愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 130 酒に対す-31 陸游 甲子歳元日

2020-01-08 17:26:29 | 漢詩を読む
この一対の句:
  屠蘇の酒を飲み罷(オ)え、
   真(マコト)に八十翁と為(ナ)る。

お屠蘇の詩を読んで、新しい年、2020(令和二)年を言祝ぎ、スタートとします。

上掲の句は、陸游(1125~1210)が80歳の元日を迎えた折の感慨を詠った五言律詩(下記参照)の出だし(首聯)の二句です。官界から引退し、故郷で悠々自適な生活を送っている様子が読み取れる詩です。

金(キン)に追われて、臨安(現杭州)に都を建てた南宋にあって、常に祖国の復活を夢見ていた。対金強固論を唱え、講和派との政争のただ中にあって、主客が目まぐるしく変る官界での活動であったと言えようか。

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甲子歳元日   甲子(コウシ)の歳(トシ)の元日
飲罷屠蘇酒、 屠蘇の酒を飲み罷え、
真為八十翁。 真(マコト)に八十翁と為(ナ)る。
本憂縁直死、 本(モト) 直(チョク)に縁(ヨ)りて死せんことを憂い、
却喜坐詩窮。 却(カエ)って詩に坐(ヨ)りて窮するを喜ぶ。
米賎知無盗、 米(コメ)賎(ヤス)くして盗(トウ)無きを知り、
雲陰又主豊。 雲 陰(クモ)りて又た豊(ホウ)を主(キザ)す。
一簞那復慮、 一簞(イッタン) 那(ナン)ぞ復た慮(オモンバカ)らんや、
嬉笑伴児童。 嬉笑(キショウ)して児童に伴(トモナ)はん
 註]
  甲子歳:嘉泰四年(1204)に当たる。  屠蘇酒:元旦に飲む薬酒。
  直:金への抗戦を頑強に主張した態度をいう。
  坐詩窮:詩人は困窮から免れないものとされた。“坐”は理由をあらわす。
  主豊:豊作を予兆する。“主”は前触れとなるの意がある。元旦に薄曇りで雨が降らない年は豊作という。
  陰:参照した書物ではWindows辞書で現れない難字であった(“雨”の下に“立”偏に“今”旁)。ここでは“くもる”の意で通ずる字“陰”を用いた。
  一簞:飯を盛る椀一杯、わずかな量をいう。
  嬉笑:喜び笑うこと。

<現代語訳>
 甲子の歳の元日
屠蘇のお酒を戴いて、名実共に八十の老翁となった。
生来直情ゆえに、戦で命を落とすであろうと危惧していたが、
 却って、詩のおかげでこの貧乏暮らし。
米は値が安いので、盗賊にあう心配はない、
 雲が陰っているところは、今年も豊作の兆しである。
一膳の飯を得るのに何の苦慮することもない、
  さあ子供たちに交じって、喜び遊ぶとしよう。
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陸游は、今日中国の漢詩界で、李白や杜甫に劣らぬ、非常に人気の高い詩人であるという。南宋が異民族・金の圧迫を受けていた時代に、一貫して対金強固論を唱え、祖国復興を訴えていた愛国心が、漢民族の琴線に触れるのでしょう。

しかし、政治的な硬派の反面、非常に人間的な情愛に満ちた側面をも持つ。一線を退き、帰郷ののちには故郷の生活に溶け込み、上の詩に見えるように、愉しんでいる。陶淵明を思わせるのだが、肩ひじを張ることはない。非常に魅力的な詩人と言えよう。

陸游は、父の転勤に伴う移動中、舟の中で誕生したという(1125)。その翌年、金が宋の都・卞京(ベンケイ、現開封)に侵攻、(北)宋が滅びます(靖康の変)。高宗は南京に南宋を興す(1127)が、さらに金に追われて、臨安(現杭州)に遷都します(1129)。

陸游29歳の時、科挙の第一段階の試験に首席で合格します。しかし講和派の宰相・秦檜(シンカイ、1090~1155)の横やりで不合格とされる。そればかりか以後の上級試験の受験資格も抹消されることになった。陸游の将来に決定的な痛手を与えたと言っても過言ではないでしょう。

実は、次席の成績を上げたのが秦檜の孫・秦塤(シンケン)でした。秦塤が首席合格とされたことは言うまでもない。五年後、秦檜が没したのち、孝宗の計らいで、進士の資格を賜ったが、周囲の見る目は厳しかったようである。

以後、仕官はするが、中央で重用されることはなかった。現重慶市奉節県の準知事、さらに蜀地方各地(四川省)の知事代理、厳州の知事等々の歴任 と、地方を転々としたようである。なお以後、陸游と秦塤の間は、決して不仲であったということではなかったようですが。

20歳に母方の従姉妹・唐琬(トウエン)と結婚し、仲睦まじい生活を送っていたが、2年後に離婚します。嫁姑の不仲で、母に勧められたともされるが、唐琬に病弱な面があったようでもある。

離婚の10年後、沈(シン)氏の庭園での春の園遊会で偶然に再会します。その折、情の赴くままに詠った詞(歌詞)「釵頭鳳(サイトウホウ)」があり、以後も沈園に纏わる詩が多く残されている。再会後間もなく唐琬は亡くなるが、唐琬に対する思いは非常に深いものがあったようである。

陸游の人間性を示す官界での逸話の一つに次のようなことが語り継がれている。55歳の時、専売品の茶・塩の監督官として撫州に赴任していた。そこで不幸にも大規模な洪水があった。陸游は、自分の一存で官有米を住民の救済に当てたという。

勿論その責任を問われ、免職となり、郷里に帰っています。この回以外にも、対金強固論を貫く陸游は、講和派と衝突、何らかの理由で弾劾されることがあり、合わせて4回の弾劾を受け、左遷、または免職を強いられています。

65歳で正式に引退し、86歳で亡くなるまで故郷での晴耕雨読の田園生活を愉しんでいます。故郷は、越州山陰県(現浙江省紹興市)。典型的な官僚地主の家で、学者肌の家系であるという。特に、漢方の心得があり、一層、庶民との繋がりが深くなったように思われる。

詩人としては、非常に多作で、現役時代に3,000余首、引退後に6,000余首、生涯9,200首が残されているという。その詩風は、現役時代の愛国的な詩と故郷での郷土愛、日々の田園生活の機微を詠った二つの側面に分けられるようである。

南宋の代表的詩人で、范成大(ハンセイダイ)・楊万里(ヨウワンリ)・尤袤(ユウボウ)らとともに南宋四大家の一人とされる。特に蜀地方に在任中に范成大の部下となり、身分差を越えて親しく詩を通じて交流を深めたこともあり、「范陸」と並称されていた。

46歳、蜀地方への赴任時に5か月かけて長江を遡った。その折の紀行詩文『入蜀記』や62歳に詩集『剣南詩稿』20巻(後に正続を合わせて85巻)の刊行、その他随筆集、文集、歴史書などの著作があるようである。

詩数といい、著作物といい、驚異に値する詩人と言えようか。最後に、陸游の名と字(アザナ、務観)は、母が彼を身ごもっていたとき夢にみたという北宋の詩人・秦観(字は少游)に因んだ と。
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