★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

爾萬方有罪、在予一人

2024-03-04 23:51:46 | 思想


各守爾典,以承天休,爾有善,朕弗敢蔽,罪當朕躬,弗敢自赦,惟簡在上帝之心,其. 爾萬方有罪,在予一人,予一人有罪,無以爾萬方,嗚呼,尚克時忱,乃亦有終

天に判断を任すというのは、実際は誰が誰を許し許さないのかという理念として実現不可能ではあるが実行可能な、難しい問題を引き寄せる。自分が罪人だったら簡単だが、みんなが罪人だったばあいはどうするのか?裁く人は果たしているのか。居るとすれば人は平等でありうるのか。現代の三権分立においても道徳律においては天がでてくるからそう問題は簡単ではない。

ソ連で大衆化と前衛運動の一致がなにか目標であったような時期に書かれたのかも知れない、ショスタコービチの第3番というのがある。駄作とされていたが以前より演奏されるようになった。よく鳴る管弦楽団がやるとけっこうな演奏効果であって、いまどきの映画音楽をまとめてみましたみたいななんちゃって交響曲よりも、ちゃんとOST的交響曲としてまとまっていて、楽器の使い方も華やかだし、最後なんだか合唱が入って祝祭だ。我々は映画時代をかなり生きてきて、ついにこの第3番の境地においついたのではなかろうか。この曲は全然ばらばらの場面が連続する曲で、部分部分が赫きながら一応まとまっているように聞こえる。第2番のウルトラ対位法は群衆そのものの表現にすぎないが、第3番はいわば登場人物ひとりひとりの輝きに接近するようで、その部分部分がダサく感じられたら全体がだめに感じるであろう、勇気ある作品である。ハイドンの交響曲なんか、部分部分はいまいちでもなんか様式感があるぞということで、音楽以上のハイドンの固有性=「ハイドンの交響曲」なのであるが、ショスタコービチの場合は、それはない、つまりそこに作曲者の自我がかんじられない。しかし、この自我を捨てた実験をよそに、プロレタリアートを束ねる政権が全体主義化して作曲者を責めはじめた。罪をえた作曲者は自分だけが罪人であるような交響曲を書き続けて死んだ。

ネット上の匿名もほんとに匿名ではなくて名無しのなんとかと名前がついていたわけで、ハンドルネーム?などにしてもペンネームの一種かもしれない。自分の名前で発言することはもちろんほんとの匿名も案外勇気がいることなんじゃねえかなと思う。それは交響曲第3番みたいに表現することだ。で、それがだめだと思った作曲者は、自分の痕跡をDSCHの音型に焼き印のようにした。それは言葉ではないが、言葉に近い。

ヴァレリーみたく、人間の造る力を盲信して何でもかんでも一からつくろうとするから万博なども金かかるのだ。木曽でやれ、少なくとも山と坂とか水とか義仲の怨恨とかがただで使える。たぶん、環境何とか学みたいなかんじで言っても、こっちのほうがトレンドだろう。万博などの祭のあと、木曽の木に制作者達の怨み節が掘ってあった、こんな結末が現代ではまだ許せる範囲じゃないか。ソ連化した日本においては。

結局日常が祝祭的な空間であることをやめたのがまずくて、日常が酒飲みの祝祭で終わっていたのは重要だったのだ。例えば、サブカルもそういうものだった時期がある。「らんま1/2」ていうの、はじめてすこし読んだけど、なるほどこれは人気出る、と思った。楽しい。高橋留美子というのはオタク文化のなにかとして語られるし実際そうなんだろうが、そこに描かれているのは学校行って友達とふざけて楽しいとか馬鹿な女の子とか男の子とふざけて楽しいみたいな世界を、学校生活という現実にも持ち込んでいけるマインドを与えるかんじで、現実逃避と違う。高橋留美子のおかげで漫画の世界から離れられなくなったという自意識を持つ人もいるけれども、高橋留美子のおかげで学校に楽しくいけた人もかなり多いんじゃないかな。「ドカベン」が部活のすすめになってたのとおなじように。