竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
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万葉雑記 色眼鏡 二六〇 今週のみそひと歌を振り返る その八〇

2018年03月31日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二六〇 今週のみそひと歌を振り返る その八〇

 今回は今週 鑑賞しましたものの中から少し気になる歌に遊びます。ある種、種切れの苦し紛れです。申し訳ありません。

集歌2104 朝果 朝露負 咲雖云 暮陰社 咲益家礼
訓読 朝果(あさかほ)し朝露負(お)ひし咲くいへど夕影(ゆふかげ)しこそ咲きまさりけり
私訳 朝顔は朝露を浴びて咲くと云うけれど、夕顔は夕暮れの光の中にこそひときわ咲き誇っている。

 この集歌2104の歌の初句「朝果」については、歌の鑑賞態度により対象とする植物が変わります。弊ブログでは三句目で一端 句切り、四句目は別の植物の花として鑑賞しています。そのため、初句「朝果」は朝顔で、四句の「暮陰」をその対比対象で夕顔としています。一般には初句「朝果」の植物は「キキョウ」が有力ですが、他にムクゲ、アサガオ、ヒルガオ説があります。
 ところで、一般的な訓じと解釈を紹介しますと、次のようになっていますから、初句「朝果」の植物と四句目「暮陰」の植物は同じとなる訳です。つまり、残暑の中で朝から夕方まで咲く花で、朝はつぼみが開き始め、夕方に盛りが来るものと云う植物が候補になっているのです。

標準的な解釈と鑑賞:「アサガオ」に現代名称「キキョウ」か「ムクゲ」を置き換えて下さい。
訓読 朝顔は 朝露負ひて 咲くといへど 夕影にこそ 咲きまさり けれ
意訳 アサガオは朝露の中で咲くから美しいと言われ ますが、夕日を受けて咲いているアサガオこそ、本当に美しいですよ。

 当然、弊ブログのように二種類の似通った花比べと云う観賞とは大きく違います。ただ、可能性として弊ブログのように花比べと云う解釈も成り立つと考えます。

 次の集歌2110の歌は花比べでも「萩花」と「尾花」とのまったく形状や風情の違うものでの花比べの歌です。なお、尾花は萩の季節のものですから、やや緑を持つ黄金色に濡れ輝く尾花で、晩秋の枯れススキではありません。そのような花比べです。

集歌2110 人皆者 芽子乎秋云 縦吾等者 乎花之末乎 秋跡者将言
訓読 人(ひと)皆(みな)は萩を秋云ふ縦(よ)し吾(われ)は尾花(をばな)し末(うれ)を秋とは言(い)はむ
私訳 人は皆、萩の花を秋の代表と云う。ままよ、私は尾花の穂を秋の代表と宣言しよう。

 これは好みとしか言いようがありませんが、関東ですと千石原高原、関西ですと砥峰高原のススキ原が有名で観光名所ともなっています。さて、どちらを好みとして秋の代表としましょうか。なお時代として、まだ菊は野菊の時代ですし、黄葉は冬の扱いです。
 参考として集歌2167の歌では「秋野之 草花我末」の「草花」を古く「尾花」と解釈しますので、集歌2167の歌は集歌2110の歌と同じ発想での歌であるかもしれません。

集歌2167 秋野之 草花我末 鳴舌白鳥 音聞濫香 片聞吾妹
訓読 秋し野し尾花(をばな)が末(うれ)し鳴く舌白鳥(ちどり)音(こゑ)し聞けむか片(かた)聞(き)け吾妹(わぎも)
私訳 秋の野に咲く尾花の穂先に、その鳴く姿を隠した千鳥の鳴き声を聞きましたか。物音をひそめて聞きなさい。私の愛しい貴女。
注意 二句目「草花我末」は秋を代表する草花から「尾花」の戯訓、三句目「鳴舌白鳥」は一般には「鳴百舌鳥」と表記します。ここでは西本願寺本に従い、かつ、戯訓としています。

 さらに次に紹介する集歌2113の歌は難訓歌ではありませんが、訓じが定まらない未定訓歌に分類される歌です。弊ブログでは歌の初句「手寸名相」を単細胞的発想で「てきなあふ=敵な逢う」と訓じていますが、一般にはその訓じでは意味が取れないとして「手寸十名相」と解釈校訂して訓じることもします。

集歌2113 手寸名相 殖之名知久 出見者 屋前之早芽子 咲尓家類香聞
試訓 敵(てき)な逢(あ)ふ植ゑし名著(しる)く出で見れば屋前(やと)し初萩咲きにけるかも
試訳 季節に相応しい人に逢った。萩を植えた人の名が有名なのでやって来てみると、庭の初萩は、その評判の通りに咲いていました。
注意 原歌の「手寸名相」、一部に「手寸十名相」と表記しますが、その定訓がありません。
訓読 てきなあふ植ゑし名著(しる)く出で見れば屋前(やと)の初萩咲きにけるかも
意訳 手も休めずに植えた甲斐があって、庭に出て見ると我が家の庭の初萩は咲いていたことだ。

 言葉として「敵(てき)」には仇の意味合いと、遊びや勝負事の相手と云う意味合いがあります。また『岩波古語辞典』では「敵」のもう一つの訓じ「かたき=仇」について、「日本語の『かたき』は『二つで一組を作るももの一方 の意』で、怨恨の相手はそれの特化した意味である」と解説します。これを踏まえて、弊ブログでは風流の相手として歌を鑑賞しています。ただ、万葉集では「敵」と云う漢字表記は「あた」と訓じますし、「てき=敵」と云う言葉を使った歌はありません。そこが素人の万葉集鑑賞の「トンデモ説」の由縁です。

 また集歌2117の歌について、気になるのは二句目「行相乃速稲乎」の「行相」と云う言葉です。

集歌2117 感嬬等 行相乃速稲乎 苅時 成来下 芽子花咲 (感は、女+感の当字)
訓読 娘女(をとめ)らし行逢(いあひ)の早稲(わせ)を刈る時し成りにけらしも萩し花咲く
私訳 宮に勤める女たちに行き逢えると云う、その言葉の響きのような品種「行相」の早稲を刈り取る季節になったのでしょう。その季節を告げる萩の花が咲いたよ。

 この「行相」と云う表現を万葉集特有の言葉遊びとしますと、「行相」は地名か、早稲の品種名称と考えるのが相当になります。地名として「行相」に相当する地域は奈良盆地内には見当たらないとするのが標準的な解釈です。そのため、街道の辻、神社の杜などの人々が行き会う場所と云うような解釈をします。
 一方、近々の木簡発掘成果により奈良時代後半には判明・確定した稲の品種だけでも「古僧子」「地蔵子」「狄帯建」「畦越」「白稲」「女和早」「白和世」「須留女」「小須流女」などがあり、それらは栽培されていたとします。特に早稲品種「須留女(するめ)」は石川県では「酒流女」「須留女」、奈良県では「小須流女」の記述を持つ農事関係の木簡が発見されていますから、当時の代表的な早稲品種のようですし、「白和世」などの早稲品種が秋の早い東北地方の開拓を支えたとします。このような時代背景がありますから、集歌2117の歌の「行相」を早稲品種と考えても良いのではないかと考えます。
 また、弊ブログでの突拍子もない品種と云う考え方の方が歌の解釈としては素直ではないかと考えます。この考え方が許されますと和歌に稲の品種を詠った特別な歌と云う位置づけになるでしょうか。

 今回は気になる歌に遊びました。ただ、いつものように与太話ですので、本気になって相手にしないようにお願いします。特に稲の品種記事は正しいソースはありますが、「行相」は妄想です。
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万葉雑記 色眼鏡 番外雑話 偶然の一致? 詩体歌と漢詩

2018年03月25日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 番外雑話 偶然の一致? 詩体歌と漢詩

 本記事はずいぶん昔に一度 弊ブログに載せたものを手を入れ焼きなおしたもので、本人としますとある種の備忘録のようなものです。
内容的には昔の記事の焼き直しですから、なんら新奇性はありません。「なんだ、昔、見た」です。


 さて、漢詩について「漢詩は通常,偶数個の句から成り,偶数句の末尾の字は同じ響き(韻)を持つ字に揃える。これを『押韻(おういん)』あるいは『韻を踏む』という。場合によっては最初の第一句の末尾も韻を踏む」と漢詩の言葉遊びである「韻」を解説します。漢詩作詩では詩を朗詠するときのその発声のバランスや言葉遊びから韻を踏むことが大切であり、その整った形式を五言詩や七言詩では絶句や律詩と称するようです。中国語や朝鮮語は閉音節言語に区分され、言語特性上、同音異義語と云う語彙が限定されますので、言葉遊びでは同音字からの「韻」と云うもので行います。日本語は開音節言語に区分され、特性的にたくさんの同音異義語を持ちます。そのため、文章では誤解を生じないように漢字を用い対象物を特定するようなことをしますが、話言葉では同時に複数の物事やそれぞれの人が違うものを想像する可能性があります。ある種、和歌での掛詞と云う言葉遊びです。有名な和歌の掛け言葉に「あかし」と云うものがあり、歌で「明し」、「赤し」、「証」、「明石」などと色々な言葉を想像させるものがあります。
 他方、万葉集には漢語の表現を大いに利用した歌があります。次の集歌1700の歌で使われている「金風」の「金」の用字がそうです。これは、陰陽五行の思想に基づくものですから、音を借字する万葉仮名の意味合い以外に漢語や漢詩の影響があったとしても良いのではないでしょうか。ついでに金は黄金色に通じますから、五行からの秋を示すと同時に秋の黄葉のシーンをも示していると思われます。ある種、漢字文字を使った掛詞です。これは日本人特有の漢字文字遊びです。

集歌1700 金風 山吹瀬乃 響苗 天雲翔 鴈相鴨
訓読 秋風に山吹(やまふき)の瀬の鳴るなへに天雲(あまくも)翔(か)ける雁に逢へるかも
私訳 雲行き怪しい秋風の中に山吹の瀬の音が高鳴るとともに、空の雲に飛び翔ける雁を見るでしょう。

 ただ、理解しないといけないのは、漢詩が最初に詠われたときから韻を踏む五言や七言の絶句や律詩が存在したわけではありません。韻を踏む漢詩の歴史は、インド仏教の音韻学を取り入れた南北朝斉の武帝の永明年間(483-492)以降の「永明体と称される漢詩」の流行が最初とされています。そして、その永明体の漢詩が広く詠われるようになったのは唐代と云われています。つまり、時代と歴史から韻を踏む五言や七言の絶句や律詩の形式論を持って、日本の近江大津宮・飛鳥浄御原宮時代の漢詩を評価することは出来ないのです。
 古今和歌集の原歌は一字一音万葉仮名だけで表記された歌で、歌中に表語文字である漢字の力を一切排除したものです。これにより、先ほど説明しました開音節言語特有の掛詞の遊びが最大限に出来るのです。しかしながら、古今和歌集の一字一音万葉仮名歌の成立までには天平二年の大宰府で詠われた梅花の宴から約二百年の時の流れがあります。確かに飛鳥時代の遺跡物から一字一音万葉仮名表記で記された歌を発見することは可能ですが、今のところ、最初から一字一音万葉仮名で和歌を詠い、記述すると云う態度は確認されていません。一字一音万葉仮名で和歌を詠うと云う意思が判明するのは梅花の宴以降です。およそ、韻を踏む漢詩の歴史や作詩論は、ちょうど、和歌において一字一音で表す万葉仮名表記の成立・完成に二百年の歴史があるような姿に似ていて、一字一音の万葉仮名表記の草仮名表記である古今和歌集以降の歌論で、漢語や漢字の持つ字の力を重視した本来の万葉集の歌を評価できないことに通じます。和歌の作歌技術論でもこれを忘れることは出来ません。

 この中国や日本の歌の形式の歴史から見たとき、人麻呂時代の中国(隋・初唐)では、やっと韻を踏む五言や七言の絶句や律詩などの漢詩のルールが整い、笛や銅鑼に合わせて歌う「賦」から近世の漢詩スタイルで「詩」を吟じるようになって来ました。その五言絶句の源流にあるのが六国の宋代に現れ大流行した子夜歌で、呉声歌曲と呼ばれる南朝歌謡の一つです。
 飛鳥時代と云う時代や当時に日本で使われていた「呉音の中国語」と云うその言語の地域性から推測すると、額田王や人麻呂たちは和歌を創作するのに、この呉声歌曲に代表される南朝歌謡を参考にした可能性があります。南朝歌謡以前の漢詩は、おおむね、宴会場で楽団を配して笛や銅鑼に合わせる儀礼的な「賦」や「楽府」、儒教的価値観を持つ説文的な「辞」の形式ですから、気分に合わせて口吻で詠うものではありませんでした。およそ、漢字(漢語)で詩を表し、主に女性が娯楽・享楽的に口吻で詠う呉声歌曲は、額田王や人麻呂たちの和歌に通じるものがあるのではないでしょうか。参考に日本の宮中などでの楽団を配して楽奏から歌うものに催馬楽と云うものがありますが、この催馬楽は平安時代中に興った手拍子や琵琶などの独奏で詠う白拍子に取って代わられます。楽奏を必要とする賦や辞から詩に遷り行った姿と似たものがあり、昭和時代ですと「小鉢叩いてちゃんちきおけさ」の世界から想像してみてください。識者が好む伝統からすれば相当に品下がった状況ですし、演芸です。
 このような前提条件で、額田王の集歌1606の歌と呉声歌曲「華山畿」を見比べて見てください。制作年代には約150年の時間差がありますが、歌の題材及び場面と発想はまったく同じものです。ただし、その呉声歌曲の伝来の時期を考えると朝鮮半島の動乱を通じて大陸との交流が活発化した斉明天皇の頃かもしれません。また、飛鳥・平城京時代の日本人は漢語を呉音発音で行っていますし、額田王は渡来系氏族の出身ともされていますから、集歌1606の歌の背景には非常に興味あるところです。さらに古事記・日本書紀に載る記紀歌謡や万葉集の雄略天皇の御製に見られる歌謡のような長歌と万葉集の和歌(短歌)では、その表現方法に大きな相違があります。
 和歌での、その歌の表現方法の時代における相違を思う時、人麻呂の詩体歌の表現の由来は、いったい何処なのでしょうか。

額田王思近江天皇作謌一首
集歌1606 君待跡 吾戀居者 我屋戸乃 簾令動 秋之風吹
訓読 君待つと吾が恋ひをれば我が屋戸(やと)の簾(すだれ)動かし秋し風吹く
私訳 あの人の訪れを私が恋しく想って待っていると、あの人の訪れのように私の屋敷の簾を揺らして秋の風が吹きました。

六国時代の宋・斉の呉声歌曲「華山畿」より
漢詩 夜相思 風吹窗廉動 言是所歓來
訓読 夜に相思ひ 風は吹きて窓の廉を動かし 言う 是れ所歓の来たれるかと
所歓:女性の寝所で歓びを与える人、転じて恋人のこと

 集歌1606の歌も華山畿も、ともに女性歌人の歌です。先にも紹介しましたが、発想的には非常に似たもので、その相違は日中の言語表現の差だけのようです。
 さて、正式の日中交流を小野妹子の遣隋使以降としますと、608年頃から隋や唐の文物が本格的に渡来してきたと考えられます。つまり、額田王の集歌1606の歌が詠われるまで、わずか40年ぐらいなのです。ここで、万葉仮名の表記に注目して人麻呂の初期の歌を、漢詩の雰囲気で見てみます。

人麻呂歌集より
集歌2240 誰彼我莫問九月露沾乍君待吾
訓読 誰(たれ)彼(かれ)を吾に莫(な)問ひそ九月(ながつき)の露に濡れつつ君待つ吾そ
私訳 誰だろうあの人は、といって私を尋ねないで。九月の夜露に濡れながら、あの人を待っている私を。

 この表記を見るとき、人麻呂もまた呉声歌曲の表現方法にヒントを得ていたのではないかと想像してしまいます。その私の想像を判り易くするために、集歌2240の人麻呂の歌の詩句の順番を入れ替えて遊んでみますと、次のような形が現れてきます。これを先ほどの華山畿と並べて紹介します。

君待吾 誰彼我莫問 九月露沾乍
君待つ吾 誰れ彼れと我に問ふなかれ 九月の露に濡れいるを

夜相思 風吹窗廉動 言是所歓來
夜に相思ひ 風は吹きて窓の廉を動かし 言う 是れ所歓の来たれるかと

 上段が日本語の和歌の変形で下段が中国語の漢詩です。当然、日本語と中国語では語調が違いますから和歌の変形になっています、しかし、不思議な世界です。呉声歌曲は宴や酒楼で女性が詠う娯楽の歌謡とされていますから、和歌が呉声歌曲に関連するものならば、娯楽として恋唄が主要テーマとなり、集団歌謡の旋頭歌から単独口唱歌の短歌となるのは必然です。また、日本で歌垣における掛け合いの男女の相聞歌と同様に、中国の呉声歌曲においても重要なテーマです。
こ れは偶然でしょうか、これもまた万葉集の主要テーマと重なるものです。私は、人麻呂のいわゆる古体歌(特に最初期の5字+5字+3字の表現)は、人麻呂達が漢詩から和歌(短歌)を築き上げる過程の一端を示唆するものではないかと想像しています。また、呉声歌曲は楽奏を伴う伝統・正統の賦や辞ではありません。民衆の娯楽レベルのものです。同じように人麻呂たちの歌も漢文・漢詩の世界からしますと、書面表記はなされていますが正統の文芸ではありません。大和人の楽しみとする世界です。最初 和歌は宮中の正式行事式次第の中ではなく、その行事が終わった後の肆宴で詠われる娯楽です。斯様に共に民衆のものである事も偶然でしょうか。
 どなたか、この方面に詳しい方に正論を教えていただければ幸いです。色々と探していますが、漢語漢詩と初期和歌(古体歌)の関係を簡単に説明したものはなかなか見つけられません。発声学に依るものはありますが、詩自身に注目したものは白川静氏のもの以外について見つけられていません。


 話題が変わり、ここからは脱線の与太話です。
 岩波文庫「中国名詩選」などを眺めていて感じることですが、距離感や時間の流れを示す修辞としての自然の状況を歌う詩句はありますが、山野河海の「自然自体」の情景を歌の直接のテーマとしたものはあまり見つけることが出来ませんでした。漢詩の生い立ちが、儀式での賦や贈文の辞などの「人」がテーマの中心だったからでしょうか。そうしたとき、万葉歌人の阿部仲麻呂と王維や李白との関係が非常に気になります。場合によっては、人の介在を必要としない日本人の「自然」の情景に対する感性について、晁衡(阿部仲麻呂)を通じて王維や李白に影響を与えた可能性があるのではないでしょうか。
 当時、人の介在を必要としない日本人の「自然」の情景を詠う詩人の代表が柿本人麻呂です。紹介する人麻呂が詠う集歌1816の歌には、中国人の詠う漢詩とは違い、そこには人の姿はありません。夕刻に西に沈み逝く太陽の光と東の弓月が嶽の稜線を昇りゆく残照の光の帯がテーマです。明るい山稜が刻の移り行きで光の帯を狭め、最後に弓のような光の帯となる光と闇です。そして、その光は蜻玉のように妖しく色変わりするのです。この歌の世界は、その光の帯と霞の懸った闇の山容のコントラストの美しさにあります。

集歌1816 玉蜻 夕去来者 佐豆人之 弓月我高荷 霞霏微
訓読 玉(たま)蜻(かぎ)る夕さり来れば猟人の弓月が嶽に霞たなびく

 阿部仲麻呂が遣唐使として唐に赴いた奈良時代、人麻呂歌集は世に広まり、山上憶良の類聚歌林も人に知られていたと思います。阿部仲麻呂が、晁衡として漢詩を詠ったとき、そのベースには漢詩から和歌を発展させ、その進歩を遂げて最高水準に達した和歌から漢詩を見直した感性があったのではないでしょうか。大和人が自然を詠うとき、そこには「人」と云う介在はありません。自然そのままの姿を詠いますが、その自然そのままの姿に人の感情が隠されています。この心の表現方法は人の存在を介して自然を詠うと云う大陸的姿とは相違します。

望月望鄕 晁衡(阿部仲麻呂)
翹首望東天 翹首(げうしゅ)して東天を望み
神馳奈良邊 神(こころ)は馳す奈良の邊り
三笠山頂上 三笠の山の頂の上
思又皎月圓 想ふ。又、皓月(こうげつ) 圓(まどか)なりや


 おまけとして、ここで晁衡(阿部仲麻呂)より少し前に二人の日本人が中国で同じテーマで歌を詠ったものを紹介します。二人は帰国を同じくする遣唐使の一員と思われ、二人が詠う歌は同じ詩歌の題材です。私は同じ宴会で披露された詩歌と思っていますが、一人は和歌で、もう一人は漢詩で望郷の思いを詠っています。なお、唐留学僧である釋辨正は本名は伝わりませんが懐風藻には出家前は秦氏であったとしますので帰化から百年以上を経た日本人です。一方、山上憶良は帰化一世または二世ではないかとする説があります。そのような家庭の背景を持つ二人です。

山上臣憶良在大唐時、憶本郷作謌
標訓 山上臣憶良在大唐時、憶本郷作謌
集歌63 去来子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武
訓読 いざ子ども早(と)く日本(やまと)邊(べ)へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ

釋辨正 懐風藻 二首より一首
五言 在唐憶本郷 一絶 唐に在りて本郷(もとつくに)を憶(おも)ふ
日邊瞻日本 日邊 日本を瞻み
雲裏望雲瑞 雲裏 雲瑞を望む
遠游勞遠國 遠游 遠國に勞し
長恨苦長安 長恨 長安に苦む

 以前に紹介しましたが、和歌を詠った山上憶良は日本挽歌や貧窮問答に見られるように美しい対句の漢語で歌を歌える人物ですし、人麻呂時代の和歌を研究した人物です。その遣唐使通訳である彼が、あえての在唐での和歌です。漢詩で歌が詠えなかった訳ではありません。あえての和歌です。
 一方、釋辨正は若き日の玄宗皇帝の碁の相手をするような社交性溢れる人物で、その才能により血を後世に伝えるために唐朝廷により還俗させられ女性をあてがわれ、二人の児をなしています。そのような人物の帰国での歌です。
 参考として山上憶良が残した日本挽歌の前置漢文と漢詩を以下に紹介します。斯様に憶良は正統な漢文も漢詩も自在です。しかしながら、憶良は大和人として和歌を優先し、漢詩を後に置いた雰囲気があります。ただし、憶良は花鳥風月よりも社会や人を詠った人ですので、そこは大陸的な歌人の雰囲気があります。

盖聞
四生起滅 方夢皆空
三界漂流 喩環不息
所以
維摩大士在手方丈 有懐染疾之患
釋迦能仁坐於雙林 無免泥亘之苦
故知
二聖至極 不能拂力負之尋至
三千世界 誰能逃黒闇之捜来
二鼠○走 而度目之鳥旦飛
四蛇争侵 而過隙之駒夕走
嗟乎痛哉
紅顏共三従長逝
素質与四徳永滅
何圖
偕老違於要期 獨飛生於半路
蘭室屏風徒張 断腸之哀弥痛
枕頭明鏡空懸 染均之涙逾落
泉門一掩 無由再見
嗚呼哀哉
愛河波浪已先滅
苦海煩悩亦無結
従来厭離此穢土
本願託生彼浄刹


 色々と遊びました。律詩となる和歌の創成期に当たる飛鳥・奈良時代の人々は呉声歌曲などの口吻で詠う漢詩スタイルなどをヒントに大和人の民謡のリズムで大和心を歌に詠ったと思われます。当然、最初は模倣からのスタートと思います。一方、同時に飛鳥・奈良時代の人々は万葉集や懐風藻が示すように正統な漢文・漢詩でも作品をものにしています。つまり、漢詩的に表記する技術は存在・使用しています。
 これは文化創成期だからこそ生じた事柄でしょうか。阿蘇瑞江氏の唱えた略体歌・非略体歌進化論は柿本人麻呂だけに収束しすぎることや遺跡発掘物などから現在では否定的な扱いですが、和歌スタイル創成期では模倣として略体歌・非略体歌が呉声歌曲に似たものとなるのは仕方がないかもしれません。
 その時代の人々は正統な漢文・漢詩を創作出来、同時に大和に宣命大書体があり朝鮮半島に吏読があったとしますと、詠う歌を漢語に大和言葉の「てにをは」を借音漢字で表し添えて書面に写し取ることはあったかも知れません。しかし、詠われる歌自体が記紀歌謡・童歌(わざうた)や催馬楽の状態でしたら、まだまだ、律詩の和歌には距離があります。
 妄想ですが、飛鳥浄御原宮の時代、大和歌や演芸を好まれた天武天皇の好みで和歌のリズム感が生まれ、そのリズム感でもって良く歌を詠い・書面に表現できた第一人者が柿本人麻呂だったかもしれません。天武天皇は万葉集からすれば近江大津宮時代から和歌を詠い、同時に現代までに伝わる五節舞などの舞踊を鄙の演芸からプロデュースされたお方です。ある種、芸能関係の演出家の性格を持たれた人物ですので口調の良い流行歌を作ることも可能性があるでしょうし、天皇のプロデュースによる大和言葉と相性の良い定型詩ですと、その普及は交通・通信が悪い古代でも瞬時のことではないでしょうか。このような可能性があるが故に奈良時代初期までには記紀歌謡・童歌や催馬楽のような古風で不定形の民謡ではなく、定型・律詩の和歌が九州から関東まで、天皇から里長クラスの民衆までに普及し詠われたのではないでしょうか。

 ある種の備忘録のような記事のため、とり止めも無い与太話があちらこちらと跳び散らかしました。反省の次第です。
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万葉雑記 色眼鏡 二五九 今週のみそひと歌を振り返る その七九

2018年03月24日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二五九 今週のみそひと歌を振り返る その七九

 今回、やっと、七夕の歌から抜け出ました。抜け出ましたが、今週の話題は萩の花です。これもまた季節が合わない話ですが、ご容赦を。

集歌2094 竿志鹿之 心相念 秋芽子之 鐘礼零丹 落僧惜毛
訓読 さ雄鹿し心(うら)相(あひ)思(も)ふし秋萩し時雨し降るに散らくし惜しも
私訳 雄鹿が雌鹿を心に想う季節の秋萩に時雨が降って、散っていくのが惜しいことです。

集歌2095 夕去 野邊秋芽子 末若 露枯 金待難
訓読 夕されば野辺し秋萩末(うら)若み露にそ枯るる秋待ちかてに
私訳 夕方になると野辺の秋萩の枝先の小さい葉が露によって色付き枯れる。秋が待ちきれないように。

 七夕の歌を抜け出したことと萩は万葉集を代表する秋の花であることから万葉集の萩の歌を全般を鑑賞することを踏まえて歌の鑑賞よりも萩の花 自体を話題としています。これもまたご容赦下さい。
 さて萩について名前由来から見てみますと、萩は確かに古代から「ハギ」と呼称されて来たようですが、その漢字表記「秋芽子」や「芽子」の由来は確定していません。そのため万葉集に載る古名の秋芽子や芽子の由来が専門家もまったく分からないので「ハギの語源は生芽(ハエギ)のようで、毎年根茎から芽を出すことから付けられた」のような解説をしています。ただ、秋を代表する花を楽しむ草木の名の由来を、春の新芽に由来を持ってくるところが辛いところですし、在来植物に漢語の読みを持ってくるのも大変です。それに、音での「ハギ」は説明出来ますが、漢字表記の「芽子」の由来はまったく説明が出来ません。このような状況のため、日本の秋を代表する草木ですが、専門家でも古名の秋芽子や芽子の由来が不明なのです。
 また、生芽(ハエギ)説の他に、葉の形状から歯牙(はぎ)、秋に葉が黄色くなるので葉黄(はき)、葉が沢山ついた木なので葉木(はき)などの説もあるようです。個人的には、萩は夏の花である輸入植物の露草と違い日本在来の草木ですので漢語に由来を持つ名ではないでしょうから、鹿の食む木(はむき)がその名の語の由来としてはその可能性が高いと考えています。
 ただ、なぜ、万葉人は「ハギ」に「芽子」の当て字を使ったのかについては、未だ、疑問です。なお、芽子の用字には「かわいい芽」とか「たいせつな芽」のような意味が取れますし、「芽」には「わずかにのぞく」との意味があります。ただし、まめ科である萩の花の形状から妄想を広げて、古名の芽子から飛躍して同音異字ですが関西古語の「女子」、また、「御芽子」と「御女子」とを思い浮かべてはいけないようです。なお、奈良時代以降の教養ある人々は「女子」を「じょし」とは発音しません。「女」は「め」と発音します。また、上下を逆にした萩の花の形状からは、古語の芽子は葉木でなくて花の形から女性器を想像しての当て字である可能性が高いと思われます。

 馬鹿話を棚上げにして、一応、鹿の食む木(はむき)説を思わせるような正統の鹿と萩の歌を以下に載せます。

湯原王鳴鹿謌一首
集歌1550 秋芽之 落乃乱尓 呼立而 鳴奈流鹿之 音遥者
訓読 秋萩(あきはぎ)し散りの乱(まが)ひに呼びたてて鳴くなる鹿(しか)し声し遥(はる)けさ
私訳 秋萩の花が散る乱れる、その言葉ではないが恋の季節である秋が終わって行くと心を乱して雌鹿を呼び立てて鳴いている雄鹿の声が遥かに聞こえる。

 ここで萩の花について、露草の別名 鴨頭草と同じような感覚で芽子や秋芽子の言葉を使う歌を見て行きたいと思います。その最初に大伴坂上郎女が詠う「芽子」の歌を紹介します。

大伴坂上郎女晩芽子謌一首
標訓 大伴坂上郎女の晩(おそ)き芽子(はぎ)の謌一首
集歌1548 咲花毛 宇都呂波厭 奥手有 長意尓 尚不如家里
訓読 咲く花も移(うつろ)は厭(うと)し晩(おくて)なる長き心になほ如(し)かずけり
私訳 咲くでしょう花も、花として色付き散るのを嫌う。晩熟(おくて)の気長い心持ちには、まだ咲き出さない萩の花ですが、それでも及びません。
注意 原文の「宇都呂波厭」の「宇都」は、一般に「乎曾」の誤記とし「乎曾呂波厭」と表わし「をそろは厭(いと)し」と訓みます。

 この歌で理解されると思いますが、歌の標題に示す「晩芽子」の意味するところは大伴坂上郎女の娘の性的成長が遅いと云うことです。娘が婚約をしていても、正式の婚姻には初潮を迎え裳着の儀式を終えて成女になることが前提ですが、それがまだまだな状況を示します。つまり、この標題の「芽子」なる言葉には「女性の性」の意味合いが隠されています。
 このような感覚で次の歌を鑑賞してください。当時の生活風習では恋する相手であっても名前を口に出したり、表したりすることは忌むべきこととされていましたから、歌に使う「秋芽子」の言葉に恋する女性、その人自身を代表している可能性があります。逆に女性の比喩として解釈する方が判りやすい歌です。

集歌2122 大夫之 心者無而 秋芽子之 戀耳八方 奈積而有南
訓読 大夫(ますらを)し心はなみに秋萩し恋のみにやもなづみにありなむ
私訳 立派な男の気負いを無くしたままで、秋萩(貴女の姿)の見事さに心を奪われ、その情景に浸ったままです。

 集歌2122の歌の秋芽子が女性、その人を比喩する言葉としますと、次の集歌2173の歌は、もう少し、女性でも性の意味合いが強い歌と思われます。そして、歌には草木に置く「白露」と女性の潤いの比喩である「露」との対比があると考えられます。

集歌2173 白露乎 取者可消 去来子等 露尓争而 芽子之遊将為
訓読 白露を取らば消(け)ぬべしいざ子ども露に競(きほ)ひに萩し遊びせむ
表訳
私訳 白露を手に取れば消えてしまうでしょう。さあ、愛しい貴女、その露に競って、萩と共に風流を楽しみましょう。
裏訳
私訳 草木の葉に置く白露を手に取れば消えてしまうでしょう。でも、愛しい貴女、葉に置く露にまさって体を潤わす、そのような貴女と夜の営みを楽しみましょう。

 私の感覚において、集歌2173の歌よりも、もう少し、性の意味合いを強めた歌が次の集歌2284の歌です。最初は、標準的な表歌での解釈を紹介します。

集歌2284 率尓 今毛欲見 秋芽子之 四搓二将有 妹之光儀乎
訓読 ゆくりなに今も見が欲(ほ)し秋萩ししなひにあるらむ妹し姿を
意訳 突然ですが、今も眺めて見たい。秋萩のようなあでやかでしなやかな体をしているでしょう、その貴女の姿を。
注意 この歌を比喩歌と取ると、芽子と四搓の言葉から強い男の欲望の歌になります。

 この歌に比喩があるとすると「芽子」がその対象になりますし、その時、歌の初句「率尓」の言葉が効いてきます。

集歌2284 率尓 今毛欲見 秋芽子之 四搓二将有 妹之光儀乎
比喩の裏歌
訓読 ゆくりなに今も見が欲(ほ)し秋萩ししなひにあるらむ妹し姿を
試訳 あぁ、我慢できない、今、見せて欲しい。貴女のあそこへの念入りにする愛撫で身悶えた、あの時と同じ貴女の姿を。

 御存知のように漢字の「搓」には「さする」や「よじる」と云う意味合いがあります。また、「四」には「四方」や「四海」なる言葉があるように「全部」とか「周囲」とかの意味があるとしますと、「四搓二将有」と云う文字を選択した裏には「遍く愛撫を行い、二の文字に重なる」と云う意味合いが隠れていることになります。そして、倭言葉の「しなひ」には「柔らかく撓ませる」や「柔らかく身をくねらせる」と云う意味合いがあります。それを想像しての裏歌となります。
 次いで、万葉集巻十に載る秋芽子の言葉を使う歌を紹介します。

集歌2273 何為等加 君乎将厭 秋芽子乃 其始花之 歡寸物乎
訓読 何すとか君を厭(い)とはむ秋萩のその初花(はつはな)し歓(うれ)しきものを
意訳 どうして貴方を嫌いだと思うでしょうか。出会うことを待ち焦がれる、秋萩のその初花のように、出会いがあればうれしいものですから。

 一般に、歌に「君」と云う言葉があると、女性から男性に贈る歌と推定します。それで意訳文は女性が歌を詠ったとしてのものです。
 さて、集歌2273の歌は原文表記で鑑賞すると、すこし、特異な歌です。どこが特異なのかと云うと、漢詩のように鑑賞が出来るのです。それを紹介してみましょう。

集歌2273の歌
何為等加   何すとか
君乎将厭   君を厭(い)とはむ
秋芽子乃   秋芽子の
其始花之   その花の始めの
歡寸物乎   歓(かん)の寸(すく)なきものを

 このような表記スタイルにしますと、歌が女性から男性に贈られたと云うことに疑問が生じます。この漢詩的なスタイルでは、歌は宴会で木簡などに墨書されて回覧して楽しんだ可能性が見出せます。つまり、宴会での猥歌です。
 すると、集歌2273の歌は次のように解釈が出来るのではないでしょうか。

集歌2273 何為等加 君乎将厭 秋芽子乃 其始花之 歡寸物乎
裏歌
訓読 何すとか君を厭(い)とはむ秋萩のその始花(はつはな)し歓(うれ)しきものを
私訳 秋萩の花のように咲き始めたばかりの貴女には夜の歡びがまだすくないようです。だからといって貴女が嫌いではないのです。

 つまり、即物的に「貴女は未だ性交渉に慣れてはいないけども、それでも、私は貴女が嫌いではありません」と云っているとも読めるのです。文にも手馴れの熟練した男から、初々しい女への歌の景色です。なお、「其始花之」には、いわゆる、初交や性交初夜の意味はありません。初交には「初花」のような漢字表現を使うと考えます。
 参考に、まだ、男女関係に馴れていない若い娘が好きな男に抱かれる時の気持ちを詠った歌があります。集歌2650の歌と集歌2273の歌とを重ね合わせて鑑賞すると、若い娘の気持ちが良く分かると思います。

集歌2650 十寸板持 盖流板目乃 不令相者 如何為跡可 吾宿始兼
訓読 そき板(た)以(も)ち葺(ふ)ける板目(いため)の合(あ)はざらば如何(いか)にせむとか吾(あ)が寝(ね)始(そ)めけむ
私訳 薄くそいだ板で葺いた屋根の板目がなかなか合わないように、私の体が貴方に気に入って貰えなければどうしましょうかと、そのような思いで、私は貴方と共寝を始めました。

 さて、鴨頭草や芽子の言葉にその花の形などから女性や女性器の比喩があるとしますと、万葉時代の人たちは男女を問わず、それを良く観察していたことにもなります。その良く観察をしていたことを基準に次の歌を紹介します。

集歌2225 吾背子之 挿頭之芽子尓 置露乎 清見世跡 月者照良思
訓読 吾が背子し挿頭(かざし)し萩に置く露を清(さや)かに見よと月は照るらし
私訳 私の愛しい貴方が髪飾りとした萩に置く露を、輝き清らかだから良く見なさいとばかりに月は照っているのでしょう。

 集歌2225の歌の二句目「挿頭之芽子尓」は「露を置いた萩の枝を髪飾りとした」と解釈して訳します。情景は髪に挿した萩の露が月の明かりに輝くと云う明るい光の下での出会いです。
 ただ、芽子や露に比喩があるとすると、古語の「かざす=翳す」には「物の上に手で覆うように差し出す」と云う意味がありますから、時に「かざす」をしたものは恋人の顔かもしれません。そうした場合は、歌は閨での痴話になり、女性が「私の芽子に置く露の様子を月明かりの下、もっと、良く見て」とお願いしていることになります。参考として、万葉時代、ふくよかな白き肌に潤い濡れた体が美人の基準の一つだったようです。
 もう一つ、裏の意味がありそうな芽子の歌を紹介します。それが集歌2228の歌です。風景は枝一杯に花を付けた萩が月の光に明るく照らされています。そのようなすがすがしい歌です。

集歌2228 芽子之花 開乃乎再入緒 見代跡可聞 月夜之清 戀益良國
訓読 萩し花咲きのををりを見よとかも月夜(つくよ)し清(きよ)き恋まさらくに
私訳 萩の花がたわわに咲いているのを眺めなさいと云うのでしょうか、月夜が清らかで、この風情に心が引きつけられる。

 さて、紹介した集歌2228の歌は二句目が難訓で「乎再入緒」は「ををりを」と訓むことになっています。一応、「乎再」は同じ文字の繰り返しを避けるための表記での「乎が再び」と解釈し、「乎再入緒」は「乎乎入緒」と見なしての「ををりを」です。
ここで古語の「ををり」は「撓り」とも表記し、漢字で「撓り」と表記しますと別訓で「たをり」とも訓むことが出来ます。この「たをり」は「山の稜線のくぼんで低くなっている所」を意味しますし、「ををり」は「花や葉がたくさんついて枝がしなうこと」を意味します。およそ、「ををり」や「たをり」とは「くぼみ」や「周りより低くなる様」を表す言葉のようです。
 そうした時、原文表記の「再入」は意味深長です。「芽子」に女性器の隠語があることを思いますと、歌を発声で詠う場合と木簡などに墨書した場合での歌の雰囲気は大きく違います。その墨書した場合には、ちょうど、鴨頭草の花の形が意味する男女の状況を眺めるのにちょうどよい月明かりと云う意味が現れて来ます。それも、「もう一度」と歌にはあります。

集歌2228 芽子之花 開乃乎再入緒 見代跡可聞 月夜之清 戀益良國
裏歌
訓読 萩し花割(さ)けの撓(をを)りを見よとかも月夜(つくよ)し清(きよ)き恋まさらくに
私訳 貴女の芽子のあたりの窪みを見つ、もう一度、体を交わしなさいとばかりに月夜の明かりは清らかです。だから貴女を抱きたくてたまらない。

 もし、集歌2225の歌と集歌2228の歌とが、仲秋の名月の下、宴を催しての歌会での二首問答歌としますと、非常に楽しい宴ではないでしょうか。発声で詠う場合、共に歌は月明かりに照らされる萩花の風情を詠います。ですが、その歌を木簡などに墨書して女性陣に回覧し目配せしますと、次のような返歌を貰えるかもしれません。

集歌2252 秋芽子之 開散野邊之 暮露尓 沾乍来益 夜者深去鞆
訓読 秋萩し咲き散る野辺(のへ)し暮露に濡れつつ来ませ夜は更けぬとも
私訳 秋萩の花が咲き散る野辺の、その夕露に濡れながらやって来て下さい。夜は更けたとしても。

集歌2271 草深三 蟋多 鳴屋前 芽子見公者 何時来益牟
訓読 草深み蟋蟀(こほろぎ)さはに鳴く屋前(やと)し萩見に君はいつか来まさむ
私訳 草むらが深いのでコオロギが盛大に鳴いている私の家の庭に、萩を眺めに貴方はいつお出でになるのでしょうか。

 今回は完全に馬鹿話です。ただし、萩の花を詠う歌を鑑賞するとき、このような馬鹿話の可能性があることをどうでも良い知識として持っていますと、鑑賞の奥行きが広がるのではないでしょうか。風流のようで、その歌の表現に使われる漢語や漢字文字に注目しますと時に馬鹿話の歌であるかも知れません。
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万葉雑記 色眼鏡 番外雑話 末の歌と頭の歌 万葉集と古今和歌集

2018年03月18日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 番外雑話 末の歌と頭の歌 万葉集と古今和歌集

 本ブログの記事は、まったくの与太話です。さらに増して、これは将来のブログ記事のネタとしての備忘録のようなものですので、海のものとも山のものとも不明なものです。酔加減なものですので、そのようなものとしてお楽しみ下さい。
 このところずっと新たに万葉集に遊ぶネタがなく苦労してましたところ、万葉集の末の歌と古今和歌集の頭の歌とが呼応している可能性があるとのご指摘がありました。ネタとして大変においしいものと感じ、ここにそれをネタとして万葉集に遊ぶ次第です。
 最初にその万葉集での最後に載る歌と古今和歌集の最初に載る歌を紹介いたします。

三年春正月一日、於因幡國廳、賜饗國郡司等之宴謌一首
標訓 三年春正月一日に、因幡國(いなばのくに)の廳(ちやう)にして、饗(あへ)を國郡(くにのこほり)の司等(つかさたち)に賜(たま)はりて宴(うたげ)せし謌一首
集歌4516 新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰
訓読 新しき年の始(はじめ)の初春の今日降る雪のいやしけ吉事(よこと)
私訳 新しい年の始めの初春の今日、その今日に降るこの雪のように、たくさん積もりあがれ、吉き事よ。

歌番号一
詞書 布留止之尓春多知个留日与女留 在原元方
詞訳 ふるとしに春たちける日よめる 在原元方
和歌 止之乃宇知尓春者幾尓个利比止々世遠己曽止也以者武己止之止也以者武
読下 としのうちに春はきにけりひとゝせをこそとやいはむことしとやいはむ
通釈 年の内に春は来にけり一年を去年とや言はむ今年とや言はむ

 大伴家持が詠う万葉集の方は官庁定例行事として新年祝賀の宴で詠う定型の寿ぎ歌ですから、特段、面白みがあるわけでもありませんし、秀歌と云うものでもありません。万葉集には類型の新年宴会の寿ぎ歌が他にも載ります。従いまして、万葉集最後の歌となる集歌4516の歌は単に天平宝字三年正月と云う「時」を詠ったという位置付けです。
 他方、古今和歌集の方は暦からの遊び歌です。言葉として、暦の分野では太陰太陽暦において新年を迎える前に二十四節気の立春になることを年内立春と呼びます。そうしたとき、紹介しました古今和歌集の巻頭を飾る在原元方の歌はこの年内立春を題材にしたものです。太陰太陽暦になじみのない現代では歌の雰囲気から暦の上での年内立春と云うものに季節感からの戸惑いを感じると云うのが標準的な鑑賞でしょうか。歌の特徴から見ますと暦からの遊びはありますが、だからと云って歌が秀歌かと問われると難しいものがあります。
 一方、暦の研究からしますと、太陰太陽暦の特徴として近世に使われる太陰太陽暦(天保暦)では平均で二年に一回は年内立春となり、歌が詠われた平安時代に使われた太陰太陽暦(宣明暦)では平均で三年に一回、年内立春と云う暦の巡り会わせとなります。つまり、太陰太陽暦において年内立春はオリンピックゲームよりもありふれた出来事となります。このため、ありふれた出来事であるがゆえに在原元方が歌を詠った年をこの年内立春と云う出来事からは確定する事が出来ません。このような解説を発見しますと、従来の鑑賞態度に逆に戸惑いを感じます。現代ですと、判り切った出来事をさも大げさに誇張しますと「えぇ、そこかよ」と突込みが来ることは間違いありません。年内立春は暦上ではその程度の出来事です。

 さて、暦で遊びますと天平宝字三年正月一日は西洋暦では759年2月6日です。そして話題としてます立春は定気法では太陽暦2月4日になりますから、大伴家持が新年を寿ぐ歌を詠ったときはもう立春を過ぎています。つまり、年内立春の年だったのです。暦ではそのシーズンの立春は天平宝字二年十二月二八日でした。
 すると、紀貫之たちは万葉集最後の歌が詠われた年が年内立春の年だったことを知っており、それを受けて在原元方が詠った年内立春の歌を古今和歌集の巻頭に持って来たと思われます。つまり、ご指摘のように万葉集の末の歌と古今和歌集の頭の歌は、暦と云う遊びの中で応答していることになります。
古今和歌集の編纂は紀友則・紀貫之・河内躬恒・壬生忠峯等と真名序に名が載る人たちにより行われていますが、彼らは暦の専門家ではないために約百五十年以上も前の時代の暦を正確に知っていたとは思えません。また、正史の続日本紀にも立春の記事はありません。可能性として暦を管理する陰陽寮に奈良時代からの具注暦が残されており、それをもって暦の面白みを知ったのでしょうか。
 弊ブログの記事「万葉雑記 番外雑話 万葉集終日 天平宝字三年正月」で酔論を述べましたように二十巻本万葉集の編纂事業は宇多天皇に深く関わると思われ、宇多天皇が天平宝字三年正月一日と云う日でもって万葉集を閉じることを決めた可能性があります。古風に物事の終りを目出度く閉じると云う要請に対してその特別な日を吉凶占いをしますと、万葉集最後の日となる天平宝字三年正月一日は旧暦表記では天平宝字三年正月戊辰朔で、この日は養蚕掃立の吉日、十二直では満、二十八宿では鬼(き)と云う全てが大吉と云う大変にお目出度い日となります。重ねて当日は正月一日と云う新年を祝う日でもあります。実に万葉集という大和歌の詩歌集を閉じ、完成とするには大変にお目出度く、相応しい日と云うことになります。逆にこの暦日での吉凶占いへの態度を想像しますと、この天平宝字三年正月戊辰朔と云う「時」が編纂において設計されているとも考えられます。これですと、宇多天皇も納得する万葉集という詩歌集の取り扱う期間の設定ではないでしょうか。他方、十二直は正月節では立春から最初の寅の日を数え初めの基準としますから、必然、天平宝字二年十二月二八日が立春だったことを二十巻本万葉集の編纂関係者は知っていることになります。
 妄想ですが、この天平宝字三年正月戊辰朔は暦からの吉凶占いでは養蚕掃立の吉日、十二直の満、二十八宿では鬼に当たり、物事の満了を意味します。加え、この吉凶占いからしますと天平宝字二年十二月二八日が立春だったと云うことを紀貫之たちは古今和歌集の編纂開始に当たり知っていたと思われます。だから、万葉集を受ける古今和歌集は年内立春の歌から始めなければいけなかったのでしょう。このような背景があったため、古今和歌集は真名序に示すように、最初、続万葉集という名称で奉呈されたと考えます。
 参考として、弊ブログが妄想する現在の万葉集においてその巻十六までの基盤を為す原万葉集は二部構成で編まれたと考えています。その原万葉集を構成し、奈良遷都までの前半を扱う「奈弖之故」は天平勝宝七歳五月己未朔己已に上梓されており、この日は養蚕掃立の吉日、十二直の建、二十八宿では弖(てい)であり、これらは物事の根本を意味します。ついで後半の奈良遷都から後期難波遷都までを扱う「宇梅乃波奈」は天平宝字二年二月癸卯朔丁已に上梓され、この日は養蚕掃立の吉日、十二直の満、二十八宿では角(かく)に当り、物事の満了を意味します。斯様に二十巻本万葉集の基盤を為す原万葉集の上梓では吉凶占いによりその上梓・奉呈する日がデザインされています。これを平安時代の貴族たちも承知・継承し、それに習って二十巻本万葉集の末の日を決めたと考えます。
 もう少し妄想しますと、万葉集最終の歌に対して年内立春の歌を巻頭に置く態度からしますと、当初、紀貫之たちの古今和歌集編纂への意識は続編万葉集を編纂すると云うものが強く存在したのでしょうか。場合により、宇多天皇は二番煎じとなるような「続万葉集」と云うその臭いを嫌い、真名序に「各献家集并古来旧歌、曰続万葉集。於是重有詔、部類所奉之歌、勒為二十巻、名曰古今和歌集」と記すように、新たな時代の和歌集と云うことで「続万葉集」ではなく、独自性を持たせたものへと再編纂を要求したのでしょうか。ただ、真名序は「嗟乎、人丸既没、和歌不在斯哉」、仮名序は「人麿亡くなりにたれど、歌のこと留まれるかな。たとひ時移り事去り、楽しび悲しび、行き交ふとも、この歌の文字あるをや。青柳の糸絶えず、松の葉の散り失せずして、まさきの葛長く伝はり、鳥の跡久しく留まれらば、歌の様をも知り、事の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、いにしへを仰ぎて、今を恋ひざらめかも」と文を閉じますから、やはり、彼らの編纂意識の根底には「続編 万葉集」が強く存在したのでしょうか。古今和歌集は弊ブログの守備範囲ではありませんので、やや、歯痒いところがあります。
 行ったり来たりしていますが、弊ブログで妄想しています奈弖之故と宇梅乃波奈の上梓の日の推定は、ここで別な視線から推定しました二十巻本万葉集を閉じる日に通じるものがあります。あれも妄想、これも妄想と云うものからの思考の組み立てですが、結論ではこの特別な偶然の一致で暦の吉凶占いから、酔論したすべては吉日の日がデザインされていたへと収束します。与太話ですが、非常に可能性の高い与太話と云うことになります。

 今回はいつもの妄想に加えて暦遊びをしました。ただ、妄想世界での偶然の一致からしますと、可能性のある妄想と考えます。そこでもし、ご来場の奇特なお方のお目に留まり、古今和歌集と万葉集との接続関係をご教授頂ければ幸いです。
 最後にコメントとして話題となりそうなネタを頂き、それを調べてみますと、結構、面白い方向性が見えました。大変にありがとうございました。


 追記参考として、現在は非常に便利な世の中になりました。和暦と西洋暦はHP「換暦」というところで換算計算が出来、暦の吉凶はHP「暦注カレンダー 高精度計算サイト」で調べることが出来ます。もちろん、これらは飛鳥時代から現代までをカバーしています。弊ブログでは和暦と同時に西洋暦を載せますが、そのデータはこれらのHPからのものです。酔論を述べるとき、対象の物事の時系列を整理したり、吉凶を確認したりするのに実に便利です。
 日常生活において現代でも結婚式・上棟式や葬儀などで和暦の吉凶にこだわる場面に出会う事があります。古代から中世では和暦の吉凶は現代よりも政治・生活の場で大きな比重を占めていました。従いまして、予定された「時」と云うものが重要な場面ではその「時」と云うものは吉凶占いからデザインされた日程だった可能性があります。ご存じのように、古代・中世ではこの目的のために朝廷には陰陽寮と云う専門の役所がありましたから、気になる「時」については暦での吉凶を確認すると面白いかもしれません。
 派生として万葉集や古今和歌集の歌で特別の行事を詠うものを、ある種、卒論のテーマとして調べてみたら面白いかもしれません。まず、このような視線から和歌に遊んだ人はいませんから、色々と独自の視線で遊べるのではないでしょうか。


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万葉雑記 色眼鏡 二五八 今週のみそひと歌を振り返る その七八

2018年03月17日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二五八 今週のみそひと歌を振り返る その七八

 今回も、さらにまたまた巻十に載る七夕の歌に遊びます。実に季節はずれですが、これもまた、めぐり合わせです。ご容赦を。そして、七夕の種もつきましたので、歌の解釈でのいちゃもんのようなものを紹介します。

集歌2051 天原 徃射跡 白檀 挽而隠在 月人牡子
訓読 天つ原い往(い)きて射(い)むと白(しら)真弓(まゆみ)引きて隠(かく)れる月人(つきひと)牡士(をとこ)
私訳 天の原を翔け行きて、得物を射ようと白木の立派な弓を引いたままで山の端に隠れて行った月人壮士よ。
注意 五句目「月人牡子」の「牡」の漢字原義は「牡、畜父也」です。

集歌2060 直今夜 相有兒等尓 事問母 未為而 左夜曽明二来
訓読 ただ今夜(こよひ)逢ひたる子らに事(こと)問(と)ひもいまだせずしてさ夜(よ)ぞ明(あ)けにける
私訳 まさに七夕の今夜に逢った愛しい貴女と、愛し合う事も、満足にしないうちに、夜が明けてしまった。
注意 原歌の「事問母」は「事」であって「言」ではないので、語らいではなく、体を重ねる方の意味合いが強くなります。

集歌2064 古 織義之八多乎 此暮 衣縫而 君待吾乎
訓読 古(いにしへ)し織り来し服(はた)をこの夕(ゆふへ)衣(ころも)し縫ひに君待つ吾(われ)を
私訳 ずっと以前から織って来たたくさんの反物を、この七夕での衣に縫って愛しい貴方を待つ私です。
注意 一般に二句目「織義之八多乎」の「義之」は大書道家 王羲之からの「書の手の師」での戯訓とし、「織りてし服を」と訓じます。また五句目「君待吾乎」の「乎」は『說文解字』では「乎、語之餘也」と解説します。本来ですと、「吾乎」は日本語で体言止めとした方が良いのかもしれません。

集歌2066 擇月日 逢羲之有者 別乃 惜有君者 明日副裳欲得
訓読 月日(つきひ)択(え)り逢ふ岸あれば別れしの惜(を)しかる君は明日(あす)さへもがも
私訳 この七夕の月日を決して逢うべき岸があるのだから、別れが惜しまれる愛しい貴方は、明日もまたやって来てほしい。
注意 一般には原歌の「逢羲之有者」の「羲之」は大書道家 王羲之からの「書の手の師」での戯訓とし、「逢ふてしあらば」と訓じます。

 万葉集では「牡」と漢字において「牡鹿」と云う表現と、「月人牡子」と云う表現があります。特に「月人牡子」は柿本人麻呂に由来するとされる表現ですので、単純に「壮士」からの「壮子」と云う創語の誤記とは出来ません。漢字原義では「牡、畜父也」ですので、七夕の牽牛を話題としている場合、「オス」の意味合いではなく「畜父=牛飼い」を意味するとして解釈するべきです。つまり、鎌倉時代以降の誤記説は間違いです。
 次に集歌2060の歌の三句目「事問母」の「事」は出来事や物事の「事」ですから、語らいの「言」ではありません。万葉集の歌は「孤悲」と云う有名な言葉が示すように表語文字の力を尊重する表現方法を採用しています。大伴旅人の「梅花の宴」の歌に代表される一字一音表記の歌や古今和歌集以降の和歌のように漢字が持つ表語文字の力を否定するものではありません。つまり、漢字文字は単純な音字ではありませんから字音が同じだからと云って「事」と「言」をごちゃごちゃにしてはいけません。現代は鎌倉時代ではありませんから、万葉集の表記表現方法と古今和歌集以降の表記表現方法とを明確に区分する必要があります。従来の和歌道は伝統として神棚に祀り、文学は文学として扱う必要があります。
 集歌2064の歌の二句目「織義之八多乎」の「義之」を王羲之から洒落て戯訓とする考え方とそのままに訓じる考え方があります。伝統は戯訓説です。個人の感覚ですが「太古の時代から今日までずっと」と云うものを「来し」と表現するか、「てし」と表現するかと問われると「来し」の方を採用したいと思います。これは歌心が乏しいところからの判断です。また、末句「君待吾乎」は訓じでは「君待つ吾を」としますが、漢字原義からしますと体言止めで「君待つ吾」の方が漢字原義からすると良いのかも痴れません。これもまた乏しい歌心からのものです。
 集歌2066の歌の二句目「逢羲之有者」の「羲之」は一般には大書道家 王羲之の書は書道でのお手本である。つまり、彼は「書の手の師」であるから「手師=てし」との戯訓とし、「逢ふてしあらば」と訓じます。一方、歌意から「羲之」はそのままに「きし=岸」と訓じることも可能です。これもまた歌心からですが、集歌2066の歌については「きし=岸」と訓じた方が歌としては収まりが良いのではないでしょうか。

 今回は、単なる言い掛かりのものになりました。ただ、いいがかりの与太話が面白いと思われますと、それはそれで困ったことになります。
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