★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

大きい人、小さい人

2024-03-19 23:07:48 | 文学


肅肅鴇行 集于苞桑 王事靡盬 不能蓺稻粱 父母何嘗 悠悠蒼天 曷其有常

体がよわく親に心配をかけた人は多い。医学の発達でますますそういう人は多くなっているとおもう。むかしは、心配をかける間もなく死んでしまった場合もおおいだろうからである。我々は親に対しても自分に対しても体を気にしながら人生をおくるようになった。むかし、幼児の頃、「ロボコン」というの番組を見た気がするが、怖くてあんまりまともに見た記憶がない。なぜかというと、体がめくれてなかの機械がみえたことと、何か筒を体にツッコんでいたこと(ガソリン入れてたんですね)、これだけで肝がつぶれる気がしたのである。こんなメンタルでは幼稚園にまともにいけるはずはない。まったくよわっちいにも程がある。

それはわたくしが喘息でからだを過剰に意識して育っていたこととも関係があるかもしれない。安部公房がどこかで言っていたが、病気の時にはなぞの充実感があって、治るとなにか物足りない気分がある、と。これは私もかなり幼い頃に体感していて、こういう体験をしている子どもは、どこか苦と快の関係がおかしくなっているのではあるまいか。

わたくしの経験では、柔道部の送別会より、ゲーム同好会の送別会のほうが、暴飲暴食がすごかった。どちらの顧問もやってみた印象である。ほんと大げさでなく、ゲームの人たち、なんかメニューをクリヤーするみたいな感じで、満腹の上に飲食を続け苦行に堪えるのである。

私は、たぶん義務教育とかがなかったら、絵を描いたり塗師とかめんぱづくりしてた気がするのであるが、いまでも理由もなく彫刻刀を持ちたくなるし、とか言ってたら「持つなよ危ないから」と家人に言われました。

とはいえ、漫画やアニメーションが好きな人はやはり「絵」が好きなんだと思うのである。

そういえば、しばしば言われてきたことだけど、花袋というのは、藤村や独歩より体が大きい。このことは自己像をぞう持っていたかという問題で重要なことのように思える。「蒲団」は結末ばかり想起されて時雄が矮小な感じがするが、芳子の父親とつるんで彼女を田舎に帰らせる態度はでかいし、やつの苦悩はどことなく堂々としているのである。たしか小島信夫が書いていた(『私の作家評伝』)が、花袋の小説はよく泣くと。あれは案外、なんとか男塾の人物が泣いている感じにちかいのではなかろうか。やつの父親もたしか西南戦争にみずから参加して死んでいる人である。「五重塔」のマッチョマンとどこかで通じている。

これに比べると独歩の「画の悲しみ」なんか、自分を少年にまで小さくしてまで悲しみを増幅させているとしか思えない。それが「画」の効果でもある。風景がそもそも画では小さくなっている。

これもさんざ言われてきたことであろうが、いまとは精神的な成長のスピードが違うにしろ、十代の女子を「嫁」にもらった場合にどうみてもかなり教育が必要だったことは明らかで、まあ、お互い様なんだろうが、明治時代の小説によくでてくる若い夫婦の諍いは、描かれている以上に教育されてない二人の状態の現れだった側面はありそうだ。そういえば、これも小島信夫がいっていたわ、花袋が18の嫁と芳子、どちらにも感情教育をしたかったと。

厭世観というのは、大概、嫌な奴がいなくならねえかな、という感情の社交辞令である。こういう社交辞令をしてしまう時点で、自分の小ささに怯えているというものだ。人生碌なものではないと若い頃から呟いているそういうタイプは、例えば、私なんかも「指輪物語」をよまないのに嫌い映画も見ていなかったのは、その吹奏楽のデ・メイの曲があまり好きじゃなかったという理由による。こういうことが多いのである。

そういうわたしの基準はわりとはっきりしていて、ほんとうに困ったときにだけ助けてくれそうな人しか信用できない癖がある。少し困ったときに助けてくれるいつものひとは案外そうでもないと感じられる。かくして、孤立しがちである。