Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

板倉鼎・須美子展(目黒区美術館)

2017年05月02日 23時22分52秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 本日訪れた「板倉鼎・須美子展」(目黒美術館)は、訪れている人も少なく、ゆっくりと鑑賞できた。なかなか魅力的な作品が並んでいると思った。
 板倉鼎(1901(M34)-1929(S4))は東京美術学校で岡田三郎助などの指導を受け、在学中の1921(T10)年には第3回帝展に入選、1925(T14)年に昇(のぼり)須美子と結婚、翌年夫婦でハワイ・アメリカ経由でパリに留学。ロジェ・ピシエールに師事。サロン・ドートンヌや帝展などに入選。しかし1929(S4)年帰国直前に28歳で病死。
 昇須美子(1908(M41)-1934(S9))は文化学院で山田耕作に音楽を学び、17歳の1925(T14)年に与謝野鉄幹・晶子の媒酌で板倉鼎と結婚。パリで鼎の手ほどきで油絵を学び、1927(S2)年には早くもサロン・ドートンヌに入選。ふたりの女子をもうけるが、1929(S4)には二女と夫を続けて亡くし、帰国。翌年には長女も亡くなる。すぐに有島生馬に絵画を学んだが、さらに結核で1934(S9)年25歳で亡くなる。
 板倉鼎の作品は解説にもあるとおり、パリに留学後におおきな飛躍をし、岡田三郎助の影響下の写実的な絵画から、対象を画面に再構成する手法を獲得しようと試みを重ね、同時に色彩についてもさまざまな試みを行っている。写実から、対象の画家なりの人物評価を匂わすような画面構成を追及する方向をめざしていると感じた。
 とくに最晩年の赤い服を着て、黒い椅子に座った妻・須美子と思われる女性像のさまざまなバリエーションの女性像に、その試みを凝縮して見ることができる。
 板倉(昇)須美子も「ベル・ホノルル14」などに惹かれた。
 若くして亡くなってしまった、非凡な夫婦の歩みは魅力的である。特に板倉鼎の晩年の作品の水準が、今後どのような方向に向かおうとしたのか、興味が湧く。

 図録1500円は購入せずに、板倉鼎の妹、板倉弘子による「板倉鼎 その芸術と生涯」(2004年 1000円)を購入した。これから目をとおす予定。

                  

目黒区馬喰坂と現代彫刻美術館

2017年05月02日 21時51分01秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は昼食後に家を出てから予定通りに、中目黒駅-目黒区美術館-現代彫刻美術館-馬喰坂-油面通り-学芸大学駅のコースを歩いた。
 風は少し強めであったが、陽射しがあり、気持ちの良い散歩日和。高級住宅地と思われる尾根道を歩いた。



 馬喰坂というのは、馬の放牧や生産に関わった土地の意味なのか、と思っていたら、路面の路面が凸凹していることの目黒方面でのことば「ばくろ」に「馬喰」の字を当てたとの案内表示があった。


   

 まずは現代彫刻美術館の感想から。私は彫刻についてはほとんど知識もないし、鑑賞の体験も極めて少ない。屋外展示されている諸作品について、語る能力などはまるでない。しかしこの5月の明るい陽射しと空気の中で見る限り、屋外展示場3のようにアスファルトに囲まれた場所ではなく、屋外展示場1、2のような花木に囲まれた公園状場所での展示であればもっと映えるのではないか、と思った。

   

 屋内展示の青野正彫刻展は興味深く見た。鉄を使った展示である。私は「風標」(2017)という作品がとても気に入った。パンフレットには掲載されていないが、他の作品以上に念入りな丁寧なつくりに惹かれた。

目黒区「油面」

2017年05月02日 11時36分01秒 | 山行・旅行・散策
 本日は連休の合間の休養日となった。5月らしい爽やかな天気。午後から目黒区美術館を訪れることにした。いつもは目黒駅から歩いて権之助坂を10分ほど下るが、中目黒駅から徒歩20分ということなので、目黒川沿いに歩いてみることにした。私は二度目であるが、妻は初めて。
 目黒川沿いには「田道庚申通」という道がある。山手通りと目黒川の間を南北にのびている。
目黒区美術館の馬喰坂を少し登ったところに「長泉院付属現代彫刻美術館」というのが地図に載っている。ネットで検索しているが、展示内容がフェースブックでないと見られない。不安であるが、寄ってみることにした。
 地図を見ていると、この馬喰坂を含めて油面通という古い道があり、商店街もあるらしい。目黒区のホームページには、

「油面(あぶらめん)」は、衾(ふすま)・碑文谷(ひもんや)などとともに、初めての人にはまず読めそうにない地名の一つ。もとは、現在の中町一丁目に、同二丁目、中央町二丁目の一部を加えた一帯の旧字名だが、その名は、油面あぶらめん小学校、油面あぶらめん公園をはじめ、商店街通りや交差点、バス停などに今も残り、「住区」の名称ともなっており、その長い歴史に新たな一ページを加えている。さて、「油面」の地名は、多くの地名の例に漏れず、土地の産物にちなむもの。江戸時代の中ごろから、この辺り一帯では菜種の栽培が盛んとなり、絞った菜種油は芝の増上寺や、その流れをくむ祐天寺の灯明用として使われていた。この油の奉納に付随して、絞油業に対する租税が免除されていたらしく、油製造により税が免ぜられている村、すなわち「油免」が、いつしか「油面」となったと伝えられる。ただし、「面」については、韓国などで、村長のことを面長といっているように、「村」の意味とする説もあり、この説によれば、「油面」は、単に「油のとれる村」の意味となる。

と記されている。

 この油面通は東横線の学芸大学駅に向かっている。気分が良ければ歩いてみたい。