万葉雑記 色眼鏡 二七三 今週のみそひと歌を振り返る その九三
先週の後半から集歌2516の左注に「以前一百四十九首、柿本朝臣人麿之謌集出」と紹介される巻十一の柿本朝臣人麻呂歌集の歌群に突入しています。今回もその続きとなるものですし、それを前提として解釈したものです。
古く、万葉集に載る柿本人麻呂歌集の歌の大半は無署名歌ですから、そこを唯一の便りとして本来の文学研究と云うものを放棄して「誰がその歌を詠ったのか、その根拠となる記述はどこにあるのか」と云う子供のような発言が流行っていました。そのような背景から柿本人麻呂歌集の歌は飛鳥浄御原宮から前期平城京時代の雑多な歌を、たぶん、柿本人麻呂が収集したのであろうとしていました。つまり、人麻呂歌集の歌と柿本人麻呂本人とは作歌活動では直接の関係は認められないと云う態度でした。古典的な和歌道を背景とし、記述された書籍・伝承や口伝を尊重した日本文学の王道的立場です。
他方、国際的な科学的立場から文学研究を進めますと、無署名作品での表記スタイルの特徴や使う漢字・漢語などから人物像を探り、作品創作者を探し求めることへと展開します。このような研究進歩から昭和期の「どこにそれが書いてある」と云う読書感想文的な研究から平成期以降の国際的な文学研究批判に耐えるものとなり、柿本人麻呂歌集の大半は柿本人麻呂本人とその恋人との間で交わされた相聞歌が中心を占めると考えられるようになって来ています。この研究の弱みとしますと、平安時代最末期から鎌倉時代初期における書籍に根拠を持たないことですし、和歌道に由来を求めることが出来ません。つまり、どれほど古典書籍・古文書を漁っても記述が認められないと云うことです。
さて、与太話はさておき、今週に鑑賞しました歌から次の歌をおさらいとして紹介します。
弊ブログでの鑑賞
集歌2444 白壇 石邊山 常石有 命哉 戀乍居
訓読 白真弓(しらまゆみ)石上(いそへ)し山し常磐(ときは)なる命なれやも恋ひつつ居らむ
私訳 私は白真弓の矢羽の羽易(はかい)の石上の山の常盤のような岩のような丈夫な命でしょうか。貴女を慕って苦しくも恋しています。
中西進氏の鑑賞
訓読 白真弓(しらまゆみ)石上(いそへ)の山の常磐(ときは)なる命なれやも恋ひつつをらむ
意訳 白真弓を射る石辺の山の岩石のような命なら、こうして恋に苦しみつづけてもいられよう。
伊藤博氏の鑑賞
訓読 白真弓(しらまゆみ)石上(いそへ)の山の常磐(ときは)なる命なれやも恋ひつつ居らむ
意訳 石辺の山の常盤、その常盤のような不変の命だとでもいうのか、そうでもないのに、私は逢うこともできずにいたずらに恋いつづけている。
ここで、伝統では初句「白壇」は「石辺の山」の枕詞とし、二句目「石邊山」は所在が未詳ながらも滋賀県甲賀郡石部町(湖南市)の磯部山ではないかとします。ただ、近江国中には複数の候補地があるようです。中西進氏や伊藤博氏の鑑賞はこの伝統を踏まえたものですし、伝統の解釈は先に説明した柿本人麻呂歌集の無署名歌の扱いに従い柿本人麻呂個人の人生とは全く関係がないものとして鑑賞します。
他方、近代解釈では柿本人麻呂歌集の歌は人麻呂ゆかりの歌と解釈しますから、必然、柿本人麻呂の人生と関連させて解釈しなければいけません。すると歌の二句目「石邊山」は「いそへやま」と訓じる可能性がありますから、柿本人麻呂ゆかりならば奈良県天理市の石上の山々の解釈も有り得ることになります。
この石上の山々の可能性が有り得るのですと、石上神社の由来から物部氏との関連もまた必然です。このため、物部氏の祖である邇藝速日命が天羽(あまのは)の羽矢(はや)を神武天皇に見せた事由から、物部氏に因んで石上の山は「矢羽を交換」(=羽易)したことから羽易山とも云います。その石上の山々の別称である羽易山から「白壇(=白真弓)」の詞が使われたのではないでしょうか。そうした時、柿本一族の本拠は石上山の“辺(ほとり)”ですから、漢字の用字として「石上」ではなく「石邊」ではないでしょうか。総合しますと初句から三句目「白壇 石邊山 常石有」の表記は神武天皇の神話に繋がる物部氏の、その一族が祀る石上神社の神主となる柿本・布留一族の一員である柿本人麻呂であると云うことを隠した表現ではないでしょうか。歌を贈られた女性は大和神話や柿本人麻呂の一族の伝承を承知していますから、容易に歌意を掴めたと考えます。
もう少し、集歌2442の歌では初句と二句目に「大土 採雖盡」との表現があります。
集歌2442 大土 採雖盡 世中 盡不得物 戀在
訓読 大地(おほつち)し取り尽(つく)さめど世し中し尽(つく)しえぬものし恋にしありけり
私訳 大きな山の土も採り尽くすことはあるでしょうが、この世の中で尽くしきれないものは貴女への恋でしょう。
現代都会人では大仰な表現と感じるでしょうが、柿本人麻呂が生きていた時代の飛鳥に生きる人たちでは、それは日常で目にする光景です。
平安時代最末期から昭和時代までの万葉集の鑑賞では「藤原京」と云う存在はありません。現代では平城京や平安京よりも大きな京域を持ち、奈良三山で挟まれた大湿地帯を干拓して成した5㎞四方の広大な王都であったと確認されています。馬の腹までも泥がつくような湿地帯が立派な王都になったと万葉集の歌に詠うように周辺の丘陵を切り崩しての大干拓事業を行っていたのです。
そのような数万の人びとを集めた力ずくの作業なら山や岡を切り崩し平な大地にすることは可能ですし、それは人麻呂やその恋人も日常に眺めていた光景です。集歌2442の歌はそのような大変な力ずくの状況であっても私の恋心は変わらないとの感情表現です。
一見、何気ないようですが、柿本人麻呂歌集は柿本人麻呂の人生に関係するものとしますと、飛鳥浄御原宮から藤原京を経て前期平城京までの歴史を忘れることは出来ません。ただ、残念ながら平安時代最末期から昭和時代まで藤原京時代と云うものは存在しませんし、存在しませんから万葉集和歌鑑賞には反映されていません。そのため、柿本人麻呂全盛期や額田王晩期の歌の鑑賞では従来の伝統的鑑賞には歌が詠われた時代である藤原京時代と云うものは存在しなかったと云う前提条件を踏まえる必要があります。
中世史になぞらえますと、室町時代から江戸時代に歴史は移行し、安土桃山時代は無かったことにして文化史を語ることに等しい態度です。昭和期までの古代文化史に斯様な欠点があることを頭の隅にでも置いて頂ければ幸いです。
今回も独善と与太話ですが、専門家が為す古代史・文化史の解釈は無茶苦茶な面もあることを承知置き下さい。
先週の後半から集歌2516の左注に「以前一百四十九首、柿本朝臣人麿之謌集出」と紹介される巻十一の柿本朝臣人麻呂歌集の歌群に突入しています。今回もその続きとなるものですし、それを前提として解釈したものです。
古く、万葉集に載る柿本人麻呂歌集の歌の大半は無署名歌ですから、そこを唯一の便りとして本来の文学研究と云うものを放棄して「誰がその歌を詠ったのか、その根拠となる記述はどこにあるのか」と云う子供のような発言が流行っていました。そのような背景から柿本人麻呂歌集の歌は飛鳥浄御原宮から前期平城京時代の雑多な歌を、たぶん、柿本人麻呂が収集したのであろうとしていました。つまり、人麻呂歌集の歌と柿本人麻呂本人とは作歌活動では直接の関係は認められないと云う態度でした。古典的な和歌道を背景とし、記述された書籍・伝承や口伝を尊重した日本文学の王道的立場です。
他方、国際的な科学的立場から文学研究を進めますと、無署名作品での表記スタイルの特徴や使う漢字・漢語などから人物像を探り、作品創作者を探し求めることへと展開します。このような研究進歩から昭和期の「どこにそれが書いてある」と云う読書感想文的な研究から平成期以降の国際的な文学研究批判に耐えるものとなり、柿本人麻呂歌集の大半は柿本人麻呂本人とその恋人との間で交わされた相聞歌が中心を占めると考えられるようになって来ています。この研究の弱みとしますと、平安時代最末期から鎌倉時代初期における書籍に根拠を持たないことですし、和歌道に由来を求めることが出来ません。つまり、どれほど古典書籍・古文書を漁っても記述が認められないと云うことです。
さて、与太話はさておき、今週に鑑賞しました歌から次の歌をおさらいとして紹介します。
弊ブログでの鑑賞
集歌2444 白壇 石邊山 常石有 命哉 戀乍居
訓読 白真弓(しらまゆみ)石上(いそへ)し山し常磐(ときは)なる命なれやも恋ひつつ居らむ
私訳 私は白真弓の矢羽の羽易(はかい)の石上の山の常盤のような岩のような丈夫な命でしょうか。貴女を慕って苦しくも恋しています。
中西進氏の鑑賞
訓読 白真弓(しらまゆみ)石上(いそへ)の山の常磐(ときは)なる命なれやも恋ひつつをらむ
意訳 白真弓を射る石辺の山の岩石のような命なら、こうして恋に苦しみつづけてもいられよう。
伊藤博氏の鑑賞
訓読 白真弓(しらまゆみ)石上(いそへ)の山の常磐(ときは)なる命なれやも恋ひつつ居らむ
意訳 石辺の山の常盤、その常盤のような不変の命だとでもいうのか、そうでもないのに、私は逢うこともできずにいたずらに恋いつづけている。
ここで、伝統では初句「白壇」は「石辺の山」の枕詞とし、二句目「石邊山」は所在が未詳ながらも滋賀県甲賀郡石部町(湖南市)の磯部山ではないかとします。ただ、近江国中には複数の候補地があるようです。中西進氏や伊藤博氏の鑑賞はこの伝統を踏まえたものですし、伝統の解釈は先に説明した柿本人麻呂歌集の無署名歌の扱いに従い柿本人麻呂個人の人生とは全く関係がないものとして鑑賞します。
他方、近代解釈では柿本人麻呂歌集の歌は人麻呂ゆかりの歌と解釈しますから、必然、柿本人麻呂の人生と関連させて解釈しなければいけません。すると歌の二句目「石邊山」は「いそへやま」と訓じる可能性がありますから、柿本人麻呂ゆかりならば奈良県天理市の石上の山々の解釈も有り得ることになります。
この石上の山々の可能性が有り得るのですと、石上神社の由来から物部氏との関連もまた必然です。このため、物部氏の祖である邇藝速日命が天羽(あまのは)の羽矢(はや)を神武天皇に見せた事由から、物部氏に因んで石上の山は「矢羽を交換」(=羽易)したことから羽易山とも云います。その石上の山々の別称である羽易山から「白壇(=白真弓)」の詞が使われたのではないでしょうか。そうした時、柿本一族の本拠は石上山の“辺(ほとり)”ですから、漢字の用字として「石上」ではなく「石邊」ではないでしょうか。総合しますと初句から三句目「白壇 石邊山 常石有」の表記は神武天皇の神話に繋がる物部氏の、その一族が祀る石上神社の神主となる柿本・布留一族の一員である柿本人麻呂であると云うことを隠した表現ではないでしょうか。歌を贈られた女性は大和神話や柿本人麻呂の一族の伝承を承知していますから、容易に歌意を掴めたと考えます。
もう少し、集歌2442の歌では初句と二句目に「大土 採雖盡」との表現があります。
集歌2442 大土 採雖盡 世中 盡不得物 戀在
訓読 大地(おほつち)し取り尽(つく)さめど世し中し尽(つく)しえぬものし恋にしありけり
私訳 大きな山の土も採り尽くすことはあるでしょうが、この世の中で尽くしきれないものは貴女への恋でしょう。
現代都会人では大仰な表現と感じるでしょうが、柿本人麻呂が生きていた時代の飛鳥に生きる人たちでは、それは日常で目にする光景です。
平安時代最末期から昭和時代までの万葉集の鑑賞では「藤原京」と云う存在はありません。現代では平城京や平安京よりも大きな京域を持ち、奈良三山で挟まれた大湿地帯を干拓して成した5㎞四方の広大な王都であったと確認されています。馬の腹までも泥がつくような湿地帯が立派な王都になったと万葉集の歌に詠うように周辺の丘陵を切り崩しての大干拓事業を行っていたのです。
そのような数万の人びとを集めた力ずくの作業なら山や岡を切り崩し平な大地にすることは可能ですし、それは人麻呂やその恋人も日常に眺めていた光景です。集歌2442の歌はそのような大変な力ずくの状況であっても私の恋心は変わらないとの感情表現です。
一見、何気ないようですが、柿本人麻呂歌集は柿本人麻呂の人生に関係するものとしますと、飛鳥浄御原宮から藤原京を経て前期平城京までの歴史を忘れることは出来ません。ただ、残念ながら平安時代最末期から昭和時代まで藤原京時代と云うものは存在しませんし、存在しませんから万葉集和歌鑑賞には反映されていません。そのため、柿本人麻呂全盛期や額田王晩期の歌の鑑賞では従来の伝統的鑑賞には歌が詠われた時代である藤原京時代と云うものは存在しなかったと云う前提条件を踏まえる必要があります。
中世史になぞらえますと、室町時代から江戸時代に歴史は移行し、安土桃山時代は無かったことにして文化史を語ることに等しい態度です。昭和期までの古代文化史に斯様な欠点があることを頭の隅にでも置いて頂ければ幸いです。
今回も独善と与太話ですが、専門家が為す古代史・文化史の解釈は無茶苦茶な面もあることを承知置き下さい。