Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「己が身の闇より吼て夜半の秋」(蕪村)

2017年01月28日 22時12分54秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★己が身の闇より吼(ほえ)て夜半の秋(蕪村)



 掲げた犬の画は円山応挙、句は蕪村自信の筆になる自賛。暗闇におびえて吼える黒犬の姿を現している。蕪村と応挙の親密な親交をうかがわせる画と賛である。この句については一昨年の8月にも「若冲と蕪村」展の感想でも取り上げたが、再度取りあげてみる。
 夜の闇のような黒犬が、闇におびえて吼える、といいつつその闇は実は自分の身の中に横たわる心の闇、あるいは恋の闇に起因するという解釈で良いのだと思っている。
 人間の心の闇に自ら怯えるのが、実に可愛らしい子犬であることに、どこか救いがあるようにも受け取れる。一方でこのような子犬にすでに心の闇があるように、人間の子どももそのように闇を抱えているのだ、ということも云える。この「闇」を具体的にはどのようなものとして蕪村や応挙は把握していたのであろうか。とても興味がある。
 そういった意味で、私はこの句に近代的な詩の精神を感じる。萩原朔太郎は「郷愁の詩人 与謝蕪村』」を表したが、同じようなことがこの句にも言えるのではないか、と思っている。

ブラームス「ヴァイオリン協奏曲」

2017年01月28日 20時00分03秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 NHKのFM放送でブラームスの「バイオリン協奏曲ニ長調作品77」を聴いている。ヴァイオリンがクリストフ・バラーティ、下野竜也指揮のNHK交響楽団の演奏。
 カデンツァを聴いていると、私のブラームスのヴァイオリン協奏曲のイメージとちょっと違うかな、と感じた。カデンツァ以外は違和感はなかった。誰のカデンツァなのであろうか。
 アナウンスはなかったような気がする。第二楽章はとても繊細な弾き方で好感が持てた。フィナーレなどは私には少し線の細い演奏に聞こえたが、それはそれでなめらかで心地よい演奏だとは思う。
 久しぶりにブラームスを聴いた。またブラームスを聴きたくなったが、しばらくはベルナルト・ハイティンクの指揮、王立アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団によるベートーベンの交響曲全集を聴いてみたい。その後にブラームスを聴きたい。

「蕭条として石に日の入る枯野かな」(蕪村)

2017年01月28日 14時40分57秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★蕭条として石に日の入る枯野かな(蕪村)

 角川ソフィア文庫の「蕪村句集」から。最近はこの蕪村句集の最後の句から前に、遡るようにして句を眺めている。925句目から最後の1000句目までは作句年次が不明の句がならんでいる。この句は993句目。
 蕭条はもの寂しいさま。石に日の入る、というのは石に日が射し入る意とのこと。蕪村ならではの漢詩仕立ての句に感じる。それは「蕭条として」の語による。解説によると「蕪村句評」なる書に作者不詳として「石ひとつ見つけだしたる枯野哉」があるとのこと。この句を蕪村がどのように評したか分からないが、掲句は蕪村らしい作り替えだと感じた。私はこの漢詩仕立てというのが気に入っている。
 私はどうも「石に日の入る」の「石」は「いわ」と読んだ方がいいように思えてならない。芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」が頭に浮かんでしまうからだ。私の石と岩のイメージからしても、石では小さすぎる。一抱えくらいの石よりも大きいものを想像している。どこかの寺社の石垣や「力石」、板碑、あるいは道の脇にある腰かけられるような岩を思いうかべる。
 しかし蕪村は「「小家」「小磯」「小貝」「小提灯」など「小」という字を好んで効果的に浸かっている」、とむかし国語の教師に教わったことが記憶に残っている。そうすると小さな石に目が向いている、というのも悪くないかもしれない。
 解説では芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を「枯野」のイメージとしている。「枯野」が芭蕉の枯野のイメージとして、芭蕉の生涯と一体のものとして現在まで定着している。これはすごいことである。

このブログの構成について

2017年01月28日 10時22分54秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 このブログはおおよそ毎日3本の次のような記事からなっている。

A.美術館・博物館、絵画や展示の感想
B.クラシック音楽・読書・俳句・各種受講講座などの覚書と感想
C.地震や台風などの自然災害の情報
D.旅行先の感想、日々の出来事の日記的な感想や時事ネタに対する感想

 以上の4つの分野から3つほどを、おおよそ昼食前、夕食前、深夜就寝前に分けてアップしている。

 昨日は昼過ぎに事前に登録しておいた記事をスマホからアップしようとしていてすっかり忘れてしまっていた。慌てて深夜1時ころにアップするという失態をしてしまった。できるだけ一日3回のペースは守りたいと思っている。
 この一日3回のペースが何となく身に付いた習慣になったことと、自分の拙い思考のまとめとしてもちょうどいい場面設定だと感じている。要するにひとつのことを一日考え続けるのが不得意なのである。集中力がないといえばそのとおりなのだが、同時にこれ以上に頭が駆けずり回るのを防止する行割もある。自分の頭の暴走を止めるための算段である。暴走して何かが生れるというのではなく、収拾できなくなってもともと容量の小さい頭脳がパンクしてしまう。

 本日は退職者会のあるブロックの新年会に取材を兼ねてお邪魔する。写真を撮って、お世話になっている方に挨拶をして‥。正午からはじまるので、終了する15時ころに赤い顔をして横浜駅の東西自由通路を歩くのは恥ずかしい。少し遠回りをしながら帰宅したい。