Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

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日本人の対外遠征 三国志と邪馬台国の意外な関わり

2018-04-02 04:10:01 | Weblog

◆三国志の世界
 前章では近代以前の「日本と外敵との戦い」を紹介したが、本章では逆に、日本の方から大陸へ仕掛けた戦争を取り上げたいと思う。先ずは、戦争はしていないものの、日本が中国のダイナミックな領土争いに巻き込まれた『三国志』の時代を紹介しよう。
世界中で親しまれている中国の『三国志』は日本に於いても大人気である。ゲーム、漫画、アニメ、映画.....。劉備、関羽、張飛、諸葛亮と云った英雄が大活躍する世界観は、多くの人々を魅了してやまない。その舞台は2世紀末、漢王朝の力が衰え、国は乱れ反乱が相次いだ中国だ。「黄巾の乱」をきっかけとして、各地に群雄が並び立ったが、やがて北部の魏と南西部の蜀、南東部の呉にまとまり、大陸を舞台に三つ巴の争いが繰り広げられることになる。後に歴史家の陳寿が著した史書『三国志』には、意外なことに日本のことが詳しく書かれている...
そこには、あの卑弥呼の邪馬台国が大国として記録されており、三国の一角、魏に大変優遇されていたことが読み取れる。
何故魏にとって、辺境の島国の一地域を支配する邪馬台国が重要だったのか?学校では習うことのない、卑弥呼と魏との関わりについて紹介しておこう。
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◆卑弥呼と魏国
 当時中国で日本と接点を持ち得た土地は、朝鮮半島中西部の帯方郡だけ。三国時代の帯方郡は、暫く公孫氏と云う一族が支配しており、卑弥呼もここに朝貢していたと謂う。公孫氏を滅ぼした魏が帯方郡を支配すると、邪馬台国との外交関係が始まった。
『三国志』の「魏志倭人伝」によれば、239年に卑弥呼は魏に遣使し、「親魏倭王」の称号と金印紫綬を授与され、しばしば朝貢したと謂う。また、248年に卑弥呼が亡くなったこと、卑弥呼の死後に男の王が立ったが内乱が起こり、結局女王の台与(いよ)が乱を治めたこと、彼女が再び魏に朝貢したことも綴られている。また、現在の日本は「鉱物資源の見本市」と言われるほど多種多様な鉱物資源が採れることで知られるが、当時の魏国も特産物が多いと特筆されており、真珠、青玉(翡翠)、丹(水銀と硫黄の化合物)、クヌギ、クワ、生姜、茗荷、黒雉などが列挙されている、卑弥呼が、度々これらの特産品を魏に贈ったのは、邪馬台国が脆弱な王権だったことの何よりの証拠だろう。自国の力だけで他国を圧倒できるのであれば、外国の王朝の後ろ盾などなくても権威が維持できるはずだからだ。
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◆優遇されていた邪馬台国
 中国の王朝は、代々漏れなく「中華思想」と云う考えを受け継いで来た。中華思想とは、「中華を支配する天子が徳を修めることによって、東夷・西戎・北狄・南蛮と云う四方の夷狄が、中華の徳を慕って朝貢して来る」と云う、何とも自国中心的な思想である。つまり北部のモンゴル系、西部のチベット系、東部のツングース系や日本などは、異民族であり野蛮な夷狄なのだ。
陳寿の『三国志』で夷狄について書かれているのは巻30「烏桓・鮮卑・東夷伝」で、この中で「倭人伝」は1983字で構成されている。「烏桓伝」が462字、「鮮卑伝」が1230字、「夫余伝」が715字、「韓伝」が1427字であることから、最多の字数が割かれている。
また、「親魏〇王」は夷狄に与えられる称号だが、授与されたのは、卑弥呼の「親魏倭王」と「親魏大月氏王」のみだ。大月氏国とは、中央アジアから北インドにかけて、1世紀から3世紀頃まで栄えたイラン系の王朝である。仏教を保護し、全盛期を築いたカニシカ王が有名だが、魏から「親魏大月氏王」を贈られたのはカニシカ王の孫のヴァースデーヴァ王だ。三国の一角、蜀は西方のチベット系異民族と連携していたから、魏としては、背後の大月氏国を優遇することで、蜀と異民族との連携を防ぎ、背後からけん制したかったのだ。一方、南方の海上に位置し、呉の背後にあると考えられていた邪馬台国は、東夷の中でも最大の国家と認識されていた。「倭人伝」によれば、「奴国の人家が2万余戸、投馬国の人家が5万余戸、邪馬台国の人家が7万余戸」とある。他に記載のある一支国、末蘆国、伊郡国も合わせると倭国全体で約16万戸に及ぶ。これは大月氏の10万戸をも上回っている。実際の規模は別にして、大国として伝えられていた倭国の朝貢は魏を大いに喜ばせた。水軍の運用を得意としていた呉の背後にある倭国を優遇することで、呉の海上支配に対抗できる。いざとなったら魏と倭国とで挟撃することも想定していたのかも知れないが、さすがに邪馬台国にはそこまでの力はなかっただろう。
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◆狗奴国と呉
 「倭人伝」の記載によると、卑弥呼は晩年、狗奴(くな)と云う国との戦いに明け暮れた。狗奴国は1国で邪馬台国連合の29ヶ国を相手にしていたようだ。卑弥呼は帯方郡に応援を求めていることから苦戦していた様子が伝わって来る。
魏からは錦の御旗「黄幢」が邪馬台国に届けられる。黄色は魏のシンボルカラーである。狗奴国と邪馬台国連合の戦いの行方はハッキリしない。卑弥呼は交戦中に亡くなっているし、勝敗についても史料に残されていない。狗奴国の場所も「邪馬台国の南にあった」と書かれている為、邪馬台国の場所が判明しない限り分からないのだ。それにしても、魏の後ろ盾まで得た邪馬台国連合と、狗奴国は単独で戦うことができたのだろうか?
実は、日本では呉の年代が入った神獣鏡が見つかっている。これを、魏が邪馬台国から冊封を受けたように、呉の影響下にあった勢力が日本にあったと仮定するならば、その勢力とは、孤立していた狗奴国以外に考えられないのだが、どうだろうか?
日本と言えば、卑弥呼とも何らかの関係があると思われる大和王権が中央に進出し、いよいよ統一王朝を建国するのである。

画像・卑弥呼の墓最有力と言われることもある福岡県の平原
  ・3世紀の東アジア。「三国志」と言うがカギとなる国は他にもたくさんある。
  ・「魏志倭人伝(東夷伝)」 日本の豪族の力関係など詳細に渡って記されている。

          


                      教科書には載っていない 「日本の戦争史」


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