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昨日記170616金(園芸 ラボカフェ「『遊び』から見る人間の本質」)追

2017年06月19日 17時03分26秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
最高/最低  28.7 18.3  晴後時々薄曇
午後、水やり以外は、半年以上放置したままだった表の植木の手入れを行った。
繁茂しているシソを植え替え、先日購入したゴーヤ、ミニトマト、イチゴの苗を、とりあえず鉢に植え替える作業をした。
それ以外、金木犀が病気にかかっているようなので、葉が落ちた枝を切り、ほとんど丸坊主にしたが、それでも助かるかどうか分からない。
金木犀に関しては、数か月前に土をすべて入れ替えたのだが。

夜になって、中の島の地下にある京阪難波橋駅横(西出口側・東洋陶磁美術館南向かいに地下入り口)にある、アートエリアB1で行われるラボカフェに行った。
「『遊び』から見る人間の本質」というテーマで西村清和教授(美学者、國學院大學文学部哲学科 教授)の話があった。
遊びに関して、読むべき本の一つとも言われるカイヨワの著作物があるのは知っていたが、読んだことがなかったので出かける前に急遽調べた。
そこでホイジンガーについても同様に調べて、彼らの説の概要は理解できた。(それ以前に、かなりの部分断片的に何度も彼らの説に接していたし、名前も知ってはいた。)

そうした詳細な解説をよみつつ、当時の遊びと言われるものと、現代とでは、大きく違うので、そのあたりは、改めて著作物を読み込んで、批判的に検討しなければならないだろうと思った。
だが、これを機にこうした著作物を読む時間は無いし、今回は単に教養程度に知識を得て夜の講座を理解する助けにでもなればよいことにした。
興味ある分野は、芸術を始め科学・技術・哲学・政治経済・健康・医学ときりがないので、興味があっても私が本当にやりたいと思う特定分野以外は、一般教養程度の知識で済ますことにした。(専門書は読まず、入門書や概説という感じで済ます。今のところ考古学・歴史や哲学は専門書も適当に読んでいる。美術に関しては、その次に時間があれば読む)
現実には、興味のある分野も少しずつシフトしている。

例えば、美術芸術については、かなり力を入れていたが、哲学をいろいろかじり、文化人類学的見方や構造主義的見方に立つと、芸術そのものが人間の価値観に依存していて、そのことが評価とか経済的価値に反映されていることに気付いた。
即ち、芸術の評価そのものが絶対的ではなく相対的なのであり、そのために同じ作品であっても作家・学者・評論家・コレクターであっても、意見が分かれ折り合わないし、同じ芸術分野でも細分化されていて、違う流れの価値観では評価できないのだ。(ロマン派の見方で、ミニマルアートやアクションペインティングを評価できない。)
現在西洋美術史観が世界の中心であるが、世界にはアフリカ、アラブ、東洋、ラテンアメリカ、といった様々な美術があり、その中で西洋美術の影響を受けたものが西洋美術の一分野として注目されている。
例えば、仏教美術を見る場合、西洋美術的見方=現代美術的見方で評価する場合と、純仏教美術として見る場合で見方は変わる。
我々は、通常純仏教美術的見方(仏像の約束事=パラダイム)と西洋美術的見方をミックスして鑑賞し評論していることが多い。
そもそも文化というものは、風土、民族、社会、歴史・時代で変化するもので、どれが正しいということはない。
その時その時代その場所で、その社会が一つの文化・価値観とそれを基にしたパラダイムを形成していて、しかもその中で様々にカテゴライズ(類別)かされそれぞれで、又価値観を形成しているのだ。(日本の中にも地方文化があり、それぞれの文化は大きな違いがある。その地方文化の中にも、芸術や芸能といった風土歴史によって培われた様々なジャンルで、それぞれ固有の文化を持っている。闘牛や闘鶏といった特定の地域でしか行われない文化も多い。)

先生の話は、多分大学の講義と同じと想像したのだが、講義録を読む形で早口で行われた。
その後質疑応答に移った。
講義では、予想通り、カイヨワとホイジンガ―の話と彼らの考え方の紹介があり、その後、彼らの理論の批判と自説の紹介があった。
仕事と遊びの違いとか、遊びの中で自他のまなざしの宙吊りや、まなざしのキャッチボールといったことを強調されていた。
その他ゲームの関係やピアジェの考え方にも触れられた。
そこで先生の視点の中に、企てと遊びの対立関係を考えられておられるようで、企てがあれば仕事となり、遊びには自在さと浮遊感を協調されていた。
子供の遊びにごっこがあるが、ごっこは、大人を拒否するという。
ゴッコは振舞のルールであるという。
芸術と遊びとの関係も語られた。
芸術は、手すさび(手わざ・工芸)の延長である。
同じ手わざであっても、芸術には企てがあるという。
遊びが無いと人生の病理になるという。

質問の時間に多くの質問が殺到した。
私も質問したかったが、カイヨワやホイジンガ―のことも当日になって概要を理解した程度なので質問することを止めた。
ただ、先生の説には、反論や事実誤認を指摘する余地はあると勝手に思っている。
基本的に先生の論理展開は、まなざしを強調したところを見ると、認識論・現象学・実存のラインからの考察であるように見える。

アートと遊びの違いは、企ての有無というが、現代美術を見る限り、無目的に描いたり、成り行き任せであったり、作品化を否定し行為を強調したり、多くの作家がマスターピースを作るというよりキャンバスなり造形素材と遊ぶという場合も多いし、具体美術の鷲見さんの作品というより全体的なコンセプトが、やけくそ・ふまじめ・ちゃらんぽらん、であり企てとは程遠い。
鷲見さんの作品の制作展示には、企てにつきものの、こうでなければという、こだわりはすくない。(ギャラリー時代展示にも立ち会った。)
そうした、作風の現代作家は多く、芸術家=企てという考えは、芸術全般に当てはまるとは思えない。

構造主義・記号論的視点でいえば、芸術は表現であり、コミュニケーションの一形態であり、それぞれの芸術、の各分野でパラダイム・エスピテーメーを形成していると考えられる。
各パラダイムにおいて、それぞれの世界(例:キュビズム、コンセプチャル、アクションペイント・・・)文法文脈素材技法感性その他、様々な要素を含んだ体系の中で価値観を形成し、その価値観に基づく論理を形成していて、各パラダイム内に限り明確な論理や優劣が存在する。(パラダイムが違うと論理や評価の前提となる価値観が違う。)
また、制作過程の中で、遊びを含んでいることも多いし、作品を作って遊んでいる場合もある。
堀尾氏の「当たり前のこと」というコンセプトには、企てを排除している。
遊びの中に企てが入っている例としては、現代の遊びのゲームそのものの中に、複雑な企てが含まれていて、ゲーム中も企てている事も指摘できる。
電子ゲームでなくても、囲碁将棋やマージャンといったゲームは、同じルールの下で企てを競い合うことで勝敗が決まるのである。(企ては、戦略戦術と言い換えることが出来る。戦略と戦術は違うが。)
最後の同じ質問者による質問の追加が時間切れで打ち切られたが、質問者がソカール事件に関する見解も質問していたが、これに関する回答は聞きたかった。


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