★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

でかい鼠から去れ

2024-03-15 23:27:56 | 文学


碩鼠碩鼠
無食我苗
三歳貫女
莫我肯勞
逝將去女
適彼樂郊
樂郊樂郊
誰之永號


三年目の浮気という曲があったが、まずこのように、三年ぐらい経つと鼠みたいな夫を捨てて楽しい場所に妻が去るかも知れないという自明の理を忘れた曲であった。

むかしの文人を描いた映画では、よく蜜柑箱かなにかを机にして書いているのがあるが、わたくしも卒業論文はそれであった。ちょっと工夫が必要ではあるが、案外うまいこと集中できる。机に本を置く余裕はないから、譜面台を一番低くして使った。音楽をやっていた時代だから譜面台で謎の集中力が出たかもしれない。――こういうのは、わたくしの主観であって、一緒に誰かと住むとなったら、これではすまない。確かに林芙美子の映画でも、蜜柑箱で書いていたのは、彼女の独身時代だった気がする。

そんな事が分からなかったのは私に限らないのであろうが、――例えば、大学生の頃は、手塚治虫の「ブッタ」の大乗的な部分はあんまり納得いかなかった。むしろ、タッタの生涯に心打たれた。わたくしは、タッタこそ妻帯者であったことを軽く見ていた。

わたくしが、ハイエクとかフリードマンがヒーローの世の中は嫌だなと思うのは、タッタほどの怒りもなく、人間を甘やかしているような気がするからだ。そのリバタリニズムは、なにか人間の自由を狭く見て、当然そうであればよいという前提になっている気がする。同性婚の話題にしてもマイノリティの権利の話題にしてもテレビとかでよく「すべての人の幸福」云々という言い方がされるけど、それは幸福の問題じゃねえわな。幸福になるかどうかは誰にとってもわからんし。それ以前の自由の問題なのである。幸福は結果としてそういうこともあるかも知れないが自由そのものではない。そもそも憲法や法律は議論は、それが認められないととてもその人にとって不便で不利益――すなわち国家の庇護が受けられないみたいなところに着地点がありがちで、それはそれで狭い話なのである。意図的に狭い話をしているのならいいが、そうでなければ単に不自由を自由と錯覚しているだけになりがちであろう。

我々の社会が、自由を狭く考えがちなのはたぶん理由がある。人に迷惑かけちゃだめ、みたいな教育は空気読め至上主義みたいなものの象徴として批判されることもあるけどなかなかなくならないのは、人に尻ぬぐいをさせて自由を奪うみたいなやつが一方でものすごく「多い」からという理由がありそうだ。どうみても「お互い様」ではない状況がありすぎるとだめなのである。

それは、みんな気付いていることだから、地震なんかをとらえて、「お互い様」に行き着くためのボランティアや行政の助け合いなどがある。しかし、中央の言説では、能登半島震災と言わずに地震という扱いになっているのがよい証拠で、どうみても不均衡が止まらない。

全体主義の幸福が目指されてしまうと、マジョリティみたいな概念がことさら前景化してしまうわけである。マジョリティが威張っているから全体主義になるのではない。一人も取りこぼさないとか嘘をつき始めると、現実的にはマジョリティにしたがえみたいな理屈が発明されるのである。