久米禅師 恋か、濡れ衣か
万葉集に久米禅師と石川郎女との「娉(よばひ)」の相聞歌があります。この「娉」の漢字をどのように理解しているかで、歌の解釈は大きく変わってきます。普段の解釈で「娉」を「夜這い」と解釈しているものもあるようですが、それでは万葉集は読めません。万葉集では「娉」の漢字は「求婚」や「愛の告白」と解釈します。和語としての「夜這い」の意味を持たすのは、平安末期以降の万葉仮名の持つ漢字の意味が判らなくなり、単なる「表音文字」として「娉」の漢字を「よばひ」と音訳して、当時の言葉に翻訳して解釈し始めた時代以降のものです。
久米禅師、娉石川郎女時謌五首
標訓 久米禅師の、石川郎女を娉(よば)ひし時の歌五首
集歌96 水薦苅 信濃乃真弓 吾引者 宇真人佐備而 不欲常将言可聞 (禅師)
訓読 御薦(みこも)刈りし信濃(しなの)の真弓(まゆみ)吾が引かば貴人(うまひと)さびて否(いな)と言はむかも
私訳 あの木梨の軽太子が御薦(軽大郎女)を刈られたように、信濃の真弓を引くように私が貴女の手を取り体を引き寄せても、お嬢様に相応しく、「だめよ」といわれますか。
集歌97 三薦苅 信濃乃真弓 不引為而 強佐留行事乎 知跡言莫君二 (郎女)
訓読 御薦(みこも)刈りし信濃(しなの)の真弓(まゆみ)引かずして強(し)ひさる行事(わさ)を知ると言はなくに
私訳 あの木梨の軽太子は御薦(軽大郎女)を刈られたが、貴方は強弓の信濃の真弓を引かないように、無理やりに私を引き寄せて何かを為されてもいませんのに、貴方が無理やりに私になされたいことを、私が貴方がしたいことを知っているとは云へないでしょう。
集歌98 梓弓 引者随意 依目友 後心乎 知勝奴鴨 (郎女)
訓読 梓(あずさ)弓(ゆみ)引かばまにまに依(よ)らめども後(のち)の心を知りかてぬかも
私訳 梓巫女が梓弓を引くによって神依せしたとしても、貴方が私を抱いた後の真実を私は確かめるができないでしょうよ。
集歌99 梓弓 都良絃取波氣 引人者 後心乎 知人曽引 (禅師)
訓読 梓(あずさ)弓(ゆみ)弦(つら)緒(を)取りはけ引く人は後(のち)の心を知る人ぞ引く
私訳 梓弓に弦を付け弾き鳴らして神を引き寄せる梓巫女は、貴女を抱いた後の私の真実を知る巫女だから神の梓弓を引いて神託(私の真実)を告げるのです。
集歌100 東人之 荷向篋乃 荷之緒尓毛 妹情尓 乗尓家留香問 (禅師)
訓読 東人(あずまひと)の荷前(のさき)の篋(はこ)の荷の緒にも妹は心に乗りにけるかも
私訳 貴女の気を引く信濃の真弓だけでなく、さらに、それを納める東人の運んできた荷物の入った箱を縛る荷紐の緒までに、貴女への想いで私の心に乗り被さってしまったようです。
最初に、これらの五首の歌で使われている言葉を、これらの歌々の理解のために説明します。万葉集が詠われた時代に有名な「刈薦」の歌があります。それが古代最大の不倫の恋愛物語である木梨の軽太子と軽大郎女(衣通郎姫)との関係の場面で詠われた以下に示す歌です。古事記歌謡80で詠う「刈薦」の乱れとは、性交での女性の肢体の乱れを暗示する言葉です。
参考 古事記 歌謡80より
原文 佐佐波爾 宇都夜阿良禮能 多志陀志爾 韋泥弖牟能知波 比登波加由登母 宇流波斯登 佐泥斯佐泥弖婆 加理許母能 美陀禮婆美陀禮 佐泥斯佐泥弖婆 (80)
読下 笹(ささ)葉(は)に 打つや霰の たしだしに 率(ゐ)寝(ね)れむ後(のち)は 人は離(か)ゆとも 愛(うるは)しと さ寝しさ寝てば 刈薦(かりこも)の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば
万葉集の集歌96の歌の「御薦」はその「御」の言葉から、神事に使う大切な薦か、高貴な方が刈られた薦か、どちらかを意味しますが、私は高貴な方が「薦」を刈ったと解釈しています。つまり、「女性を刈り取った」の寓意です。次に、真弓は武器の弓で男が引く弓で、強弓のことです。一方、梓弓は神事の弓で巫女が引く小弓のことです。そこから、梓巫女は梓弓の弦を弾き鳴らして事寄せ憑依し、神託を行っていました。また、信濃は真弓に使う「マユミ」の樹木の産地で、真弓の一大生産地です。その信濃で作られた真弓は信濃の特産の調(ちょう)として荷造りされ、都に送られました。集歌100の歌の「荷向」は、荷前のことと思われ、荷前はその年の調の最初の品物を示します。
さらに、歌の解釈で誤解が生じないように歌の標の「娉石川郎女」の「娉」の漢字について、再度、確認します。この「娉」の漢字には「求婚」や「愛の告白」の意味があるだけで、「夜這い」の意味合いはありませんから、久米禅師と石川郎女との間に肉体関係や相愛関係はありません。歌の標からは、ただ、最初に久米禅師から石川郎女に対して恋愛をテーマにした歌を贈ったことが判るだけです。つまり、これらの歌での「久米禅師」と「石川郎女」の名は、歌物語として仮託したと思われ、特定の人物を示すものではないようです。
そこで、この歌の「久米禅師」の称号について考えてみますと、この「禅師」の称号は禅宗の「禅師」の称号ではありません。仏教の禅宗の日本招来は正式には鎌倉時代以降になりますから、万葉集の時代には禅宗の僧侶としての禅師を意味しません。当時の時代を見てみますと、奈良時代に山野で身体を修行する修行者を禅師と呼んだらしいので、諸国を遊行する学識者(学問のある自由人)を「禅師」と称した可能性があります。つまり、一種の「久米仙人」と思ったほうが良いようで、仏教僧より仙人道教の修行者の意味合いの方が強いようです。
また、これらの歌では信濃や梓の言葉が出てくるので、一見、信濃国の雰囲気がありますが、歌が詠われている場所は、集歌100の歌に「東人(あづまひと)の荷前(のさき)の」とあるように、各地の調が集まる藤原京です。万葉集におけるこの歌の配置は近江朝時代ですが、信濃の調を考えると律令体制の地方波及時期から考えて少し早いでしょう。およそ、近江朝時代とは、歌の詠われた(採歌)時期ではなく、歌物語として広く人に知られるようになった時期の意味合いと思われます。
さて、私は集歌96の歌の「水薦苅 信濃乃真弓」を「御薦(みこも)刈りしな、信濃(しなの)の真弓」と解釈しています。つまり、信濃の言葉は、「御薦刈りしな」と「真弓」の言葉をつなぐ語調の良い接続詞なのです。したがって、この信濃の言葉には、深い意味はありません。ここで、理解していただきたいのは信濃に住む人々には申し訳ありませんが、この歌謡を楽しんだ人々には信濃の風景はどうでもいいのです。人々は、信濃の山中から特産で良質な真弓や梓弓が大量に送られて来ることは知っています。でも、それだけなのです。逆に、大和の人々には恋歌で「御薦を刈る」と詠えば、木梨の軽太子と軽大郎女との禁断の恋物語が思い浮かぶのです。いえ、知らなければ、万葉の風流人ではありません。
歌物語で、この禁断の恋が前提にあるから、禁断の恋の意味を実の兄妹から身分の上下と僧侶と女性の関係に置き換えて「貴人さびて」と詠うわけです。ここが、歌の出発点として面白いのです。禁断の恋として、石川郎女が高貴で初心な女性という設定が成り立つのです。従って、恋に百戦錬磨の石川郎女では、男から女を誘うと云う風景が崩れますから、駄目な訳です。初心な女性の設定だからこそ、集歌97の歌で「強ひさる行事を知ると言はなくに」と詠う訳なのです。決して、石川郎女は恋の百戦錬磨でのカマトトではありません。
信濃に関してもう少し触れますと、集歌96の歌の「水薦」を「ミスズ」と読んで篶竹(スズタケ)と解釈したり、薦は信濃に沢山生えていたとする解説があります。私としては無理をせずに「水薦苅」を信濃の枕詞と説明して、意味が判らないとする普段の解説の方が好きです。多分、水薦を「ミスズ」と読む人は、御国自慢で、これらの歌はすべて信濃地方で詠まれたと信じているのでしょう。私は、久米禅師と石川郎女の二人が信濃から大和に移動しながら歌を詠んだとは思ってはいませんし、信濃人が自分のことを「東人」と呼ぶとも思ってはいませんから、歌はすべて大和地方で詠まれたとしています。
もう少し歌の説明をしますと、歌では女の手を引いてその体を強く引き寄せる動作の比喩に「真弓」の弓を用いていますが、心や気持ちを知るような精神の比喩には「梓弓」の弓を用いています。この歌の詠い手には「真弓」と「梓弓」との違いが明確に認識されています。そこには梓巫女が梓弓の弦をほのかに弾き鳴らし、事寄せして神託を行なった古風があるのです。そして、強弓(こわゆみ)の真弓を引く感覚で、集歌97の歌の歌詞の「強佐留行事乎」を「強(し)ひさる行事(わさ)を」と読んでいます。普段の解説では「弦(を)著(つ)くる行事(わざ)を」と読みますが、「弦著くる行事を」と読む場合は、石川郎女は恋の手管と夜の営みの「いろは」を知る百戦錬磨のツワモノとなり、初心な久米禅師を玩ぶ風情になります。その感覚が違うのです。
ただし、当時の普段の男の恋愛表現は次の歌のようで、女性には「強ひさる行事を知る(思わず押し倒され抱き伏せられる)」状況がよくあったと思われます。結構、男にとって力技の必要な風流です。その「争はず 寐しくをしぞも」の語感からすると、抵抗する女性を抱き伏し征服する愛情が「愛しみ思ふ」の根源であったようです。
古事記から大雀命(後の仁徳天皇)の御歌より
道の後 古波陀嬢子を 雷の如 聞えしかども 相枕枕く
道の後 古波陀嬢子は 争はず 寐しくをしぞも 愛しみ思ふ
万葉集に久米禅師と石川郎女との「娉(よばひ)」の相聞歌があります。この「娉」の漢字をどのように理解しているかで、歌の解釈は大きく変わってきます。普段の解釈で「娉」を「夜這い」と解釈しているものもあるようですが、それでは万葉集は読めません。万葉集では「娉」の漢字は「求婚」や「愛の告白」と解釈します。和語としての「夜這い」の意味を持たすのは、平安末期以降の万葉仮名の持つ漢字の意味が判らなくなり、単なる「表音文字」として「娉」の漢字を「よばひ」と音訳して、当時の言葉に翻訳して解釈し始めた時代以降のものです。
久米禅師、娉石川郎女時謌五首
標訓 久米禅師の、石川郎女を娉(よば)ひし時の歌五首
集歌96 水薦苅 信濃乃真弓 吾引者 宇真人佐備而 不欲常将言可聞 (禅師)
訓読 御薦(みこも)刈りし信濃(しなの)の真弓(まゆみ)吾が引かば貴人(うまひと)さびて否(いな)と言はむかも
私訳 あの木梨の軽太子が御薦(軽大郎女)を刈られたように、信濃の真弓を引くように私が貴女の手を取り体を引き寄せても、お嬢様に相応しく、「だめよ」といわれますか。
集歌97 三薦苅 信濃乃真弓 不引為而 強佐留行事乎 知跡言莫君二 (郎女)
訓読 御薦(みこも)刈りし信濃(しなの)の真弓(まゆみ)引かずして強(し)ひさる行事(わさ)を知ると言はなくに
私訳 あの木梨の軽太子は御薦(軽大郎女)を刈られたが、貴方は強弓の信濃の真弓を引かないように、無理やりに私を引き寄せて何かを為されてもいませんのに、貴方が無理やりに私になされたいことを、私が貴方がしたいことを知っているとは云へないでしょう。
集歌98 梓弓 引者随意 依目友 後心乎 知勝奴鴨 (郎女)
訓読 梓(あずさ)弓(ゆみ)引かばまにまに依(よ)らめども後(のち)の心を知りかてぬかも
私訳 梓巫女が梓弓を引くによって神依せしたとしても、貴方が私を抱いた後の真実を私は確かめるができないでしょうよ。
集歌99 梓弓 都良絃取波氣 引人者 後心乎 知人曽引 (禅師)
訓読 梓(あずさ)弓(ゆみ)弦(つら)緒(を)取りはけ引く人は後(のち)の心を知る人ぞ引く
私訳 梓弓に弦を付け弾き鳴らして神を引き寄せる梓巫女は、貴女を抱いた後の私の真実を知る巫女だから神の梓弓を引いて神託(私の真実)を告げるのです。
集歌100 東人之 荷向篋乃 荷之緒尓毛 妹情尓 乗尓家留香問 (禅師)
訓読 東人(あずまひと)の荷前(のさき)の篋(はこ)の荷の緒にも妹は心に乗りにけるかも
私訳 貴女の気を引く信濃の真弓だけでなく、さらに、それを納める東人の運んできた荷物の入った箱を縛る荷紐の緒までに、貴女への想いで私の心に乗り被さってしまったようです。
最初に、これらの五首の歌で使われている言葉を、これらの歌々の理解のために説明します。万葉集が詠われた時代に有名な「刈薦」の歌があります。それが古代最大の不倫の恋愛物語である木梨の軽太子と軽大郎女(衣通郎姫)との関係の場面で詠われた以下に示す歌です。古事記歌謡80で詠う「刈薦」の乱れとは、性交での女性の肢体の乱れを暗示する言葉です。
参考 古事記 歌謡80より
原文 佐佐波爾 宇都夜阿良禮能 多志陀志爾 韋泥弖牟能知波 比登波加由登母 宇流波斯登 佐泥斯佐泥弖婆 加理許母能 美陀禮婆美陀禮 佐泥斯佐泥弖婆 (80)
読下 笹(ささ)葉(は)に 打つや霰の たしだしに 率(ゐ)寝(ね)れむ後(のち)は 人は離(か)ゆとも 愛(うるは)しと さ寝しさ寝てば 刈薦(かりこも)の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば
万葉集の集歌96の歌の「御薦」はその「御」の言葉から、神事に使う大切な薦か、高貴な方が刈られた薦か、どちらかを意味しますが、私は高貴な方が「薦」を刈ったと解釈しています。つまり、「女性を刈り取った」の寓意です。次に、真弓は武器の弓で男が引く弓で、強弓のことです。一方、梓弓は神事の弓で巫女が引く小弓のことです。そこから、梓巫女は梓弓の弦を弾き鳴らして事寄せ憑依し、神託を行っていました。また、信濃は真弓に使う「マユミ」の樹木の産地で、真弓の一大生産地です。その信濃で作られた真弓は信濃の特産の調(ちょう)として荷造りされ、都に送られました。集歌100の歌の「荷向」は、荷前のことと思われ、荷前はその年の調の最初の品物を示します。
さらに、歌の解釈で誤解が生じないように歌の標の「娉石川郎女」の「娉」の漢字について、再度、確認します。この「娉」の漢字には「求婚」や「愛の告白」の意味があるだけで、「夜這い」の意味合いはありませんから、久米禅師と石川郎女との間に肉体関係や相愛関係はありません。歌の標からは、ただ、最初に久米禅師から石川郎女に対して恋愛をテーマにした歌を贈ったことが判るだけです。つまり、これらの歌での「久米禅師」と「石川郎女」の名は、歌物語として仮託したと思われ、特定の人物を示すものではないようです。
そこで、この歌の「久米禅師」の称号について考えてみますと、この「禅師」の称号は禅宗の「禅師」の称号ではありません。仏教の禅宗の日本招来は正式には鎌倉時代以降になりますから、万葉集の時代には禅宗の僧侶としての禅師を意味しません。当時の時代を見てみますと、奈良時代に山野で身体を修行する修行者を禅師と呼んだらしいので、諸国を遊行する学識者(学問のある自由人)を「禅師」と称した可能性があります。つまり、一種の「久米仙人」と思ったほうが良いようで、仏教僧より仙人道教の修行者の意味合いの方が強いようです。
また、これらの歌では信濃や梓の言葉が出てくるので、一見、信濃国の雰囲気がありますが、歌が詠われている場所は、集歌100の歌に「東人(あづまひと)の荷前(のさき)の」とあるように、各地の調が集まる藤原京です。万葉集におけるこの歌の配置は近江朝時代ですが、信濃の調を考えると律令体制の地方波及時期から考えて少し早いでしょう。およそ、近江朝時代とは、歌の詠われた(採歌)時期ではなく、歌物語として広く人に知られるようになった時期の意味合いと思われます。
さて、私は集歌96の歌の「水薦苅 信濃乃真弓」を「御薦(みこも)刈りしな、信濃(しなの)の真弓」と解釈しています。つまり、信濃の言葉は、「御薦刈りしな」と「真弓」の言葉をつなぐ語調の良い接続詞なのです。したがって、この信濃の言葉には、深い意味はありません。ここで、理解していただきたいのは信濃に住む人々には申し訳ありませんが、この歌謡を楽しんだ人々には信濃の風景はどうでもいいのです。人々は、信濃の山中から特産で良質な真弓や梓弓が大量に送られて来ることは知っています。でも、それだけなのです。逆に、大和の人々には恋歌で「御薦を刈る」と詠えば、木梨の軽太子と軽大郎女との禁断の恋物語が思い浮かぶのです。いえ、知らなければ、万葉の風流人ではありません。
歌物語で、この禁断の恋が前提にあるから、禁断の恋の意味を実の兄妹から身分の上下と僧侶と女性の関係に置き換えて「貴人さびて」と詠うわけです。ここが、歌の出発点として面白いのです。禁断の恋として、石川郎女が高貴で初心な女性という設定が成り立つのです。従って、恋に百戦錬磨の石川郎女では、男から女を誘うと云う風景が崩れますから、駄目な訳です。初心な女性の設定だからこそ、集歌97の歌で「強ひさる行事を知ると言はなくに」と詠う訳なのです。決して、石川郎女は恋の百戦錬磨でのカマトトではありません。
信濃に関してもう少し触れますと、集歌96の歌の「水薦」を「ミスズ」と読んで篶竹(スズタケ)と解釈したり、薦は信濃に沢山生えていたとする解説があります。私としては無理をせずに「水薦苅」を信濃の枕詞と説明して、意味が判らないとする普段の解説の方が好きです。多分、水薦を「ミスズ」と読む人は、御国自慢で、これらの歌はすべて信濃地方で詠まれたと信じているのでしょう。私は、久米禅師と石川郎女の二人が信濃から大和に移動しながら歌を詠んだとは思ってはいませんし、信濃人が自分のことを「東人」と呼ぶとも思ってはいませんから、歌はすべて大和地方で詠まれたとしています。
もう少し歌の説明をしますと、歌では女の手を引いてその体を強く引き寄せる動作の比喩に「真弓」の弓を用いていますが、心や気持ちを知るような精神の比喩には「梓弓」の弓を用いています。この歌の詠い手には「真弓」と「梓弓」との違いが明確に認識されています。そこには梓巫女が梓弓の弦をほのかに弾き鳴らし、事寄せして神託を行なった古風があるのです。そして、強弓(こわゆみ)の真弓を引く感覚で、集歌97の歌の歌詞の「強佐留行事乎」を「強(し)ひさる行事(わさ)を」と読んでいます。普段の解説では「弦(を)著(つ)くる行事(わざ)を」と読みますが、「弦著くる行事を」と読む場合は、石川郎女は恋の手管と夜の営みの「いろは」を知る百戦錬磨のツワモノとなり、初心な久米禅師を玩ぶ風情になります。その感覚が違うのです。
ただし、当時の普段の男の恋愛表現は次の歌のようで、女性には「強ひさる行事を知る(思わず押し倒され抱き伏せられる)」状況がよくあったと思われます。結構、男にとって力技の必要な風流です。その「争はず 寐しくをしぞも」の語感からすると、抵抗する女性を抱き伏し征服する愛情が「愛しみ思ふ」の根源であったようです。
古事記から大雀命(後の仁徳天皇)の御歌より
道の後 古波陀嬢子を 雷の如 聞えしかども 相枕枕く
道の後 古波陀嬢子は 争はず 寐しくをしぞも 愛しみ思ふ