愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 116 旅-1、 韓愈 送桂州厳大夫

2019-09-03 14:47:24 | 漢詩を読む
この一対の句:

江は青羅(セイラ)の帶(オビ)を作(ナ)し,
山は碧玉(ヘキギョク)の簪(カンザシ)の如し。

中国の湘南、洞庭湖の遥か南に位置する景勝の地・桂林の風景を詠った名句です。「桂林山水 甲天下」(桂林の山水の風景は天下一、並ぶものなし)と、古くから言い継がれてきたようです。そのさまを見事に表現した句と言えようか。

向後、“旅シリーズ”として、“旅”に纏わる話題:景勝地・旅での出来事・おいしい話、等々、気の赴くままに、漢詩を通して見ていきたいと心づもりしております。今回の詩は、このシリーズの劈頭に最もふさわしい詩として選びました。

この詩は、韓愈(768~824)晩年(55歳)の作です。厳大夫が左遷されて、桂州都督として赴くにあたって、「仙人の住むような素晴らしい所です。気を落とさずに」と、心を込めて送り出す詩です。少々難解ですが、味わい深い詩と言えます。

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<原文および読み下し文>
  送桂州嚴大夫  桂州の嚴(ゲン)大夫を送る
蒼蒼森八桂, 蒼蒼(ソウソウ)たり 森(シン)たる八桂(ハッケイ)、
茲地在湘南。 茲(コ)の地 湘南(ショウナン)に在り。
江作青羅帶, 江は青羅(セイラ)の帶(オビ)を作(ナ)し,
山如碧玉簪。 山は碧玉(ヘキギョク)の簪(カンザシ)の如し。
戶多輸翠羽, 戶は多く 翠羽(スイウ)を輸(ハコ)び、
家自種黃甘。 家は自(オノ)ずから黃甘(コウカン)を種(ウ)ゆ。
遠勝登仙去, 遠勝(エンショウ) 登仙(トウセン)して去れば,
飛鸞不假驂。 飛鸞(ヒラン) 驂(サン)するに假(イトマ)あらず。 
 註] 森:樹木が多いさま。ここでは金木犀の木が茂っているさま。
八桂:八株の金木犀の木があるという伝説の月の宮殿。
青羅:青い薄地の絹の織物。
鸞:中国の想像上の鳥。

<現代語訳>
 桂州都督として赴任する厳大夫を送る
伝説上の月の宮殿のように桂(金木犀)の木が生い茂る、
こんな美しい所が湘江の南に在る。
川は青い羅(ウスギヌ)の帯のようであり、
山は碧玉で作った簪のようである。
家々の戸口からはカワセミの翠(ミドリ)の羽が運び出され、
どの家でもミカンの木が植えられている。
はるか景勝の仙人の住むところに行くと、
鸞鳥が背に乗せて休むことなく案内してくれるのだ。
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話題の桂林(Guìlín グイリン)について:

中国・広西壮族(チュアンゾク)自治区に位置する地級市である。カルスト(石灰岩)地形で、タワーカルストが林立し、正に“碧玉でできた簪”のように美しい風景を呈している(写真参照)。

写真1:桂林の風景 (2015.10.19撮影)

著名な英国の地形学者Marjorie Sweetingが、かつて桂林を訪ねた際に、「もしもここの石灰岩地形が最初に研究対象とされていたら、“カルスト”に代わって“グイリン”という語が生まれていただろう」と語ったという。

“カルスト”とは、もともと欧州中部・スロベニア北西部の地方名である。そこには典型的な石灰岩台地が発達している。そこで石灰岩地形の研究が最初になされたために、石灰岩地形を表す一般用語として“カルスト”が定着した と。

桂林市を貫くように、青羅の帯をなす“漓江”が流れている。この江の4時間余の“川下り”も圧巻である。九馬画山、童子拝観音等々名づけられた、それぞれ異なる山容をまじかに見ながら、遊覧船で下る。まさに「百里の漓江、百里の画廊」である。

桂林から西安に向かう機中で、偶々隣の席の若者たちと片言の会話をする機会があった。十数人の団体であった。聞くと、長安美術大学の学生たちで、桂林で写生をした帰りという。「やはり景勝の地であった」と納得した次第である。

作者の韓愈について:

韓愈については、先にちょっと触れたことがある(閑話休題112)。“推敲”という用語の生みの親である。

792年(25歳)に進士に及第、諸官を歴任している。崇仏皇帝とも称される皇帝・憲宗が、ある寺院の仏舎利を長安の宮中に迎え、供養することになった。それに対して韓愈が激しく諫めた。

これが皇帝の逆鱗に触れ、潮州刺史に左遷された(819、51歳)。「朝に上奏したら、夕べには左遷された」と憤慨する詩を残している。潮州は、遥か南方、広東省の東部、南シナ海に面した所である。そこに韓愈の祠があるという。

この諫言は、六朝から隋唐にかけての崇仏の傾向を排斥し、中国古来の儒教の地位を回復しようとする彼の「儒教復興」の姿勢・思想と繋がるものと言える。この思想はまた、後述の「古文復興運動」と表裏をなしている。

翌820年、憲宗が死去し、穆宗が即位すると、複権して、枢要な官を歴任している。824年、57歳で死去し、礼部尚書を追贈された。

詩文の分野における韓愈の特筆すべきことは、「古文復興運動」を興したことである。当時主流であった艶麗な駢儷文(閑話休題109参照)を批判し、秦漢以前の文を範とした達意の文体を提唱した。唐宋八大家の第一に数えられている所以である。

ただ、新奇な語句が多く用いられる傾向にあり、難解な詩風とも評されている。柳宗元はこの運動に共鳴して活躍し、両者は「韓柳」と並称されているようである。さらに贾島や孟郊など多くの「韓門の弟子」と称する詩人たちが排出した。

この運動は大きなうねりとなって宋代に繋がっていく。因みに“唐宋八大家”とは、唐代の韓愈と柳宗元に、宋代の欧陽脩、蘇洵、蘇軾、蘇轍(蘇軾の弟)、曽鞏および王安石を加えた八人をいう。
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