散歩者goo  (自選ブログ集参照)

タイトルのgooは、他人の同名HPやブログと区別の為。村ぶろの「散歩者」は本人作成。HPの「散歩者」は、無関係。

私の簡易履歴(追)

2013年05月01日 19時22分56秒 | 記憶の断片
昨日記で履歴書のことに触れ、書いているうちに思い出話が長くなったので、昨日記からカットすることにした。
書きかけの履歴は、今後私自身も参考にもなるので、独立したタイトルとして改めて概要を書き足してみた。
(正式書類としての、技術経歴書や業務経歴書を作成しています。<非公開>)
こうした理由以外に、もう一つ書く理由がある。
というのは、初対面の人から以前は何をしていたのかとよく聞かれることが多かった。
しかし説明しだすと、長くてうんざりされるのだ。(多数の職歴があり説明に時間がかかる。)
これを、機会に私の履歴の概要を書き公開することにした。
ここに記載した経歴は、すべてあいまいな記憶でなく、証拠書類を基に作成した。(年金記録、手帳のメモ類・日記、名刺、会社の辞令や契約書)

私は、40歳になるまでに、技術者として3つの会社に就職している。
一つ目の会社は、理化学機器・環境試験装置の会社で、入社時は町工場だったが、今は東証一部上場企業である。
会社が急成長するに従い、設計部門の後輩は大卒で占められるようになった。
実務上は、問題なかったが、大学に行くともっと高度な技術が学べると思い、夜間大学に入学した。
夜間大学(短大)を卒業したが、レベル的には、それほど収穫はなかった。
専門分野に関しては、専門書を読みこなせは、学歴の差は全く無いことに気づいた。
それは今も同じ思いである。
例えば、考古学に関しては、私は学歴上全くの専門外であるが、今はその分野の大学生程度なら、それなりに太刀打ちできると思っているし、美術に関してもそれはいえる。
その会社で、基本的な技術を学び、新しいシーケンス設計方法を開発展開したり、技術開発したり、専門以外の冷凍技術や現場作業や検査を学び、板金、電気、冷凍設計や製品開発・研究をしながら約10年勤めた。
仕事はハードで残業も多かったが、待遇も良く問題はなかった。
辞める、1-2年前から、技術部と工場をを移転するという話が具体化し始め、大阪に残りたいので退社した。
この会社で、最先端の技術と様々な分野のを幅広い技術を身につけ、技術者として大きな自信を持っていた。

二つ目の会社は農事用温暖機や石油ストーブのメーカーで、2年ほど勤めたが業績不振で辞めたが、その後倒産した。

その後の失業期間中に、発掘作業のアルバイトをしたのが、考古学古代史が趣味になるきっかけであった。

三つ目の会社は入社時は、零細企業で技術的にも未熟な食品機械メーカーであった。
そこでは、後半になって会社の技術力も上がり、コーヒーマシンやオーブンやディスペンサーその他多様な国産品の開発設計をした。
又、輸入品を含むサービスメンテナンスやクレーム処理その他の業務処理の指導標準化もし、事業も拡大した。
製造工程の大きな改革や、より高度な品質管理の導入を図り検査方法も設定した。
10年間ほど勤め、技術部門の責任者もし、それなりの給与も貰っていたが、お金もたまり40歳になるのを機に自分の技術で独立しようと思って退職した。
だが、明確な独立プラン=経営プランは作っていなかったことで、その後の迷走が始まった。

三つ目の会社では、管理職になってから超多忙な日々を送っていて、休日出勤も当たり前で、日曜ですら開発のため家で関連技術を研究したり、問題点の対策を考えたりして、仕事中心の生活になって実質的に休めなかったが、自分で仕事を動かしているという責任感と充実感はあった。
盆正月もクレーム等の緊急事態に備え交代で出勤したり、休日の連絡先を報告する状態であった。
従って、管理職や幹部になってからは、平日に同僚と飲みに行く以外は、休日は遊びに行くこともなく、ほとんど金を使わなかった。

退職するまで、働きづめの生活のため、お金にも余裕があったので1-2ヶ月遊ぶつもりで、語学留学でアメリカのシカゴに行った。
英語学校は、全米展開チェーンの学校で、最も経費の安いシカゴ校にした。
(後で、その学校は元アメリカ政府が関係した、移民のための学校であったという話を聞いたことがある。)
学校は、シカゴ郊外のオークパーク近くにあり、初めてその回りの住宅環境を見たときは、映画を見ているように思える程、すばらしかった。
英語学校では、寄宿舎で生活し、ルームメイトはアメリカ人であった。
アメリカ人のルームメイトを通じ、現在も交流のある友人もできた。
寄宿舎および英語学校での生活は、勉強が進まない点を除けば、楽しく申し分なかった。
ところが、英語の初歩のクラスすら落第して進まず、日常会話もおぼつかない状態なので、ある程度英語が理解でき、話せるようになるまでとどまることにした。

結局、その英語学校では、何度か落第しながら9ヶ月在籍して、その後シカゴ市内のイリノイ大学付属英語学校で3コーター(1コーター 10週間)学んだ。
イリノイ大学付属英語学校では、前の英語学校の友人のポンコツ車を買い、イリノイ州の運転免許を取得し、自立した生活を送った。
休日は、車でドライブし食料品もスーパーで買い込み、自炊した。
当時、英語はそれなりに読み書きできるようになったが、日本に帰って20年以上英語に接することがなかったので、今では初級クラスの実力になってしまった。

イリノイ大学付属の英語学校を卒業すると、イリノイ大学に入学できると聞いたしその目的で来ている人も多かった。
多分更に2コーターも在籍すればその条件はパスできたと思っている。
(10枚以上のリサーチペーパーを書きOKは出ていたが、他の分野が落第点だった。)
しかし、日本で自分でビジネスをすることが目的なので、大学進学は考えないようにした。(資金的には問題なかった。)

その後、アメリカ人の親友の奥さんの紹介でメキシコのクエルナバカにあるスペイン語学校に入学し、初歩のスペイン語を習得したが、実際はほとんど話せなかった。
ホームステイ先の一家とは、非常に親密な関係を築くことができ、特にその一家の次男とは、一時メキシコでのビジネスパートナーになってもらったことがあるし、グアテマラでの民芸雑貨買い付けにも同行し様々な支援をしてもらった。
メキシコでの生活は、非常に楽しかったが、文字通り毎日がフエスタ式(パーティー)の生活スタイルには驚いたし、だれでもアミーゴ(友人)になる習慣にも驚かされた。
約束を守らないことも多くイライラしたこともあった。
よく言われるが、ラテン系の人たちにとっては、仕事よりも家族や恋人が大切で、どんな場面でも1-2時間の遅れは、当たり前と思っておいたほうがよい。
お金を貸すと帰ってこない、というのは一般的な話で、貸すことは与えることと考えた方がよいかもしれない。

メキシコで民芸雑貨を集めた後、南米各国の首都をすべて回って民芸品を集め帰国した。
この旅行では、様々な思い出や奇妙な体験や危険だったのかもしれない体験もした。
ペルーでは、飛行機の中で隣り合わせた日本人の武道家の方とご縁があり、日系2世のグループと懇意になりお世話になった。
その他、コロンビアでも知人のお宅に2週間ほどお世話になった。
ベネゼラでは、アメリカ人の元ルームメイトが、シカゴ大学の大学院で、社会学の研究で貧民街で宗教(プロテスタントとカトリック)と社会構造の研究のフィールドワークをするため、カラカスのスラムで暮らしていた。
彼がアマゾン流域の冒険ツアーをセットしてくれて、彼と一緒にコロンビアとブラジル国境のプエルトアヤクチョ?近くのオリノコ川一帯に住む人々の生活を知ることができ、現地ガイドの家にもお邪魔した。 

帰国後、会社を設立し、喫茶店や民芸雑貨店やギャラリーを、それぞれ順次開業廃業を繰り返し、2000年にほぼ10年間営業したギャラリーを閉鎖し、会社を廃業した。
ギャラリーは、はじめ近鉄上本町駅の南にある雑居ビルの2階で5年間営業し、その後西天満の老松通りで5年間営業した。
その間に、様々な出来事があり、阪神淡路大震災の後に母も亡くなり、蓄えも使い果たし借金が残り、廃業することになった。
廃業するのも、現状復帰等のお金がかかり、解体やゴミの処理や、残った物の保管等で家の中は、本当に寝る場所も無くなったり、撤収は大変な仕事になった。
更に、翌日から収入の当てもなく、日々生活するためのお金の心配をしながら職探しに走り回り、日々借金は膨らみ続けた。
その後、破産するまで、その苦しみは続いた。

それでも、ギャラリーを営業したおかげで、今も美術に関して趣味の鑑賞者として係わり続けていられることは、私にとって大きな財産である。
(退職したサラリーマンが、なすことなく無趣味で生きがいを失い、ぶらぶらしているのを多く知っている。)

その後は、非正規社員として、調査員、技術者、営業マン、警備員、掃除人、自営業、介護、等様々な職業を経験した。

ギャラリーを廃業して、職安に行くとすぐに失業対策事業として、短期契約で調査員<国家プロジェクトの工業団地への工場移転条件調査をし、経営者または幹部に面接調査をする仕事で、有名シンクタンクの下請け>の仕事があった。
年度末までの半年以上のプロジェクトに係わる仕事であったが、途中から営業支援の仕事も兼任するようになり、以前の技術者としての経歴を生かすことで、訪問先の会社の幹部と話をつなぐことができ、いくつか大きな実績も上げた。
(調査員チームの向かいに、銀行やゼネコンや役所のエリートの出向者を集めた精鋭営業チームの部屋があった。彼らの支援チームとして、失業対策事業の調査チームはシンクタンク幹部の指示で単独で調査活動に従事していた。営業がほぼ見込み無しとしていた大工場の誘致成功の足がかりを築いたこともあり、非常にやりがいのある仕事であった。)
その仕事では、多くの優良中小企業の社長や幹部に面会することができ、いい経験になった。

調査員のプロジェクトも終了し、再び職安通いの不安な日々となった。
職安帰りに当てもなく西天満を歩いていると、顔見知りの人に会い、遊園地でのコンピュータ関係の短期の契約社員仕事を紹介してもらった。
期間は半年もなく、短かったが待遇はよかったし、巨大遊園地のバックヤードを見ることができた。

その後約一年近く、家にこもり、ネットショップ作成を目標に、HTMLの習得をし、ホームページの構築に取り組んだが、結局ホームページも満足な物はできず、ネットショップも完成せず、大失敗に終わった。
その間、タイピングの練習をし、かなり早くなったが、今から思うと無駄な一年を過ごしたと思う。

いよいよ生活に困窮し、再び職安に行き失業対策事業で、学校警備の仕事を紹介してもらった。
そこは警察と関係のある警備業協会の直轄事業で、隊組織になっていて、半年近く東大阪市の小学校の複数の校下を自転車で巡回した。

その後も短期の失業対策事業で、自転車で街路灯や電柱の調査をする仕事をやった。
電柱調査も終了し、次の仕事を探していて、介護の仕事が多いのに気付いて職安に相談すると、ホームヘルパー2級の職業訓練を紹介してくれた。
職業訓練を知ったのが、失業保険が切れた後であったので、失業給付は受けられなかったが、無理してホームヘルパーの職業訓練に通った。
職安からの職業訓練でホームヘルパー2級を取得し、その後ホームヘルパーとして、就職活動を行ったが、当時は男性のホームヘルパーの実績は少なく、ニーズがなかった。ホームヘルパーの経験を積むために、1ヶ月間ボランティアでデイサービスの介護に入らせてもらい、デイサービスの仕事や、入浴介護を行った

そうした失業対策事業の仕事の終了後、職安の紹介で、立て続けに東大阪のブラック企業と思われる企業には2社勤めた。
そこでは、残業、休日出勤が月100時間程度になることもあった。
契約社員として雇い、月給制という名目で、低賃金で働かせ、連日夜9時から11時まで働き、休日も出勤しても契約社員ということで、残業代は出さないのだ。

最初の会社は、東大阪の試験装置メーカーの会社で、契約社員として働いた。
開発や設計を担当した。
設計部門が中心で、全員9時10時過ぎまで働き土曜も出勤することが多かった。
設計リーダーが若くて知ったかぶりすることが多く、間違いをたまに指摘すると、窓際に追いやられた。
更に、設計で私はキャドを使った経験がなかったので、足手まといになり、会社を辞めることになった。

次に、やはり職安の紹介で、照明器具の下請け専門会社に勤めた。
工場改善がその業務であった。
若い担当者に、工場管理の技術を習得させるのが目的だったらしい。
そこでも、夜も工場終了後改善作業を行い、社長が無理難題を突きつけ、こちらの工場改善の提案は受け付けず、些細な汚れでも長時間叱責したり、古い設備を新品同様にせよというようなことをいい、盆休みも休み無しで働かせたり、日曜出勤も当たり前であった。
無論、給料は定額である。
この会社も、半年の契約期間満了で退社した。
退社時に、別の会社幹部が、私の業績を評価し金一封をくれたのが、せめてもの救いであった。
私は、その会社に、多くの貢献をしてやったと思っている。

その後、再び職安に行き、約2年間社労士・保険関連の会社で営業職で働いた。
この仕事は、営業らしい仕事で、業績も上げ順調であった。
事務所は御堂筋にあり、毎日そこを基点に社労士と協力して営業活動をした。
私が所属した営業では、住宅地図片手に自転車に乗り大阪府下の中小零細工場を回り就業規則作成、助成金等の受給支援等の社労士の仕事受注の営業活動を行うのである。

余談になるが、自転車で回った地域は、大阪市北部から豊中や尼崎や伊丹にまで及び、雨の日も、猛暑の日も、寒波の日も町の隅々まで中小零細工場を訪問した。
自転車は会社の自転車で担当地域まで乗っていき、帰りは駅の有料駐輪場に止めておき、翌日から電車でその駅まで行き、自転車を使って回るのである。
阪急沿線では、レンタサイクルを利用した。
尼崎の脱線転覆事故が起きたときに、事故現場から1kmも離れていないところを回っていた。
事故には気づかなかったが、突然あちらこちらで通行止めになり疑問に思いながら帰って事故を知った。
また、伊丹方面に行くときには、事故現場を通る線に乗っていた。

最終契約は、社労士が直接企業と面談し、その後の手続きや書類作成は社労士がすべて行う。
私が担当した中で、高度なものでは、経営革新助成基金のサポート作業を社労士と共同で行い成功させたことがあった。(取得のハードルが高かく、私の技術の知識も生かすことができ、私も技術関係書類作成支援を行った。<経営革新の申請の支援は社労士業務とは直接のかかわりはなく、行政書士とか他のコンサルタントも行っている。>)
そこには、高度な経営・営業・技術の専門知識が必要であった。

私が勤めている会社の、事業が順調に拡大しているときに、社労士協会から突然社労士と協力して営業活動をするビジネスモデルを禁止するという横槍が入った。
そのため、営業は社労士と協力して仕事ができなくなり、私は会社を辞め自営業として自立する道を選んだ。


自営業として、様々な企業と協力して、BtoBの販売代行の仕事を開始した。
どの仕事も鮮明に覚えていて、それぞれ真剣に取り組み、自営業のときは沢山の情報収集を行い、商品のことを勉強し独自の営業資料も作った。
健康食品(水素水<学術的エビデンス有り>)や健康機器(イオン発生器 空気清浄機 香り発生器)や業務用地下水浄化装置、業務用カラーコピー機レンタルや光電話(大手通信会社)等扱い、その他、太陽温水器や障がい者用排泄物全自動処理装置や強力無公害天然素材の洗剤も扱ったことがある。

かなりの商品で、資料作成過程でその製品の効用の有用性に疑問を持って、取り扱いを止めたり(震動マシン・デトックス機器等 健康食品)、消費者である対象企業を回って、競争力や需要のなさに気づき(業務用カラーコピー機 ITソフト<電話受信処理システム:発信者の詳細情報表示>)取り扱いをやめたものも多い。
結局、飛び込み営業や顧客先を絞っての営業活動を行ったがほとんど成功することなく終わった。

自営業を始めて2年目、借金の過払い請求が話題になっていたので、司法書士に相談したところ、自己破産を勧められ、それに従い、自己破産を申請し、裁判所で認められた。
負債は、金融機関のみで個人的にほとんど迷惑を掛けることがなかったのがせめてもの救いであった。

その後自営業も開店休業状態のときに、シルバー人材センターの紹介で、公園の清掃の仕事もし、最も汚れる便所掃除の仕事もこなした。(ブログに掲載済み)
そして、開店休業状態の自営業もやめ、生活保護に近い年金を受給しつつ、現在に至っている。


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2000年以後の歩み

2012年12月04日 17時51分13秒 | 記憶の断片
2000年の夏の画廊廃業後に、職安の紹介で第三セクターによる工業団地への企業誘致の仕事にかかわったが、これは中堅や中小企業のトップや幹部と面談する仕事で、面白かったしやりがいもあり、同期の中ではトップの実績も上げた。
循環バスがあることを知らずに、指定された臨海工業地帯の先端の会社まで、1日がかりで歩いて往復したこともあり、コンビナートの大きさを実感した。
この仕事では、私の技術者や管理職・幹部としての知識や経験が非常に役立ったし、同時に様々な製造業の業種の一端を垣間見ることが出来た。

(最初にUPした原稿では、私の勘違いで企業誘致と、このUSJの話の順番が入れ替わっていた。前年から続いていた企業誘致のプロジェクトが3月で終了する直前からの話である。)
企業誘致のプロジェクトが3月末で終了する直前の頃に、西天満の画廊回りをしていると、偶然画廊によく来られていたお客さん出会った。
その人の紹介で、USJ関係の期間限定の仕事で、コンピュータの入力関連の仕事をした。
そこでは、USJの舞台裏も見ることが出来た。
今思い出したが、USJ準備室がポートタウン(多分今の府庁の建物?で当時大阪市役所の部署が多く入居していた。)にあって、企業誘致の訪問先リストに指定されていた。
その場所に行ったが、当時事務所は移転後だった。(そのビルからの大阪湾の見晴らしはすばらしかった。)
当時、私はUSJが単なる外資系の中小零細企業のひとつと思っていた。
ところがその後オープンしたUSJを知り、その訪問先の会社が今のUSJジャパンであったことに気付いた。


USJの仕事を終えた後、職安を通じ、技術者として東大阪の2社のブラック企業?で技術者として働くことも経験した。
最初の会社では、契約社員のため、低賃金で残業手当も無く、夜11時までが当たり前で仕事をした。
その会社では、電子冷却等の設計開発関係の仕事もしたが、前任者の仕事の抱え込みその他でうまく進まず、一般の設計では、CADが使いこなせなかったため退社した。
(私が技術者だった30年近く前は、CADは非常に高価で、大企業しか使っていなかったので、CADの使用経験がなかった。)

その会社を退職後は仕事が無かったので、職安に相談して、ホームヘルパー2級の職業訓練を受け資格を取った。
資格取得後、ホームヘルパーの仕事を探したが、当時男はダメという事業所が多く、資格を陳腐化させないために、ある施設に頼んでデイサービスのボランティアを1ヶ月程させてもらった。
しかし、お金も無くいつまでもボランティアは出来ないので、介護の仕事をあきらめ、再び職安で技術者の仕事を見つけた。

その仕事は、東大阪の大手照明器具下請け会社での工場改善の仕事だった。
この会社でも契約社員のため残業休日出勤手当ては無く、日曜日も工場改善で出勤し、汚れを落とし塗装してピカピカに清潔にし、工場ラインを変え大幅な改善を図りラインの効率を良くしたにもかかわらず、新米のワンマン・独裁社長から理不尽なクレームを付けられ、怒鳴り散らされ、挙句の果て自己都合で契約期間終了とともにやめさされる始末。(やめる前の業績評価で、他の役員から私の改善業績が認められ、わずかな報奨金をもらったのがせめてもの救いだった。)
更に会社をやめるときには、会社都合でやめた形になっているのに、職安では自己都合で処理された。
(多分高齢者採用やトライアル雇用の補助金等もらっている可能性があるのかも知れない。社労士関連の会社に行って、補助金のことを知った。)

ブラック企業?で働いた後、保険や企業の業務支援をする会社で、正社員として社労士と共同して作業する営業関係の仕事を数年間した。
このとき数年かけて、雨の日も風の日も毎日スーツ姿で自転車に乗って、大阪市内から尼崎や伊丹市まで住宅地図を片手に、すべての中小零細企業(主に製造業関係)をしらみつぶしに訪問し営業した。
基本的には、毎日廻っている地区の駅の駐輪場に自転車を預け、朝はたまに会社で朝礼してから担当地区まで行くが、通常は家から担当地区へ直行し、自転車で一軒ずつ会社回りをし、帰りは電車で御堂筋にある会社へ戻り、成果を報告するという毎日だった。
このときも、営業でそれなりの実績を上げた。
そのほか、特殊な事例では、技術・経営管理の知識や経験を生かし、経営革新の仕事(当時は取得がかなり難しかった)も、元銀行員の社労士と協力して認定の支援に成功したこともあった。
その後、社労士と共同で行う仕事は、制度上の問題で、その仕事が続けられなくなり、退職し自営業を目指すことにした。

退職後、産創館の起業講座にも通い、企業経営の基礎や総合的(人、物、金、市場・ニーズ、販促)経営計画の立案を改めて勉強した。

当時は、起業し販売代行をしようと仕事に励み、多くの講習会や異業種交流会にも参加し、人脈を広げるため若手経営者の卵とも積極的に名刺交換した。
(多分今でも成功しているのは、ほんの一握りの人だけであろう。)
また、様々な商材を売ろうと商品関連のことを勉強し販売資料を作り、関係先に売り込みを図ったりして必死で努力したが、思うように実績は伸びず、B to B と B to C の違いを思い知らされた。

その後ネット販売を考え、資金不足のため、お金を使わずに自力である程度本格的なネットショップを構築し、販売代行を続けようとしたが、SNSが普及する直前でネット展開がうまく進まず、その間に自己破産してしまい、起業の夢は終わり、今に至っている。

今までずっと独身だったため(ずっと独身のためよく疑われ、又訊ねられますが、私は決して男色の傾向があるとか、女嫌いとか、病気があるわけではありません。心身共に健康な男で体力もあります。)、2000年より前に同居していた両親が他界してから一人暮らしになったが、逆に自己破産してだれも巻き添えにすることなく、身内や親戚や他人にも迷惑をかけなかったのが幸いであったと思っている。

古い資料を見て、ふと2000年から今までの経過をいろいろ思い出したので、資料を引っ張り出しながら概要をメモした。
思い出すと、この間のそれぞれの時期の面白い体験はいろいろあるが、気が向けば書いてみたい。

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ips細胞のことが報道され始めたとき

2012年10月08日 20時56分25秒 | 記憶の断片
京大の山中伸弥・京都大教授のノーべル賞受賞でニュースは沸騰している。
当分ノーベル賞フィーバーが続くのだろう。
われわれ日本国民にとって、皆が喜べる嬉しい出来事に違いない。

私は、iPSを作ることに成功したという、最初のニュースに接したときの感動をよく覚えている。
しかも、そのときの報道の仕方が、事の重大さと比べて、取り扱いが余りにも小さいことに腹が立ち、ブログを書いたことを思い出す。

2007年11月20日にアサヒコムのニュースを見て、このニュースは数日後には大きく詳細も含め報道されるだろうと期待していた。
新聞なら、一面大見出しのニュースであるべきだと思っていた。
しかし、その後の翌日の報道は大きくならなかった。

そこで、報道の仕方がおかしいと思い、ニュースで指摘されていた意義を強調するブログを書いた。
そのときブログの下書きには、皮肉の意味をこめて、報道関係者は文科系が多いので、科学技術の評価や価値判断が正当にできないのではないかといった意味の一文も入れようと思っていたが、差しさわりがあるので、その一文は入れなかった。
そのブログには、業績の価値を強調するため、歴史的ニュースという言葉を使った。
(村ぶろ 「散歩者」ブログ2007年11月22日ブログ「不治の病に光」http://blog.murablo.jp/sksya/date/2007-11-22.html)

その後ips細胞のニュースは大きく取り上げられるようになり、よかったと思った。
当然の話だが、発信力ゼロの私のブログと、報道で大きく取り上げられるようになった事とは無関係であることは言うまでもないが、多少なりともニュースに対する私の嗅覚が正しかったことが嬉しかった。
その当時から、この業績は当然ノーベル賞クラスの評価をされると思っていたが、本当になって嬉しい。
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メキシコでのホームステイ

2012年06月30日 22時06分41秒 | 記憶の断片
「世界不思議発見」でメキシコを特集していた。
その番組を観ていて、私は1ヶ月以上メキシコに行ったときの事を思い出した。
テオティワカンにもいった。

私が行ったときは、アメリカでの1年余りの英語留学の後だった。
メキシコシティーの大教会の下で、メキシコではとてつもない遺跡が発見されたと、話題沸騰していて教会横の地下を一部公開されていた時だ。

行った場所は、クエルナバカという町だった。
そこの、スペイン学校に入学して初歩のスペイン語を学んだ。
その学校の手配は、アメリカにいたときに、アメリカ人の友人にしてもらった。
いい学校でいいホームステイ先だった。
ホームステイ先の一家とも、家族の一員のように親しくなった。
ホームステイ先では、毎日がホームパーティーのような感じだった。
今後、思い出したときにメキシコでの思いでも書きたい。

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日食メガネと昔天文ファンだった頃

2012年05月15日 12時54分28秒 | 記憶の断片
今日日食メガネを買いに梅田に出かけた。
先週土曜日に、ジュンク堂でも日食メガネを調べたが、千円以上の雑誌しかなかった。
数週間前に、大阪駅前のブックファーストで、安い日食メガネを手にとって見ていた。
そのことが頭にあったので、もし安い日食メガネが売り切れていても、千円以上のものならあるだろうと考えた。

梅田のブックファーストに行った。
二階の理工学書売り場の入り口に、日食メガネの特設コーナーがあった。
500円の日食メガネが朝日から出ていた。
児童用であった。
せっかく買うのに本が児童用では、読む中身が無いので、もったいないと感じた。

もう一冊千円以下の本があった。
「天文ガイド」という雑誌の5月号で879円だ。
本の中身を見ようとすると、どうやらこの一冊しか無いようで、手に取った本はビニールでしっかりくるまれていて、その上に、日食メガネつきと、手書きのラベルが張ってあった。
とりあえずそれを購入して帰った。
今思うと、とっくに売り切れているはずの5月号が残っていること自体が幸運だった。

帰ってすぐに、本を取り出し、先ず綴じ込み付録の日食メガネを確認した。
問題はない。
雑誌の中身を見た。
天文マニアの専門誌で、内容は専門家向けだ。
パラパラと雑誌を見ながら、中学生の頃天文部に入って、顧問の先生の宿直の時に天体望遠鏡で、漆黒の宇宙に土星や、火星や木星や月を見て、感激したことを思い出す。
中学卒業後も宇宙への興味は衰えなかった。

その当時、近くの星雲だけでなく、非常に遠い場所にも島宇宙が発見され、無数の銀河が存在することが分り始めた。
当然のことながら、宇宙の果てについても話があった。
するとそれに関連した話の時間とか空間とかも議論も新聞で紹介されていた。

高校時代に、先生に薦められた河合栄次郎の「学生に与う」を読み、哲学にも興味を持ち、カント哲学や認識の問題とか考えるようになった。
今から思えば、初歩的なことであったが、そのような哲学的思考から来る、人格とか自我とか自己認識と、存在や神と、宇宙との関係を考えると、頭が混乱して、天文学も嫌いになった。
それ以降天文学には接しなかった。

ところが、社会人になってからも、哲学や宗教には興味を持っていて、哲学史から始まり、様々なことを学んび、それぞれの哲学の解説書や、ニーチェやフロイトやユングその他様々な思想家や哲学者の短い著作も読んで(カント哲学、弁証法・マルクス主義、実存主義、現象学、記号論、構造主義・・・・)それぞれの哲学の概略を知り、更に物性論等を通じて科学的な世界のあり方も(科学思想史、科学史も含む)知った。

その後、ビッグバンからはじまり、宇宙の果てや宇宙のバブル構造が分り新聞で紹介され始め、それに伴い現代物理の時間・空間の概念に対する、自己認識や存在と宇宙との混乱や恐怖を感じることも無くなった。
そこには、禅のような東洋哲学的思考、ありのままを受け入れるといった思想も、影響しているかもしれない。
現在ではなんとなく、概念的に宇宙を捉えられるようになった。

そのような経過を辿り、今、天文ガイドを見て、中学時代の純粋な科学への興味や好奇心と、20―30代の頃に科学朝日やネイチャーニュートンを購読していたが、そのときの興奮と似た興奮を久しぶりに呼び覚まされた。

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コーヒーにこだわった技術者時代

2012年05月04日 12時44分20秒 | 記憶の断片
私は、30代後半は、コーヒーマシンの開発に没頭した。
部下の技術者を率い、当時、輸入品のコーヒーマシンでは当たり前の、ドリップコーヒーとエスプレッソコーヒーを抽出できるコーヒーマシンの、初の国産化に取り組んだ。
UCCやキーコーヒーやドトール等にも行きコーヒーの淹れ方も研究した。
豆のひき方の違いと味の関係、ドリップコーヒーの保存温度と味の関係、ドリップのシャワーリング方法や蒸らしと味の関係やネルドリップとペーパードリップの違いや、紙の材質の違いによる味や香りの変化も研究した。
当時(30年近く前)日本人にはなじみの無かった、エスプレッソコーヒーも、私は本場のミラノの通勤時間帯に、取引先の貿易会社のなじみのイタリア人に案内され、エスプレッソを飲み、イタリア人のエスプレッソや、カプチーノの飲み方や朝食を教えてもらった。
その後、エスプレッソの抽出方法も学んだ。(コーヒー豆の粉が微粉末で高温高圧で抽出)
(その頃に、いろんな店でジェラートを見、ミラノの石釜焼きの有名店と思われる高級レストランでピザも始めて口にした。客の前で、ピザ生地を空中に放り上げ皿回しのようなことをしていたような、記憶もあるように思う。)

そのような研究では、高校卒業してすぐに入社した、環境試験装置の会社で培った温度測定の技術が大いに役に立ったし、それまでに勉強し、設計時に研究し培った諸々の技術(電気工学全般、伝熱、熱力学、板金、冷凍、化学、金属、機械、生産、品質・・・。)が活かされた。

開発した製品を、見本市で出品した時に、大手焙煎メーカーの人から、ドリップタンクに入れていたコーヒーが、抽出してから、30分経ったコーヒーだといって試飲してもらって、味や香りが余り変化していないことに驚いたことが、嬉しかった。

その機械には、私の目から見ると、何件かの新しく開発した特許や実用新案を取れる新しいシステムなり、技術が含まれていたが、経費節減のため、上司の指示で、特許や実用新案の申請はしなかった。(その前に、私が業務として直接専門図書館に行き、何日もかけ大量の周辺の既存の特許実用新案の調査をし、未申請であることを確認した。特に当時飽和温度で蒸気圧を制御する技術は、大企業を含めどこも申請していなかった。)
この開発には、多くの電子回路を組み込んだコントロールボックスは装置のコントロールの要であった。
その装置のデジタルやIC化に関しては、私が基本仕様や大枠の設計デザインを作成し、アルバイトできていた大学研究室の技術者がメインとなって完成させた。

その会社を、辞めて数年後、大阪駅東口ガード下南側の入り口のコーヒーショップにその機械が置かれ、大量の客の注文に対応していたのを見て、内心鼻高々だった。(今は、その店は、その地域全体を模様替えしたためなくなっている。)


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お彼岸と父の命日

2012年03月21日 00時01分31秒 | 記憶の断片
今日は春分の日
ご先祖様を供養する日である。
母が生きていた時は、この頃になると毎年我が家にお坊様が来た。
その、お寺との繋がりも、父の死がきっかけだった。

お寺といえば、先ずご先祖様が関係する。
田舎のお寺には、私も幼い頃法事で何度か行ったし、墓参りもした。
ご先祖様の墓は、私の兄(長男)の墓が単独であり、その奥に祖父を含め3-4代の墓が奥に向かって並んでいる。
始めの方の墓には、確か文化とか天保の年代があったような気がする。
今度田舎へ行く機会があれば、しっかりと確認したい。
(私は大阪生まれの大阪育ち<一時疎開したらしい>で田舎のことはほとんど知らない。)

我が家では、父が生存中は、法事のたびに父母の故郷へ帰り、お寺さんに来てもらって法事をし、たまに墓参だけでなく、お寺にも参詣した。
お寺は天台宗で、私の従兄弟たちは、地元の寺の住職や関係者と懇意にしているようだ。
法事は当然全て天台宗の流れで行ったし、親戚一同、般若心経や光明真言や隋求陀羅尼といったお経を和尚さんの読経に合わせて唱和することが出来た。

ところが、父が30年余り前に80歳で亡くなった時に、葬儀会社の葬祭場で御通夜をした。
父が亡くなる前には、病院に叔母たちも来ていて、御通夜には、その他親戚も岡山から駆けつけたが、御通夜のお経を聞いて皆驚いた。
普段聞きなれているお経と違ったので唱和することが出来なかったのだ。
お坊さんは浄土真宗だった。
それで、あわてて天台宗のお坊さんお寺を探すと、大阪市内には非常に少なかったが、なんとか見つけ出し葬式は天台宗で出すことが出来た。

幸い墓は、兄の自宅近くに以前から墓地を購入し墓は仕上がっていたので、父は兄が作った新しい代々の墓に入ることが出来た。
因みに、父の命日は明日の3月21日なので、母や兄が生きていたときには、彼岸会法要と命日の供養を一緒にしていた。

このようなきっかけで、大阪のお寺との関係も出来、母が生存中は我が家で法事を行い、母が亡くなってからは、兄の家で法事を行うようになった。

たまに、お彼岸に自転車で墓参に行くこともあるが、鳥飼大橋近くまで行かねばならず、風や雨の日はいけないし、体力も消耗するので気合が必要で、いつもというわけには行かない。

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工業高校の同窓会

2012年03月05日 00時35分18秒 | 記憶の断片
毎年4月の中旬に開かれる工業高校の同窓会の出欠の返事を出すのを忘れていた。
明日が投函してメールで連絡しておこう。

同窓会は、長い間開かれてなかったが、突然10年余り前から毎年開催されるようになった。
母校はなくなったが、(工業高校でなくなった。)同窓会は健在だ。

我々のクラスの同窓会は、2クラス合同でやる。
各学年、一クラス40名で電子工業科2クラスと機械工学科6クラスしかなかった。
私は、電子工業科だったので同窓会は、幹事の意向により2クラス合同でやることになった。
実際には、3年生の時には、毎年クラス替えがあるため、隣のクラスメートとは、半数以上が元のクラスメートであった。

隣のクラスには、当時工業高校にはいなかった女子生徒が3名いた。
今では、女性の設計者・技術者も当たり前であるが、当時は大企業でさえ、初めのころ女性は技術者として扱ってもらえなかったと当時の苦労を語っていた。
今もその3名は健在で、同窓会の幹事もしているが、私は彼女たちと同じクラスになったことはなかった。
私は2期生で、当時はほとんどの級友が大手一流企業に就職していた。

私が先生から強く勧められた会社は当時町工場で、私は見た印象が良くなければ、意図的に落ちて、もっといい企業に行けばよいと思っていた。
半分いやいやながら受験し、面接の態度も気を使わず普通にしていて、受験者も多かったので受からないだろうと思って喜んでいると受かった。
学校に、辞退したいと申し出たら、進路指導の先生が頑として受け入れず、仕方なくそのまま入社した。

そんな調子で、始めは出勤するのが苦痛だった。
入社当初は、社内教育で現場研修を半年ほどしてから、設計に入った。
その後その会社で、サラリーマンや技術者としての基礎を学んだし実力も付けた。
会社も急成長し、私が10年間勤めて退職後しばらくして、上場し一部上場企業になり、かなり後には私の元上司が社長になり、更に時がたって、私の工業高校の数年後輩が役員になり、社長候補にもなったと言う噂を聞いた。

私は、その会社を辞めてから今まで、本当にたくさんの面白い経験をした。
美術業界に関係するなんて40代半ばまで、思っても見なかった。

同窓会は、いつも20-30名ぐらい出席者がある。
無論亡くなられた方もいるし、所在不明の方も多い。
職業も様々であるが、去年の時点で多くの級友は、まだ働いていた。(お金が必要だからでは無さそうである。)
大企業の社内学校の教官や技術者、大学の教官(教授 助教 室長)も数名いるし、社長や農業従事者や、営業マン、ドライバー等様々だが、社会的地位があろうがなかろうが、同窓会では名前は呼び捨てで、おいお前となる。

当時の先生の苦労話も聞いた。
教科書がないのである。
当時、カラーTVは最先端の技術で先生は教科書も少なく相当苦労した苦労話をされた。
トランジスタやICの原理に不可欠の物性論はゲラ刷りのプリントが配られた。
それらのプリントは、先生の書き下ろしで、長い間教科書として多くの短大や高校で使われた本もある。
先生も若い先生が多かった。

当時放射線・原子力関係も授業もあり、コバルト60の照射施設もあった。
その関係で、一人はその関係機関に就職し、専門家になり、今は大学の教官(助教)になったと言っていた。
電子計算機の授業もあったし、原始的なクロスバー式(リレー式)?電子計算機の実習もあったが、難解で分らなかった。機械語:アセンブリと記憶関係の回路やパラメトロン等

しかし、不思議に思うのは、最先端の技術を学びながら、ほとんどの級友は、PCを使うのが苦手で、HPやブログやツイッターは、ほとんど誰もしていなかったので、その方面の話は通じないのだ。
ただ、音響関係と画像認識関係で研究をしている(一人は教授もう一人もそのレベル?)級友が2人いるが、彼らは忙しいのだろうか、同窓会でそういうネットの話をしなかった。



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チチカカ湖の紹介番組を観て思い出した。

2012年02月24日 23時52分41秒 | 記憶の断片
先ほどのTV番組でチチカカ湖が紹介されていた。
40歳になってから、約一年半シカゴで英語留学をし、その後1987年に日本に帰国する前に民芸雑貨を探しに中南米に行った。
そのときにチチカカ湖のプーノにも一人で行ったことがある。

写真も撮っていた。
確かどこかに写真もあるはずと思って、心当たりの箪笥の引出しを開けたが見あたらなかった。
プーノの浮島の学校の風景が会ったはずで、葦舟から映した写真もあるはずだ。
プーノの写真は見つからなかったが、その代わりにシカゴの英語学校時代の写真がたくさん出てきた。

チチカカ湖へは、ペルーのクスコから列車でプーノまで行ったが、その列車は「地球の歩き方」によれば、ドロボー列車と呼ばれていると書いてあった。
確かに出来事が起きた。(いつの日か、思い出話を掲載します。)

チチカカ湖についてからも、ホテルで異変があった。
私は、たまたまクスコ?で知り合った、日本人男性とマチュピチュやプーノまで行動をともにした。

一人だったら、危険な目にあったかもしれなかった。
当時のペルーは、センデロルミノッソ(共産ゲリラ)が活躍していたが、私はそんなことを知らなかった。
クスコで、店に軽機関銃が何気なく置いてあるので、何でおもちゃの機関銃を置いているのと訊ねると、本物だと言い、襲われたときに反撃するのに使うと聞いて驚いた。

クスコで知りあったその男性も同じ大阪出身であった。
高学歴であるが、経歴を聞くと謎の多い男性であった。
帰国後、連絡を取ったが、確かに実家に繋がったが、彼は不在であったが、経歴はあっていた。
本人は既に彼の職場に復帰し赴任地にいき任務についていた。
(後日、25年前に行ったアメリカや南米の話も思い出せる範囲ブログに書く予定)
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阪神淡路大震災前後の自分

2012年01月17日 20時09分41秒 | 記憶の断片
バブルが弾けてから、何の経験もなく、たまたま十三で南米の民芸雑貨をしていた時に、隣に画廊が開店した。
隣の画廊のオーナーに勧められ、アメリカに行って、アメリカから版画を輸入するルートを見つけたのが、ギャラリーを始めるきっかけだった。

その後、一年ほどして、上本町の石が辻町で小さなギャラリーを開いた。
来客も少なくなったが、具象絵画の個展をしていると、たまに作品が売れた。
その後、現代絵画の作品を扱いだすと、来客は増えたが全く売れなくなった。
貸しギャラリーを企画するが、借り手もなく、ギャラリーの経営は行き詰った。

その当時、母は足が悪くなり、病院通いをし、そのうち脳梗塞を起こし入院した。
ギャラリー経費は、今までのたくわえと、作品の販売代金で何とかまかなっていた。

母が元気な間は、母と同居していたので、自分の食費の心配は要らなかった。
ところが、母が入院してからは、母が入院した為に、入院費も必要となり、食事も自分で作らなければならなくなった。

年末に病院んが年末年始態勢になり、母が帰宅する前には、認知症の症状も出始めた。
年末年始に、一時帰宅し年明けから転院することにした。
帰宅して数日すると、夜になると、認知症の症状が出た。
私を他人と思い、「お世話になりました」、と言われたときは、ドラマのシーンでなく目の前で起きていることだとと思うと同時に、母が突然遠くに去ったような気がして、泣いた。

年が明けて、母を転院させた。
新しい病院にも母は、徐々になれた。
認知症は、収まっていた。

ギャラリーの経営は好転するきざしはないので、新聞の求人広告を見て申し込み、正月明けからアルバイトをすることにした。
午前6時前から9時までの3時間のビル掃除の仕事だった。
仕事場は、御堂筋に面した金融系大企業の子会社だ。

仕事をし始めて間もない、1月17日、私は自転車で御堂筋の直前まで走っていた。
遠くに、稲光がし、木が揺れていた。
自転車で走っている私は、にわか雨が降る前の風が吹いていると思っていた。
カラカラというシャッターの音が聴こえ、誰がこんな早朝にシャッターを開けているのかと思った。

ところが、前をよく見ると木や電線が風もなく大きく揺れているのに気付いて、もしや大地震かと思い自転車を止めたとたん、余り経験したことのない、バランスを崩し倒れそうな大きな揺れを感じた。
南海地震が来たのではないかと思った。

その後掃除を担当しているフロアで予定通り清掃をした。
途中、何度かグオーという地鳴りとともに襲ってくる大きな余震は、怖かった。
掃除途中で、パラパラと社員の人が上がってくるが上がってこなかった。
7時過ぎになって、このフロアに勤務している人が来た。
御堂筋線は、全面運休しているとのことだった。

徐々に、この会社の人でターミナルから歩いてきた人が上がってきたが、詳しい情報は何一つ分らなかった。
掃除チームのリーダーの指示により、少し早い目に掃除を切り上げた。

自転車で、母親のいる病院に直行した。
外では、車も人通りも極端に少なかったが、建物の倒壊は、見られなかった。

病院に着いて、ロビーでTVを見ていると、震源が、中部地方といっていたのが、変わりだした。
そして、神戸で高速道路が倒れている映像や、建物が倒壊している情報が入っている最中だった。
TVの信じられない光景に、目が釘付けになり、日本の神戸で現実に起きている出来事に鳥肌が立った。
想像を絶する惨事が神戸で起きていて、大量の死傷者や避難者が出ていると思った。

母の病室に行ったが、母は怖かった言い、私の顔を見て安堵した顔を見せた。
その後は、家に帰ってもTVを見続け、あるときは悲惨な状況を聞き一人涙を流した。

かなり日がたってから、神戸に行くことがあった。
途中で見た、ぺしゃんこになった家を見て、地震の被害はTVで見たものと全く違うことを、肌で感じた。

多分地震・津波・原発・水害・火事といった災害は、遭遇したり、現場にいるのと、TVで知った知識と全く違う物だろうと思っている。
現実は、多分TVで見るよりはるかに悲惨なのだろうと思う。


その年に、ギャラリーを老松通りに移して再開した。
母が亡くなったのは、その年であった。

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我が家のダイニング・キッチンの変遷

2012年01月15日 12時59分25秒 | 記憶の断片
我が家は、古い長屋の為ダイニングはない。

私が小さかった頃は、流しもなかったような気がする。
暗い土間に、大きな竈が2個あり水道が低い位置にあったような気がする。
炊事場と、2台の大きな水屋箪笥の置いてある畳敷きの2畳間の間に、縁側を兼ねた一畳分の薪・炭の収納スペースがあった。

年を経て、竈は餅つきのときしか使われなくなり、竈の上にガスコンロが乗った。
竈のガスコンロは2台あり、一台はハガマ用のガスコンロで、羽釜を使ってご飯炊きをした。
その後、炊事場にコンクリート製の流しが入り、炊事・洗面が楽になった。
そのとき、水道も流しの高さにあわせ立ち上げた。

いつの頃か、屋根の雨漏り補修のため、玄関と炊事場の上を、瓦葺からトタン葺に変えたとき、竈も煙突も撤去したようだ。
確か、そのときに炊事場の前も改装した。
炊事場の前は土壁で、土壁の上に外と筒抜けの小さな明り取りの窓がついていたが、土壁を壊し板壁にして、大きな木枠の窓をつけた。
炊事場は見違えるほど明るくなり、炊事場も広くなった。

私が、30代になって、母が炊事場の大改装に踏み切った。
母の足腰が多少弱り、炊事のたびに2畳間と炊事場の段差を上がり降りするのが、苦痛になったのだ。
炊事場と台所及び、玄関から居間までの間の通路でもある3畳間をフローリング化した。
丁度6畳間のフローリング工事で、玄関の3畳分をそのまま残してL字型にフローリングにした形だ。
今も
その時にコンクリート製の流しを廃棄し、ステンレスの流しを購入し、ガスコンロも最新のものに変えた。

2000年夏にギャラリーを廃業した時、ギャラリーにあった60cm角程度の台を持ち帰り炊事場に置き、その上に電子レンジを置いた。

母親が亡くなる前から自炊するようになり、ガスコンロも良く使ったが、その後しばらくしてからは、炊飯もおかずも全て電子レンジで調理するようになった。

今は、ガスコンロを使うのは、焼き魚の時ぐらいである。
その理由は、単純である。
フライパンや鍋を使うと、洗った後特にフライパンの場合は手入れが必要となる。
ギャラリーをやる前は喫茶店をしていたので、洗い物の大変さも身にしみている。
経験的に調理器具の手入れは大変なので、自然と調理器具の洗い物の数を減らす為に電気化するようになり、現在に至っている。

以上キッチン関係のことのみ述べたが、食卓は我が家では昔から、居間での食事で丸ちゃぶ台だった。
電気ゴタツが入ってから、年中電気のやぐらゴタツを使うようになった。

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劣等感(追)

2012年01月12日 13時44分18秒 | 記憶の断片
私は今まで余り劣等感を持ったことは無かったが、会社勤めをしたとき、一時期持ったことがある。
工業高校に行った頃は、学校の成績は中程度だったので、多少の劣等感はあった。
特に数学と英語が悪かった。

私の入社時は、現場研修で半年ほど製造の電気配線を経験してから、設計に上がった。
会社へ入って4―5年たつと、技術部の設計部門では大卒が中心となり、新卒の工業高校出身者のほとんどは、製造部や技術でも検査に廻された。
ただ、始めから設計で入社した者は、設計を中心に人事が組まれていたようだ。

技術においては、その人の実力は、その技術をよく理解し、その技術や原理を使いこなせるか、ということが全てで、学歴等は関係ない。
ただし、そのためには広い理科学上の知識・バックグラウンドが要求される。
しかし、現実問題工業高校レベルの知識と大学レベルの知識と大きな違いがある。

工業高校卒業後、当時中小企業だった理化学機器のメーカー田葉井製作所(今は社名変更し東証一部上場企業)に入社後、私は工業高校出身者なので、大卒との技術力に大き差があるのではないかと気にし、所詮、工業高校出身者は、大卒者の手伝いしか出来ないのではないのかといった思いを漠然と思っていた。
しかし入社してみると、そんなことは無く、上司から様々な設計上の指導を受けつつ設計をさせられた。
そのうち、設計にもなれ、ある程度の設計は出来るようになった。
ただ、それでも当時大学の実態は知らず、大卒者に対し大きな実力の差があると信じ込んでいた。

入社数年後、夏休み中のインターンの大学生の指導を受け持つことになった。
そこで、初めて同年輩に近い現役の大学生と向き合うことになった。
インターン生といろいろ話をするうちに、科学に対する基礎知識が不足していることが分った。
彼の場合は、大学での勉強不足は明らかであった。
理工科系の大学の場合多分必死で勉強しないと、まともな技術や理化学の基礎は身につかないであろうことを実感した。

それ以後、大学に対しての過大な思い込みは少なくなった。(その後別の会社でも、部下(全員大学工学部出身)を指導したが、基礎知識の無さ低さに驚いた。)
また、直属の上司(設計チーム主任)が大卒の人になったが、余り大きな違いを感じなかった。

同じ頃、電気設計チームを中心に、その他のチームの電気工学系学部出身者を含め、電気設計の設計基準を社内で制定することになり、当時あった「電気設備の技術基準」をベースに、議論と基準の決定作業が始まった。
そのときも、大卒も高卒もそれほど大きな大差はないと感じた。

私は、工業高校で当時最先端の電子通信関連技術や自動制御の技術を学んでいた。
しかし、当時の最先端の技術はそれ以上に急速に進歩し、トランジスタが最先端で電界効果型半導体やSCRといった電力制御素子も最先端技術として注目されていて、ICが実用化され始めるころだった。
電子計算機はリレー式からトランジスタに移行し(学校ではリレー式計算機が機械語の教材となっていた。)、メモリに磁性体(パラメトロン等)を使うことが最先端技術として注目されていた。
しかし最先端の工業高校(当時短大以上の内容を教えていたと思われる。)を卒業して5年で、ICは普及し、メモリは電子化IC化し、オペアンプも市場に出始め高度なアナログ制御(PID制御等)が可能になり始めた。
こうしたことは、当時私が教えられた技術の先を行き、私にとって理解不能の技術になりつつあった。
会社では、最新技術を取り入れ、計測器メーカーと共同で、温度制御用のPIDコントローラーを開発し始めた。(両社役員や開発・研究技術者が参加の開発プロジェクトの定例合同技術会議の末端に、私も検査担当<当時設計から検査に左遷されたと思い、逆に気楽な仕事を楽しんでいた。>として呼ばれ定席メンバーとなり、予想外のことに驚いた。)

その後、ある宇宙開発関連(ソビエトの宇宙飛行士の生体機能試験装置輸出)の大規模プロジェクトチームに所属したとき、同僚の大卒社員は、電子通信関係で、私が知らなかった高度な通信技術の知識を持っていて、バリバリ設計や打ち合わせもしていた。
そのころ、TVや計測データの送受信といった通信技術は、情報量が一挙に増加し、5年の間に私には全く未知の世界になった。
同僚でありながら、電子通信の分野では、彼の代役は出来なかった。
その実態を横で見て、実力のある理工科系大卒者の力を認識し、再び劣等感を持った。
例えば、今から思えば簡単な話だが、当時は情報とノイズの関係が大きな問題で、いかにノイズを抑制するのかというのも重要課題で、当時最先端技術だったノイズサプレッサも検討し実用化していたようだ。
(SCRを使うと強力なノイズが発生するが、この問題は今もPC関連の問題やFMのノイズ対策で課題である。特にLED調光等で電力制御を行うと激しいノイズや電磁パルスが発生し、誤動作や誤った計測値を出す。)
しばらくして、私は夜間大学の短期大学部の電気工学科に通うようになり、始めて大学教育の一端に触れた。

そのとき、ある程度基礎が出来ていれば、専門書を読みこなすことで、理工科や文科系にかかわらず、どんな部門でも、自分で勉強し大学レベルの知識を得ることが出来ることに気付いた。
電子通信の分野は、私が最新の基礎的なことを勉強していなかったので、全く理解できない状態であることを悟った。

その後、改めて、実務を通じて自分で勉強することで学歴の差は乗り越えられることを実感することが多くなった。
例えば、当時電子制御の問題で、製品のPID制御オーブンで0.5℃単位の制御のハンチングが出る問題で、社内や計測器メーカーの関係者全員が問題解明に取り組んだが誰一人解明できなかった問題を、最後に私に任されて、結果を出したときに、科学技術の世界では、自分で勉強し実力を付ければ学歴は全く問題ないことを再確認できた。
それは、実験の結果熱電対が極めて微小なノイズを拾ったことが原因であることを明らかにし、その問題の対策をたて不良問題を完全に解決したときのことであった。
研究員や上司が居並ぶ席で、技術部長に報告書を提出し説明した時のことは、今でも誇らしく鮮明に覚えている。
ただその時、部長(元大学工学部教授)が問題の推定原因として私はその原因の構造を見つけ出し、過渡現象を含む方程式(行列式)上で、ヒーターに流れる電流の高調波成分がノイズとして働くことを明らかにし、フィルターを形成してノイズの影響をなくしたのだが、部長がその方程式を完全に解くように言ったが、解けなかった。(高等数学上の問題)
後日、その時そこに居た技術のトップレベルの研究員や上司と、頭の良さそうな同僚に具体的に数学的解法を聴いても、誰一人解けなかった。
その時、実質工業高校卒の私が、大学工学部で頑張ってきた人たちと同じ土俵で真剣に競い合って、全く遜色ないことを実感し、学歴劣等感は全くなくなった。
その当時、既に仕事上の関係で、一般の電気工学に関しては専門書も購入して読んでいたし、分からないときに参照したのは分厚い、電気工学ハンドブック(電気学会)で最先端の技術や考え方が解説されていた。

確かに、工業高校レベルと大学レベルは違う。
教科書を見れば明らかだ。
しかしその差の多くは、仕事をしていて知らない間に、自分で本を読み勉強して乗り越えられるレベルということも気付いた。
そのことは、自分の専門外のことについても当てはまることを知ることも度々あった。
例えば、別の会社(食品関連機械の会社・30代の時に10年間開発設計と技術部門の管理を行った。)で、発生しクレームに対処する為、機械工学出身の同僚(部下)が、原因を解明できなかったので、私は金属工学の専門書を読み、同僚の機械工学出身者が分らなかったタンクの亀裂の原因を解明したことがあった。
(その原因は、当時(30年以上前)最新の学術上<金属工学>の知見であった。後日確認の為、公的機関に問題の製品を持ち込み、私の推定原因<ステンレス溶接での粒界腐食+電界腐食・コーヒーと接触することによりコーヒーが電解液となり部分電極を形成するという理論的推定。>が正しい事が判明し、テフロンコーティングをするといった対策を決定し、全製品回収の指示を出した。その後頻発したクレームは完全に収束した。)

このような経験を経て、大卒者や専門家に持っていた劣等感はほとんど無くなったし、分らない分野は、先ずその分野の基礎をしっかり固めてから、より高度な専門分野に一歩ずつ入ればよいことも分った。
そうした経験は、趣味の考古学や、美術に向き合う時にも生かされている。
(20170901 20170906 一部追記)


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私が始めて無職になった時

2012年01月11日 17時15分15秒 | 記憶の断片
私は、工業高校を卒業して環境試験装置の会社に入った。
当時は中小企業で、木骨で作った冷蔵庫のような製品もあったような気がした。
会社の中に、風呂場もあったように記憶している。

その後会社は、一流メーカや、国からの受注もあって、会社はどんどん大きくなった。
入社後10年近く立った頃、本社機能は残し、兵庫県の工場団地に工場を移転する話が進みだし、技術部は移転対象になっていた。

当時私は、設計―製造―検査―開発と様々な部門を移動したが、ほとんどは設計開発部門にいて、それなりに高い技術も持っていて、仕事にも満足していた。

私は、生まれ育った大阪市を離れたくなかった。
そして、年末の人事移動の時、将来的に移動したくないということで、辞表を提出した。
すると、同じ設計チームに配属の決まっていた後輩の数名もやめると言い出したので、一ケ月ずつずらしてやめることになり、私は1月に会社を辞めた。

初めての、無職を体験した時は、落ち着かなかった。
後で、展示会場で私の一ランク上の上司に会った時に聞いた話では、部長は私がどこかに引き抜かれてやめると思っていたという。

それなりのたくわえは、あったが不安ですぐに職安に行き、手続きをした。
職安の紹介では、小さな会社が多かった。

一方新聞広告に、技術者募集で、私にピッタリの仕事が数社出ていたが、それはいつも打合せをしていた計測器メーカーで、応募しようか迷ったがやめた。
職安ではいいところが無いので、人材センターに登録した。

すると、待遇もいいが、一年間缶詰で社内教育を受けてから仕事をするという条件で、私がOKすれば入社できた。
当時やっとICが普及し始めた頃で、今から思えば、そこは半導体製造に欠かせない機械を作っていて、最先端の技術が集積されている装置メーカーだった。
私は、最先端の技術にしり込みし、そうした一流企業を断り、逆に小さいところで技術を生かしてみようと考えるようになった。

その後、職安で仕事探しに励み、東大阪の中央環状線沿いにある町工場と面談した。
センター興行といって、その昔石炭ストーブを作って大儲けしていたというのだ。
そこは、元一部上場企業で、当時再建が決まり再出発したところで技術者が必要で、今後会社も規模拡大させる予定だという。
当時は農事用温暖機や石油ファンヒーターを作っていた。

4月にその会社に入社し、一月に伸び盛りの環境試験装置の会社を辞めて以来、始めて経験した2ヶ月間の無職の時代は終わった。
その会社では、ある程度仕事が自由に出来て面白かったし、様々なことを経験した。
経営状態は、経営者に問題があったのか、急速に経営が悪化し賃金の未払もあり、労働争議も経験した。
その会社は、4―5年後再び倒産した。
その後のことは知らない。

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新年会・忘年会・飲会

2012年01月03日 15時50分29秒 | 記憶の断片
年末年始は忘年会や新年会と飲会の多いシーズンだ。
サラリーマン時代は主に忘年会が多かったが、脱サラ後は忘年会はほとんど無くなった。
忘年会や新年会は主に組織もしくは、グループが前提となる場合が多い。
二人や三人でも、忘年会や新年会だが、普段の飲会との区別が付きにくい。

やはり、忘年会や新年会は、親しい人達や、そうでない人も、グループなり組織として、一緒に関係のあった人達が酒を飲んで親交を深めチームワークをよくすることに繋がるのだろう。
無論、新年会や忘年会が、そんな面倒くさいことを目標にやっているはずもなく、習慣的に懇親会や慰労会を兼ねてやっているのだろう。
海外ではそのような習慣はあるのだろうか。
それにしても日本では、何かあるたびに飲むことが多い。
飲むことそのものが楽しいし、飲んだ後親交が深くなることが多く、いわゆる飲み友達になる。
でも下戸の人にとっては、飲会は苦痛なのだろうが、中には、飲めなくても飲会が好きという人もいた。

私のサラリーマン時代は、毎週一回以上同僚や友人たちと主に、梅田あたりにのみに行った。
工業高校を卒業して最初に10年弱勤めた会社が、大阪市北区の天神橋筋近くにあったための実に行くところが、自然に梅田に向ったのだ。
その当時、残業を終えて週数回は、阪急東通りを大阪駅に向かい、馴染みの飲み屋やスナック(ほとんどが友人や先輩が開拓した行きつけの飲み屋だ。)に通った。
ある程度馴染みになった店では、一人でも飲みに行った。
会社を変わってからも、新しい会社の同僚たちとの行きつけの飲み屋は、梅田になった。

脱サラしてからも、友人や元同僚たちのたまり場のスナックや、飲み屋があったので、週一回程度通ったが、その後こちらの懐具合が怪しくなったのと、お店も廃業したので、それ以来飲食店に通う習慣は無くなった。
最近の飲会は、同窓会程度で、後はギャラリーでのパーティーに参加する程度だ。

ギャラリー関係のパーティーは良く開かれる。
ギャラリーが元気あった頃は、毎週のごとく多くのギャラリーでオープニングパーティーをやっていた。
そのようなパーティーは、ギャラリー主催の場合と、作家主催の場合があって、作家主催の場合も多い。
ギャラリーや作家主催のパーティーの場合、持ち込み歓迎の場合や会費制の場合もある。
出来るだけお互いに出し合って、ギャラリーや作家の負担を減らし、お互いに楽しもうという傾向だ。
ただ、懇意にしている作家がしていても、初めてのギャラリーで遠くにある場合は、行かないことが多い。
遠方の場合行き帰りに時間が掛かるし、酔っ払って土地勘の無いところから帰るのは、何が起こるかわからないので、避けている。
よく知っている画廊の場合は、そのような制約は少なくなり、懇意にしている作家の場合は、行ってみたいとも思うが、後は時間の都合や、交通費との兼ね合いだけである。(ぎりぎりの生活をしていると交通費も重要なファクターになる。)


飲会に参加すると二日酔いになりやすいが、その対策は以前のブログ「二日酔い対策」にまとめてある。http://blog.goo.ne.jp/sksoo/e/8f594f83a87d9511c40c13071063cbf8

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暇な正月にライフスタイルを見直す

2012年01月02日 16時46分17秒 | 記憶の断片
年末年始や盆の時期は、一人住まいのものにとってはある意味災難でもある。
平日であれば、TV番組もいつも観ているお気に入りがある。
ニュースもいろいろ入り、ニュースを見て。批判したり、喜んだり、怒ったり、悲しんだりする。

盆、正月は、大きなニュースも少ない。
オーム真理教の平田が自首してきたのも大ニュースだが、正月ではワイドショーや、ニュース情報番組も無いので盛り上がらない。
ワイドショーやニュース情報番組は、井戸端会議のような役割を果たしているのかもしれない。
正月特集番組もどこを観ても同じ感じで、観ると確かに笑えるが、何か物足りない。
笑うなら、漫才や落語をじっくりと聞いた方がましだと思う。

何より、この期間ジムやプールが使えないのが、もどかしい。
それらの施設は、単に体力維持増強だけでなく、運動によるストレス発散や井戸端会議の役割も果たす。

お金に余裕でもあれば、また様子は違うかもしれない。
若い時にスキーに一は、別段苦とは思わないし、行った先でいろんな人と交流することが多い。
実際に、中南米の首都は、仕事も兼ねて(民芸雑貨収集)一人旅した。
その途中で、友人の家に行ったり、現地で飛行機で隣り合わせた日本人のおかげで、日系ペルー人たちと親しくなり、お世話になったりもした。
その他の国での一人旅も結構楽しかった。

冬でなければ、近くの山の山歩きをするのも、余暇を過ごす方法かもしれない。
思い出せば、若い時は冬でも六甲や金剛山や北山を歩いていた。
山歩きの、装備はそれなりに充実していて、日帰りのハイキングだが、10kg近いリュックを担いで中にラジュースや非常用にツェルトやシュラフや着替えも持っていて、厚い皮の登山靴を履いていた。
今では、多分捨ててはいないが、そうした装備は下駄箱の上に放置してあるが、使い物にならないだろう。

今は年金暮らしだし、つつましく暮らす工夫をするしか無いだろう。
それに、被災者の方々から見れば、恵まれた生活と感謝しなければなるまい。

よく考えてみると、お金を使わず過ごす方法は他にもいろいろありそうだ。
昔は映画もよく行った。
特に安い料金で名画を見る映画館がいくつかあってよく通ったが、今はほとんど無くなった。
探鳥会も毎週のように参加していたし、泊りがけの探鳥会にも参加した。
金剛山で、秋の朝に鷹渡りを観た時には感激した。
博物館の友の会で、自然観察会にもよく参加したし、面白かった。
振り返ればいろいろヒントがありそうだ。
年の初めに、ライフスタイルを見直してみたい。
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