Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

自句自解(1) 発端

2010年02月03日 23時52分48秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 2002年7月に病気で入院したのをきっかけに俳句を始めた。ひどい頭痛と高熱にうなされながら、死というものを意識しながらも、ひたすら痛みに耐えていた。「死」というもの、事前に意識して見構えて迎えるものではなく、のた打ち回る生の結果としてふと身近に来るものではないか、意外とすっと死という向こう側へすんなりと行けてしまうものなのか、あっさりとしたものなのかもしれいないと思った。
 医師のおかげで、小康状態となってからも筆記具を手にすることもできず、むずかしいこと、長いものは覚えられないけれど、「今」を何かで表現したくなった。何となく「5・7・5」のリズムで言葉が出てきた。31文字よりも17文字の方が短くて、覚えていられそうなので、俳句にしてみた。筆記できないので、5句ほどを繰り返し繰り返し口ずさみ、覚えて1週間後に鉛筆とメモ用紙をもらってたどたどしい文字で書いてみた。すらすらと5句が書けた。

★向日葵のはじけて眩し入院日
★飛び去って木肌に残る蝉の声
★痛みあり短夜の雨の終わりなき
★人去りて雷雨に光る点滴台
★雷一閃輸液の管の青白し

 今から見ると、「向日葵の‥」「飛び去って‥」「雷一閃‥」はまだしも「痛みあり‥」「人去りて‥」は恥ずかしい限りだ。しかしいづれも切羽詰って切実な情景であったことは間違いない。

 秋になりかけたころ退院・自宅療養に目処がつきそろそろ職場復帰という頃にインターネットである俳句結社に投句したのが、俳句の作り始めだ。
 素人でも投句するたびに「おだてられて」その気になると、なかなか面白い。人前に自分の創作物を発表することに刺激を感じるようになり、いつの間にか句会にも参加するようになった。そういった意味では結社の先生や仲間だった方々には今でも感謝の気持ちは持ち続けている。

 俳句や短歌は中学生の頃から読むこと、鑑賞することは好きだった。教科書に載るものは皆好きになった。特に飯田蛇笏の句が気に入っていた。
 芋の露連山影を正しうす(蛇笏)
 芭蕉の紀行文は中学から大学時代も繰り返し繰り返し読んだ。高校生になって万葉集や新古今集を中心にいろいろ読むようになったが、自分で短歌や俳句を作ることはなかった。
 学生時代は、万葉集や芭蕉や正岡子規の文庫本をポケットに入れたまま、デモや集会をいくつもこなし、東京の集会に出るために仙台からの夜行列車の薄暗い照明の中で読みふけった新古今や実朝の金塊和歌集を思い出す。三里塚でビニールハウスの中でヘルメットを枕に20m先の裸電球の明かりを頼りに読んだ西行の山家集も忘れられない。
 それだけ読んだけれどもいざ自分で作るとなると、そんな経験や蓄積などまったく関係がない。自分のイメージや感じたものを、言葉を選んで17文字の中に定着させる行為に、そのような知識は歯が立たない。鑑賞すること、読むこと、理解することと、作ることとはまったく違う位相のような気がする。

 こんなことを綴りながら、自分の作った俳句を自分で鑑賞してみることにした。気が向いたら読んでみてください。