竹取翁と万葉集のお勉強

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久米禅師 恋か、濡れ衣か

2009年08月31日 | 万葉集 雑記
久米禅師 恋か、濡れ衣か

 万葉集に久米禅師と石川郎女との「娉(よばひ)」の相聞歌があります。この「娉」の漢字をどのように理解しているかで、歌の解釈は大きく変わってきます。普段の解釈で「娉」を「夜這い」と解釈しているものもあるようですが、それでは万葉集は読めません。万葉集では「娉」の漢字は「求婚」や「愛の告白」と解釈します。和語としての「夜這い」の意味を持たすのは、平安末期以降の万葉仮名の持つ漢字の意味が判らなくなり、単なる「表音文字」として「娉」の漢字を「よばひ」と音訳して、当時の言葉に翻訳して解釈し始めた時代以降のものです。

久米禅師、娉石川郎女時謌五首
標訓 久米禅師の、石川郎女を娉(よば)ひし時の歌五首
集歌96 水薦苅 信濃乃真弓 吾引者 宇真人佐備而 不欲常将言可聞  (禅師)
訓読 御薦(みこも)刈りし信濃(しなの)の真弓(まゆみ)吾が引かば貴人(うまひと)さびて否(いな)と言はむかも
私訳 あの木梨の軽太子が御薦(軽大郎女)を刈られたように、信濃の真弓を引くように私が貴女の手を取り体を引き寄せても、お嬢様に相応しく、「だめよ」といわれますか。

集歌97 三薦苅 信濃乃真弓 不引為而 強佐留行事乎 知跡言莫君二  (郎女)
訓読 御薦(みこも)刈りし信濃(しなの)の真弓(まゆみ)引かずして強(し)ひさる行事(わさ)を知ると言はなくに
私訳 あの木梨の軽太子は御薦(軽大郎女)を刈られたが、貴方は強弓の信濃の真弓を引かないように、無理やりに私を引き寄せて何かを為されてもいませんのに、貴方が無理やりに私になされたいことを、私が貴方がしたいことを知っているとは云へないでしょう。

集歌98 梓弓 引者随意 依目友 後心乎 知勝奴鴨  (郎女)
訓読 梓(あずさ)弓(ゆみ)引かばまにまに依(よ)らめども後(のち)の心を知りかてぬかも
私訳 梓巫女が梓弓を引くによって神依せしたとしても、貴方が私を抱いた後の真実を私は確かめるができないでしょうよ。

集歌99 梓弓 都良絃取波氣 引人者 後心乎 知人曽引  (禅師)
訓読 梓(あずさ)弓(ゆみ)弦(つら)緒(を)取りはけ引く人は後(のち)の心を知る人ぞ引く
私訳 梓弓に弦を付け弾き鳴らして神を引き寄せる梓巫女は、貴女を抱いた後の私の真実を知る巫女だから神の梓弓を引いて神託(私の真実)を告げるのです。

集歌100 東人之 荷向篋乃 荷之緒尓毛 妹情尓 乗尓家留香問  (禅師)
訓読 東人(あずまひと)の荷前(のさき)の篋(はこ)の荷の緒にも妹は心に乗りにけるかも
私訳 貴女の気を引く信濃の真弓だけでなく、さらに、それを納める東人の運んできた荷物の入った箱を縛る荷紐の緒までに、貴女への想いで私の心に乗り被さってしまったようです。

 最初に、これらの五首の歌で使われている言葉を、これらの歌々の理解のために説明します。万葉集が詠われた時代に有名な「刈薦」の歌があります。それが古代最大の不倫の恋愛物語である木梨の軽太子と軽大郎女(衣通郎姫)との関係の場面で詠われた以下に示す歌です。古事記歌謡80で詠う「刈薦」の乱れとは、性交での女性の肢体の乱れを暗示する言葉です。

参考 古事記 歌謡80より
原文 佐佐波爾 宇都夜阿良禮能 多志陀志爾 韋泥弖牟能知波 比登波加由登母 宇流波斯登 佐泥斯佐泥弖婆 加理許母能 美陀禮婆美陀禮 佐泥斯佐泥弖婆 (80)
読下 笹(ささ)葉(は)に 打つや霰の たしだしに 率(ゐ)寝(ね)れむ後(のち)は 人は離(か)ゆとも 愛(うるは)しと さ寝しさ寝てば 刈薦(かりこも)の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば

 万葉集の集歌96の歌の「御薦」はその「御」の言葉から、神事に使う大切な薦か、高貴な方が刈られた薦か、どちらかを意味しますが、私は高貴な方が「薦」を刈ったと解釈しています。つまり、「女性を刈り取った」の寓意です。次に、真弓は武器の弓で男が引く弓で、強弓のことです。一方、梓弓は神事の弓で巫女が引く小弓のことです。そこから、梓巫女は梓弓の弦を弾き鳴らして事寄せ憑依し、神託を行っていました。また、信濃は真弓に使う「マユミ」の樹木の産地で、真弓の一大生産地です。その信濃で作られた真弓は信濃の特産の調(ちょう)として荷造りされ、都に送られました。集歌100の歌の「荷向」は、荷前のことと思われ、荷前はその年の調の最初の品物を示します。
 さらに、歌の解釈で誤解が生じないように歌の標の「娉石川郎女」の「娉」の漢字について、再度、確認します。この「娉」の漢字には「求婚」や「愛の告白」の意味があるだけで、「夜這い」の意味合いはありませんから、久米禅師と石川郎女との間に肉体関係や相愛関係はありません。歌の標からは、ただ、最初に久米禅師から石川郎女に対して恋愛をテーマにした歌を贈ったことが判るだけです。つまり、これらの歌での「久米禅師」と「石川郎女」の名は、歌物語として仮託したと思われ、特定の人物を示すものではないようです。
 そこで、この歌の「久米禅師」の称号について考えてみますと、この「禅師」の称号は禅宗の「禅師」の称号ではありません。仏教の禅宗の日本招来は正式には鎌倉時代以降になりますから、万葉集の時代には禅宗の僧侶としての禅師を意味しません。当時の時代を見てみますと、奈良時代に山野で身体を修行する修行者を禅師と呼んだらしいので、諸国を遊行する学識者(学問のある自由人)を「禅師」と称した可能性があります。つまり、一種の「久米仙人」と思ったほうが良いようで、仏教僧より仙人道教の修行者の意味合いの方が強いようです。
 また、これらの歌では信濃や梓の言葉が出てくるので、一見、信濃国の雰囲気がありますが、歌が詠われている場所は、集歌100の歌に「東人(あづまひと)の荷前(のさき)の」とあるように、各地の調が集まる藤原京です。万葉集におけるこの歌の配置は近江朝時代ですが、信濃の調を考えると律令体制の地方波及時期から考えて少し早いでしょう。およそ、近江朝時代とは、歌の詠われた(採歌)時期ではなく、歌物語として広く人に知られるようになった時期の意味合いと思われます。
 さて、私は集歌96の歌の「水薦苅 信濃乃真弓」を「御薦(みこも)刈りしな、信濃(しなの)の真弓」と解釈しています。つまり、信濃の言葉は、「御薦刈りしな」と「真弓」の言葉をつなぐ語調の良い接続詞なのです。したがって、この信濃の言葉には、深い意味はありません。ここで、理解していただきたいのは信濃に住む人々には申し訳ありませんが、この歌謡を楽しんだ人々には信濃の風景はどうでもいいのです。人々は、信濃の山中から特産で良質な真弓や梓弓が大量に送られて来ることは知っています。でも、それだけなのです。逆に、大和の人々には恋歌で「御薦を刈る」と詠えば、木梨の軽太子と軽大郎女との禁断の恋物語が思い浮かぶのです。いえ、知らなければ、万葉の風流人ではありません。
 歌物語で、この禁断の恋が前提にあるから、禁断の恋の意味を実の兄妹から身分の上下と僧侶と女性の関係に置き換えて「貴人さびて」と詠うわけです。ここが、歌の出発点として面白いのです。禁断の恋として、石川郎女が高貴で初心な女性という設定が成り立つのです。従って、恋に百戦錬磨の石川郎女では、男から女を誘うと云う風景が崩れますから、駄目な訳です。初心な女性の設定だからこそ、集歌97の歌で「強ひさる行事を知ると言はなくに」と詠う訳なのです。決して、石川郎女は恋の百戦錬磨でのカマトトではありません。
 信濃に関してもう少し触れますと、集歌96の歌の「水薦」を「ミスズ」と読んで篶竹(スズタケ)と解釈したり、薦は信濃に沢山生えていたとする解説があります。私としては無理をせずに「水薦苅」を信濃の枕詞と説明して、意味が判らないとする普段の解説の方が好きです。多分、水薦を「ミスズ」と読む人は、御国自慢で、これらの歌はすべて信濃地方で詠まれたと信じているのでしょう。私は、久米禅師と石川郎女の二人が信濃から大和に移動しながら歌を詠んだとは思ってはいませんし、信濃人が自分のことを「東人」と呼ぶとも思ってはいませんから、歌はすべて大和地方で詠まれたとしています。
 もう少し歌の説明をしますと、歌では女の手を引いてその体を強く引き寄せる動作の比喩に「真弓」の弓を用いていますが、心や気持ちを知るような精神の比喩には「梓弓」の弓を用いています。この歌の詠い手には「真弓」と「梓弓」との違いが明確に認識されています。そこには梓巫女が梓弓の弦をほのかに弾き鳴らし、事寄せして神託を行なった古風があるのです。そして、強弓(こわゆみ)の真弓を引く感覚で、集歌97の歌の歌詞の「強佐留行事乎」を「強(し)ひさる行事(わさ)を」と読んでいます。普段の解説では「弦(を)著(つ)くる行事(わざ)を」と読みますが、「弦著くる行事を」と読む場合は、石川郎女は恋の手管と夜の営みの「いろは」を知る百戦錬磨のツワモノとなり、初心な久米禅師を玩ぶ風情になります。その感覚が違うのです。
 ただし、当時の普段の男の恋愛表現は次の歌のようで、女性には「強ひさる行事を知る(思わず押し倒され抱き伏せられる)」状況がよくあったと思われます。結構、男にとって力技の必要な風流です。その「争はず 寐しくをしぞも」の語感からすると、抵抗する女性を抱き伏し征服する愛情が「愛しみ思ふ」の根源であったようです。

古事記から大雀命(後の仁徳天皇)の御歌より
道の後 古波陀嬢子を 雷の如 聞えしかども 相枕枕く
道の後 古波陀嬢子は 争はず 寐しくをしぞも 愛しみ思ふ
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夜のお作法 日本最初の官能小説

2009年08月29日 | 万葉集 雑記
夜のお作法 日本最初の官能小説


 私は万葉集の男女の相聞関係にある歌の多くの歌は宮中での歌垣のような歌会での歌と思っています。そんな中で、人麻呂歌集のある相聞の歌は、人麻呂と隠れ妻とのラブレターの相聞と思っています。ここでは、紹介する歌々が、その二人のラブレターであるとの前提で人麻呂歌集の歌を楽しんでみたいと思います。
 こうしたとき、次の歌にある提示する漢字を、どのように読むかで人麻呂歌集全体の解釈が変わるかもしれません。

集歌2391 玉響 昨夕 見物 今朝 可戀物

 この集歌2391の歌の「響」の漢字は、次の人麻呂歌集に載る集歌1816の歌の「玉蜻」の歌詞から連想して、普段の万葉集の解釈では「玉響」を「たまかぎる」と訓読みします。

集歌1816 玉蜻 夕去来者 佐豆人之 弓月我高荷 霞霏微
訓読 玉かぎる夕さり来れば猟(さつ)人(ひと)の弓月(ゆつき)が嶽(がた)に霞たなびく
私訳 トンボ玉のようなき光が移りゆく夕べになると、狩人が持つ弓のその弓のように稜線が光る弓月が嶽に霞がおぼろに棚引く。

 ここで、人麻呂歌集から訓読みでの「玉かぎる」を探してみますと、下記に示す集歌2394の歌の「玉垣入」の表記があります。この集歌2394の歌は、万葉集には同じ歌の重出とされる歌があり、それが読み人知れずの集歌3085の歌です。この集歌3085の歌では、集歌1816の歌の表記と同じ「玉蜻」の漢字表記を使っています。これらの類例から、集歌2391の歌の「玉響」を「玉かぎる」と訓読みしているのです。
 ところが、私の主張する「万葉集は漢語と漢字で表記されている」視点からすると、「炎」や「在」の漢字表記と同じで、一概に、そのように解釈することは出来ないのです。例えば、人麻呂歌集の集歌2394の歌は、朝衣の別れをした男が宮中に出仕するために朝早くに女の許から出て行ったことを表わすために「玉垣入」の表現を使っています。つまり、宮中に出仕するために朝に去って行った「子」は、愛しい男性です。ところが、集歌3085の歌は「徃之兒故尓」の表記ですから、「兒」は男が夜に出かけて行った先のかわいい女性です。同じ歌のように見せていますが、違う場面の違う歌です。 つまり、集歌3085の歌は古代では最高のパロディーの歌の位置にあります。

集歌2394 朝影 吾身成 玉垣入 風所見 去子故
訓読 朝影(あさかげ)に吾(わ)が身はなりぬ玉(たま)垣(かき)るほのかに見えて去(い)にし子ゆゑに
私訳 輝く朝日に私はなったようです。朝日が射し大夫が赴く宮中の鴛の幡を立てる所に出仕するために帰って行った貴方の姿を見ると。

集歌3085 朝影尓 吾身者成奴 玉蜻 髣髴所見而 徃之兒故尓
訓読 朝(あさ)影(かげ)に吾(あ)が身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去(い)にし子ゆゑに
私訳 光輝く朝日の気分に私はなったようです。闇でも美しい玉がほのかに光り見ることが出来るような、逢いに行って来たそんな美しい貴女のために。

 こうしてみますと、集歌2391の歌の「玉響」が「玉蜻」の誤記であるとか、そのまま「玉かぎる」と読めるとするのは正しいのでしょうか。
 ここで、最初に前提条件を示しましたが集歌2391の歌は人麻呂と隠れ妻とのラブレターの一部としますと、その二人が逢った夜に何があったのでしょうか。こんな歌があります。

集歌2497 早人 名負夜音 灼然 吾名謂 麗恃
訓読 隼人(はやひと)の名に負(お)ふ夜声(よこゑ)のいちしろく吾(わ)が名は告(の)りつ妻と恃(さもら)ふ
私訳 隼人の名前に相応しい夜警の声がはっきり聞こえるように、私の名前を貴方に告げます。そして、貴方の妻としてお側にいます。

 集歌2497の歌を二人の閨での会話の一部と取ることはできないでしょうか。この歌は、妻問い婚時代の通う男への「貴方に他の女がいても、私が貴方にとって一番の女です」との女の宣言ですし、「そうだ、お前が一番の女だ」との同意を求める甘えの言葉です。この夜の床での二人の会話の翌朝に、次の会話があれば、どのように貴女は解釈しますか。

集歌2391 玉響 昨夕 見物 今朝 可戀物
訓読 玉(たま)響(とよ)む昨日(きのふ)の夕(ゆふべ)見しものを今日(けふ)の朝(あした)に恋ふべきものを
私訳 美しい玉のような響きの声。昨日の夜に見たあなたの姿は、今日の朝には私が恋い慕うべき姿です。

 私は、歌の漢字の表現から恋人どうしの二人が愛し合う床で「玉の声が響む」と云う情愛を想像しました。その姿を昨夜に見た男性が、「その翌朝の今朝、その夜に乱れた貴女の姿を恋するべきもの」と詠ったと鑑賞しています。女性の相手への小声での秘めやかな会話でなく、床での抑えきれない「玉の声が響む」情景です。

 このような感覚で、二人の「夜の作法」を歌から想像してみませんか。

夜のお作法
妻問いの便り 募る恋心
集歌2412 我妹 戀無乏 夢見 吾雖念 不所寐
訓読 我妹に恋ひ羨(す)べなかり夢に見むと吾(わ)れは思へど寝(い)ねらえなくに
私訳 美しい私の貴女に恋することは羨むことではありません。夢に貴女の姿を見ようと私は思うのですが、さて、どこで夜を過ごしましょう。

妻問いへの返事 待つ思い
集歌2413 故無 吾裏紐 令解 人莫知 及正逢
訓読 故(ゆゑ)も無く吾(あ)が下紐を解(と)けしめて人にな知らせ直(ただ)に逢ふまでに
私訳 貴方は私の閨で逢ってもいないのに下着の紐を私に夢の中で解かさせて、そんな貴方への私の想いを人には気づかせないで。本当に逢って紐を解くまでは。

夜の営み 
睦言
集歌2497 早人 名負夜音 灼然 吾名謂 麗恃
訓読 隼人(はやひと)の名に負(お)ふ夜声(よこゑ)のいちしろく吾(わ)が名は告(の)りつ妻と恃(さもら)ふ
私訳 隼人の名前に相応しく夜警の声がはっきり聞こえるように、私の名前を貴方に告げます。そして、貴方の妻としてお側にいます。

抱き合う二人
集歌2498 釼刀 諸刃利 足踏 死ゞ 公依
訓読 剣太刀(つるぎたち)諸刃(もろは)の利(と)きに足踏みて死なば死なむよ君に依(よ)りては
私訳 二人で寝る褥の側に置いた貴方が常に身に帯びる剣や太刀の諸刃の鋭い刃に、私が足を踏んで死ぬのなら死にましょう。貴方のお側に寄り添ったためなら。

集歌2499 我妹 戀度 釼刀 名惜 念不得
訓読 我妹子に恋ひしわたれば剣太刀(つるぎたち)名の惜しけくも思ひかねつも
私訳 私の愛しい貴女を押し伏せて抱いていると、剣や太刀を付けている健男の名を惜しむことも忘れてしまいます。

朝衣の別れ
思い出す昨夜の営み 最初の便り
集歌2391 玉響 昨夕 見物 今朝 可戀物
訓読 玉(たま)響(とよ)む昨日(きのふ)の夕(ゆふべ)見しものを今日(けふ)の朝(あした)に恋ふべきものを
私訳 美しい玉のように響く貴女のあえぎ声。昨日の夜に見たあなたの姿は、今日の朝には私が恋い慕うべき姿です。

夜の恋の行為への思い出 便りへの返事
集歌2389 烏玉 是夜莫明 朱引 朝行公 待苦
訓読 ぬばたまのこの夜な明けそ朱(あか)らひく朝(あさ)行く君を待たば苦しも
私訳 漆黒の闇のこの夜よ明けるな、貴方によって私の体を朱に染めている、その朱に染まる朝焼けの早朝に帰って行く貴方を、また次に逢うときまで待つのが辛い。


返事への返歌 人麻呂の想い
集歌2404 思依 見依 物有 一日間 忘念
訓読 思ひ寄り見ては寄りにしものあらば一日(ひとひ)の間(ほど)も忘れて思へや
私訳 心に思い気持ちを寄せ、逢っては身を寄せた貴女の姿であるから、一日の間だって忘れたと思いますか。

また、その返歌 隠れ妻の想い
集歌2500 朝月 日向黄楊櫛 雖舊 何然公 見不飽
訓読 朝月(あさつき)の日向(ひむか)黄楊(つげ)櫛(くし)旧(ふ)りぬれど何しか君が見れど飽(あ)かざらむ
私訳 朝に月が太陽に会う日向の黄楊の櫛のように貴方と慣れ親しんでいますが、どうしてでしょう、貴方を見飽きることがありません。

集歌2501 里遠 眷浦経 真鏡 床重不去 夢所見与
訓読 里(さと)遠(とほ)み眷(か)ねうらぶれぬ真澄鏡(まそかがみ)床の辺(へ)去(さ)らず夢に見えこそ
私訳 貴方の家が遠いので振り返り見て寂しく思う。願うと姿を見せるという真澄鏡よ。夜の床を離れない私に夢の中にあの人の姿を見せてください。

 どうでしょうか、夜のお作法に適ったでしょうか。基本的には、男による妻問いでの相互の都合や日程の確認をし、当日の歌、朝衣の別れの歌、その返事の歌と、作法のルールに従って、歌を想像してみました。
 これを、少し大人として官能的に解釈しますと、次のような鑑賞をすることもできるようです。歌には人麻呂の愛撫の手の動きや隠れ妻の愛の喘ぎ声があります。

集歌2408 眉根削 鼻鳴紐解 待哉 何時見 念吾
訓読 眉根(まよね)掻き鼻(はな)ひ紐(ひも)解(と)け待つらむか何時(いつ)かも見むと思へる吾(わ)れを
私訳 眉毛を整え、化粧をして小鼻を鳴らし、上着の衣の紐を解いて、貴方を待っていましょう。何時、いらっしゃるのかと、思っています。私は

集歌2498 釼刀 諸刃利 足踏 死ゞ 公依
訓読 剣太刀(つるぎたち)諸刃(もろは)の利(と)きに足踏みて死なば死なむよ君に依(よ)りては
私訳 二人で寝る褥の側に置いた貴方が常に身に帯びる剣や太刀の諸刃の鋭い刃に足を踏み死ぬように、貴方の太刀に身を貫かれて死ぬのなら死にましょう。貴方のお側に寄り添ったためなら。

集歌2499 我妹 戀度 釼刀 名惜 念不得
訓読 我妹子に恋ひしわたれば剣太刀(つるぎたち)名の惜しけくも思ひかねつも
私訳 私の愛しい貴女を押し伏せて貴女の体を貫くと、そのような身を刺し貫く剣や太刀を身に帯びる大夫の名を惜しむことも忘れてしまいます。

集歌2390 戀為 死為物 有者 我身千遍 死反
訓読 恋するに死するものにあらませば我が身は千遍(ちたび)死にかへらまし
私訳 貴方に抱かれ、貴方のものに貫かれて死ぬのでしたら、私の体は貴方のために千遍も死んで生き還りましょう。

集歌2395 行々 不相妹故 久方 天露霜 沾在哉
訓読 行き行きて逢はぬ妹ゆゑひさかたの天(あま)露(つゆ)霜(しも)に濡れにけるかも
私訳 逢いに行っても、なかなか逢えない貴女のためでしょうか、遥か彼方の天からの清らかな露霜、そんな触れれば融ける露霜のような貴女の白い清らかな体に私は濡れてしまうでしょう。

集歌2389 烏玉 是夜莫明 朱引 朝行公 待苦
訓読 ぬばたまのこの夜な明けそ朱(あか)らひく朝(あさ)行く君を待たば苦しも
私訳 漆黒の闇のこの夜よ明けるな、貴方によって私の体を朱に染めている、その朱に染まる朝焼けの早朝に帰って行く貴方を、また次に逢うときまで待つのが辛い。

集歌2391 玉響 昨夕 見物 今朝 可戀物
訓読 玉(たま)響(とよ)む昨日(きのふ)の夕(ゆふべ)見しものを今日(けふ)の朝(あした)に恋ふべきものを
私訳 美しい玉のように響く貴女の愛しいあえぎ声。昨日の夜に見た乱れた貴女の姿は、今日の朝に私が恋い慕うべき姿です。

集歌2409 君戀 浦經居 悔 我裏紐 結手徒
訓読 君に恋ひうらぶれ居(を)れば悔(くや)しくも我(わ)が下紐(したひも)の結(ゆ)ふ手いたづらに
私訳 貴方を慕って逢えないことを寂しく思っていると、悔しいことに夜着に着替える私の下着を留める下紐を結ぶ手が空しい。

 どうでしょうか、人麻呂の「夜のお作法」で隠れ妻がどれほど乱れるかを、人麻呂も隠れ妻も知っている上での歌の相聞です。そして、奈良時代の宮中の女性たちは人麻呂歌集の名で、この二人の相聞歌を知り、同時に愛の楽しみ方を想像したようです。
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但馬皇女 誤読された純愛

2009年08月28日 | 万葉集 雑記
但馬皇女 誤読された純愛

 万葉集に激しい禁断の恋をしたとされる但馬皇女の歌があります。普段には歌の標の「在高市皇子宮」から、この歌が詠われた時に但馬皇女は高市皇子の家(宮)に同居していたとしています。ただ、この普段の解説の根拠を真剣に考えると、万葉集とその時代の解釈が大きく変わる可能性があります。
 なぜ、普段の解説の根拠を真剣に考えると、万葉集とその時代の解釈が大きく変わるのかの理由を説明する前に、その万葉集の但馬皇女に関わる歌を以下に載せます。

但馬皇女在高市皇子宮時、思穂積皇子御作謌一首
標訓 但馬皇女の高市皇子の宮の在(あり)し時に、穂積皇子を思(しの)ひての御作(おほみ)歌(うた)一首
集歌114 秋田之 穂向乃所縁 異所縁 君尓因奈名 事痛有登母
訓読 秋の田の穂向(ほむき)の寄れる片寄りに君に寄りなな事痛(こちた)くありとも
私訳 秋の田の稲の穂は一方向に寄るように一途に貴方に寄り添いたい。支障があったとしても。

勅穂積皇子遣近江志賀山寺時、但馬皇女御作謌一首
標訓 穂積皇子に勅(みことのり)して近江の志賀の山寺に遣(つか)はしし時に、但馬皇女の御作(おほみ)歌(うた)一首
集歌115 遺居而 戀管不有者 追及武 道之阿廻尓 標結吾勢
訓読 遣(おく)れ居(ゐ)て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈廻(くまみ)に標(しめ)結(ゆ)へ吾が背
私訳 こちらに残っていて、ただ、貴方を恋慕っているだけでいることが出来ないのなら、貴方を追って付いて行きたい。追っていく私に判り易いように道の曲がり角毎に印を結んで下さい。私の貴方。

但馬皇女在高市皇子宮時、竊接穂積皇子、事既形而御作謌一首
標訓 但馬皇女の高市皇子の宮の在(あり)し時に、竊(ひそ)かに穂積皇子に接(あ)ひて、事すでに形(あら)はれての御作歌一首
集歌116 人事乎 繁美許知痛美 己世尓 未渡 朝川渡
訓読 人(ひと)事(こと)を繁(しげ)み事痛(こちた)み己(おの)が世にいまだ渡らぬ朝(あさ)川(かわ)渡る
私訳 色々な事情があり支障のある今の私ですが、今まで渡ったことのない朝に川を貴方のために渡ります。

但馬皇女薨後、穂積皇子、冬日雪落、遥望御墓、悲傷流涕御作謌一首
標訓 但馬皇女の薨(かむあが)りましし後に、穂積皇子の、冬の日に雪の落るを遥(はる)かに御墓(みはか)を望みて悲傷(かなし)み流涕しての御作歌一首
集歌203 零雪者 安播尓勿落 吉隠之 猪養乃岡之 塞為巻尓
訓読 降る雪はあはにな降りそ吉隠(よなばり)の猪養(いかひ)の岡の塞(さへ)なさまくに
私訳 降る雪は一面に積もるように降らないでくれ。吉隠の猪養の丘が一面の雪で覆われて隠れてしまうまで。

穂積皇子御謌二首
標訓 穂積皇子の御歌(おほみうた)二首
集歌1513 今朝之旦開 鴈之鳴聞都 春日山 黄葉家良思 吾情痛之
訓読 今朝(けさ)の朝明(あさけ)雁(かり)が音(ね)聞きつ春日山(かすがやま)黄葉(もみぢ)にけらし吾が情(こころ)痛し
私訳 今朝の朝明けに雁が鳴く声を聞きた。春日山はもう黄葉しただろう。忙しくて、それを見る事の出来ないことを想うと気持ちが沈む。

集歌1514 秋芽者 可咲有良之 吾屋戸之 淺茅之花乃 散去見者
訓読 秋萩は咲くべくあらし吾が屋戸(やど)の浅茅(あさぢ)が花の散りゆく見れば
私訳 野辺の秋萩が咲く時期になったらしい。私の屋敷の浅茅の花の散っていくのを見ると。

但馬皇女御謌一首  一書云、子部王作
標訓 但馬皇女の御歌(おほみうた)一首  一(ある)書に云はく「子部王の作なり」といへり。
集歌1515 事繁 里尓不住者 今朝鳴之 鴈尓副而 去益物乎 (一云 國尓不有者)
訓読 事(こと)繁(しげ)き里に住まずは今朝(けさ)鳴きし雁に副(たぐ)ひて去(ゆ)かましものを (一云 国にあらずは)
私訳 下世話な仕事の多い里に住んでいないで、今朝鳴いた雁に連れ添って付いて行きたいものです。

 最初に但馬皇女と穂積皇子の人物を紹介しますと、但馬皇女は天武天皇と藤原大臣(中臣金)の娘である氷上娘との間の御子で、和銅元年(708)六月に亡くなられています。一方の穂積皇子は天武天皇と蘇我赤兄の娘である大甦娘との間の御子で、元明天皇の慶雲二年(704)九月に知太政官事に就任し、霊亀元年(715)七月に一品知太政官事で亡くなられています。この穂積皇子の官位と職務の一品知太政官事は、摂政宮または古来の大王の格に相当します。それで、歌では「御作歌」や「御歌」の敬称が使われているのです。また、穂積皇子は持統五年(691)に浄広弐の官位が与えられていますから、この頃に二十一歳になったと推定されます。つまり、誕生は天智九年(670)の生まれで、四十五歳の霊亀元年(715)七月に亡くなられたとなります。但馬皇女の歌には穂積皇子への「御作歌」や「御歌」と同じ言葉が使われていますから、二人は正式に婚姻し、但馬皇女は正妻であったと推定できます。ただ、二人の間に御子があったかどうかは伝承を含め伝わってはいません。

 ここで、これらの歌を鑑賞するとき「但馬皇女在高市皇子宮時」をどのように解釈するかで、歌の解釈は全く変わってきます。私は「壬申の乱から高市皇子を考える」で、飛鳥・奈良時代は政教分離の中皇命(天皇)と大王(太政大臣)の時代であり、藤原京とは太政大臣高市皇子が造った「明日香藤井が原宮」のことと説明しました。つまり、歴史において「在高市皇子宮」には「高市皇子の宮(みやこ)の時代」の意味合いもあるのです。普段の解説では、「在高市皇子宮」を「高市皇子の宮(みや)に在住する」と理解しますが、ここに私の解釈と普段の解釈の差があります。もし、「在」の漢字が時代を表わすなら「宮」は、必然的に首都である「みやこ」を意味します。
 そこで万葉集の中から、万葉集の編者が付けたと思われる標で「在」の漢字が使われているものを抜き出してみますと次のようなものがあります。

1. 山上臣憶良在大唐時、憶本郷作謌 集歌63
2. 柿本朝臣人麻呂在石見國臨死時、自傷作歌一首 集歌223
3. 門部王在難波見漁父燭光作歌一首 集歌326
4. 難波天皇妹奉上在山跡皇兄御謌一首 集歌484
5. 獻天皇謌一首  大伴坂上郎女在佐保宅作也 集歌721
6. 獻天皇謌二首  大伴坂上郎女在春日里作也 集歌725
7. 在久邇京思留寧樂宅坂上大嬢大伴宿祢家持作謌一首 集歌765
8. 三年辛未大納言大伴卿在寧樂家思故郷歌二首 集歌969
9. 此獣獻上御在所副謌一首  獣名俗曰牟射佐妣 集歌1028
10. 御在西池邊肆宴謌一首 集歌1650

 ケース5、6、8は「在」の意味合いにおいて、場所を示す意味合いより、その場所にいた時代を表わす意味合いの方が強いと思われます。一方、ケース4、9、10は、住居する場所を表わしています。残りのケースは、場所の意味合いと時代の意味合いの両方の意味合いがあります。つまり、万葉集では「在」に場所を示すものとその場所にいた時代を表わすものとの二つの表現があったとすることが出来ると思います。
 こうしたとき、普段の解釈では、「在」は場所を表わすとして但馬皇女は「高市皇子の宮殿に在住する」女性ですから、それをもう一段進めて、高市皇子の妻と解釈して但馬皇女と穂積皇子との禁断の恋と理解します。一方、私は「在」はその場所にいた時代を表わすとして「藤原京の高市皇子が生きていた時代」の出来事と解釈します。つまり、但馬皇女と穂積皇子との恋は男性から女性に愛の告白をする古式の逆を行く女性の激情ですが、一途な純愛と解釈します。それで、歌の解釈が全く変わってきます。
 標の「在」の漢字を「その場所にいた時代を表わす」と解釈しますと、高市皇子を含む但馬皇女と穂積皇子との間に三角関係は成立しません。但馬皇女から積極的に穂積皇子に対し、女性の感情を一方的にぶつけただけになります。古事記や日本書紀にある神話から推測して、当時は女性から積極的に恋愛感情を表すことは良くないこととされていたと思われます。それが、「事痛くありとも」であり「人事を繁み事痛み」なのでしょう。この状況について、但馬皇女が受けた感情は、「噂で話題に上るが、強く諌める」ようなものではありません。歌を素直に読む限り、人妻による禁断の恋ではなかったと推測されます。(今日の考古学では、但馬皇女が独立して「宮」を持っていたことが有力のようです。)
 さらに、歴史から正しく社会を理解しなければいけないのは、但馬皇女と穂積皇子との噂になる激情があった時代を通じて、高市皇子は太政大臣で日嗣皇子尊の立場で、皇位継承第一位です。歴史では高市皇子は持統天皇より先に亡くなられていますが、場合によっては高市皇子と内親王との男子の御子は天皇の位に付く可能性があるのです。つまり、高市皇子の妃は立場上、浮気はできないのです。実際、高市皇子の子の長屋王は、王である軽皇子と藤原四兄弟による歴史初の下克上クーデターで殺されてしまいましたが、懐風藻の大学頭従五位下山田史三方の新羅の外交使節を迎えた宴での漢詩にあるように長屋王は漢語の「君王(=天皇または摂政宮)」なのです。但馬皇女が本当に高市皇子の妃であった場合は、大津皇子の例からして但馬皇女と穂積皇子とは処刑されるような事件なのです。どうも、高市皇子は壬申の乱を戦い勝った軍人であり、太政大臣日嗣皇子尊であることを忘れた解説が多すぎるのでは無いでしょうか。聖武天皇は「天下と天下の全ての富は自分のもの」と発想しましたが、高市皇子はそれ以上の軍人の太政大臣である日嗣皇子尊なのです。文学での創訳としての恋の三角関係の解釈はあっても良いと思いますが、普段の万葉集の解釈には遠いものと思います。これでは、歴史学の専門家が文学的に創訳を行い、歴史学の部外漢が普段の解釈をする不思議な情景です。
 このように歴史と「在」の漢語の解釈が得られた後の但馬皇女と穂積皇子との歌々の解説は、残念ながら普段の解釈で思われている三角関係とは違い、面白みがありません。但馬皇女の三首は、「人がどのように噂しようが、あの人を好きになったのだから仕方がないじゃないの。」という一途な感情で貫かれています。そして、歌からは、最初は「人が噂しようが、私から好きになってしまった。」、次に「毎日、貴方に会いたい。」、最後は共寝が知られた後の歌ですが「夜一人は寂しい。何と言われようと、今、抱かれたい。」と感情と恋愛は進化しています。
 ここで、集歌115の歌の標の「勅穂積皇子遣近江志賀山寺」の山寺は、普段の解説では近江の崇福寺のことを示すとしますが、まず、違います。この集歌115の標に示す志賀山寺は万葉集の「勅」の字や持統七年十一月の記事と持統八年(694)三月の詔から、滋賀県野洲市の益須寺(やすてら)のことです。このとき、近江益須郡に醴泉が湧き出し、その醴泉の効能を認め、朝廷は功績として近江の国司の頭(かみ)から目(さくわん)まで官位を一つ進め、住民には恩賞の品が下賜しています。この記事から推測して醴泉の湧き出しは白雉や白鹿なみの慶事の扱いですので、何らかの勅使が現地を訪れています。
 こうした時、この持統八年三月の詔の記事から但馬皇女と穂積皇子との恋愛が発展して行く、おおよその時期の推定が出来ると思います。その時間軸の中心が集歌115の歌で持統八年(694)三月で、但馬皇女の死亡の年である和銅元年(708)六月が次の制限ラインに相当します。では、穂積皇子が但馬皇女が亡くなられた後、但馬皇女を偲んで詠った集歌203の歌はいつ頃の歌でしょうか。歌からは但馬皇女は吉隠の猪養の岡付近に葬られたように読めます。そして、標では「遥望御墓」となっています。吉隠の猪養の岡は桜井市吉隠地区とされていますから、穂積皇子は藤原京から初瀬の山並みを望んでこの歌を歌ったと考えられます。まず、平城京ではないと思います。ここで、但馬皇女の死亡は和銅元年六月で、平城京遷都は和銅三年三月です。すると、冬の雪のチャンスは和銅二年と三年だけですので、但馬皇女が亡くなられて最初の冬の雪の日に穂積皇子はこの歌を詠まれたのでしょうか。当時、雪は天からの便りともされていましたから、それで、その雪を火葬され火煙(けぶり)になり雲となった但馬皇女からの手紙と思って「悲傷流涕」という情景になったのでしょうか。およそ、集歌203の歌は、和銅二年初春のある日に詠われたようです。歌の標に「竊接穂積皇子」とあるように但馬皇女と穂積皇子とが共寝をする関係になってから約十年後の死別と回顧の歌となります。
 なお、但馬皇女は和銅元年六月に初瀬上流の吉隠に葬られていますから、時代性として火葬の可能性が高いと思います。すると、皇室ゆかりとして長谷寺の西の岡(ここも吉隠の一部)で供養された可能性はあります。私としては、女性皇族として華の長谷寺で供養されたと思いたい気分です。現在、「華の長谷寺」と称される長谷寺は、女性にとって一人の男性に一途に恋してその思いを遂げ、そして一生その男性に深く愛された幸せな女性の恋愛成就のお寺なのでしょうか。色々と、妄想は広がります。
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誤解だ! 恋人は御名部皇女で、十市皇女ではない

2009年08月27日 | 万葉集 雑記
誤解だ! 恋人は御名部皇女で、十市皇女ではない

 古くから高市皇子の恋人とされる十市皇女の関係の歌を、万葉集の中から集めてみました。

明日香清御原宮天皇代 天渟中原瀛真人天皇 謚曰天武天皇
標訓 明日香(あすか)清御原宮(きよみはらのみやの)天皇(すめらみことの)代(みよ) 天渟中原瀛(あまのぬなはらおきの)真人(まひとの)天皇(すめらみこと) 謚(おくりな)して曰はく天武天皇。
十市皇女、参赴於伊勢神宮時、見波多横山巌吹黄刀自作謌
標訓 十市皇女の伊勢神宮に参(まゐ)赴(おもむ)し時に、波多(はた)の横山の巌を見て吹黄刀自の作りし歌。
集歌22 河上乃 湯津盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常處女煮手
訓読 河し上(へ)のゆつ磐群(いはむら)に草(くさ)生(む)さず常にもがもな常(とこ)処女(をとめ)にて
私訳 河の水中から顔を覗かせる厳かな岩群には雑草が生えることなくそのままであるように、貴女も常に私がお仕えする貴女であってほしい。
左注 吹黄刀自未詳也。但、紀曰、天皇四年乙亥春二月乙亥朔丁亥、十市皇女、阿閇皇女、参赴於伊勢神宮。
注訓 吹黄刀自は未だ詳らかならず。但、紀に曰はく「天皇四年の乙亥の春二月乙亥の朔の丁亥に、十市皇女と阿閇皇女、伊勢神宮に参赴く」といへり。

明日香清御原宮御宇天皇代  天渟中原瀛真人天皇、謚曰天武天皇
標訓 明日香(あすか)清御原宮(きよみはらのみやの)天皇(すめらみことの)代(みよ) 天渟中原瀛(あまのぬなはらおきの)真人(まひとの)天皇(すめらみこと) 謚(おくりな)して曰はく天武天皇。
十市皇女薨時高市皇子尊御作謌三首
標訓 十市皇女の薨ましし時に、高市皇子尊の御作ましし歌三首
集歌156 三諸之 神之神須疑 已具耳矣 自得見監乍 共不寝夜叙多
試訓 三(み)つ諸(もろ)し神し神杉(かむすぎ)過(す)ぐのみを蔀(しとみ)し見つつ共(とも)寝(ね)ぬ夜(よ)そ多(まね)
試訳 三つの甕を据えると云う三諸の三輪山、その神への口噛みの酒を据える、神山の神杉、その言葉の響きではないが、貴女が過ぎ去ってしまったのを貴女の部屋の蔀の動きを見守りながら、その貴女が恋人と共寝をしない夜が多いことです。

集歌157 神山之 山邊真蘇木綿 短木綿 如此耳故尓 長等思伎
訓読 神山(かむやま)の山辺(やまへ)真麻(まそ)木綿(ゆふ)短か木綿(ゆふ)如(か)くのみ故(から)に長(なが)と思ひき
私訳 神の山の山辺に捧げる真麻木綿が短い木綿に見えるような、貴女はこれからもずっと長くこの世にいらっしゃると思っていました。

集歌158 山振之 立儀足 山清水 酌尓雖行 道之白鳴
訓読 山吹し立ち儀(よそ)ひたる山(やま)清水(しみず)酌(く)みに行かめど道(みち)し知らなく
私訳 山吹の花が美しく咲き誇る山の清水を汲みに行きたが、その行く道を知らない。
左注 紀曰、七年戊寅夏四月丁亥朔癸巳、十市皇女卒然病發薨於宮中
注訓 紀に曰はく「七年戊寅の夏四月丁亥の朔の癸巳に、十市皇女の卒然(にはか)に病(やまひ)を發(おこ)して宮の中(うち)に薨(かむあが)りましき」といへり。

 これらの歌は、巻一と巻二の天武天皇の時代の歌群の筆頭に置かれた歌々です。
 最初に、集歌22の「常處女煮手」の處女の意味の取り方について、教職を執られている方でも誤解して解釈されていることがありますので、少し、説明をさせて頂きます。「處女」は「処女」の漢字ですが、漢語本来の意味は実家や自分の棲家に住む女性のことを示します。つまり、万葉集の歌の世界での「處女」の漢字には、男を知らない生娘の意味はありません。実は、「男を知らない生娘」の意味が出来たのは、江戸時代の国学としての儒教が隆盛してからのことです。国学の「良婦は二夫に交えず」の思想から「実家に居る娘はまだ嫁いでいない。つまり、男を知らない生娘のはずだから、處女は未通女を意味する」との、新しい意味が加えられています。現在の万葉集の訓読みに多大な影響を与えている鹿持雅澄氏の「万葉集古義」は、このような新しい漢字の意味が造られた時代の書物です。万葉集を研究されている方は、この漢字と言葉の歴史を踏まえて、一部の十市皇女に対する生娘論争を楽しく眺めているようです。もし、お手元の万葉集の解説本で「処女」の漢字の意味を江戸期の意味で解説しているようでしたら、他の解説も「特別な解説」をしていると思いますので、特殊な本として扱われた方が良いのかも知れません。
 このように「處女」の漢字の意味は、本来の「実家や自分の棲家に住む女性」の意味合いで解釈しますと、次のような概訳になります。

集歌22 河上乃 湯津盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常處女煮手
訓読 河の上(へ)のゆつ磐群(いはむら)に草(くさ)生(む)さず常にもがもな常(とこ)処女(をとめ)にて
概訳 流れる川の磐に草が生えないのと同じで、これからも雑念が生じないようにずっと一生懸命にお側でお仕えしたいので、私の大切な十市皇女であってほしい

 この吹黄刀自の歌の雰囲気は、現在の安定した状態がずっと続いてほしいような気持ちが透けて見えるような気がします。壬申の乱を挟んで激動の数年が過ぎ、やっと、平穏な日々が訪れ、当時の女性としては今日の外国旅行に等しい伊勢行きに、気持ちが高揚して母親的な気持ちが出て来たのではないでしょうか。既に夫(大友皇子)が亡くなっている十市皇女は、吹黄刀自からすると高貴な女主人となる立場ですが、その目上の女性に対して年配の女性が使う「常處女」の表現は、従来の解釈とは違う、後見人のような感覚を感じる興味あるものです。
 少し補足しますと、この集歌22の歌が詠われた背景には、前年の暮れに十二歳になったばかりの大来皇女が最初の伊勢斎宮の斎王として伊勢の度会に赴かれた事件があります。このような状況で、年長の十市皇女と幼い阿閇皇女は大来皇女へのご機嫌伺いで赴かれたか、何らかの天皇家由来の神事の宝物を斎宮に届けられたと推測されています。確認しますが、十市皇女は、「斎王」として伊勢に赴かれたのではありません。
 次に万葉集巻二の高市皇子尊が詠う十市皇女の死を悼む歌の説明の前に、日本書紀の一文を紹介します。

天武七年四月の記事より
原文 是春、将祠天神地祗、而天下悉祓禊之。竪斎宮於倉梯河上。
夏四月丁亥朔、欲幸斎宮ト之。癸巳、食ト。仍取平旦時、警蹕既動。百寮成列、乘輿命蓋、以未及出行、十市皇女、卒然病發、薨於宮中。由此、鹵簿既停、不得幸行。遂不祭神祇矣。

訓読 是の春に、天神地祗(あまつかみくにつかみ)を祠(まつ)らむとして、天下悉(ことごとく)に祓禊(おほみはらへ)す。斎宮(いつきのみや)を倉梯の河上に竪(た)つ。
夏四月の丁亥(ひのとのゐ)の朔(ついたちのひ)に、斎宮に幸(いで)さむとしてト(うらな)ふ。癸巳(みずのとのみのひ)、トに食(あ)へり。仍りて平旦(とら)の時を取りて、警蹕(みさきおひ)既に動きぬ。百寮(つかさつかさ)列(つら)を成し、乘輿(きみ)蓋(おほきかさ)を命(め)して、以って未だ出行(おは)しますに及らざるに、十市皇女、卒然(にはか)に病發(おこ)りて、宮中に薨せぬ。此に由りて、鹵簿(みゆきのつら)既に停まりて、幸行(おはしま)すこと得ず。遂に神祇(あまつかみくにつかみ)を祭りたまはず。

 この記事は旧暦四月上旬に行われる広瀬大社の大忌祭の祭主を務めるにあたって、天下の穢れを天皇が人民を代表して精進潔斎を行うために建てた斎宮へ出発の直前に十市皇女が亡くなられたことを示しています。少し長めのこの日本書紀の一文を載せたのは、十市皇女に対する理解を深めていただきたいからです。
 万葉集の高市皇子が、十市皇女が亡くなられたときに詠った歌の解説で、先の「処女」の漢字と同じように「斎宮」の意味を誤解して解説するものがあります。この「斎宮」とは、紹介した日本書紀の記事が示すように、本来、朝廷が重要な神事を行う前に、祭主が身の穢れを除くために精進潔斎を行う場所を示します。「斎宮」を皇族の巫女のような女性とする解釈は、この当時にはありません。後年に、伊勢皇大神宮の斎王が住まわれた場所を「斎宮」と称し、同時に高貴な御方の名を直接に口に出すのは不敬ですから御在所や人物が想像出来る事柄から名前の代わりにしたため、「斎王」である皇女を「斎宮」と呼ぶ慣わしになりました。先に紹介した日本書紀の記事の主眼は、広瀬大社の大忌祭を行うとしたが十市皇女が急死されたために身内の不幸で精進潔斎が出来なくなり、その年の大忌祭が取り止めになった事件です。つまり、この天武七年四月の十市皇女に関するものからは、十市皇女と天皇の斎宮とには直接の関係が無いことは明白です。
 ご存じのように一部の万葉集の解説で、十市皇女の急死と伊勢神宮の斎王と結びつける解説がありますが、どこから、その解説の根拠が出て来たかは不明です。ただ、推測として、「伊勢神宮の皇女の斎王」を、当時の慣習に従って貴人の名前ではなくその場所から「斎宮」と称したのを、後年に「斎宮」とは必ず伊勢神宮の祭事を行う皇女であると思い込んだと思われます。いずれにせよ、祭主である「皇女の斎王」とその精進潔斎する場所の「斎宮」とを、きちんと区別する必要があることは当然です。これらから、まず、高市皇子尊御作謌三首が、「十市皇女の伊勢神宮の斎王説」とは関係の無いことが、ご理解いただけるものと思います。
 つぎに、十市皇女が亡くなられたときに日本書紀の記事からは宮中に住んでいたことが判ります。天武天皇と十市皇女とは実の親子ですから、十市皇女は天武天皇の妃ではありません。つまり、壬申の乱以降は天武天皇の下で娘として保護されていることが判ります。一方、その頃に十市皇女の母親の額田王と弓削皇子との間で長寿を祝う苔松の歌の遣り取りを行っています。これから、当時、額田王は宮中に居住していたが推定できます。つまり、場合によっては、罪人(大友皇子)の妃である十市皇女は、天武天皇の宮殿にいた母親の額田王と一緒に暮らしていた可能性があります。

 このような状況を踏まえて、本題の高市皇子尊御作謌三首について見ていきます。
 最初に、集歌158の歌に関して、山吹の「黄」と山清水のイメージから「泉」を得て、「黄泉(よみ、こうせん)」を解説するものがあります。ところが、当時の中国では史記や後漢書では「黄泉(こうせん)」の漢語の意味は、まだ「地下」や「天上、地上、地下」のような場所的意味での「天地黄泉」だったようです。風習として地下に死者を埋葬するから死者の国ですが、死者の国のイメージはまだ主流ではなかったようです。当然、「黄泉」は漢語ですから、高市皇子が死者の国の「黄泉」のイメージを持って、集歌158の歌を歌ったかは疑問があります。また、当時の大和の国では、死者は荒野に破棄するような穢れとされていましたから、後年の「黄泉(よみ)返り」まで踏み込むに相当な歴史への勇気が必要です。さらに、私は、当時の大和の国での「黄泉」の言葉が持つ死者の穢れのイメージとこの歌の清らかなイメージとが合わないような気がします。古事記にあるように「黄泉の国」は、還つて直ぐに「禊」をすることを求められる場所です。たぶん、高市皇子は彼の死後、百年の後の長恨歌の世界を知らないと思います。それに、まだ平安貴族が好きな白楽天は生まれていません。
 ところで、歌に詠む山吹は中国では「棣棠(ていとう)」と表記しますが、日本とは違って花に豪華さが無いために、当時の花の人気投票で六十五番目です。一方、中国人が不思議がるように日本では古くから黄金の形容詞にもなるように、五月の花として非常に人気のある花です。大和の人の山吹の花のイメージは、当時の「黄泉」の言葉が持つウジが集り腐乱した死体のイメージはなく、あくまでも、新緑に覆われた谷間に黄色い花群が浮かぶ岩崖の染み出る苔むす水辺で、楚々とした美しさです。また、人麻呂の明日香皇女の挽歌等から類推して、現在と違って当時は、亡くなった若い女性を性の対象として誉めるのが良いこととされていたようです。その感覚からは、「山吹」は春の好ましい着飾った女性で、谷間の「山清水」は男性との共寝での女性のある状態を示します。当然、「激(たぎ)」ではないので「山清水」は岩の間から密やかに染み出る水です。
 概訳すると、

集歌158 山振之 立儀足 山清水 酌尓雖行 道之白鳴
訓読 山吹し立ち儀(よそ)ひたる山(やま)清水(しみず)酌(く)みに行かめど道(みち)し知らなく
概訳 新緑に萌える山の谷間に山吹の黄色い花で囲まれた山清水のような潤んだ貴女を抱きたいが、何処に行けば良いか判らない。もう、貴女を抱けない

 このような感覚でしょうか。ただし、この歌は挽歌であることを忘れてはいけません。それは、当時は人麻呂が詠う明日香皇女の挽歌と同じで若くして亡くなった女性の「性的美人」を誉めるのが儀礼だったようですから、十市皇女を讃えるのが主眼の場合、高市皇子と十市皇女との間に性的交渉があったかどうかは不明です。
 ここで、この歌への疑問として、当時は女性の美を誉める時は葛蔓(藤の花房)などの詞を使いますが、葬儀が行われていた時期的に少し早かったので山吹の花なのでしょうか。十市皇女の身分からすると、紫色の葛蔓の方が誉め詞の比喩としては相応しいのですが、それを採用していません。十市皇女愛人説の可能性があるなら、葬儀の当日に限らずに時間経過があるでしょうから、亡くなられた時期と花の時期とは左右はされないと思いますので、身分に相応しい美しい花を比喩に使ったのではないでしょうか。そのためか、私は歌の表情からは惜別の情念を強く感じられません。およそ、二人には肉体関係は無かった方の可能性が高いと思います。このためか、人麻呂の歌う明日香皇女や吉備津采女に対する挽歌での表現に比べれば、この歌での性的表現は非常に控えめです。
 次に、集歌157の歌で詠う「長くと思ひき」と思った対象は何でしょうか。一般には、「高市皇子と十市皇女との逢瀬が末永く続くものと思った」と解釈しますので「逢瀬」です。さて、そうでしょうか。この歌は挽歌です。挽歌の立場からは、「十市皇女の命が長く続くと思っていたが、若死してしまった」とも解釈できるはずです。つまり、「長くと思ひき」と思った対象は「十市皇女の命」です。
 私は、挽歌としての歌の解釈から十市皇女の命が「長くと思ひき」と思っています。単純にこの歌は、葬儀の式場で「若死にされて残念です」と詠ったと理解したほうが良いでしょう。「神山之 山邊真蘇木綿 短木綿」とは、葬送の儀式において「長くと思ひき」の詞に重みを持たせたのと思います。十市皇女の埋葬された場所は、正面に三輪山を見据える場所です。その場所で、神式葬儀を行ったのです。場面的には、当然、「神山の山辺真麻(まそ)木綿(ゆふ)短か木綿(ゆふ)」です。この歌は挽歌としてはそれなりに重厚ですが、十市皇女愛人説の場合、当時としては異例の年上の愛人の突然の死亡に対する惜別の歌としたら、あまりにそっけない歌ではないでしょうか。

集歌157 神山之 山邊真蘇木綿 短木綿 如此耳故尓 長等思伎
訓読 神山(かむやま)し山辺(やまへ)真麻(まそ)木綿(ゆふ)短か木綿(ゆふ)如(か)くのみ故(から)に長くと思ひき
私訳 神の山の山辺に捧げる真麻木綿が短い木綿に見えるような、貴女はこれからもずっと長くこの世にいらっしゃると思っていました。

 最後に、集歌156の歌について見てみます。三句と四句目の「已具耳矣自得見監乍」については、いまだにその句切れの位置とその訓みが定まっていません。ここでは万葉集の原文とその訓読については、個人的な試訓と試訳を使っています。当然、この句については、別に多くの試訓があります。例えば、契沖の万葉代匠記では、この「已具耳矣自得見監乍共」に対して、「已具耳矣自得 見監乍共」と句切り、

原文音読 いくにをしと みけむつつとも
訓読表示 逝くに惜しと 見けむつつとも

と読んでいます。つまり、契沖が示す歌全体としての試みの訓読では、

原文 三諸之 神之神須疑 已具耳矣自得 見監乍共 不寝夜叙多
試訓 三諸(みはやま)し神し神(かむ)杉(すぎ) 逝くに惜し見けむつつとも 寝(い)ぬ夜ぞ多き

となります。
 一方、十市皇女愛人説を取る立場では「已具耳」を「いめに」と読み、概ね「夢」を起こしているようです。

別訓 三諸(みもろ)の神の神(かむ)杉(すぎ) 夢(いめ)のみ見えつつ共に寝(い)ねぬ夜ぞ多き

などがあります。

 私は十市皇女愛人説を採りません。そこで、契沖の訓みを下にこの歌を見て行きたいと思います。十市皇女は、天武七年(678)四月十四日に赤穂に葬られています。この赤穂については、奈良市高畑町の鏡神社の比売塚説、奈良県北葛城郡広陵町の赤穂墓説、桜井市赤尾の鳥見山山麓古墳群にある方墳説など諸説がありますが、私は、天武七年の時代性と個人的恣意から桜井市赤尾の栗原川南岸の地を採用しています。大まかに桜井市赤尾は初瀬川の南側で鳥見山の東北側の裾野に位置します。鳥見山を背にした場合、目の前には大神神社の三輪山が視界に入ります。
 集歌156の歌を契沖の訓をベースに読むと、高市皇子尊の歌は天武天皇一族の親族代表として、葬儀の儀礼として十市皇女の挽歌を詠っただけとなります。つまり、以上の状況から集歌156を訓を折衷し、概訳すると、

原文 三諸之 神之神須疑 已具耳矣 自得見監乍 共不寝夜叙多
折衷 三(み)つ諸(もろ)し神し神(かむ)杉(すぎ)過ぐのみを蔀(しとみ)見つつとも寝ぬ夜ぞ多(まね)
概訳 三つの甕を据えると云う三諸の三輪山、その神への口噛みの酒を据える、神山の神杉、その言葉の響きではないが、貴女が過ぎ去ってしまったのを貴女の部屋の蔀の動きを見守りながら、その貴女が恋人と共寝をしない夜が多いことです。

となります。
 儀礼としての挽歌とすると通り一遍で過不足ありませんが、歌物語としてはまったく面白みに欠けるものになります。十市皇女は高市皇子より数歳年上の長姉とされて、また、高市皇子は天武天皇の長兄ですから、人臣最高の左大臣であり長兄の高市皇子は十市皇女の葬儀において、残された兄妹代表の立場でもあります。
 ここまで説明して来て手前味噌ではありますが、使われる漢字の「自得見監乍」からすると、提案する試訓と私訳の方が「蔀の動きで相手の動きを感じる」となりますので、より歌として面白いと思います。人麻呂は自分の妻の死を妻が使った木枕がぽつりと置かれている情景で示しましたが、ここでは、何時まで経っても、部屋の蔀が開けられない状況で、部屋の主の不在を示します。
 ただし、このように高市皇子尊が詠う三首の歌を見てくると、高市皇子と十市皇女との間に恋愛を含めて何らかの折衝・交通があったかどうかについても疑問を感じます。私には高市皇子の歌からは禁断の恋をした情念のような感覚を感じることが出来ずに、何か、疎遠な近親者の姉のような感覚です。普段の解説に従い公式の場での挽歌でないとするならば、本来なら二人しか知らないような思い出を詠っても良いはずです。ところが、なぜ、葬儀が営まれたその場所(三諸山の神杉)とその時期(山吹)の歌だけなのでしょうか。従来の十市皇女愛人説を採る人は、ここを説明する必要があると思います。それに、なぜ、歌に過去の思い出や情念が無いのでしょうか。
 次の集歌203の歌は但馬皇女への思い出の歌ですが、この歌には折々に亡き人を偲ぶ愛情と情念があると思います。

但馬皇女薨後、穂積皇子、冬日雪落、遥望御墓、悲傷流涕御作謌一首
標訓 但馬皇女の薨(かむあが)りましし後に、穂積皇子の、冬の日雪の落(ふ)るに、遥かに御墓(みはか)を望まれて、悲傷(かなし)み涕(なみだ)を流して御作歌(おほみうた)一首
集歌203 零雪者 安播尓勿落 吉隠之 猪養乃岡之 塞為巻尓
訓読 降る雪はあはにな降りそ吉隠(よなばり)し猪養(いかひ)の岡し塞(さへ)さしまくに
私訳 降る雪は一面に積もるように降らないでくれ。吉隠の猪養の丘が一面の雪で覆われて隠れてしまうほどに。
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恋の技巧か、歌合わせか

2009年08月26日 | 万葉集 雑記
恋の技巧か、歌合わせか

突然ですが、天平年間の初期に活躍した人物で湯原王と云う人物がいました。この湯原王は志貴皇子の御子で、彼が詠った和歌が万葉集に載せられて現在に伝わっています。ただ、政治的には何をしたかは不明で、任官履歴や生没年などは伝わっていません。
ここで、万葉集に載る湯原王と娘子との相聞歌を紹介します。これらの歌々は、二人の身分を想像しての人間関係を考えると、少し、面白い歌です。湯原王に任官の伝承がありませんが、本来ですと親が志貴皇子であることから五位以上の貴族に相当しますので、そのとき、相手の「娘子(おとめ)」の立場が気になります。

湯原王贈娘子謌二首 志貴皇子之子也
標訓 湯原王の娘子に贈れる歌二首 志貴皇子の子なり
集歌631 宇波弊無 物可聞人者 然許 遠家路乎 令還念者
訓読 表辺(うはへ)無きものかも人は然(しか)ばかり遠き家路(いへぢ)を還(かへ)す念(おも)へば
私訳 愛想や礼儀もないのだろうか。あの女(ひと)は。このような遠い家路を逢うことなく帰してしまうことを思うと。

集歌632 目二破見而 手二破不所取 月内之 楓如 妹乎奈何責
訓読 目には見て手には取らえぬ月の内の楓(かつら)のごとき妹をいかにせむ
私訳 目には見ることが出来ても取ることが出来ない月の中にある桂の木のような貴女をどのように恋の告白をしましょう。

娘子報贈謌二首
標訓 娘子の報へて贈れる歌二首
集歌633 幾許 思異目鴨 敷細之 枕片去 夢所見来之
訓読 幾許(ここだく)も思ひけめかも敷栲の枕(まくら)片(かた)去る夢に見えける
私訳 しきりに恋いこがれていたからでしょうか。栲の寝床の枕が片方だけのそんな夜の夢に、貴方の姿が見えました。

集歌634 家二四手 雖見不飽乎 草枕 客毛妻与 有之乏左
訓読 家にして見れど飽かぬを草枕旅にも妻とあるが羨(とも)しさ
私訳 私の家で貴方と手を取り合ってお逢いしても、私はいつも飽き足りませんのに、野宿するような旅にまでも奥様と一緒とは、そのような関係がうらやましい。

湯原王亦贈謌二首
標訓 湯原王のまた贈れる歌二首
集歌635 草枕 客者嬬者 雖率有 匣内之 珠社所念
訓読 草枕旅には妻は率(ゐ)たれども匣(くしげ)の内の珠をこそ念(おも)へ
私訳 野宿するような旅に妻を連れてはいったが、宝物を納める箱の中の珠のような貴女を大切に想います。

集歌636 余衣 形見尓奉 布細之 枕不離 巻而左宿座
訓読 余(わ)が衣(ころも)形見に奉(まつ)る敷栲の枕を放(さ)けず纏(ま)きてさ寝(ね)ませ
私訳 私の衣を身代わりとして貴女にさし上げましょう。貴女の柔らかな栲の床の枕元で私と思って身に着けておやすみなさい。

娘子復報贈謌一首
標訓 娘子の復び報へて贈れる歌一首
集歌637 吾背子之 形見之衣 嬬問尓 余身者不離 事不問友
訓読 吾が背子が形見の衣(ころも)妻問(つまと)ひに我が身は離(さ)けじ事(こと)問(と)はずとも
私訳 貴方の姿の代わりの衣は、私にやさしい言葉をかけてくれるものとして、わが身から離しますまい。たとえ身に着けた形見の衣が貴方が私にするように愛してくれなくても。

湯原王亦贈謌一首
標訓 湯原王のまた贈れる歌一首
集歌638 直一夜 隔之可良尓 荒玉乃 月歟經去跡 心遮
訓読 ただ一夜(ひとよ)隔(へだ)てしからにあらたまの月か経(へ)ぬると心遮(いぶ)せし
私訳 たった一夜だけでも逢えなかったのに、月替わりして一月が経ったと感じるような、不思議な気持ちがします。

娘子復報贈謌一首
標訓 娘子の復び報へ贈れる歌一首
集歌639 吾背子我 如是戀礼許曽 夜干玉能 夢所見管 寐不所宿家礼
訓読 吾が背子がかく恋ふれこそぬばたまの夢に見えつつ寝(ゐ)ねらえずけれ
私訳 貴方がそんなに恋い慕ってくださるので、闇夜の夢に貴方が見えるので夢うつつで眠ることが出来ませんでした

湯原王亦贈謌一首
標訓 湯原王のまた贈れる歌一首
集歌640 波之家也思 不遠里乎 雲居尓也 戀管将居 月毛不經國
訓読 はしけやし間(ま)近き里を雲居(くもゐ)にや恋ひつつ居(を)らむ月も経(へ)なくに
私訳 愛しい貴女のいる近くの里を、私は雲居の彼方のように思い、この恋を続けているのだろうか。一月と逢うことが絶えてもいないのに。

娘子復報贈謌一首
標訓 娘子の復び報へ贈れる歌一首
集歌641 絶常云者 和備染責跡 焼太刀乃 隔付經事者 幸也吾君
訓読 絶ゆと言はば侘(わび)しみせむと焼(やき)太刀(たち)のへつかふことは幸(さき)くや吾が君
私訳 私に会って「二人の間も終りだ」といったら、私が辛い思いをするだろうと思われて、貴方が焼太刀のように私のそばに近寄らないことは、本当に善いことでしょうか。私の貴方。

このように、この相聞歌は全部で十一首の歌で成り立っていますが、その歌の展開は、男が女の許に訪れたがつれなくされて、満月の月明かりに帰る風景から出発します。女はこれに対して月夜から夢枕へ、そして旅の草枕へ言葉を展開します。さらに男はその草枕を引き取り、その枕の意味合いから袖交へと展開します。それを引き取った女が袖交への衣から形見と片身の展開を見せると、男は敷妙の衣の片身の意味を引き取って、逢えない日々へと話を展開させています。それをさらに、女は男と逢えない夜は夢に恋人を見るとすると、男はその逢えない状況を近くて遠いとさらに展開します。最後に女は、恋の終わりを告げるのが厭で逢わなくなったのかと歌を詠って閉めています。
ここで、普段の解説は万葉集の歌は写実を中心に解説しますが、この歌群はそうでは無いようで、歌の相互の関係は使われている表示や言葉から、詠われている場面が写実とは違い不思議なのです。この歌群の歌は、歌垣の歌のように相手の歌を繋ぐのが目的のような関係で、写実の基本である現実にある場面ではありません。
どうも、最後の集歌641の歌の意味合いに、集歌631の歌から始まる宮中での宴会での恋を想像した歌の遣り取りが、これで終わりです。というような感覚を私は持ちます。つまり、宮中での恋をテーマにした男性側と女性側の歌会での歌合せの一コマのような感じがするのです。それで、湯原王に対して「娘子(おとめ)」なのではないでしょうか。場合によっては、「娘子(おとめ)」は複数の宮廷女官の女性かもしれません。
私が想像する歌の展開は、集歌631の歌での場の設定(631)-問い掛け(632)-答え(633)-問い掛け(634)-答え(635)-問い掛け(636)-答え(637)。また新たに、問い掛け(638)-答え(639)-問い掛け(640)-答え(641)のような展開です。
ご存知のように、和歌の歴史では万葉集の時代に、宮中に集っての複数の人間が掛け合いの短歌を詠うような歌会の世界は、まだ、無いことになっています。可能性として野外の歌垣での歌謡があるとされているだけです。そのため、万葉集の解説書では、物語的な歌の広がりを持った連歌がないものとして解釈するのがルールです。ところが、ここでは宮中で歌垣のような歌会の世界があったとした方が、その歌の成り立ちと繋がりの内容がよくわかる不思議な状況です。
ここで、先の歌々が、宮中の歌合わせでの歌であるとの可能性があるとすると、次の歌も面白い可能性を含んでいます。そこで下記の湯原王の集歌642の歌と紀郎女の集歌643~645の歌を見てみたいと思います。大伴家持研究では紀郎女は大伴家持との関係だけに注目が集まりますが、万葉集の配列からすると、この紀郎女の歌二首は湯原王の集歌642の歌との相聞の位置関係にあります。
この紀郎女は、大炊頭や典鑄正を歴任し外従五位下まで登った紀朝臣鹿人の娘で小鹿が本名のようです。また、万葉集の標などから安貴王の妻とされています。夫となる安貴王は天平年間に活躍した人物で、川島皇子の孫に当たり、従五位上の位を受けています。ここで、万葉集では官位や所属する階級が明らかで無い女性に対して、郎女、女郎、娘子と呼称を書き分けることで身分や階級を示していたとの研究がありますから、紀郎女の「郎女」の肩書きには少し奇異があります。
紀郎女に本来付くはずのない「郎女」の呼称が付くのは、桓武天皇の叔父にあたる湯原王の愛人だった可能性のためでしょうか。それとも宮中での高級女官だったためなのでしょうか。紀郎女は、多くの男性と歌の交換をしていますから、家の人では無く、宮中での高級女官と思った方が良いのかも知れません。もし、宮中での高級女官でしたら、集歌643以下の歌々は、実際の恋の行動を伴うものではなくて、宮中でのくだけた宴での歌会における歌々の位置付けになるのでしょう。つまり、近江朝の額田王や飛鳥朝の石川郎女と同じ、宮中女官の身分での宴会における歌の名手です。詞書での肩書き表記を考えると、巷で云うような恋多き女性にはならないようです。
なお、先にも説明しましたが、飛鳥・奈良時代に宮中で和歌を交換し、歌を競わすような風流な歌会はなかったことになっています。これを前提に万葉の女流歌人が詠うその歌は写実であり現実と考えて、淫乱とか、恋多き人と評価しますが、さて、普段の私たちは正しく万葉集を読んできたでしょうか。

湯原王謌一首
標訓 湯原王の歌一首
集歌642 吾妹兒尓 戀而乱者 久流部寸二 懸而縁与 余戀始
訓読 吾妹子に恋ひて乱れば反転(くるべき)に懸(か)けて縁(よ)せむと余(あ)の恋ひそめし
私訳 貴女に恋して心も乱れる。糸巻きの糸にかけて引き寄せるようと思って、私は恋を始めたのだろうか。

紀郎女怨恨謌三首  鹿人大夫之女名曰小鹿也安貴王之妻也
標訓 紀郎女の怨恨(うらみ)の歌三首 鹿人(かひとの)大夫(まへつきみ)の女(むすめ)、名を小鹿といへり。安貴王の妻なり。
集歌643 世間之 女尓思有者 吾渡 痛背乃河乎 渡金目八
訓読 世間(よのなか)の女(をみな)にしあらば吾(あ)が渡る痛背(あなせ)の川を渡りかねめや
私訳 私が世間の常の女だからか、渡るのが大変な穴師の川を渡りかねるのでしょうか。名が惜しい私だからこそ、この貴方へという川を渡りなずむのです。

集歌644 今者吾羽 和備曽四二結類 氣乃緒尓 念師君乎 縦左久思者
訓読 今は吾は侘(わび)ぞしにける息の緒に念(おも)ひし君をゆるさく思へば
私訳 今は私は辛い思いに沈むようです。私の命とも思っていた貴方を、私から遠ざかるにまかせようとすると思うと。

集歌645 白細乃 袖可別 日乎近見 心尓咽飯 哭耳四所泣
訓読 白栲の袖別るべき日を近み心に咽(むせ)ひ哭(ね)のみし泣かゆ
私訳 共寝して白妙の袖を交わした、その袖を分けて別れる日が近いので、心の中に別れの悲しみにむせびながら泣き濡れます。

私は、これらの歌を歌会での歌垣のような連歌と解釈しています。
湯原王が糸で引き寄せると詠うから、紀郎女が女の立場から男の許へ行くと詠ったのでしょう。本来なら、大和歌の世界では男が女の許に行くのがルールです。これを普段の解説は、現実の男女の写実として紀郎女が男の許に抱かれに行く風情を前提とします。それで、紀郎女が淫卑・多情なのです。
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