★己が身の闇より吼(ほえ)て夜半の秋(蕪村)
掲げた犬の画は円山応挙、句は蕪村自信の筆になる自賛。暗闇におびえて吼える黒犬の姿を現している。蕪村と応挙の親密な親交をうかがわせる画と賛である。この句については一昨年の8月にも「若冲と蕪村」展の感想でも取り上げたが、再度取りあげてみる。
夜の闇のような黒犬が、闇におびえて吼える、といいつつその闇は実は自分の身の中に横たわる心の闇、あるいは恋の闇に起因するという解釈で良いのだと思っている。
人間の心の闇に自ら怯えるのが、実に可愛らしい子犬であることに、どこか救いがあるようにも受け取れる。一方でこのような子犬にすでに心の闇があるように、人間の子どももそのように闇を抱えているのだ、ということも云える。この「闇」を具体的にはどのようなものとして蕪村や応挙は把握していたのであろうか。とても興味がある。
そういった意味で、私はこの句に近代的な詩の精神を感じる。萩原朔太郎は「郷愁の詩人 与謝蕪村』」を表したが、同じようなことがこの句にも言えるのではないか、と思っている。
掲げた犬の画は円山応挙、句は蕪村自信の筆になる自賛。暗闇におびえて吼える黒犬の姿を現している。蕪村と応挙の親密な親交をうかがわせる画と賛である。この句については一昨年の8月にも「若冲と蕪村」展の感想でも取り上げたが、再度取りあげてみる。
夜の闇のような黒犬が、闇におびえて吼える、といいつつその闇は実は自分の身の中に横たわる心の闇、あるいは恋の闇に起因するという解釈で良いのだと思っている。
人間の心の闇に自ら怯えるのが、実に可愛らしい子犬であることに、どこか救いがあるようにも受け取れる。一方でこのような子犬にすでに心の闇があるように、人間の子どももそのように闇を抱えているのだ、ということも云える。この「闇」を具体的にはどのようなものとして蕪村や応挙は把握していたのであろうか。とても興味がある。
そういった意味で、私はこの句に近代的な詩の精神を感じる。萩原朔太郎は「郷愁の詩人 与謝蕪村』」を表したが、同じようなことがこの句にも言えるのではないか、と思っている。