★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

時と行為の一致について

2024-03-03 23:45:52 | 思想


「惟時羲和顛覆厥德,沈亂于酒,畔官離次,俶擾天紀,遐棄厥司,乃季秋月朔,辰弗集于房,瞽奏鼓,嗇夫馳,庶人走,羲和尸厥官罔聞知,昏迷于天象,以干先王之誅,《政典》曰:『先時者殺無赦,不及時者殺無赦。』

酒を飲んで乱れきっていた連中のおかげで日蝕までおこる。確かに、日蝕のおこる間隔とわれらが為政者ならびに御役人が㋔狂いになる間隔はにたところがあるかもしれない。いまは学問が進んでわからなくなっているが、人の行うことを自然現象とみなすところから我々のサイエンスは出発しているので、なんだか自然との類似性がみえてしまうわけである。それは類似性に過ぎないので、それを同一性にもってゆきたいのが人情だ。だからなのか、時と行為を一致させなかった奴は殺せと上の文章の最後でも言っている。

例えば、中興の祖というのが歴史上にはいるが、常識的に考えて危機を作り出した張本人である場合もあるにちがいない。転形期にあまりにそういう厄介な「中興の祖」が多すぎる場合、誰かを肯定的な真の中興の祖にしておきたいところだが、王権や政権の息が長いとやりやすい――時代が年表みたいにみえるから――ことは確かであろう。万世一系の裏には、そういうカオスを隠す暴力がある。時と行為を1対1にしておきたい欲望がその本体だ。

しかしかえって、我々の時代は、こんな激しさをもたず、人生を主観で包みたい時代なのである。なにしろ、人生100年である、長いのである。というわけで、こんな長さを自分の行為と一致させるのは無理があるのである。一致させるのは、いま・ここに生きることだ。しかし、いまはそんなことをやっていたらつかれてしまう。先日、長谷川宏氏の『日本精神史』を眺めていた。この書物は、長谷川氏がやっている塾に来ている親御さんとの読書会がもとになっているようだ。ずいぶん長い試みであったであろう。――ところで、この長谷川氏がヘーゲル研究の人であることに読んでいる途中で気付いたわけだが、ヘーゲルは時代を終わらせることで時代をトピックにしてしまった人で、もうマルクスのような時間操作の哲学へはあと一歩だった。しかし、長谷川氏の上の書物は、なにかいま流行っているアニメ「葬送のフリーレン」を思わせる。それは、仲間と一緒に魔王を倒し、仲間が死んだ後で永遠に生き続けるエルフの物語である。

我々の世代までは、もともとすっかり世の中に絶望しているへこみ具合をエネルギーに変換することだけをたよりに大学生あたりまでやってきたつもりの人が、――なんか出世競争みたいなものに乗せられたら頭がおかしくなる現象がある。それは遅れてきた受験戦争であって、いつまでたっても老後に行き着かないのである。で、ある種の若者達はきづいているわけだが、思い切って――何もやってないが終わったことにしよう、という生き方の有効性が出てくる。魔王も倒してない「葬送のフリーレン」である。しかし、魔王を倒すことは一大事業ではあったかも知れないが総力戦や近代兵器のやらかすそれではない。魔法で魔王を倒すというのは現代では戦争の比喩にならないのである。結局それは文字通りの魔法を使えるゲームのなかでの経験に近い、神話の読書とか。この作品をなにかもやもやしてあまりちゃんと見れないのは私がゲームをやったことがないことと関係がありそうだ。「戦争と平和」を読んでも『平家物語」を読んでも自分が戦後にたどり着いた感じは全くないが、ゲームはその点違うのであろうか。。

現実の老いは、フリーレンのように、優秀な自らの魔法と頭脳と、優秀な孫みたいな連中に囲まれて、「昔の幸福がわかった」みたいなものではない。例えば、最近、「ビバリーヒルズ高校白書」の俳優達の名前はなかなか思い出せないが、さっきも手塚治虫の「こじき姫ルンペネラ」の「ロマンポルノ術」あたりのせりふはまだ完璧に覚えていることが判明した。こういう邪悪なものが老いなのである。また、さっき思い浮かんだことがなにか自分のものの感じがしなかったから本棚探ってたら昔読んだ『情動の思考』の一節がそれだとわかった。いつ読んだんだ、まったく記憶がないが。。――こういうのもそうである。

実際、戦後ではなく戦中なのにも関わらず、我々のみえる世界は恰も「戦後」の風貌をやめない。「戦後」は、フランクフルト学派、その後の構造主義やフェミニズムも含めて反省の学であって、もっと言ってしまえば「理論」である。起きてしまったことの原理に遡る学問である。しかし、我々のなかの若者は、こういう戦後の老後感に堪えられない筈である。日本には、その反省に付き合いたい心優しき若者が多いが、世界的にみてそういうのは普遍的ではない。アメリカでは、もはや哲学や社会学や文学理論だけでなく、MBAもいらねえんじゃねえかみたいな議論があるそうだ。イーロン・マスクはMBAを人事で意図的に排除しているという。――しかし、理論だから非現実的というより、理論の適用とかに対する理解が間違ってて、それは他の分野と一緒なのである。教育学とかもそうだから。言葉遊びみたいだけど、原理じゃなくて理論に傾くというのがなにか役に立てようとするときにでてくる傾向で、社会主義もある意味おなじだった。

わたくしは大リーグの外国人問題をほとんど本気で植民地問題だと思っているので、大谷氏が見た目と出自がメラニア夫人みたいなひとと結婚して、Jocks問題に一石を投じ日本人を落胆させるみたいな幻想をいだいていた。わたくしが理論的である所以である。こういうのをかえって若者が嫌うのは当然だ。恋愛や結婚はあくまで実践にしておきたいのである。日本のどこかの中高一貫の男子校(中3)で、自分のジェンダーバイアスを学歴差別と絡め小説を例に問題にする授業が行われたそうだ。途中で、内職やってた学生と教師が口論になったそうだが、それはともかく、高校生がこういうものに反発するのは当然のような気がする。わたしだったらたぶん、中3男子だからといって馬鹿にしやがって+ジェンダーバイアスの話をするのに小説を使う根拠は?とか思って、かなり反抗的な態度を取ったと思う。