Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「雪の暮鴫はもどつて居るような」(蕪村)

2017年01月26日 22時12分12秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 本日は右の臀部の筋肉がことのほか痛い。午後に整形外科で右足の牽引を行ったが、家についてみるとやはり筋肉に張りがある。
 牽引だけでは治癒は難しいのかもしれない、と思えてきた。しかし他に改善の方法が思い浮かばない。夕方から湿布をしているが、痛みは薄らいでいない。
 牽引というものの治療効果は結構限定的になのだろう。

★雪の暮鴫はもどって居るような
 西行の「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」を下敷きにしている。鴫立つ沢の固定的な風景だが、それを冬に情景にして、しかも「戻ってくる鴫」に仕立て上げた。
 日本では鴫は、渡りの途中の春と秋に見られるが、場所が転換して、北の土地で詠んだことになる。「居るような」という日常語が、和歌的な美の世界から俳句ならではの世界への橋渡しとなっている。

 少々早いが本日はこれにて閉店。明日は友人と「関戸勇写真展『よみがえる大坊珈琲店』」を夕方から見に行く予定。たぶんその後は軽く2~3人で飲み会。

「寒月や鋸岩のあからさま」(蕪村)

2017年01月26日 18時00分06秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★寒月や鋸岩のあからさま

《峨眉露頂図(蕪村)》
 

 ここで鋸(のこぎり)岩というのはどこを指すのかは不明らしい。鋸岩、鋸岳はいくつもあるようだが、多分山頂稜線に岩の露出が長く続いている山をいうのであろう。冬の煌々とした大気と月に照らされて天空高くくっきりと聳えているの情景を詠んだものと思っていた。キリッとしまった冷たい大気と、荘厳さを感じる。
 実は昔寒月は満月に近い月のようなイメージの解説を読んで、それを信じていた。しかし今私が読んでいる角川ソフィア文庫(訳注:玉城司)の解説では、蕪村には掲出のような「峨眉露頂図」という重要文化財に指定された作品を参考として記載してある。この絵画作品では寒月は細い三日月である。この「峨眉露頂図」とこの句がリンクしているとしたら、街中からこのような細い月の明かりで「鋸状の山」のいただきを見るのは無理がありそうだ。きって作者もそれなりに高い箇所から山をみていると思われる。花崗岩の白っぽい岩屑に覆われた稜線から手に取るような近場で、高く険しい山のいただきを見ている作者をわたしは想像してしまう。
 結句の「あからさま」という語が気に入っている。自分で使ってみたが納得した句は作れなかった。

ベートーベン「交響曲第4番」

2017年01月26日 11時27分14秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 ベルナルト・ハイティンクの指揮、王立アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団によるベートーベンの交響曲全集から、本日は第4番(1806年)。たまたまだろうが、私の好きな第8番と同じCDに入っている。録音は1987年となっている。
 この禅宗の解説では「至上繊細さに満ちた第4番では、表面的にはモーツアルトやハイドンに戻っているように見えるが、へーとーぺんの優雅さとエネルギーを秘めた、古典的な作品構成の最高の例として見られるべき」と記してある。
 また諸井三郎氏の全音のスコア解説では、「内容は、明るく、かつ生々としている」となっている。



 この第4番は、私が敬遠している曲である。どうしても好きになれない。第1楽章の導入部緩やかであるが、主題提示部分以降の過剰な装飾音が続く。ここが私にはあまり好きになれないところだ。旋律がリズムに寸断されて聴こえる。リズムが旋律を凌駕してしまう。
 諸井三郎氏の解説では、第1楽章はソナタ形式で提示部が少しだけ長め、第2楽章は展開部を持たないソナタ形式、第3楽章はロンド形式をもとにしたスケルツォ、第4楽章は提示部、展開部、再現部に終始部を持った4部構成のソナタ形式、とされている。

   

 第2楽章はヴァイオリンの第1主題とクラリネットの第2主題は美しい。特に哀調あるクラリネットの響きは美しい。しかし第1主題を支える飛び跳ねるような律動が私の耳には馴染まない。
 第3楽章のスケルツォはベートーベンらしいスケルツォだと思う。切れ切れの律動性の強い旋律がやはり苦手だ。
 第4楽章も第3楽章に続いて慌ただしい。「この楽章は聴いていると元気が出る」とむかし友人が言っていた。そのとおりだと思うが、「陽気さ」とはちがう何かあまりに人工的なにおいが強い。

 確かにどの音楽も伝承や土俗や習俗に基づいた民謡の水準から世界性を獲得してヨーロッパという枠組みをさらに飛び越えて流布するには、「人工」的なことは免れない。だがその「人工」的であるがゆえに鑑賞する個々の人間には届かない場合があるのが当然である。それを前提として、この私の心にとどかないという違和感との付き合いもまた鑑賞の仕方でもある。私が求める音楽とはどこか異質なところがある、といつも心の中で自問自答しながらベートーベンの音楽を聴いている。この違和感がこの第4番がどうしても大きい。これ以上どうにもうまく表現できないのがもどかしい。