菊池のぶひろの議会だより

日本共産党 桜川市議会議員 菊池のぶひろの活動報告です

お葬式で考えたこと

2017年04月28日 20時18分00秒 | 日々の雑感
 私の知り合いが55才という若さで、急逝した。昨日のお通夜、今日の葬儀に参列し、いろいろ思ったことがあるので、書いてみたい。
 私は、新潟で生まれ、東京で育ち、茨城県桜川市に住んで、48年になります。まだ、お墓は準備していません。迷っているのです。

 私は化学の教員をしていることもあって、原子論者です。私が師匠と仰ぐ板倉聖宣氏は、もっと強烈な原子論者です。本人は戦闘的原子論者と言っています。板倉氏が、「死んだらどうなるか」という文を書いています。全部は書ききれませんので、さわりの文だけ紹介します。

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 人間が死ぬと、焼き場というところで、燃やしてしまうのが普通です。焼き場では、それまでその人の身体をつくっていた器官も燃えてしまいます。≪遺骨≫といって、骨を作っていた原子の一部と、気体にならない原子だけは灰となって残りますが、その他の原子はみな、空気中の酸素原子と結びついて、気体となって煙突から出ていってしまいます。ふつうはその≪遺骨≫だけを、瀬戸物の入れ物の中にいれてお墓の中に納めるのです。

 しかし、物は何も残らなくても、どの人を知っていた人びとの心には、いろいろな思い出が残ります。その人といっしょに経験した楽しい思い出が残ります。その人といっしょに経験した楽しい思い出や苦しい思い出、なつかしい思い出が残ります。夢にも見るでしょう。だから、その人は後に残された人びとの頭の中にだけ残り続けることになります。

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 私はこの文章を高校の生徒さんに紹介した時、沢山の反発を受けました。「霊」を否定しているからです。科学者なら、この世のものはすべて原子からできている。こう言わざるを得ないのです。

 だから私は、どうせバラバラな原子になってしまうなら、お墓を造っても意味はないのではないか。そう考えるようになってきたのです。しかし、私は、板倉さんのような戦闘的原子論者ではありません。気弱な原子論者です。

 私が死んだとき、葬式を出すことになると思います。誰が出すのか、奥さんか、子どもか。その立場を考えると、「世間一般常識とかけ離れた葬式」になっても迷惑をかけることになってもいけません。どうしたら、世間との摩擦もあまりなく、私の意に沿うような「お別れの会」になれるのか、葬儀に参加するたびに考える、今日この頃です。

 
 今日は、大変お世話になった人ですから、せめてお骨は拾わせてもらおうと考え、火葬場まで行かせてもらいました。ところが、マイクロバスは、焼き場からお墓に直行し、納骨までおこないました。私も、お墓にお線香をあげてきた次第です。このような葬儀にであったのは初めての経験です。
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