時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

クリスマスに集う聖ヒエロニムス

2013年12月25日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Georges de La Tour (1593-1652)
Saint Jerome Reading
Oin on canvas, 79x65cm
Madrid, Museo del Prado
イメージ拡大はクリック 

 

 

  老人が拡大鏡で手紙らしき書類を読んでいる。身につけている朱色の衣が美しい。この画像、以前にも掲載したことがある。慧眼の方は、ひと目見ただけで、ラ・トゥールの作品ではと気づかれた方もおられよう。この画家の数少ない作品の中では、最も最近時点で「発見」され、専門家の鑑定を経て、画家の真作と認知された。それまで長い間、マドリッドのセルバンテス研究所の壁に、ながらく誰の作品とも確認されることなく掲げられていた。

 この作品が年末、初めて画家の生地ヴィック・シュル・セイユのジョルジュ・ド・ラ・トゥール美術館に置いて展示された(9月1日ー12月20日)。今年、フランスでも多数の展覧会が開催されたが、その中でも特筆に値する展示のひとつとされた。

 17世紀の宗教画に詳しい方は、この画像が聖ジェローム(聖ヒエロニムス Saint Jerome Latin: Eusebius Sophronius Hieronymus; c. 347 – 30 September 420)を描いた一枚であることに気づかれるだろう。2005年に偶然、マドリッドで発見された時、美術界のメディアが世界にそのニュースを伝え、何人かのブログ読者の方もご親切に知らせてくださった。その当時は、ほとんどラ・トゥールの作品ではないかと専門家は直感したが、これまで模作、偽作のうわさが絶えなかった画家だけに、直ちに真作との評価はなされなかった。
 
  その後、プラド美術館へ作品が移され、詳細にわたる鑑定が進み、ラ・トゥールの作品目録に新たな一枚が加えられた。ラ・トゥールはその生涯でかなりの数の「聖ヒエロニムス」を描いたと思われるが、今日の段階で真作と確認されているのは、この度の真作を加えても4枚である。その4枚すべてが、画家の生地を記念して立てられた美術館に集められた。プラド美術館の作品は、今回の展覧会で初めてマドリッドを離れ、公式に画家の生地にお里帰り?したという点でも大きな意味がある。

 この展覧会では、その他にも、画家の失われた真作の模作と思われる作品などもあり、その多くが集められた。上記4枚の真作とは、このプラド蔵の作品に加え、このブログでも再三記してきたブルノーブルおよびストックホルムの美術館が所蔵する悔悛する聖人が自らの身体を鞭打つ場面を描いた2枚(一枚は宰相リシュリューに贈られた)およびイギリス王室のコレクション(ハンプトンコート蔵)に含まれるこのたび発見された真作と同じ主題の「手紙を読む聖ヒエロニムス」である。

 ハンプトンコートの作品と比較して気づくことは、画面の背景に一段の工夫が見られることである。ハンプトンコートの作品は、画面中央部で左右に濃淡が分かれているが、このプラドの作品は斜めに濃淡のある背景となり、特定の場所を思わせる深みのある空間を構成している。さらに、ヒエロニムスの読む手紙もさらに精緻になり、紙面を通して写る文字が読めそうな思いがする。髪の毛や髭の描写も、この画家の特徴として絶妙なものがある。

 聖ヒエロニムスは、聖職者、神学・聖書学者など学者、智の人という側面と自らを絶えず厳しく律する悔悛の人というふたつの側面を持っている。ラ・トゥールもこの聖人の二つの側面をそれぞれに描き分けている。このたびの展覧会には、その二つの側面が描かれた作品が勢揃いした。

 このイギリス王室所蔵ハンプトンコートの作品も、ラ・トゥール研究史上エポックを画した1972年の展示以来、作品の状態が公開には適さないということで長い時間の空白の後に公開展示の場に出たものである。この作品をめぐっては、クリストファー・ライトなどの美術史家の間で、ラ・トゥールの真作か否かをめぐっての論争もあった。グルノーブル、ストックホルムの2枚は、過去50年近い年月の間に何度か、並んで展示されたことがあった。

 ヴィックのような小さな町の美術館で、これだけの素晴らしい展覧会が開催されたのは、設立以来美術館に多大な支援を行ってきたルーヴルのおかげであり、とりわけ今回の展示のコミッショナーを務めた有名な美術史家ディミトリ・サルモン Dimitri Salmonの功績によるものである

 画題が聖人という地味なものだが、ラ・トゥールが得意とした赤色系(ヴァーミリオン)が広く使われ、クリスマス・シーズンに鑑賞するにもふさわしい作品といえる。

  



 展示された作品の多くは、プラドの一枚を除くと大変よく知られたものだが、カタログはDimitri Salmonの他にもHoch Philippe, Laurent Thurnherr, dominique Jacquot, Gabriel Diss, Chiristopher Wright, Elizabeth Ravaud, Iwona Chardel and Marie Goormaghtigh などの研究者がエッセイを寄せており、研究者、愛好者にとっては貴重で大変喜ばしいものになっている。

Sous la direction de Dimitri Salmon, Saint Jérôme & Georges de La Tour , IAC éditions d'art, 2013, 288 p., Editor Dimitri Salmon, Saint Jerome & Georges de La Tour, IAC Art, 2013 288 p., ISBN : 978-2-916373-66-9.

 

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二人のヨハネを結ぶもの

2012年05月01日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 

 Hendrick Terbrugghen
(Deventer 1588-Utrecht 1656)
San Giovanni Evangelista
Olio su tela,, cm 105 x 137
Torino, Galleria Sabauda
Inv. 100, cat. 462

ヘンドリック・テルブルッヘン
『聖ヨハネ福音書記者』

 





  ジョルジュ・ド・ラ・トゥールという画家と作品に魅せられてから、この画家に関する通説・俗説?にかなり違和感を覚えたこともあった。そのひとつは、画家のイタリア修業に関わる仮説だ。かなりの美術史家がラ・トゥールのイタリア修業を、当然のように考えていた。そのため、画家の背景にうとい普通の人々は疑問を抱くことなく、そのまま受け入れてしまう。この仮説は、とりわけ、カラヴァッジョの影響をめぐって生まれた。だが、ラ・トゥールのイタリアでの修業や遍歴の旅を示す文書記録のようなものは、発見されていない。画家自身もイタリアへの旅を示唆するような事実をなにも残していない。

 カラヴァジェスティの範囲をどこまでにするかも、慎重に考えるべきだろう。この時代の画家の誰もがカラヴァッジョの影響を受けたわけでもない。また、その伝播 diffusionの道もさまざまであったと思われる。

 他方、カラヴァジェスティの研究が進むにつれて、北方ネーデルラント、とりわけユトレヒト・カラヴァジェスティとの関連で、新たな可能性が開かれてきた。その概略は、このブログにもメモ代わりに記してきた。ラ・トゥールは、恐らくロレーヌからはさほど遠くないユトレヒトへは、旅をしたに違いないという思いは、管理人の推理としても次第に強まってきた。ラ・トゥールを仮にカラヴァジェスティ(この点も早急な決めつけが多い)とするならば、イタリアの光の下ではなく、北方ネーデルラントの光の下であったに違いないと思う。

 最近、2003年に北イタリアのトリノで開催されたジョルジュ・ド・ラ・トゥールとカラヴァッジズモの企画展カタログを眺めていて、その感は一段と強まってきた。この企画展に展示されたラ・トゥールの作品は、ニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵する『女占い師』 La buona ventura  のわずかに1点であった。ちなみにイタリア語 (La buona ventura は「幸運(を告げる人)」を意味する)。他方、展示された作品は、ほとんど主催者のトリノのサバウダ美術館所蔵のカラヴァジェスティとみなされる画家の作品であった。

 その中で改めて惹きつけられた1点があった。ヘンドリック・テルブルッヘンの手になると考えられる、上に掲げた『聖ヨハネ 福音書記者』 San Giovanni Evangelista を描いた作品である。テルブルッヘンの作品の中では、殆ど紹介されていない。研究者の間でテルブルッヘンへ帰属することに異論を唱える研究者もいるようだ。イタリアの画家などが挙げられている。しかし、管理人にとっては、仮にテルブルッヘンに帰属しないとしても、ユトレヒトなどの北方画家の作品であるとの印象が強い。

 この聖ヨハネは、キリストの12使徒のひとりで、第4の福音書の著作者とされる。さらに、伝承によれば「ヨハネの黙示録」の作者でもあるらしい。人物像として構成するのが困難なほど、不明な点が多い人物でもある。

 伝承によれば、ヨハネはドミティアヌス帝により、小アジアのエーゲ海の小島バトモスへ流され、そこで黙示録を書いたと信じられてきた。テルブルッヘンによるこの作品は、その場面をイメージし、主題としたものだろう。本はこのヨハネのアトリビュートのひとつとされてきた。

  ちなみに、ラ・トゥールが描いた『荒野の洗礼者聖ヨハネ』 Giovanni Battistaとは別の使徒である。こちらはバプテスマのヨハネともいわれ、キリストの先駆者または「使者」とされる。旧約と新約をつなぐ役割を果たす人物である。
 
 テルブルッヘンの描いた使徒聖ヨハネは、かつて洗礼者聖ヨハネの信仰上の追随者であった。そして、キリストの洗礼 バプテスマ(“Behold the Lamb of God”)に立ち会った。さらに、ユダヤの大祭司カイアファ(カヤパ)によるイエスの審問に立ち会った唯一の使徒でもあった。

 ヘンドリック・テルブルッヘンとジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、ユトレヒトとロレーヌという活動の場は違いながらも、ほとんど同時代人であった。洗礼者聖ヨハネとキリストは、生年がヨハネの方が半年ほど早かったといわれている。異なったヨハネを描いたこの二枚の作品、対象も画家も異なるとはいえ、明らかに時代の流れの中でしっかりとつながっている。

 

 
 La buona ventura
Di Georges de La Tour
e aspetti del caravaggismo
nordico in Piemonte
Electa: 2003

 

 

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よみがえるラ・トゥール

2012年04月19日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

輝きを増す作品

  ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、今日に残る作品がきわめて少ない。17世紀、この画家が生まれ育ち、主たる制作活動の地としてきたロレーヌが、戦乱、悪疫、飢饉などによって、荒廃のきわみを経験したことによる。当時は人気画家だっただけに、実際の制作数はかなり多かったのではないかと推定されている。 

 幸いにも今日まで残った40点余の作品は風雪に耐え、「再発見」されて、今日燦然と光彩を放っている。ひとつの問題は必ずしもこの画家に限ったことではないが、作品をめぐる真贋論争が絶えないことだ。その背景にはいくつかの理由がある。この画家はしばしば同じ主題をさまざまな構図で試みたこと、いくつかの人気テーマについては多くのコピー(模作)がラ・トゥールの工房を含め、複数の画家により制作されたこと、工房で息子エティエンヌが制作過程の一部あるいはすべてに関わった作品が存在する可能性が残るなど、発見された作品と画家の帰属(同定)が難しい。

 作品に年記、署名が必ずしも加えられなかった時代である。今回のミラノ展カタログでは、画家の署名・書体の探索にかなり力が入ったエッセイが含まれ、興味深い。別に真作でも、コピーでも素晴らしい作品は率直に素晴らしいと思うのだが、美術史家・鑑定家、画商などの世界では、コピーになると、作品の美的評価まで大きく下落するようだ。

 幸い画家が活動していた時代などの記録があっても、所在が不明であった作品が、今でも世界のどこかで発見されることがある。このたびのミラノ展でのカタログを読んでいると、これまで帰属不明あるいは数年前に発見された作品が真作と認定されていることに気づいた。認定といっても、専門研究者がさまざまな観点や時に思惑も含め真作と鑑定するため、すべての研究者、専門家が同意しているとはかぎらない。

 その中でほぼ確実と思われる作品を紹介しておこう。いずれも、ラ・トゥール研究の第一人者であるDimitri Salmonの論文に記されている。

 第一は、マドリッドのセルバンテス研究所で、長い間誰の作品か特定されることなく放置されてきた作品である。この作品については、2006年発見当時の事情をブログに記している。当時のブログの読者の方も知らせてくださった。この『手紙を読む聖ヒエロニムス』は、セルバンテス研究所の所内に誰の作品ということも確認されることなく、掲げられていたらしい。この研究所の内部を知る知人の話では、制作者未確定の作品はまだあるらしい。ラ・トゥールの作品と同定された後、今はプラド美術館が所蔵することになった。ラ・トゥールが好んで描いた主題であり、ルーヴル所蔵の同定されていない作品を含め、類似の作品がいくつか存在する。このたび真作とされているプラド所蔵の作品は、保存状態も良好のようで、聖ヒエロニムスの赤色の上着が美しい。プラドまで飛ぶのは一寸厳しいが、いずれどこか近くの企画展などで、対面できればうれしいことだ。

 

Georges de La Tour, San Gerolamo, olio su tela, 79 x 65 cm.
Madrid, Museo National del Prado
(T-5006), deposio del Ministerio de Trabajo y Asuntos Sociales


主題が類似の作品


Da Georges de La Tour, San Gerolamo, olio su tela,122 x 93cm.
Parigi, Musee du Louvre




Bottega di Georges de La Tour?,  
San Gerolamo che legge,, olio su tela,
95 x 72cm, Girmato in basso a sinistra.
Nancy, Musee Lorrain



 第二は、「アルビ・シリーズ」として知られてきたキリストと12人の使徒を描いた作品の中で、「聖大ヤコブ」を描いた作品(現在ニューヨークの個人所蔵)が、漸く真作と認定されたようだ。これも、作品の状態は良好のようだ。



Georges de La Tour, San Giacomo Maggiore, olio su tela,
65 x 52 cm, New York, collezione private

 

  この作品が真作と認められると、「アルビ・シリーズ」の13枚の現在の状態は、世界レベルで見ると、真作5点、模作(イメージあり)6点、逸失(イメージ不明)2点ということになる。真作と模作の双方が存在するものもある。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『キリストと12使徒』シリーズの
状況。着色部分は真作、それ以外は模作。
この他、キリストを描いた作品(模作)、聖パウロ(模作)、いずれも
アルビ、市立トゥールーズ・ロートレック美術館所蔵以外は逸失。

聖アンデレ(真作)、聖ペテロ(模作)、聖トマス(真作)
聖ユダ(タダイ)、聖ピリポ(真作)、聖マティア(模作)
聖シモン(模作)、聖大ヤコブ(真作)、聖パウロ(模作)

Tavola della rovosta "L'Amour de l'art", n.9, 1946.
Georges de La Tour A Milano (2011-12).


 ちなみに、今回のミラノ展カタログでは、真贋論争が激しかったあのイギリスのレスター美術館が所蔵する『歌う少年』 The Choirboy も、真作とされている。大変美しい作品であるだけに、世俗の雑音を超えて楽しみたい。

 



 
Dimitri Salmon. L’”invenzione” di Georges de La Tour.
o le tappe principali della sua resurerezione

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おくるみに包まれたイエス

2012年04月10日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『羊飼いの礼拝』油彩、ルーヴル美術館(部分)
Georges de La Tour. L'Adoratione dei pastori, particolare, olio su tela.
107 x 137 cm. Parigi, Musée du Louvre.
画面クリックで拡大します。



 
16-17世紀、 『羊飼いの礼拝』は大変人気のあるテーマで、多くの画家が主題に取り上げてきた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの『羊飼いの礼拝』(上掲は部分)
を最初見た時、他の画家の同じ主題の作品とはかなり異なるほのぼのとした雰囲気が画面から伝わってきた。画面全体に素朴な雰囲気が漂っている。当時のイタリア絵画に見られたように華やかでもなく、装飾的なものはほとんど描かれていない。他の画家の作品のように、幼子イエス自らが光を発しているわけでもない。

 右側のヨセフが右手に掲げ、左手で遮る蝋燭の光の中に、5人の男女が描かれている。画面の真ん中には白いおくるみに包まれた幼子が眠っている。左に描かれたマリアとみられる女性は、ただひとり手を合わせ、祈っている。彼女はこれまでに起きたことすべてを、全身で受け止めようとしているようだ。

 さらに右手には二人の羊飼いが光に照らし出された幼子をみつめている。ひとりは帽子に手をかけ、尊敬の念を示している。よく見れば、羊もイエスに敬意を示すかのように、藁を一本くわえて顔を出している。そして召使いの女性が、水の入ったボウルを差し出している。イエスの義父となったヨセフはなにを思っているのだろうか。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『羊飼いの礼拝』(部分)。  

どこにもいるマリア
 マリアの容姿、衣服にしても、他の多くの画家の作品のように、いかにもイエス・キリストの母であるかのように、厳かにあるいは華やかな衣装を身につけているわけではない。当時のロレーヌならば、どこにもいたかもしれないような普通の女性に描かれている。これはイエスの義父であるヨセフについても同様だ。ひとりひとりを見れば、普通のロレーヌ人としか見えないだろう。

 その中で、この作品を見る人の視線は,光に照らし出された幼子イエスに集まる。真っ白なおくるみにしっかりと包まれた幼子は、これ以上にないほどに可愛く描かれている。画家は最大の努力をここに注ぎ込んだのだろう。筆者が注目するのは、このおくるみだ。あの『生誕』のイエスも、同じようにしっかりとおくるみで包まれていた。他の画家の場合、この生誕にかかわる主題では、イエスは誕生したままに衣服をつけることなく、描かれていることが多い(もちろん、例外はカラヴァッジョを含め、いくつかある)。しかも、イエス自ら光を放ちながら、躍動するかのように描かれていることが多い。しかし、ラ・トゥールのイエスは安らかに眠っており、画面は静止したかのような厳粛な雰囲気が漂っている。

 イエスがおくるみでぐるぐるに包まれていることについては、医学的にもこの方が安心して静かに眠れるからという当時の慣習のようだ。その真偽のほどは分からないが、少なくも17世紀当時のロレーヌの生活の一端を知ることができる

トレント公会議の影響 
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールがおくるみにくるまれたイエスを描いたことについては、別の理由もあるように思われる、この画家は主題について深く考え、他の画家とは大きく異なった角度から斬新な解釈を行ってきた。

 ラ・トゥールはなぜ、イエスにおくるみを着せたのだろうか。これについて、筆者は画家が、トレント(トリエント)公会議(1545-1563)の示した方向を十分斟酌した結果であろうと思っている。プロテスタントの激しい攻撃に対して、ローマ・カトリック教会側はトレント公会議でプロテスタントの指摘する諸点を検討し、巻き返しを図った。いわば、カトリック布教の戦略会議であった。さらに、ラ・トゥールが活動したロレーヌは、カトリック改革におけるいわば前線拠点であった。画家はトレント会議の布告についても熟知し、深く考えていたのだろう。

 美術はカトリックにとっては布教上の重要な手段であった。公会議は美術のあり方についても布告を発し、「聖性」、宗教的意義の表現は、聖書記述あるいは聖人の生活の正確な表現であるべきことを指示した。過剰な表現や不必要に華美な装飾などを禁じた。神学者の中には、布告をさらに具体化して細部に言及、いかなる表現ならば受け入れられるかを示したものもある。その中には人体の裸体描写の禁止もあり、幼いイエスの場合も含まれることがあった。

 ラ・トゥールの作品は、徹底して不必要な描写を省き、必要と考える部分は詳細に描いた。『羊飼いの礼拝』においても、人物の背景には一切なにも描かれていない。しかし、安らかに眠るイエスは、世界で最も可愛く描かれた赤子といわれるほど、見事に描かれている。ちなみに、
『羊飼いの礼拝』は、ラ・トゥールの作品の中で最初にルーヴルに入った名品である。


このおくるみに包まれたイエスのイメージは、15世紀初めから存在するようだ。
Luca Della Robbia. Bambino fasciato, 1420, terracotta policroma. Firenze, Ospedale Degli Innocenti.
Catalogue, p.114.

 



#羊飼いの礼拝
 ルカの福音書2章8-16節
8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12 あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。

 

 

 

 

 

 

1

 

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ミラノへ行った「羊飼いの礼拝」

2012年04月06日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 

 

  初めてジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「羊飼いの礼拝」が「大工聖ヨセフ」とともに,イタリアで展示された。2011年11月8日から2012年1月8日の間、Palazzo MarinのAlessi Roomを会場として企画展が開催された。ルーヴル美術館の協力に加え、ミラノの財力を反映して、入場料は無料であった。なんともうらやましい話だ。

 17世紀を代表する大画家のひとりジョルジュ・ド・ラ・トゥールが、その生涯においてイタリアへ行ったか否かという問題は,この画家に関する重要な美術史上のテーマである。しかし、今日にいたるまで決着はついていない。筆者は長らくこの画家に関心を寄せてきたが、少なくも修業の段階ではイタリアへ行っていないと思っている。

 しかし、作品は画家の生きた17世紀から今日まで、比較的自由に地球上を移動してきた。ミラノでこれまでラ・トゥールの作品を見る機会がなかったのは、大変珍しいことだといわれている。

 今回の企画展の目玉となった上記の2点「羊飼いの礼拝」(関連記事)、「大工聖ヨセフ」については、このブログでも紹介してきた。愛好者として楽しみなことは、こうした企画展などが開催されるごとに、それまでの新たな発見や研究成果を知ることができることだ。今回の展示会のカタログを見ても、 ピエール・ロザンベール、ガブリエル・ディス、ディミトリ・サルモン、アンネ・ランボール、クリストファー・ライトなどの研究者が、エッセイを寄せている。それらの中には新たな発見の片鱗なども含まれ、興味深い読み物になっている。ブログでも、折にふれてすこしずつ紹介することにしたい。

今回は、企画展の概略を示す動画とカタログの概略を記しておこう。

 Adorazione dei Pastori









GEORGES DE LA TOUR A MILANO

L’Adorazione dei pastori
San Giuseppe falegname

Esposizione straordinaria dal Museo del Louvre
a Palazzo Marino
Sala Alessi, 26 novembre 2011-8 gennaio 2012
Milano: SKIRA, 2012, pp.203.

Sommario
Alla Gloria di Georges de La Tour
Pierre Resenberg, dell’Académie francaise

Georges de La Tour e la Lorena del Seicento
Gabriel Diss

”L’invenzione” di Georges de La Tour o le tappe principali della sua resurrezion
Dimmitri Salmon

Firme e attribuzione: la questione della bottega
Anne Reinbold

Georges de La Tour,genio solitario, IL viaggio, l’Italia
Anna Ottani Cavina

Il San Giuseppe falegname e L’Adorazione dei pastori del Louvre: due capolavori di Georges de La Tour
Dimitri Salmon

Arte non impetus: Georges de La Tour, I suoi modelli e un autoritratto?
Mauro Di Vito

I due san Giuseppe di Georges de La Tour: teologia, devozione e collegamenti con l’Italia rinascimentale
Carolyn C. Wilson

Georges de La Tour a la sxienza del fagotto, Storia della fasciatura neonatale nella Francia del XVII secolo
Annarita Franza

Bari, vagabondi, santi e maddalene: la verita a lume di candela, fra poesia, romanzo picaresco
e vita quotidiana, nell’universo di Georges de La Tour
Vittorio Maria de Bonis

Georges de La Tour: unico pittore del lume di candela?
Christopher Wright

Due notturni di Georges de La Tour: la material in questione
Elisabeth Martin

Indagini scientifiche 2011
Elisabeth Martin

Una candela nel buio: luci e ombre nella pittura di Georges de La Tour
Claudio Falcucci, Simona Rinaldi

Adoremus
Valeria Merlini, Daniela Storti

Georges de La Tour, cenni di cronologia
Dimitri Salmon 

L’allestimento



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現代に生きるラ・トゥール

2011年02月27日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 いつも楽しく拝見しているあるブログに、大変興味深い記事が掲載されていました。17世紀ロレーヌの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品が、今日の日常生活に生きていることを示す光景です。

 この画家、日本での知名度はいまひとつですが、海外ではさまざまな芸術的発想が生まれる源になっています。その範囲は絵画にとどまらず、文学、音楽など多方面にわたっています。

 たとえば、次の図はある著名な作品をデフォルメした現代の作家の作品の一部です。さて、原画となっているのは、何でしょうか。答
はこのブログ内の記事に。




Georges de la Tour  LE TRICHEUR, par Pol Bury. ideas et calendes, La Bibliothéque des Arts.





Reference
絵画分野におけるラ・トゥールの影響を知るひとつの資料として
ディミトリ・サルモン「ラ・トゥールに基づいて」『カタログ;ジョルジュ・ド・ラ・トゥール 光と闇の世界』東京、国立西洋美術館、2005年

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この地は訪れただろうか

2010年10月23日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 

 

Georges de La Tour. Magdalene with a document.c.1630-1635 (or 1645-1650)
 Signed, 78 x 101, private (Houston).
 この作品、ほとんど公開の企画展などに出展されたことがない。長らくフランスの個人、そして今は海を越えてアメリカの個人の所蔵になっているためである。アメリカでもなかなか見られない。2005年の東京展でご覧になった方はきわめて幸運であった。

  単に描かれた作品の表面を眺めているかぎり、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールという画家はどんな世界に生きていたのか、ほとんど知る由もない。この画家はしばしば「昼と夜の画家」、「光と闇の画家」などの形容句で知られるが、実際には昼を描いたと思われる作品でも、背景にはほとんどなにも描かれていないし、「夜」の作品でも侍女の掲げる松明や机の上の燭台、どこから射し込んでいるとも分からない光などがあって、かろうじて夜ではないかと思うにすぎない。

  さらに、わずかな手がかりなしには画家がいつの時代にどこで生き、なにを目指したかについてすら困難を感じるほどだ。その意味で時代も空間も明かにされていない。しかもこの画家は自ら進んでそうした設定をしている。時代と空間を超越しているのだ。作品イメージはきわめて古典的に思えるが、上掲の作品のように、現代の画家が描いても不思議でないような目を奪うような新しさを感じさせる作品もある。後世の美術史家たちから 「現実
(主義)」の画家と評価されながらも、画家は自分が最低限必要と思った部分しか描いていない。やや時代は下るが画家フェルメールが、室内の調度や人物を最大限、精緻に描き込んでいるのと対照的だ。

  わずかに残る断片的史料、それも画家本人のものではない者のいわば映画のワン・ショットに近いような史料の切れ端のような部分から、文書の欄外に記された誰かのメモなどから、この画家はしばしば世俗の世界では横暴、強欲な人物のように評価もされている。しかし、画家の深い精神的沈潜に充ちた作品とそうした評価の間に横たわる断絶はあまりに遠く離れ、結びつけて理解するには、作品を見る側が目を閉じて大きな断崖を跳ばねばならない。埋められるべきものは、あまりに多い。

  画家がその生涯で確実に訪れた場所も、残された史料で判断するかぎり、生まれ育ったヴィック=シュル=セイユという小さな町、その後工房を置いて活動したと思われるのリュネヴィル、主として戦火を避けたナンシー、そしてパリぐらいなのだ。しかし、修業時代、戦禍や悪疫を逃れて彷徨した地は恐らくそれだけに限られていなかったはずだ。優れた騎馬の使い手であった画家は、修業時代を含め、実際にはロレーヌを拠点にかなりの範囲を旅して見聞を広めていると思われる。しばしば戦火や疫病に追われ、家族ともども逃げ惑ったこともあった。いつ襲ってくるともしれない外国の軍隊や悪疫の恐怖に落ち着かない時を過ごしながらも、当時のヨーロッパの画壇の流れを知る上でも、この希有な画家はかなり多数の他の画家の作品に接し、学び、自らの思索を深めたはずだ。

 

アルザス・ロレーヌ、ヴォージュ地方、ラ・ブレッセの町(かつては繊維産業で栄えた)。

Photos: Courtesy of  me. G.J.

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火を吹いて酷暑を忘れる

2010年07月28日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋


 気象情報が記録的猛暑かと予報するある一日、かねて予定していながらなかなか機会に恵まれなかった『カポディモンテ美術館展:ナポリ・宮廷と美』(国立西洋美術館)に出かける。この美術館自体は一度訪れたことがあるのだが、その華麗さには感銘したが、さほど強く印象に残る作品には出会わなかった。まだ若い頃で関心の在処も今と異なり、他に見たい所が多数あったことに加えて、南国の気候が影響して少し集中力を欠いていたのかもしれない。その注意力不足の一端を図らずも今回発見した。



エル・グレコ 『燃え木でロウソクを灯す少年』
Domenikos Theotokopoulos El Greco.
Ragazzo che accende und candela con un tizzone (El soplón)
1570-72, oil on canvas , 60.5 x 50.5cm Q192



 今回の美術展で、展示されているこの小品を見た時、即座に思い出したのが、下に掲げるラ・トゥールの「火を吹く少年(坊や)」と題する作品だ。この「火を吹く少年」のテーマが当時のバセロ家の好みで、ルーベンス、テルブルッヘンなども同種の作品を制作していることは知っていた。大きな宗教画などの大作は購入できないまでも、裕福な個人が家族の心のゆとりと豊かさを求めて制作を依頼したのだろう。特に、宗教上の理由があるとは思えない。少年が暗闇の中で、手で風を避けながらランプの火を吹いておこしているだけの光景だ。しかし、目を細め、口をつぼめて無心に火を吹いている表情がなんともほほえましい。わずかな光に映し出された衣服の陰影も美しい。ラ・トゥールの作品らしく、闇と人物の調和が絶妙だ。居間にでも一枚架けられていたなら、さぞかし心も和むことだろう。

 このラ・トゥールに帰属する作品は、1960年、セムル Semurで個人の所蔵品の中から発見され、19世紀末までその家が所有していたが、1968年にラ・トゥールという画家を歴史の闇から救い出した、あの
ヘルマン・フォス Hermann Voss が、ラ・トゥールの真作と鑑定。その年ブランヴィル家(Pierre & Kathleen Branville)が取得し、同年のオランジェリー展にも出品された。筆者はここで初めて、この坊やに対面したことになる。

  他方、上掲のエル・グレコの作品、現地で見た記憶はどうもない。改めて来歴を見てみると、画家の確定を含めて、かなりの変遷をしたようだ。ローマのファルネーゼ家のお抱え画家ジュリオ・クローヴィオに帰属されていたが、その後、フランス軍の略奪、ローマの美術市場での発見された後、ホントホルストの作品ともされた。確かに、ホントホルストとしてもおかしくない。ヴェネツイア派のヤーコポ・パッサーノに帰属されたこともあったようだ。

  その後、1852年になってエル・グレコの作として帰属された。エル・グレコは1570-72年頃に、ローマのフアルネーゼ宮に滞在しており、その当時の作品とみられる。

  このエル・グレコの作品は、下掲のラ・トゥール作品よりも光の効果が多用されている。燃え木の光が少年の容貌、衣服の細部を微妙な影を伴って映し出す情景は、なんとも美しい。宗教的含意などは感じられないが、光の持つ効果が最大限に試みられている。



ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『ランプの火を吹く坊や』
Georges de La Tour. Le Souffleur a la Lampe.
A Boy Blowing on a Charcoal Stock
Musée des Bealux-Arts, Dijon (Granville Bequest)
Oil on Cambus 61 x 51 cm, Signed [Or. 16]

 同じテーマを扱いながら、エル・グレコの作品も、ラ・トゥールの作品もそれぞれの画家の画風の差異が明瞭に感じられて、甲乙つけがたい。この二枚の作品の文化史的関連について、管理人はひとつの仮説を持っているのだが、長い話になるので今回は省略する。いずれにせよ、酷暑を避けて、暑さしのぎに出かけた美術館で、火を対象として描いた作品を眺めていたが、暑さなどすっかり忘れていた。格別の銷夏法だった。

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絵が日の目をみるまで

2010年05月10日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 最近、ニューヨークのオークションで、スペインの画家パブロ・ピカソ(1881―1973)の油絵「ヌード、観葉植物と胸像」が、1億648万2500ドル(約100億円、手数料込み)で落札されたと、競売業者クリスティーズが発表した。同社によると、美術品としては過去最高額とのこと。 この作品は縦162センチ、横130センチの油絵で、1932年3月8日に当時の恋人だったマリテレーズをモデルに1日で描き上げられ、官能的な描写が特徴とされる。絵画は昨年11月に死去したロサンゼルスの実業家夫人のコレクションの一部であった。第2次大戦後は一度しか展示されたことがなく、関係者の間では“幻の名作”として知られていた。50年以上も公的な場に出ることはなかったのだ。 

 クリスティーズは落札者を明らかにしていないが、電話での入札という。同社によると、競売にはロシアとアジアのある国を含む8人が参加し、落札予想額は7千万~9千万ドルだった。画商に近い知人の話では、この頃は中国人の富豪などが落札している場合も多いという。


Pablo Picasso. Nude, Green Leaves and Bust.1932.
 
  このピカソの作品、制作された後、チューリッヒの美術館が所蔵していたが、1951年海を越えてアメリカへ渡り、ロスアンジェルスの土地開発業者シドニー・ブロディ夫妻が取得し、同夫妻のモダーンな邸宅に飾られていた。昨年11月にブロディ夫人も世を去ったため、他の26点の美術品とともにオークションにかけられた。2億2400万ドルという個人の美術品売却額としては、史上最高の額となった。

 多くのファンが見たいと思っても、個人のコレクションになってしまうと、特別の機会でないと見ることもできない。作品が私蔵されてしまうことは問題だ。こうした状況を生む美術作品の市場や公共性については、考えさせられる点は多いが、論点が多すぎて、ブログには書きにくい。少しずつ解きほぐしてゆくしかない。

 この話を読みながら、ラ・トゥールの『いかさま師』、『女占い師』が、フランスからアメリカへ移った話を思い出した。とりわけ、『女占い師』 The Fortune Teller をめぐる経緯だ。この作品は、現在ニューヨークのメトロポリタン美術館が所有している。作品が最初に発見されたのは、ひとりのフランス人アマチュア美術愛好家ジャック・セリエ Jacques Celier の記憶と努力の成果だった。第二次大戦中にドイツ軍の捕虜となっていたセリエは、抑留中に差し入れられたラ・トゥールにかかわる書籍を読み、叔父の田舎の邸宅で、この画家ではないかとみられる作品を見たことを思い出した。彼は戦後解放されるやすぐに、叔父の家を訪れ、作品を確認し、その重要さを知らせた。

 1948年に叔父が死んだ後、ルーブル美術館と美術商ジョルジュ・ウィルデンシュタインGeorges Wildenstein が、この作品の取得をめぐって競いあった。結局、ウイルデンシュタインが競り勝ったのだが、1949年時点での購入価格は750万フランといわれていた。その後長い間、作品は一般の人たちの目前には現れなかった。長らく忘れられ、再び話題に上ったのは、1960年にニューヨークのメトロポリタン美術館へ売り渡された時だった。しかし、その購入価格は「きわめて高額」といわれただけで今日まで明かされていない。米仏の紛争のほとばりもさめた今、そろそろ公表されてもよいのではないかと思う。

  この売却をめぐって、大西洋の両側で別の騒ぎも起きた。フランスでは、こうした素晴らしい作品がフランスを離れ、新大陸へ移ることに強い反対の声が上がった。当時のフランス文科相アンドレ・マルローが議会で経緯を説明させられるまでになった。ジャーナリズムが格好のトピックスとして取り上げる傍ら、アメリカではメトロポリタンは贋作をつかまされたのではないかという騒ぎも起きた。 こうした論争はラ・トゥールの他の昼光の作品『カード・プレーヤー』(アメリカ・フォトワースのキンベル美術館、ルーブル美術館が各一点所有)にまで拡大した。

 ひとつの疑惑は1940年代頃に行われたある贋作師の手になるものではないかということであった。 論争は続いたが、その後の歴史的・科学的調査の結果、これらの作品がラ・トゥールの手になるものであることについては、専門家の評価もほぼ一致している。この贋作論争も画壇や美術史家間の泥仕合のような所も感じられるのだが、一時はかなりの注目を集めた。論争には興味深い点も多々あり、美術業界の暗黒面を垣間見せてもくれる。いずれにせよ、当の画家にとっては関係ない迷惑な話だ。

  この作品『女占い師』の意味するところは明らかだが、隠れた含意としては「放蕩息子」prodigal son あるいは劇場の一場面という解釈もある。 17世紀美術が興味尽きないわけのひとつは、画家や作品の provenance (出所、由来、履歴など)が十分確定できないことが多く、後世さまざまな推論が生まれることだ。同じ時代で、ラ・トゥールなどよりもはるかに史料などの情報が豊富に蓄積され、知見が充実、定説が確立したと思われているレンブラント、フェルメールにしても、最近次々と新発見、新説が現れている。あたかもミステリーを読んでいるような雰囲気がある。専門でもない変な分野に首を突っ込んでしまったなあと思いながらも、飽きることなく続いている。

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闇を王国にした画家

2010年03月22日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Il fit de la nuit son royaume (Pacal Quignard) 


 今さらこの世界の明日を見たいとは思わない。そればかりか、もうかなり見てしまったような感じすらしている。他方で、少し遠く過ぎ去った時代を見てみたいという思いだけはかなり以前から次第に強まっていた。見てみたいのは、さほど近い過去ではない。人間の声やざわめきがすぐには聞こえてこない、それでいてあまりひどく遠くない時代だ。曰く言い難いが、遠からず近からぬ距離を置いて、冷静に時代を考えることができるという意味である。

 そうした思いは、いつの間にか17世紀の空間に収まっていった。近世初期 early modern ともいわれる時代にあたる。ルネッサンスと啓蒙時代の間にあって、さまざまに揺れ動き、先の見えない時代でもあった。その時代に生きた人々、とりわけあるきっかけから引きつけられた画家たちの群像をあてどもなく求め、想像するという、趣味とも
楽しみともいえないことを続けてきた。この世を過ごすために続けてきた本業といわれる仕事とも関係のない、他人からみればほとんど理解不能なことだ。

 人工の光が夜もくまなく照らし、地球上どこへ行こうとも真の闇の世界などほとんど想像もしえない現代だが、精神世界の闇は深まるばかりだ。17世紀はいまだ闇が世界の多くを支配していた時代であった。画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールはそこに生きた。「彼は闇を自らの王国とした。そこは内面の光だけが射し込む:乏しい光に映される人間だけがいる、慎ましく閉ざされた空間だ。夜、一筋の光、静寂、閉ざされた部屋、映される人間の身体が、神の存在を想わせる」(Pascal Quignard, 12)。


 深い闇が支配した時代、画家にとって画材も決して恵まれなかった時代。この画家の使った色彩は思いの外に鮮やかだ。「ラ・トゥールのオレンジと赤は時を超えて燃える。ル・ナン兄弟ならば単なるルポルタージュにとどまる光景がラ・トゥールでは、永遠のものとなる」(Pascal Quinard, 12)。

 そして闇が忘れ去られるとともに、画家の存在も忘れられていった。 同じ17世紀でも、光の世界に生きて、光の世界を描いていた画家もいた。

* Pascal Quignard. George de La Tour. Paris: Galilée, 2005. 

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画家と世俗の世界

2010年02月16日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

George de La Tour. The Payment of Dues. Lvov(Lemberg) Museum, oil on canvas, 99 x 152cm, Signed.
Source: Web Gallery of Arts
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『金の支払い』

Q:この作品で、金の請求者そして支払う者はどう区別できるでしょう?


  ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品について、思い浮かぶことは多いのだが、この画家をどれだけ理解しえたのかは定かではない。いつになっても謎が残る画家である。とりわけ、この画家の作品と人間性の間に横たわる距離については、容易には理解しがたい大きな謎として残されてきた。作品の深い闇に沈んだ人物像から伝わってくる精神の高みと、他方で断片的に残る史料記録などから想像される画家の直情径行、強欲さ、特権への執着などにみられる乖離が、画家の実像、とりわけ精神世界についての理解を複雑なものとしてきた。
作品は画家の手になるものとしても、史料記録は本人以外の利害関係者の残したものであり、それぞれの立場を反映し客観的判断は難しい。

 興味の赴くままにこの時代に関わる資料を読んでいる時に、1642年、画家の家へ家畜保有にかかわる税を徴収に来た徴税吏(執達吏)を足で蹴るなど、たいへん厳しい対応で接している出来事を思い出した。この場合も1620年に妻の生地リュネヴィルへ移住するに際して、ロレーヌ公アンリII世から認められた権利を主張し、譲ることがなかった。この時にみられる徴税吏への憎悪ともいえる画家の態度が注目される。記録は徴税吏側の証言であるから、相手側に厳しいのは当然ではあるが、画家の激しい気性の表れが注目された。

 17世紀のこの時代、特に1630年代から60年代にかけて、戦争、飢饉、悪疫などの影響で、フランスそしてロレーヌ公国は、国土荒廃の極致にあった。戦費調達のための増税に次ぐ増税で、領民は疲弊のどん底にあった。不満は農民ばかりでなく、職人、貴族などを含めて、広い社会層に鬱積していた。 そのひとつの現れは、この時代、フランス全土に蔓延していた社会不安にかかわる現象である。そのいくつかはさまざまな暴動、一揆という形で爆発した(この暴動の発生因についても、諸説あるが、ここでは立ち入らない)。

 暴動の多くは、現在のフランスでいえば、西部および西南部で多く発生したことがその後の研究で明らかになっている。アルザス・ロレーヌに近い北東部は比較的少なかった。それでもトロワでは 1630年, 1641年, 1642年にかなりの暴動が勃発している。アミアン、ディジョンなどでも発生した。フランスとは政治的には一線を画していたロレーヌ公国にも、それらの不穏なうわさは当然伝わっていたことは疑いない。

 重税への不満は、長い経済停滞の間に社会のさまざまな分野へ広く深く浸透していた。とりわけ現在の納税方式とはまったく異なり、直接に、各種の税の取り立てに当たる徴税吏への反発は、憎しみの水準まで高まっていたといってよいだろう。今日と異なり、税の徴収は執達吏が直接出向いた。当然、厳しい緊迫感が漂った状況が多かったに違いない。こうした中で、ラ・トゥールはロレーヌ公から得た特権を最大限に行使する傍ら、作品は高値で売れる有名画家として生活に貧窮するようなことはなかったと思われる。しかし、この特権の持ち主にも納税・課税の要求は執拗に行われていたことは間違いない。時代も移り、画家とも親しく、いまだ若かった画家に特権を付与したアンリ二世もすでに世を去っていた。わずかに残る一枚の認可状を盾にしての特権の行使も一筋縄ではいかなかったのだろう。


 こうした背景で鬱積した感情が、画家生来の直情的性行と重なり、徴税吏などからの要求に爆発することもあったと思われる
。 画家の作品『金の支払い』は、こうした状況において金を請求する者と支払わされる者との緊迫した光景を描いていると思われる。かつては『税の支払い』という表題もつけられていた。徴税は当時の社会の大きな注目点だった。フランス王国においても、ロレーヌ公国においても、さまざまな名目で税の徴収が行われ、そのひとつひとつは大きな額でなくとも、総計すると重税となって領民を苦しめていた。

 画家ラ・トゥールは社交的な人物であったとは思いがたい。むしろ、かなり内向的で偏屈あるいは時に剛直に近い性格であったと思われる。それでも世俗の世界におけるさまざまな鬱屈をなんとか自制の力で押さえ込み、制作の世界での深い精神的沈潜に当てていたのだろう。その精神世界は、作品と同様に依然深い闇の中にある。


Reference
Robin Briggs. Early Modern France 1560-1715. second ed. OUP, 1998.
 

欄外の謎:この『金の支払い』の原画は、左右が逆になっています。

 

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顔は知っているが、はて

2009年12月15日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは改めていうまでもなく、多くの謎を秘めた画家だ。日本での知名度は著しく低い(それでも幸いファンは着実に増えている)。17世紀前半には、フランス王ルイ13世の王室画家になるほど、著名であった。しかし、その後急速に忘れ去られてしまった。記録の断絶なども加わって画家をめぐる謎はさらに深まった。

 
解明されていない問題のひとつに、この画家は肖像画を制作したかという謎がある。肖像画というジャンルは、記すときりがないが、簡単に言えばその時代に生きた個人の容貌や姿をモデルとしてではなく、個人の記録や記念のために描いたものだ。横向き、正面、半身、個人、集団など、肖像画の様式も時代の流行を反映し変化してきた。

 ラ・トゥールと同時代の画家たちの中には、ブログでも取り上げているニコラ・プッサンやレンブラントなどのように、自画像を残している画家もいる。一般に、肖像画はパトロンなどの依頼によることも多く、収入が不確かな画家にとっては安定した収入源となることもあってかなりの画家が試みている。ところが、現存する数少ない作品から推定するかぎり、ラ・トゥールは肖像画ばかりでなく歴史画や風景画などのジャンルにもほとんど手を染めなかったようだ。あるいは描いたとしても数少なく、逸失したりで残っていない可能性もある。

 この画家が肖像画を描く力量を備えていなかったわけではない。それどころか、今日に残る作品にみるかぎり、日常の市井の人々をモデルに描いたと思われる聖人像などは強いリアリティで満ち溢れている。描かれた人物はそれぞれ強い迫真性を持って、後世のわれわれにも迫ってくる。
 
 ロレーヌやパリの貴族社会を舞台に活躍したこの画家には、恐らく肖像画の依頼は数多くあったものと思われる。自負するくらい著名な画家であった。しかし、ラ・トゥールが進んで肖像画の制作を引き受けた痕跡は少ない。この画家は、自分の描きたいテーマを限定し、それをさまざまに描き分けることに意欲を燃やしていたようだ。パン屋の息子から身を起こし、名実共に富裕な画家となったラ・トゥールには、自ら肖像画を依頼する顧客を開拓する必要はなかったのだろう。多くの人が作品を欲しがる人気画家であり、『たばこを吸う若者』、『熾火を吹く子ども』のような小さな風俗画でも、かなりの高値がついた。

 しかし、それでも疑問は払拭されない。たとえば、ポートレートを主題とした美術書の表紙に、ラ・トゥールの描いた風俗画中の人物の一人が使われている。この『女占い師』の中心人物の容貌はあまりにもユニークで、一度見たら忘れられない顔だ。同様に知られているカードゲームの女性とともに、単に画家の想像で描かれた非実在の人物とは考えがたい。少なくとも当時の画家の生活範囲にこの容貌に近い女性が存在したか、多くの人が知っている市井のうわさ話や伝承などがあったに違いない。美術書などの表紙にお目見えした女性の代表的存在ではないか。顔は知っているが、画家の名前は知らないという人が多い。ラ・トゥールの謎は未だ解明されていない。


*
Norbert Schneider. The Art Of The Portrait, Rome: Taschen, 2002, pp.180

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ラ・トゥールはイタリアへ行ったか(続)

2009年10月31日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

"The Sarrone Master." Christ and Virgin with Saint Joseph in his Workshop, Church of Santa Maria, Assunta, Serrone (Details)

  
 前回のブログで、ラ・トゥール作ではないかといわれる謎の絵画について、短い記事を書いた。早速コメントをくださった方もおられる。いつものことながら、老化防止?のための自己中心的覚え書きなので、多くの読者の方には、さぞ分かりにくいことと思っている。文脈も見えにくいだろう。しかし、このところかなり多くの反響をいただき、多少は共通基盤が生まれてきたことも感じている。

 この一枚の作品、17世紀美術史の研究者の間でもほとんど知られていない。ラ・トゥール研究者の間でわずかに話題になるくらいだ。画家も確定できず、作品としても謎の部分があることからそれも当然ではある。しかし、ラ・トゥール研究第一人者のテュイリエが注目するように、不思議な要素を数多く含んだ作品だ。なにしろ、ラ・トゥールの周辺に登場する画家たちのほとんどがイタリア行きを経験しており、多くの人の目が文化の中心であるローマへ集まっていたのだから、無理もない。イタリアの風は強かったのだ。ということで、少し追加を書いてみたい。

 この作品、実は見れば見るほど不思議に思われる。古今東西、画家の制作態度は千差万別だが、ラ・トゥールという画家に限ってみると、筆をとる前にきわめて深く考えるタイプだったようだ。そして、同じテーマを、さまざまに描いている。画題は決して多くないが、聖俗の世界について、かなり幅広く画筆を揮っていた。

 ラ・トゥールの手になったか否かは別として、この一枚、さまざまなことを考えさせる。17世紀初め、ロレーヌにも、イタリア、ウンブリアあるいはローマでも見られない雰囲気の作品だ。画家がどれだけ考えて制作にあたったのか。疑問が次々と湧いてくる。美術史家が迷うだけのことがある。その中からいくつかを記してみよう:

  登場する人物はそれぞれ類推がつくのだが、その描かれ方に驚かされrる。中央に位置する子供は、幼きイエスと思われる。しかし、その容貌がきわめてユニークだ。服装は17世紀当時の幼児の服装だが、ふっくらとし、謎めいた笑みを浮かべた容貌は、どう読むべきだろうか。さらに男子か女子か分からない顔立ちだ。少し人間離れしているといってもよい。そして視線はどこを見つめているのか。なにを考えているのだろうか。当時の人はどう受け取ったのだろうか。

 左側に描かれたマリアとみられる女性も謎めいている。きりっとした美しい顔立ちであり、刺繍の仕事の手を休め、一瞬なにかの思いにとりつかれたようにみえる。しかし、なんとなく現実離れした不思議な美しさだ。イエスの整然として衣装と比較して、きれいな衣装ではあるが、かなりカジュアルに描かれているのが注目点だ。足下の木靴の描き方も気になる点だ。

 そして、さらに第3の人物であるヨセフとみられる男性の姿と対比すると、また驚かされる。この老人は今日でもどこかで出会うことがあるかもしれない普通の人物イメージだ。かなり一徹な、仕事熱心な男のようにみえる。ラ・トゥールは、聖人を描くに、世俗の人々にモデルを求めた。『アルビの12使徒シリーズ』を思い出させる。日々の厳しい仕事の間に刻み込まれた顔の深いしわ、白くなった髪の毛など、ラ・トゥールだったら描いたかもしれない。そのリアリティは強い迫真力を持っている。カラヴァッジョの影響が感じられる。唯一、注目されるのは頭上にかすかに描かれた光輪(ハロー)だ。

 この時代、宗教改革、カトリック宗教改革、トリエント公会議などの動きの中で、画家たちはそれぞれに時代が求めるものを探っていた。人物の描写だけに限っても、疑問は尽きないのだが、画家は意識してこの一枚の画面でさまざまな実験を試みたのではないかという思いがしてくる。マニエリスム、リアリズム的要素の混在も、そうした試みの表れなのかとも思う。ここまでくると、この作品がラ・トゥールの手になるものかどうかという問題はかなり後退する。 

 

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ラ・トゥールはイタリアへ行ったか

2009年10月29日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

"The Sarrone Master." Christ and Virgin with Saint Joseph in his Workshop, Church of Santa Maria, Assunta, Serrone (Folligno)

ラ・トゥールのイタリア作品か

 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、17世紀ロレーヌの画家たちの多くがそうであったように、イタリアへ行ったのだろうか。後世の美術史家の多大な努力にもかかわらず、これまでのところ、この画家のイタリア行きを証明するような記録は、なにひとつ発見されていない。そうした状況で、あくまで推論の範囲に留まるが、唯一検討の対象となりうる作品が挙げられてきた。

  30年ほど前、イタリア、ウンブリア Umbria
での体系的な調査の過程で、セローネ Serroneの教区の古い教会で一枚の興味深い作品が見つかった。発見された場所はローマからロレッタ LorettaとアンコナAnconaへ向かう途上から、少し横にそれた道にある村の教会であった。この油彩作品(263x183 cm)に、大工ヨセフの仕事場でのキリストとマリアが描かれている。教会翼廊のかなり大きな祭壇の上にかけられていた。

 作品には署名も記録も残っていない。この作品の発見については、1980年のイタリアの地方研究誌 Ricerche in Umbria (vol.2)に掲載された。それによると、カラヴァッジョの影響を受けたフレミッシュかフランスの画家の手によるものとされている。画面には不思議な詩情が漂い、卓越した色使いなど、比類がない出来栄えの作品だ。しかし、制作した画家は特定されず、暫定的にセローネの師匠、il Maestro di Serroneとされている。

 他方、ジャック・テュイリエやオリヴィエ・ボンフェのようなラ・トゥールの研究者によると、この作品を見ると、ラ・トゥール以外に思い浮かぶ画家がないという。年代としては
1612-20年くらいの時期に作成されたと推定される。仮に、ラ・トゥールとすると、画家が徒弟修業を終え、独自の創作活動のための画業遍歴をしていたと思われる20代の作品ではないかと思われる。いずれにせよ、かなり才能に恵まれた若い画家が作成したのではないかと推定されている。

 この時代を支配していたイタリア画壇の画風を前提にすると、この作品でのキリスト、マリア、ヨセフの描き方はきわめて斬新だ。作品の中心には未だ顔立ちも幼いキリストが描かれている。仮にラ・トゥールの手になるものとしても、『大工とキリスト』の幼いキリストともかなり異なった印象を与える。横に並んで描かれているマリアとともに、モダーンな印象を与える。リアルというよりは、かなり様式化されている。他方、ヨセフの容貌はかなり異なった印象を与える。カラヴァッジョ風にきわめてリアリスティックに描かれている。しかし、ヨセフの頭上には光輪が描かれている。今日ラ・トゥールの真作とされている作品には、光輪も天使の翼も描かれていない。

 幼いキリストが手にしている二枚の小さな板は、十字架を暗示するものだろう。マリアの刺繍箱からの糸で、板を結びつけようとしている。その笑みを浮かべた表情も、リアリスティックとは少し異なる微妙なものだ。そして、マリアはなにを考えているのだろうか。刺繍の仕事をしながら、一瞬それから離れて遠い先のことを考えているようでもある。そして、リアルに描かれているヨゼフもよく見ると目を半分閉じて、なにか瞑想しているようだ。

 子細に見ると、興味深い点が多々ある。室内に置かれたヨセフの作業台、工具などもかなり様式化されている。背景に描かれているゴシック風の窓が注目される。当時、イタリアで大きな影響力を持っていたカラヴァッジエスキの作品では、通常こうしたものを描いていない。さらに、ゴシック風窓の外に見える不思議な風景も気になる。なんとなく、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナリザ』の背景が思い浮かんだ。ラ・トゥールの作品を見たかぎり、背景らしきものはほとんど描かれていない。

 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールという希有な画家の作品、生涯に魅せられ、長らく関心を抱いてきた一人の愛好者としてみても、さまざまな点で不思議な印象を受ける作品だ。ラ・トゥールではなさそうな感じはするが、断定もできない。画家が若い頃に描いた習作かもしれない。人物の描き方など、さまざまなことを限られた画題で試したということも考えられないわけではない。この画家を知れば知るほど、分からなくなるのだ。あの光と闇の作品の双方を見事に描き分けた画家の力量は、にわかに測りがたい。底知れぬ深さを持った画家である。新たな連想の糸がつながるまで、頭の片隅に残しておく作品なのかもしれない。



Reference
Jacques Tuilier. George de La Tour. Paris:Flamarion, 1992.

 

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再来日する「大工聖ヨセフ」

2009年01月28日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

17世紀の姿をとどめるヴィック-シュル-セイユのサン・マリアン教会内部
Photo:YK 



 
  あのジョルジュ・ド・ラ・トゥール
「大工聖ヨセフ」 Saint Joseph Carpenter, Christ with St.Joseph in the Carpenter's Shop. Musee du Louvre, Paris (Percy Moore Turner Bequest)が、40年を超える時を経て、再び東京(その後京都)にやってくる。まもなく開催される国立西洋美術館開館50周年記念事業としての「ルーヴル美術館展 17世紀ヨーロッパ絵画」(2009年2月28日~6月14日)の目玉のひとつだ。

 詳細は展覧会公式サイトなどをご覧いただくとして、今回の楽しみはレンブラント、フェルメール、ルーベンス、プッサン、ロラン、ラ・トゥール、ドメニキーノ、グェルチーノ、ベラスケス、ムリーリョといったルーヴルを代表する画家たちの重要な作品のいくつかを日本で見られることだ。

 ラ・トゥール・フリークとしては、出展が予定されている「大工聖ヨセフ」は当然お勧めの一枚だ。今回展示されるこの作品は、これまでの人生でかなりの回数お目にかかったものだ。この素晴らしい作品は、ラ・トゥールにのめりこむようになった最初の一枚でもあるし、感慨無量だ。長らく仕事場にポスターを掲げていた。しばらく前から同じラ・トゥールの「生誕」に代えた。

 「大工聖ヨセフ」は、過去にも一度だけ、1966年に東京(国立博物館「17世紀ヨーロッパ名画展」)へ来たことのあるルーヴルの誇る真作だ。2005年の東京でのジョルジュ・ド・ラ・トゥール展の際は、コピー(ブザンソン市立美術・考古学博物館)の出展であったので、日本で真作に再会することはもう無理かなと思っていた。そのため今回東京で見られるのは望外の喜びでもある。

 新着の『芸術新潮』を見ている時に、思いがけない記事*で知ったのだが、美智子皇后もジョルジュ・ド・ラ・トゥールはお好きな画家のようだ。15年ほど前の訪欧の折、わざわざ南仏アルビのロートレック美術館まで行かれているとのこと。ここには、ロートレックに加えて、ラ・トゥールの「キリストと12使徒」(「
アルビ・シリーズ」)の一部が所蔵されていることで知られている。  

 今回の展示作品で、個人的に楽しみにしているのは、クロード・ロラン (1602年頃−1682年)《クリュセイスを父親のもとに返すオデュッセウス》 だ。この作品もすでにルーヴルで見ているのだが、クロード・ロランは、実はジョルジュ・ド・ラ・トゥールとほとんど同時代人であり、しかも同じロレーヌの出身だ(クロード・ロランについては、いずれ気づいたことなどを記してみたいと思っている)。

 クロード・ロランは、幼年時代からイタリアへ行き、1625年から短期間フランスへ戻っただけで、生涯のほとんどをローマで過ごした。当時のロレーヌの画家の多くは、一度はローマで修業することを望んでいただけに、ラ・トゥールもロランのような旅あるいは人生を望んでいたかもしれないと思われる。イタリアはロレーヌの画家にも憧憬の地だった。ロランは望みを果たし、ニコラ・プッサンとともに古典主義的絵画の創造者となった。

 今回出展される1644年頃に描かれた、《クリュセイスを父親のもとに返すオデュッセウス》は、クロード・ロランが古典の高貴な題材と結びつけた美しい港を描いた一連の作品のうちに含まれる。

 ラ・トゥールの作品は、見る人との対話を求めるものが多いだけに、静かな部屋で落ち着いて鑑賞できることが望ましい。しかし、これは東京の展示ではとてもかなわぬことだ。この不安と狂騒に満ちた時代、多くの人々がこの作品から心の安らぎを得られますよう。
 


* 「皇后美智子様絵画のひととき」『芸術新潮』February 2009

展覧会公式サイト
http://www.ntv.co.jp/louvre/

本ブログ:
アルビの使徒シリーズ(2)
アルビの使徒シリーズ(3)


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