万葉雑記 色眼鏡 七一 御作歌とは誰の作品か
今回は「御作歌とは誰の作品か」と云う、唐突なテーマを掲げました。実は、このテーマの取り上げは『万葉集』巻一の解説からの妄想によります。取り上げの元になったその解説に拠りますと、『万葉集』巻一の歌は、原則として標題や左注からその作歌者の名前を知ることが出来るとのことです。もし、その作歌者を特定することが出来ない場合は基本として「右謌主未詳」のような注記を付け、作者は未詳と紹介していますので、最低限の区別は行われているとのことです。つまり、万葉集編纂者の態度には最初から作歌者を特定するような意図があったと解説しています。
さて、今回、鑑賞する集歌78の歌はこの原則から外れ、作歌者の紹介が「未詳」の案内すら無い歌です。しかしながら、古くから標題に載る「御輿」の表記から歌は元明天皇の御製歌と見なされて来ましたし、あるいは、その標題に付記された「一書云 太上天皇御製」の「太上天皇」から持統太上天皇と推定してきました。ほぼ、これが歌の解釈では本流であり、主流です。
和銅三年庚戌春二月、従藤原宮遷于寧樂宮時、御輿停長屋原遥望古郷御作謌
一書云 太上天皇御製
標訓 和銅三年(710)庚戌の春二月、藤原宮より寧楽宮に遷(うつ)りましし時に、御輿(みこし)を長屋の原に停めて遥かに古き郷(さと)を望みて御(かた)りて作らせる歌
追訓 ある書に云はく、太上天皇の御製といへり
集歌78 飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆 君之當者 不所見香聞安良武
訓読 飛ぶ鳥し明日香の里を置きて去(い)なば君しあたりは見えずかもあらむ
私訳 飛ぶ鳥の明日香の里を後にして去って行ったなら、あなたの明日香藤井原の藤原京の辺りはもう見えなくなるのでしょうか
以前に報告しましたように、生活の為に出稼ぎ生活を暮らしており、出稼ぎ先では手持ちの資料や図書館へのアクセスは限られています。その限られたものの中から本歌の作者に関する解説文を紹介しますと、神野志隆光氏編の『万葉集鑑賞事典』では「題詞によれば、和銅三年、藤原京から平城京へ遷都する際の元明天皇御製」とあります。神野志隆光氏の判断は元明天皇御製歌です。一方、中西進氏の『万葉集全訳注原文付』では欄外注4で、「旧都。ただし飛鳥を指すことが多い。狭義の飛鳥からの遷都は藤原宮遷都となる。とすると下注の一書の説が正しくなる。この時旧作を誦したのであろう。故に作者名がない」、また、欄外注7で、「持統の作とすると天武の墓所をいう。奈良遷都の折とすると諸人の情を詞人が代弁したもので個別のものになる」とあり、中西進氏の考えでは歌は伝承歌を公式行事である奈良遷都の折りに誰かが詠ったものとの判別と思われます。また、伊藤博氏の『萬葉集釋注』では「ここは、底本の原文『御作歌』に由緒を認め、元明天皇その人の歌として詠まれたものとするのが穏やかであろう」とあります。
さて、伊藤博氏は、歌は元明天皇御製と推定する根拠に底本の原文「御作歌」を挙げていますが、実は西本願寺本万葉集では「御作歌」であり、諸本では「作歌」の表記となっており、その場合、伊藤博氏が『萬葉集釋注』で「それによれば、誰か臣下の詠ということになる」と指摘するように、臣下の代作と云うことになります。この場合、伊藤博氏と中西進氏とは同じベクトルになります。ただし、漢文訓読みでは「御作歌」は「御(かた)りて作らしし歌」となりますから、高貴な人物の代作であれば「作歌」の表記ではなく「御作歌」の表記が相当になります。
さて、根がひねくれ者です。原文に「御作歌」と「作歌」との違いがあると、その理由を知りたくなります。「御」の文字の有無は誤記なのか、意図した欠落表記なのでしょうか。そこで巻一にそれを調べてみました。それが次のものです。
集歌34 「幸于紀伊國時、川嶋皇子御作謌」
集歌35 「越勢能山時、阿閇皇女御作謌」
集歌51 「従明日香宮遷居藤原宮之後、志貴皇子御作謌」
集歌64 「慶雲三年丙午、幸于難波宮時 志貴皇子御作謌」
集歌78 「御輿停長屋原遥望古郷、御作謌」
一方、「御製」は、つぎのような表記を持ち、「天皇」と「御製」はペアな言葉であることが判ります。
集歌1 「天皇御製謌」
集歌2 「天皇登香具山望國之時、御製謌」
集歌25 「天皇御製謌」
集歌27 「天皇幸于吉野宮時、御製謌」
集歌28 「天皇御製謌」
集歌76 「天皇御製謌」
およそ、作品の注記に「御製」とあれば天皇の作品であろうことが推定されますが、「御作歌」だけでは天皇の作品と判定することは出来ないと考えます。つまり、集歌78の歌を元明天皇の歌であるとしてきた根拠は無いことになります。結局、確立された論拠もなく「御輿」と「御作歌」の言葉からなんとなくそのようなものであろうと云うのが根拠なのでしょう。
以上の与太話から推定しますと、集歌78の歌は天皇の御製ではありませんから、元明天皇または持統太上天皇の作品ではないことになります。ただし、標題の表記からすると非常に高貴な人物ですし、遷都の折りに「輿」に乗る身分ですから、可能性として御名部皇女、又は、氷高皇女(後の元正天皇、元正太上天皇)が代表的候補となります。なお、「御作歌」と「一書云 太上天皇御製」とを同時に満たす場合は氷高皇女の歌と云うことになります。
もし、万葉集編者の態度が集歌77の歌からの連続として集歌78の歌を扱っているのですと、御名部皇女による作歌と考えていたかもしれません。その時、正史に示す歴史とは違いますが、高市皇子は草壁皇子の死後に大王に就き、御名部皇女は皇后であったかもしれません。その場合、続日本紀とは違いますが、標題と左注とは整合性が取れることになります。ただし、妄想です。
もう少し、歌を楽しんでみます。
歌に載る「長屋原」と云う地名に関係して、天理市のホームページに載る天理市永原町の地名の由来解説では「山辺郡長屋郷といったのはここを中心とした付近の郷名で、万葉集にでてくる長屋原はこの地である」とあります。さらに、その地名案内では「奈良朝時代に東大寺領で長屋庄があり、中世には興福寺の荘園もあった。もとは長屋または長屋原といったのが慶長の布留社文書には長原または永原と出ているから、近世になって永原となったと思われる。しかし長い原という意味は一貫している。奈良朝初期の長屋王はこの長屋に何か関係があったのであろう。佐保庄の古検地帳には長屋という地名がある」との解説が続きます。ここから集歌78の歌に載る「御輿停長屋原遥望古郷」の「長屋原」は、一般にこの天理市永原町付近と推定されています。
一方、『万葉集』では次のような歌が集歌78の歌に添えられています。これによると人々は飛鳥藤原京から奈良平城京への遷都では泊瀬川から船に乗り、大和川を経て、佐保川のある岸辺で船を降りたと思われます。どうも、人々の移動手段は『万葉集』の歌からすると陸路ではなかったと思われますので、天理市永原町に関係する長屋郷を御幸の一行が通過したかは不明です。
或本、従藤原宮亰遷于寧樂宮時謌
標訓 或る本の、藤原宮(ふぢはらのみや)の亰(みやこ)より奈良宮(ならのみや)に遷(うつ)りし時の歌
集歌79 天皇乃 御命畏美 柔備尓之 家乎擇 隠國乃 泊瀬乃川尓 船浮而 吾行河乃 川隈之 八十阿不落 万段 顧為乍 玉桙乃 道行晩 青吉 楢乃京師乃 佐保川尓 伊去至而 我宿有 衣乃上従 朝月夜 清尓見者 栲乃穂尓 夜之霜落 磐床等 川之氷凝 冷夜乎 息言無久 通乍 作家尓 千代二手来座 多公与 吾毛通武
訓読 天皇(すめろぎ)の 御命(みこと)畏(かしこ)み 柔(にき)びにし 家を置き 隠國(こもくり)の 泊瀬の川に 船浮けて 吾が行く河の 川隈(かわくま)し 八十隈(やそくま)おちず 万度(よろづたび) 顧(かへ)り見しつつ 玉桙の 道行き暮らし あをによし 奈良の都の 佐保川に い去(い)き至りて 我が宿(や)なる 衣(ころも)の上ゆ 朝(あさ)月夜(つくよ) 清(さや)かに見れば 栲(たへ)の穂に 夜し霜降り 磐床(いはとこ)と 川し氷(ひ)凝(ごほ)り 冷(さむ)き夜を 息(やす)むことなく 通ひつつ 作れる家(いへ)に 千代(ちよ)にて来ませ 多(おほ)つ公(きみ)よ 吾も通はむ
私訳 天皇のご命令を畏みて慣れ親しんだ家を藤原京に置き、亡き人が籠るという泊瀬の川に船を浮かべて、私が奈良の京へ行く河の、その川の曲がり角の、その沢山の曲がり角を残らずに何度も何度も振り返り見ながら、御門の御幸を示す玉鉾の行程を行き日を暮らし青葉の美しい奈良の都の佐保川に辿り着いて、私の屋敷にある夜具の上で早朝の夜明け前の月を清らかに見ると新築の屋敷を祝う栲の穂に夜の霜が降りて、佐保川の磐床に残る川の水も凍るような寒い夜を休むことなく藤原京から通って作ったこの家に、いつまでも来てください。多くの大宮人よ。同じように私も貴方の新築の家に通いましょう。
注意 原文の「千代二手来座 多公与」は、一般に「二手」を両手の戯訓と解釈する関係から「千代二手尓 座多公与」と「来」を「尓」と変え、また句切れの位置を変更します。そして「千代までに、いませおほきみよ」と訓みます。当然、歌意は変わります。
紹介しました解説で「長屋原」を天理市永原町付近と推定する背景に、およそ、次の額田王が詠った飛鳥岡本宮から近江大津宮への遷都の時の歌があるものと思われます。集歌17の長歌の雰囲気は陸路を行くものですし、九十九折りの道の様子から、一見、山辺道を使ったと想像させられます。この類推から奈良平城京への遷都も山辺道を使ったと思い込んだのではないでしょうか。
当然、集歌17の長歌を丁寧に鑑賞しますと、額田王は山辺道の道中で歌を詠ったのではないことが判ります。歌を詠った場所は倭国の国境と思われる奈良山(寧楽山)の峠付近でしょうか。ここで、倭国の見納めとしての国誉めの歌を詠ったのです。従いまして、この歌群からは額田王一行が飛鳥岡本宮から奈良山まではどのような経路を使ったかは不明です。ただし、少し、時代は遡りますが、推古天皇時代の記録では隋からの裴世清一行が大和川から泊瀬川を遡り海石榴で上陸したとされていますから、集歌79の歌を含めて伝統的に飛鳥から奈良との交通は泊瀬川・大和川の河川交通が中心であったと考えられます。
なお、長屋原の地名については佐保田とも呼ばれた奈良市二条大路南の佐保川のほとり、長屋王の邸宅跡一帯が「長屋の原」ではないかと想像しています。つまり、長屋王は「長屋原」に邸宅を構えたことからの俗称と考えています。つまり、集歌78の歌は佐保川の西岸、長屋の原で船を降り、輿で宮殿に向かう途中に、船旅ではまだ水路で繋がっていた藤原京ともお別れと想い、氷高皇女が歌を詠ったと考えています。
額田王下近江國時謌、井戸王即和謌
標訓 額田王の近江國に下りし時の歌、井戸王の即ち和(こた)へる歌
集歌17 味酒 三輪乃山 青丹吉 奈良能山乃 山際 伊隠萬代 道隈 伊積流萬代尓 委曲毛 見管行武雄 數々毛 見放武八萬雄 情無 雲乃 隠障倍之也
訓読 味酒(うまさけ) 三輪の山 青(あを)丹(に)よし 奈良の山の 山し際(は)に い隠(かく)るまで 道し隈(くま) い積もるまでに 委(つば)らにも 見つつ行かむを しばしばも 見(み)放(は)けむ山を 情(こころ)なく 雲の 隠さふべしや
私訳 味酒の三輪の山が、青丹も美しい奈良の山の山の際に隠れるまで、幾重にも道の曲がりを折り重ねるまで、しみじみと見つづけて行こう。幾度も見晴らしたい山を、情けなく雲が隠すべきでしょうか。
反謌
集歌18 三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉
訓読 三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなも隠さふべしや
私訳 三輪山をこのように隠すのでしょうか。雲としても、もし、情け心があれば隠すでしょうか。
右二首謌、山上憶良大夫類聚歌林曰、遷都近江國時、御覧三輪山御謌焉。
日本書紀曰、六年丙寅春三月辛酉朔己卯、遷都于近江。
注訓 右の二首の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林に曰はく「都を近江國に遷す時に、三輪山を御覧(みそなは)す御歌(おほみうた)なり」といへり。
日本書紀に曰はく「六年丙寅の春三月辛酉の朔の己卯に、都を近江に遷す」といへり。
今回、色々な提起と個人の解釈を紹介しましたが、それが議論の為の議論ではないとすると、従来の解釈はどのような根拠をもって解釈を説明して来たのかは、結構、不確かな伝承がベースであるかもしれません。本当に万葉集歌自体を色眼鏡無しで鑑賞して来たのでしょうか。
今回は「御作歌とは誰の作品か」と云う、唐突なテーマを掲げました。実は、このテーマの取り上げは『万葉集』巻一の解説からの妄想によります。取り上げの元になったその解説に拠りますと、『万葉集』巻一の歌は、原則として標題や左注からその作歌者の名前を知ることが出来るとのことです。もし、その作歌者を特定することが出来ない場合は基本として「右謌主未詳」のような注記を付け、作者は未詳と紹介していますので、最低限の区別は行われているとのことです。つまり、万葉集編纂者の態度には最初から作歌者を特定するような意図があったと解説しています。
さて、今回、鑑賞する集歌78の歌はこの原則から外れ、作歌者の紹介が「未詳」の案内すら無い歌です。しかしながら、古くから標題に載る「御輿」の表記から歌は元明天皇の御製歌と見なされて来ましたし、あるいは、その標題に付記された「一書云 太上天皇御製」の「太上天皇」から持統太上天皇と推定してきました。ほぼ、これが歌の解釈では本流であり、主流です。
和銅三年庚戌春二月、従藤原宮遷于寧樂宮時、御輿停長屋原遥望古郷御作謌
一書云 太上天皇御製
標訓 和銅三年(710)庚戌の春二月、藤原宮より寧楽宮に遷(うつ)りましし時に、御輿(みこし)を長屋の原に停めて遥かに古き郷(さと)を望みて御(かた)りて作らせる歌
追訓 ある書に云はく、太上天皇の御製といへり
集歌78 飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆 君之當者 不所見香聞安良武
訓読 飛ぶ鳥し明日香の里を置きて去(い)なば君しあたりは見えずかもあらむ
私訳 飛ぶ鳥の明日香の里を後にして去って行ったなら、あなたの明日香藤井原の藤原京の辺りはもう見えなくなるのでしょうか
以前に報告しましたように、生活の為に出稼ぎ生活を暮らしており、出稼ぎ先では手持ちの資料や図書館へのアクセスは限られています。その限られたものの中から本歌の作者に関する解説文を紹介しますと、神野志隆光氏編の『万葉集鑑賞事典』では「題詞によれば、和銅三年、藤原京から平城京へ遷都する際の元明天皇御製」とあります。神野志隆光氏の判断は元明天皇御製歌です。一方、中西進氏の『万葉集全訳注原文付』では欄外注4で、「旧都。ただし飛鳥を指すことが多い。狭義の飛鳥からの遷都は藤原宮遷都となる。とすると下注の一書の説が正しくなる。この時旧作を誦したのであろう。故に作者名がない」、また、欄外注7で、「持統の作とすると天武の墓所をいう。奈良遷都の折とすると諸人の情を詞人が代弁したもので個別のものになる」とあり、中西進氏の考えでは歌は伝承歌を公式行事である奈良遷都の折りに誰かが詠ったものとの判別と思われます。また、伊藤博氏の『萬葉集釋注』では「ここは、底本の原文『御作歌』に由緒を認め、元明天皇その人の歌として詠まれたものとするのが穏やかであろう」とあります。
さて、伊藤博氏は、歌は元明天皇御製と推定する根拠に底本の原文「御作歌」を挙げていますが、実は西本願寺本万葉集では「御作歌」であり、諸本では「作歌」の表記となっており、その場合、伊藤博氏が『萬葉集釋注』で「それによれば、誰か臣下の詠ということになる」と指摘するように、臣下の代作と云うことになります。この場合、伊藤博氏と中西進氏とは同じベクトルになります。ただし、漢文訓読みでは「御作歌」は「御(かた)りて作らしし歌」となりますから、高貴な人物の代作であれば「作歌」の表記ではなく「御作歌」の表記が相当になります。
さて、根がひねくれ者です。原文に「御作歌」と「作歌」との違いがあると、その理由を知りたくなります。「御」の文字の有無は誤記なのか、意図した欠落表記なのでしょうか。そこで巻一にそれを調べてみました。それが次のものです。
集歌34 「幸于紀伊國時、川嶋皇子御作謌」
集歌35 「越勢能山時、阿閇皇女御作謌」
集歌51 「従明日香宮遷居藤原宮之後、志貴皇子御作謌」
集歌64 「慶雲三年丙午、幸于難波宮時 志貴皇子御作謌」
集歌78 「御輿停長屋原遥望古郷、御作謌」
一方、「御製」は、つぎのような表記を持ち、「天皇」と「御製」はペアな言葉であることが判ります。
集歌1 「天皇御製謌」
集歌2 「天皇登香具山望國之時、御製謌」
集歌25 「天皇御製謌」
集歌27 「天皇幸于吉野宮時、御製謌」
集歌28 「天皇御製謌」
集歌76 「天皇御製謌」
およそ、作品の注記に「御製」とあれば天皇の作品であろうことが推定されますが、「御作歌」だけでは天皇の作品と判定することは出来ないと考えます。つまり、集歌78の歌を元明天皇の歌であるとしてきた根拠は無いことになります。結局、確立された論拠もなく「御輿」と「御作歌」の言葉からなんとなくそのようなものであろうと云うのが根拠なのでしょう。
以上の与太話から推定しますと、集歌78の歌は天皇の御製ではありませんから、元明天皇または持統太上天皇の作品ではないことになります。ただし、標題の表記からすると非常に高貴な人物ですし、遷都の折りに「輿」に乗る身分ですから、可能性として御名部皇女、又は、氷高皇女(後の元正天皇、元正太上天皇)が代表的候補となります。なお、「御作歌」と「一書云 太上天皇御製」とを同時に満たす場合は氷高皇女の歌と云うことになります。
もし、万葉集編者の態度が集歌77の歌からの連続として集歌78の歌を扱っているのですと、御名部皇女による作歌と考えていたかもしれません。その時、正史に示す歴史とは違いますが、高市皇子は草壁皇子の死後に大王に就き、御名部皇女は皇后であったかもしれません。その場合、続日本紀とは違いますが、標題と左注とは整合性が取れることになります。ただし、妄想です。
もう少し、歌を楽しんでみます。
歌に載る「長屋原」と云う地名に関係して、天理市のホームページに載る天理市永原町の地名の由来解説では「山辺郡長屋郷といったのはここを中心とした付近の郷名で、万葉集にでてくる長屋原はこの地である」とあります。さらに、その地名案内では「奈良朝時代に東大寺領で長屋庄があり、中世には興福寺の荘園もあった。もとは長屋または長屋原といったのが慶長の布留社文書には長原または永原と出ているから、近世になって永原となったと思われる。しかし長い原という意味は一貫している。奈良朝初期の長屋王はこの長屋に何か関係があったのであろう。佐保庄の古検地帳には長屋という地名がある」との解説が続きます。ここから集歌78の歌に載る「御輿停長屋原遥望古郷」の「長屋原」は、一般にこの天理市永原町付近と推定されています。
一方、『万葉集』では次のような歌が集歌78の歌に添えられています。これによると人々は飛鳥藤原京から奈良平城京への遷都では泊瀬川から船に乗り、大和川を経て、佐保川のある岸辺で船を降りたと思われます。どうも、人々の移動手段は『万葉集』の歌からすると陸路ではなかったと思われますので、天理市永原町に関係する長屋郷を御幸の一行が通過したかは不明です。
或本、従藤原宮亰遷于寧樂宮時謌
標訓 或る本の、藤原宮(ふぢはらのみや)の亰(みやこ)より奈良宮(ならのみや)に遷(うつ)りし時の歌
集歌79 天皇乃 御命畏美 柔備尓之 家乎擇 隠國乃 泊瀬乃川尓 船浮而 吾行河乃 川隈之 八十阿不落 万段 顧為乍 玉桙乃 道行晩 青吉 楢乃京師乃 佐保川尓 伊去至而 我宿有 衣乃上従 朝月夜 清尓見者 栲乃穂尓 夜之霜落 磐床等 川之氷凝 冷夜乎 息言無久 通乍 作家尓 千代二手来座 多公与 吾毛通武
訓読 天皇(すめろぎ)の 御命(みこと)畏(かしこ)み 柔(にき)びにし 家を置き 隠國(こもくり)の 泊瀬の川に 船浮けて 吾が行く河の 川隈(かわくま)し 八十隈(やそくま)おちず 万度(よろづたび) 顧(かへ)り見しつつ 玉桙の 道行き暮らし あをによし 奈良の都の 佐保川に い去(い)き至りて 我が宿(や)なる 衣(ころも)の上ゆ 朝(あさ)月夜(つくよ) 清(さや)かに見れば 栲(たへ)の穂に 夜し霜降り 磐床(いはとこ)と 川し氷(ひ)凝(ごほ)り 冷(さむ)き夜を 息(やす)むことなく 通ひつつ 作れる家(いへ)に 千代(ちよ)にて来ませ 多(おほ)つ公(きみ)よ 吾も通はむ
私訳 天皇のご命令を畏みて慣れ親しんだ家を藤原京に置き、亡き人が籠るという泊瀬の川に船を浮かべて、私が奈良の京へ行く河の、その川の曲がり角の、その沢山の曲がり角を残らずに何度も何度も振り返り見ながら、御門の御幸を示す玉鉾の行程を行き日を暮らし青葉の美しい奈良の都の佐保川に辿り着いて、私の屋敷にある夜具の上で早朝の夜明け前の月を清らかに見ると新築の屋敷を祝う栲の穂に夜の霜が降りて、佐保川の磐床に残る川の水も凍るような寒い夜を休むことなく藤原京から通って作ったこの家に、いつまでも来てください。多くの大宮人よ。同じように私も貴方の新築の家に通いましょう。
注意 原文の「千代二手来座 多公与」は、一般に「二手」を両手の戯訓と解釈する関係から「千代二手尓 座多公与」と「来」を「尓」と変え、また句切れの位置を変更します。そして「千代までに、いませおほきみよ」と訓みます。当然、歌意は変わります。
紹介しました解説で「長屋原」を天理市永原町付近と推定する背景に、およそ、次の額田王が詠った飛鳥岡本宮から近江大津宮への遷都の時の歌があるものと思われます。集歌17の長歌の雰囲気は陸路を行くものですし、九十九折りの道の様子から、一見、山辺道を使ったと想像させられます。この類推から奈良平城京への遷都も山辺道を使ったと思い込んだのではないでしょうか。
当然、集歌17の長歌を丁寧に鑑賞しますと、額田王は山辺道の道中で歌を詠ったのではないことが判ります。歌を詠った場所は倭国の国境と思われる奈良山(寧楽山)の峠付近でしょうか。ここで、倭国の見納めとしての国誉めの歌を詠ったのです。従いまして、この歌群からは額田王一行が飛鳥岡本宮から奈良山まではどのような経路を使ったかは不明です。ただし、少し、時代は遡りますが、推古天皇時代の記録では隋からの裴世清一行が大和川から泊瀬川を遡り海石榴で上陸したとされていますから、集歌79の歌を含めて伝統的に飛鳥から奈良との交通は泊瀬川・大和川の河川交通が中心であったと考えられます。
なお、長屋原の地名については佐保田とも呼ばれた奈良市二条大路南の佐保川のほとり、長屋王の邸宅跡一帯が「長屋の原」ではないかと想像しています。つまり、長屋王は「長屋原」に邸宅を構えたことからの俗称と考えています。つまり、集歌78の歌は佐保川の西岸、長屋の原で船を降り、輿で宮殿に向かう途中に、船旅ではまだ水路で繋がっていた藤原京ともお別れと想い、氷高皇女が歌を詠ったと考えています。
額田王下近江國時謌、井戸王即和謌
標訓 額田王の近江國に下りし時の歌、井戸王の即ち和(こた)へる歌
集歌17 味酒 三輪乃山 青丹吉 奈良能山乃 山際 伊隠萬代 道隈 伊積流萬代尓 委曲毛 見管行武雄 數々毛 見放武八萬雄 情無 雲乃 隠障倍之也
訓読 味酒(うまさけ) 三輪の山 青(あを)丹(に)よし 奈良の山の 山し際(は)に い隠(かく)るまで 道し隈(くま) い積もるまでに 委(つば)らにも 見つつ行かむを しばしばも 見(み)放(は)けむ山を 情(こころ)なく 雲の 隠さふべしや
私訳 味酒の三輪の山が、青丹も美しい奈良の山の山の際に隠れるまで、幾重にも道の曲がりを折り重ねるまで、しみじみと見つづけて行こう。幾度も見晴らしたい山を、情けなく雲が隠すべきでしょうか。
反謌
集歌18 三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉
訓読 三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなも隠さふべしや
私訳 三輪山をこのように隠すのでしょうか。雲としても、もし、情け心があれば隠すでしょうか。
右二首謌、山上憶良大夫類聚歌林曰、遷都近江國時、御覧三輪山御謌焉。
日本書紀曰、六年丙寅春三月辛酉朔己卯、遷都于近江。
注訓 右の二首の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林に曰はく「都を近江國に遷す時に、三輪山を御覧(みそなは)す御歌(おほみうた)なり」といへり。
日本書紀に曰はく「六年丙寅の春三月辛酉の朔の己卯に、都を近江に遷す」といへり。
今回、色々な提起と個人の解釈を紹介しましたが、それが議論の為の議論ではないとすると、従来の解釈はどのような根拠をもって解釈を説明して来たのかは、結構、不確かな伝承がベースであるかもしれません。本当に万葉集歌自体を色眼鏡無しで鑑賞して来たのでしょうか。