地にしてはすさのをの命よりぞおこりける ちはやぶる神世には歌の文字も定まらず すなほにして 言の心わきがたかりけらし 人の世となりて すさのをの命よりぞ 三十文字あまり一文字はよみける
かくてぞ花をめで 鳥をうらやみ 霞をあはれび 露をかなしぶ 心 言葉多く 様々になりにける
遠き所もいでたつ足もとより始まりて 年月をわたり高き山も麓の塵ひぢよりなりて 天雲たなびくまで生ひのぼれるごとくに この歌もかくのごとくなるべし
難波津の歌は帝の御初めなり
安積山の言葉は采女のたはぶれよりよみて
この二歌は歌の父母のやうにてぞ手習ふ人のはじめにもしける
そもそも歌の様六つなり 唐の歌にもかくぞあるべき 
その六種の一つにはそへ歌 おほさざきの帝をそへたてまつれる歌
難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花
と言へるなるべし
二つにはかぞへ歌
咲く花に思ひつくみのあぢきなさ身にいたづきのいるも知らずて
と言へるなるべし
三つにはなずらへ歌
君に今朝あしたの霜のおきていなば恋しきごとに消えやわたらむ
と言へるなるべし
四つにはたとへ歌
わが恋はよむともつきじ荒磯海の浜の真砂はよみ尽くすとも
と言へるなるべし
五つにはただこと歌
いつはりのなき世なりせばいかばかり人の言の葉うれしからまし
と言へるなるべし
六つにはいはひ歌
この殿はむべも富みけりさき草の三つ葉四つ葉に殿造りせり
と言へるなるべし
今の世の中 色につき人の心花になりにけるより あだなる歌 はかなき言のみいでくれば 色好みの家に 埋れ木の人知れぬこととなりて まめなるところには 花すすき穂にいだすべきことにもあらずなりにたり
その初めを思へば かかるべくなむあらぬ いにしへの世々の帝 春の花のあした 秋の月の夜ごとにさぶらふ人々をめして 事につけつつ歌をたてまつらしめたまふ
あるは花をそふとてたよりなき所にまどひ あるは月を思ふとてしるべなき闇にたどれる心々を見たまひて さかしおろかなりと知ろしめしけむ しかあるのみにあらず さざれ石にたとへ 筑波山にかけて君を願ひ 喜び身に過ぎ 楽しび心に余り 富士の煙によそへて人をこひ 松虫のねに友をしのび 高砂 住の江の松もあひ生ひのやうにおぼえ 男山の昔を思ひいでて 女郎花の一時をくねるにも歌をいひてぞなぐさめける
また春のあしたに花の散るを見 秋の夕ぐれに木の葉の落つるを聞き あるは年ごとに鏡の影に見ゆる雪と浪とを嘆き 草の露水の泡を見てわが身をおどろき あるは昨日は栄えおごりて時を失ひ世にわび 親しかりしもうとくなり あるは松山の浪をかけ 野なかの水をくみ 秋萩の下葉を眺め 暁のしぎの羽がきを数へ あるはくれ竹のうき節を人に言ひ 吉野川をひきて世の中をうらみきつるに 今は富士の山も煙たたずなり 長柄の橋も造るなりと聞く人は歌にのみぞ心をなぐさめける

とあります。 (万葉集のブログであると云う趣旨から意訳は省略します)
 また、同時に貫之は仮名序で次のようにも述べています。

この人々をおきて またすぐれたる人も くれ竹の世々に聞こえ 片糸のよりよりに絶えずぞありける これよりさきの歌を集めてなむ 万葉集と名づけられたりける
ここにいにしへのことをも歌の心をもしれる人わづかに一人二人なりき しかあれど これかれ得たるところ得ぬところたがひになむある かの御時よりこの方 年は百年あまり 世は十継になむなりにける いにしへのことをも歌をも知れる人よむ人多からず

 つまり、紀貫之もまた歌の本質論において「いにしへのことをも歌の心をもしれる人わづかに」の文章から推察して、旅人の「淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以濾情」を越えることは出来なかったようです。ただ、紀貫之は技法を六種に分け、詳しく述べています。ここが違うのでしょう。そして、紹介しませんでしたが平安時代初期を代表する歌人たちの名を挙げ、その作風を評論することで紀貫之は平安時代の作品の方向性を示しています。また、貫之たちは一字一音の万葉仮名(変体仮名)だけで表記された歌だけが持つ特性である「音」だけの表現から、日本語が持つ同音異義の言葉において「遊ぶ」ことに気が付き、それを最大限に活用しました。それも「調べの雅さ」を基調とし、和歌において言葉で「遊ぶ」ことを最低限の作歌ルールとしたようです。それゆえに濁音もまた清音表記とするルールで解釈に幅を持たせました。古今和歌集の特徴として掛け詞、縁語などが多用されていると評論しますが、もし、それがなければ先に見たように旅人たちの梅花の歌三二首の宴でのものと、一体、どこが違うのかと云うことになります。

 例として、先の貫之の歌番2について見てみますと、一字一音の万葉仮名(変体仮名)表記の歌の中に二つの景色を見ることが出来ます。その姿は万葉調ではありませんし、大衆がたやすく詠えるようなレベルの歌でもありません。そこが古今調なのでしょう。

曽天悲知弖武春比之美川乃己保礼留遠波留可太遣不乃可世也止久良武 (原文表記)
そてひちてむすひしみつのこほれるをはるかたけふのかせやとくらむ (ひらかな読み)
袖ひぢてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ (藤原定家自筆伊達家本より)

ケースA;秋に汲んだせせらぎの清水の水が冬に凍り、さらに春の訪れに寒さが緩んだと中国漢詩の句「春風解凍」から解釈する立場
袖浸(ひぢ)て掬(むすび)し水の凍(こほ)れるを春立つ今日の風や解くらむ

ケースB;歌番一の応答に位置し、春がやって来て、寒さの緩むせせらぎの清水を思わず両手で掬ったが、ちょうど、今日吹く春一番の風に身を煽られ手から水がこぼれたと解釈する立場
袖浸(ひぢ)て結(むすび)し水の零(こぼ)れるを春立つ今日の風や疾くらむ

 当然、定家もこの解釈を了解していたのでしょう、それでキーワードとなる「むすびし」、「こほれる」、「とくらむ」については語感で解釈を拘束する可能性のある漢字表記を用いていません。しかしながらこの解釈が成り立つとしますと、万葉集に「人麻呂のくびき」が存在したように、古今和歌集に新たな「貫之のくびき」が誕生したことになります。一体、だれが、このような高度な言葉遊びの歌を詠えるのでしょうか。ただ、現代においては、それも関係はないようです、今、古今和歌集の特徴をこのように捕えるような人はいませんし、漢字ひらかな和歌に翻訳したものでしか鑑賞しませんから。

 今回、万葉仮名(変体仮名)歌を紹介することから旅人と貫之の和歌への態度をも触れました。これはあくまでも素人のする戯言です。一般的に、このような解釈や理解は行いません。また、古今和歌集の歌と万葉集の万葉仮名歌との間に表記において区分などは存在しないなどとは主張しません。ご来場の方々は大人と思いますので、そこは大人の対応で「あっ、そう」として下さい。そうでなきゃ、大学への受験生と国文の学生さんたちが可哀そうです。
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