曇・雨 最高/最低℃ =16.9 10.8
午前中有償ボランティアへの準備と実行と報告で、昼過ぎまでかかり、午前から午後の一部は有償ボランティア関連の作業のみだった。
作業内容は、園芸作業及び清掃で、大量の鉢や植木や土の処理が含まれ、汗をかくかなりの労働であった。
遅い昼食すぐに西天満に行きギャラリー白―天野画廊―Oギャラリーギャラリーを回った。
天野画廊の瀬戸理恵子展の、段ボールによる造形作品は、その作業の細かさに驚かされた。
段ボールを、一つずつのパーツごとに手の形に現物合わせで切ってから張り合わせてゆく、という膨大な作業を繰り返し、手の造形作品が出来上がっている。
又、彼女は私がギャラリーをしている時にギャラリー訪れたことがあると言っていて驚かされた。
ここで昔私が運営していたギャラリーの話が出たので、以下当時の状況を振り返ってみた。
実は、ギャラリーをしていた期間は、1990年から2000年までの期間で貸しギャラリーを営業していた。
1990年から1995年までの前半の5年間は、大阪市天王寺区石が辻町(近鉄上本町駅と日赤病院の間)の人通りの少ない雑居ビルの2階で貸しギャラリーを行っていたが、借り手はほとんどなく、企画も団体展の作家や具象作家が多く、集客力はほとんどなかった。
この間の話の詳細は、「ギャラリーCRUCEの上六時代(1990―1995年)」<2018年12月28日投稿>に記載。
阪神淡路大震災の1995年に、北区西天満に画廊を移転し、2000年8月まで営業を続けた。
後半の5年間は、現代美術中心の貸しギャラリーを営業し立地の良さもあって、それなりに集客力はあったが、不況が深刻化し画廊の借り手も少なくなり、多額の借金を抱え2000年8月に廃業した。
後半の5年間で一時期、若手作家や学生のギャラリー使用が活発だった時期もあった。
その当時、最盛期は毎週展覧会を行っていたが、ギャラリー廃業直後は展覧会を行った作家やよく来場する来場者は覚えていたが、その後の貧困による文字通り生きるための経済的苦労をし、そうした関係者の名前や顔はほとんど忘れてしまった。
その当時(ギャラリー廃業後も含む)の貧困の苦労について思い出すのは、夜遅くまでいくつかの今でいうブラック企業で働いたり、逆に職が全く見つからず収入もなく途方にくれたり、自己破産したりして、大きな経済の荒波にもまれ、日々の食料のための収入を得るのに必死だった時期が何年もあった。
ギャラリー時代も含む時期に、家の料金滞納で電話、電気、水道停止の警告は何度もらったか覚えていないし、数か月分の家賃を長期間滞納し、ホームレスも覚悟しこともあった。
前半のギャラリー時代(上六近くの場所)に、昼食を貰い物のカップ麺だけを数週間食べ続けたこともあった。
民生委員に生活保護を受けようと実情を話すと、借金や資産があれば、生活保護は受けられないといわれ、資産はないが借金は大量にあったため生活保護は受けられなかった。
区役所に行き、生きるために繋ぎの生活資金の融資を受けたこともあった。
その後(ギャラリー廃業後)、年金受給年齢になり、更に借金の過払い問題で司法書士に過払い返還手続きの相談に行ったところ、100万円以上返還可能だが、それでも数百万円の借金が残るという。
司法書士は、60歳過ぎでいくらキャリアがあっても、企業にとっては若手優先なので、60歳を過ぎた私を雇用する企業はほとんどなく、借金の返済は無理ではないかと指摘され、改めて自分の経済環境の厳しさを思い知らされ、自己破産するしかないことを知った。
自己破産するにも裁判所の厳しい審査があり、資産はすべて処分し、借金の原因が遊興・飲酒や賭博(パチンコ競馬・・・)や不法行為といったものが原因であれば許可されないし、普段の生活の出費状況も書類(家計簿・小遣い帳・領収書)も要求され、贅沢も細かくチェックされる。
私の場合、私個人の借金の原因はすべて画廊経営不振によるものであることは明白だった。
その結果、8年前に自己破産が成立した。
借金のほとんどが大手・中堅金融機関で、個人債務がなく、個人に迷惑をかけなかったのは幸いだった。
40歳になってサラリーマンを辞めたときは、借り入れやローンも全くなく実質4-5千万円の資産(高校卒業後自分で働いて貯めた給料+最初の会社の持ち株+株式投資の利益)を持っていたが、8年前には4百万円前後の借金を抱え、ホームレス寸前の状態まで追い込まれた。
8年前の自己破産後は、1か月に4-5回以上行っていたATMからの借り入れと返却作業とその合間に行われるカードローン会社からの呼び出しと説明、といった悪夢に近い様々な作業から解放された。
その後は、年金も入り、年収130万円で、保険料を差し引くと、月10万円程度の生活で、生活保護程度の、衣食住を維持している。
ただし、飲み会や郊外への遠出や芸術鑑賞(美術音楽)や病気をしたり、電気製品やオシャレをしようとするとすぐに赤字になるので、自然に行動は限定される。
例えば毎日銭湯に行くだけで1万円以上の出費となり、これだけで赤字要因になるので、銭湯は週一にしている。
又病気になっても、大きな赤字要因になるので老人割引の3000円の定期を購入してジム通いし体を鍛え、健康な体作りをすることで病気になる可能性を低減させている。
それと同時に、ジムのシャワーを使うことで、身体を清潔に保っている。
(アメリカ留学時は、ドミトリーにはシャワーしかなく、欧米や中南米人は普段はシャワーのみで過ごすのが普通である。)
さて、ギャラリー回りのその後に話を戻すが、西天満の帰りに天満橋のファストフードでコーヒーを飲みながら読書し、その後スーパーにより、副食の食材を購入した。
帰宅後翌日は京都に行く予定をしていて、この日ジムを休むと中3日のブランクができるのでジムに行った。
ランニングを20分間余り走った。
寝る前に銭湯に行ったので、就寝は1時ごろになった。
「思い出・生き方・生活住環境」(このブログは左記リンクのカテゴリー別「思い出・生き方・生活住環境」ホルダーに収納しています。)(自分のメモとして)
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午前中有償ボランティアへの準備と実行と報告で、昼過ぎまでかかり、午前から午後の一部は有償ボランティア関連の作業のみだった。
作業内容は、園芸作業及び清掃で、大量の鉢や植木や土の処理が含まれ、汗をかくかなりの労働であった。
遅い昼食すぐに西天満に行きギャラリー白―天野画廊―Oギャラリーギャラリーを回った。
天野画廊の瀬戸理恵子展の、段ボールによる造形作品は、その作業の細かさに驚かされた。
段ボールを、一つずつのパーツごとに手の形に現物合わせで切ってから張り合わせてゆく、という膨大な作業を繰り返し、手の造形作品が出来上がっている。
又、彼女は私がギャラリーをしている時にギャラリー訪れたことがあると言っていて驚かされた。
ここで昔私が運営していたギャラリーの話が出たので、以下当時の状況を振り返ってみた。
実は、ギャラリーをしていた期間は、1990年から2000年までの期間で貸しギャラリーを営業していた。
1990年から1995年までの前半の5年間は、大阪市天王寺区石が辻町(近鉄上本町駅と日赤病院の間)の人通りの少ない雑居ビルの2階で貸しギャラリーを行っていたが、借り手はほとんどなく、企画も団体展の作家や具象作家が多く、集客力はほとんどなかった。
この間の話の詳細は、「ギャラリーCRUCEの上六時代(1990―1995年)」<2018年12月28日投稿>に記載。
阪神淡路大震災の1995年に、北区西天満に画廊を移転し、2000年8月まで営業を続けた。
後半の5年間は、現代美術中心の貸しギャラリーを営業し立地の良さもあって、それなりに集客力はあったが、不況が深刻化し画廊の借り手も少なくなり、多額の借金を抱え2000年8月に廃業した。
後半の5年間で一時期、若手作家や学生のギャラリー使用が活発だった時期もあった。
その当時、最盛期は毎週展覧会を行っていたが、ギャラリー廃業直後は展覧会を行った作家やよく来場する来場者は覚えていたが、その後の貧困による文字通り生きるための経済的苦労をし、そうした関係者の名前や顔はほとんど忘れてしまった。
その当時(ギャラリー廃業後も含む)の貧困の苦労について思い出すのは、夜遅くまでいくつかの今でいうブラック企業で働いたり、逆に職が全く見つからず収入もなく途方にくれたり、自己破産したりして、大きな経済の荒波にもまれ、日々の食料のための収入を得るのに必死だった時期が何年もあった。
ギャラリー時代も含む時期に、家の料金滞納で電話、電気、水道停止の警告は何度もらったか覚えていないし、数か月分の家賃を長期間滞納し、ホームレスも覚悟しこともあった。
前半のギャラリー時代(上六近くの場所)に、昼食を貰い物のカップ麺だけを数週間食べ続けたこともあった。
民生委員に生活保護を受けようと実情を話すと、借金や資産があれば、生活保護は受けられないといわれ、資産はないが借金は大量にあったため生活保護は受けられなかった。
区役所に行き、生きるために繋ぎの生活資金の融資を受けたこともあった。
その後(ギャラリー廃業後)、年金受給年齢になり、更に借金の過払い問題で司法書士に過払い返還手続きの相談に行ったところ、100万円以上返還可能だが、それでも数百万円の借金が残るという。
司法書士は、60歳過ぎでいくらキャリアがあっても、企業にとっては若手優先なので、60歳を過ぎた私を雇用する企業はほとんどなく、借金の返済は無理ではないかと指摘され、改めて自分の経済環境の厳しさを思い知らされ、自己破産するしかないことを知った。
自己破産するにも裁判所の厳しい審査があり、資産はすべて処分し、借金の原因が遊興・飲酒や賭博(パチンコ競馬・・・)や不法行為といったものが原因であれば許可されないし、普段の生活の出費状況も書類(家計簿・小遣い帳・領収書)も要求され、贅沢も細かくチェックされる。
私の場合、私個人の借金の原因はすべて画廊経営不振によるものであることは明白だった。
その結果、8年前に自己破産が成立した。
借金のほとんどが大手・中堅金融機関で、個人債務がなく、個人に迷惑をかけなかったのは幸いだった。
40歳になってサラリーマンを辞めたときは、借り入れやローンも全くなく実質4-5千万円の資産(高校卒業後自分で働いて貯めた給料+最初の会社の持ち株+株式投資の利益)を持っていたが、8年前には4百万円前後の借金を抱え、ホームレス寸前の状態まで追い込まれた。
8年前の自己破産後は、1か月に4-5回以上行っていたATMからの借り入れと返却作業とその合間に行われるカードローン会社からの呼び出しと説明、といった悪夢に近い様々な作業から解放された。
その後は、年金も入り、年収130万円で、保険料を差し引くと、月10万円程度の生活で、生活保護程度の、衣食住を維持している。
ただし、飲み会や郊外への遠出や芸術鑑賞(美術音楽)や病気をしたり、電気製品やオシャレをしようとするとすぐに赤字になるので、自然に行動は限定される。
例えば毎日銭湯に行くだけで1万円以上の出費となり、これだけで赤字要因になるので、銭湯は週一にしている。
又病気になっても、大きな赤字要因になるので老人割引の3000円の定期を購入してジム通いし体を鍛え、健康な体作りをすることで病気になる可能性を低減させている。
それと同時に、ジムのシャワーを使うことで、身体を清潔に保っている。
(アメリカ留学時は、ドミトリーにはシャワーしかなく、欧米や中南米人は普段はシャワーのみで過ごすのが普通である。)
さて、ギャラリー回りのその後に話を戻すが、西天満の帰りに天満橋のファストフードでコーヒーを飲みながら読書し、その後スーパーにより、副食の食材を購入した。
帰宅後翌日は京都に行く予定をしていて、この日ジムを休むと中3日のブランクができるのでジムに行った。
ランニングを20分間余り走った。
寝る前に銭湯に行ったので、就寝は1時ごろになった。
「思い出・生き方・生活住環境」(このブログは左記リンクのカテゴリー別「思い出・生き方・生活住環境」ホルダーに収納しています。)(自分のメモとして)
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